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「将来と希望を与える神の計画(2)」
甲斐慎一郎
エレミヤ書、29章10、11節
「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、
あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所
に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知
っているからだ。--主の御告げ。--それはわざわいではなくて、
平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるための
ものだ」(10、11節)。
主は、ご自分に反逆した罪のためにバビロンへ捕囚の民として連
れて行かれたユダの人たちに対して、祖国イスラエルに帰ることが
できるという希望と平安に満ちた将来を約束されました。その時期
は、バビロンに70年の満ちるころ、すなわち、バビロンにおける
70年間を懲らしめの期間として過ごし、いままでの罪をすべて悔
い改めた後のことです。
一、二種類のこれからの時(未来と将来)
宗教哲学者の波多野精一は、二種類の「これからの時」をそれぞ
れ「未来」および「将来」と呼び、実存哲学者ハイデガーは、「未
来」および「到来」と呼んで区別しました。
◇未来--いまだ来たらずという意味で、見通しがきかない絶望
と不安の時です。
◇将来--まさに来たらんとするという意味で、見通しがきく希
望と平安の時です。
未来は現在から離れて人の手が届かない時であるのに対して、将
来は今につながる人の手が届く時であり、大きな違いがあります。
二、二種類のいままでの時(過去と由来)
前述した実存哲学者のハイデガーは、二種類の「いままでの時」
をそれぞれ「過去」および「由来」と呼んで区別しました。
◇過去--過ぎ去ったという意味で、今さらどうすることもでき
ない時です。
◇由来--由って来たるという意味で、今にまで伝えられて来た
時です。
過去は現在から離れて人の手が届かない時であるのに対して、由
来は今につながる人の手が届く時であり、大きな違いがあります。
三、過去--現在--未来という生き方
バビロンへ捕囚の民として連れて行かれたユダの人々は、過去に
おける神への反逆の罪をどんなに悔やんだことでしょうか。また神
に従って平和と祝福に満ちていた時をどんなに懐かしがったことで
しょうか。しかし今となっては取り返しがつかず、今さらどうする
こともできませんでした。そして捕囚の身として一寸先は闇であり、
未来は絶望と不安に満ちていました。
もし私たちが、「いままでの時」を「過去」としてしかとらえる
ことができなければ、悪かった過去も良かった過去も、すでに過ぎ
去って人の手が届かない、今さらどうすることもできないものとな
るので、それを改めて現在という時に生かすことができません。そ
の結果、「これからの時」を「未来」としてしかとらえることがで
きず、絶望と不安に陥るのです。
これは、時というものを三つに区切り、あたかも互いに関係がな
いかのように考える物理的な時のとらえ方です。
四、由来--今--将来という生き方
主は、このような捕囚の民に対してバビロンにおける70年間の
懲らしめの期間が終わるなら、悔い改めにふさわしい実を結ぶので、
祖国イスラエルに帰ることができるという希望と平安に満ちた将来
を約束されました。
もし私たちがこの神に対する信仰によって、「いままでの時」を
「由来」としてとらえるならば、--すなわち主の良くしてくださ
ったことを何一つ忘れず心から神に感謝するとともに、すべての罪
を心から悔い改めて神に立ち返るならば--良い由来も悪い由来も、
人の手が届く今にまで伝えられたものとなるので、今という時に生
かすことができます。その結果、「これからの時」を「将来」とし
てとらえることができ、希望と平安に満ちるのです。
人間は物質や機械ではないので、時というものを3つに区切るよ
うな物理的な時のとらえ方はしません。人間の心や生命・生活・生
涯というものは、3つの時に決して区切ることはできず、時という
ものを一つにつながったものとしてとらえるのです。