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「神の啓示と人の探求」
使徒の働き、17章24~28節
「これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることで
もあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私た
ちひとりひとりから遠く離れてはおられません」(27節)。
私たちは、神と宇宙、また人間と人生等々について自問自答し、
真理を探り求めているのではないでしょうか。
1.神は、ほんとうに存在するのか?
2.天地は、どのようにして造られたのか?
3.人間は、どのようにして生まれたのか?
4.人は、どのように生きるべきなのか?
5.人間は、死後どうなるのか?
これらの質問を一つにまとめるなら、「真理とは何か」というこ
とになるでしょう。この真理を知る方法については、全く正反対の
二つの考え方があります。
一、人が真理を探究することについて
人が生きるためには、いわゆる「衣食住」が必要です。しかし、
もし人が衣食住のためだけに生きているならば、他の動物と少しも
変わりません。人の人たるゆえんは、「真理とは何か」、「人は、
どのように生きるべきなのか」ということを考え、それを探究して
生きるところにあるのではないでしょうか。このような人間の営み
が、教育や科学であり、また倫理や道徳、そして哲学や宗教(異教)
です。これらは、上の図のように現実の世界から究極の真理に向か
って限りなく近づく赤い矢印として表すことができます。
この「人が真理を探究する」営みというのは、非常に大切なもの
ですが、「科学の教科書は絶えず書き変えられる」ということばに
代表されるように、これは、究極の真理に到達するまでの「相対的
な真理」であり、「絶対的な真理」ではないという限界のあるもの
であることを決して忘れてはならないのです。
二、神が真理を啓示されることについて
これに対して聖書は、人の探究ではわからない神と神に関する究
極の真理を、神のほうから私たちに明らかに教え示しています。こ
れが「神の啓示」です。これは上の図のように、究極の真理から
現実の世界に向かっている青い矢印として表すことができます。
「人は、どのように生きるべきなのか」ということについては、
究極の真理に到達するまでの相対的な真理を教える「人の探求」で
は間に合わず、絶対的な真理を教える「神の啓示」がどうしても必
要ではないでしょうか。聖書こそ「神の啓示」の書です。それは、
神が「究極の真理」を時間と空間を超越して、一足飛びに私たちに
示されたものです。
ですから、天地の創造を初め、永遠の生命や復活また奇蹟等、人
間の理性では考えられないような不思議なことが聖書に記されてい
るのも当然ではないでしょうか。なぜなら「人が真理を探究する」
という科学の発明でさえも、それが発明される前の人々には、全
く不思議で信じられないものだからです。
たとえば、電話やテレビを全く知らない大昔の人々に対して私た
ちが、電話は地球の反対側に住んでいる人とも話をすることができ
るもので、テレビは彼らの姿をカラーで動く絵として見ることがで
きるものであると説明しても、彼らは全く信じられないでしょう。
まして21世紀の科学の発明よりも、はるかに高度な「究極の真
理」が時空を超越して一足飛びに啓示されるならば、それが信じら
れないようなことであるのも当然ではないでしょうか。聖書は、創
世記の1章から、この「神の啓示」が記されているのです。
拙著「聖書の中心的な教え」2「天地の創造(2)」より転載
甲斐慎一郎の著書→ 説教集