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「静寂の力」
インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network
Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しま
した。以下のURLをクリックすると見ることができます。
2012年11月7日放映「神に会う備え」
http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=58799&dreamon=Y
「静寂の力」
甲斐慎一郎
イザヤ書、30章15~24節
イザヤが預言者として活動していた時代のユダは、北にはアッシ
リヤ、南にはエジプトという二つの強大な国家に挟まれた小さな国
でした。その頃、アッシリヤがユダに攻めて来ました。イザヤは、
民に「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、
信頼すれば、あなたがたは力を得る」と仰せられた主のことばを告
げました(15節)。
一、静寂の力の必要性(16節)
ところが民は、「いや、私たちは馬に乗って逃げよう」と言いま
した(16節)。
ミデヤンの地において神の前に静まることを身につける前のモー
セは、神を恐れず、人を恐れました(出エジプト2章12、14節)。
そのために彼は、自分の力を知らない高慢のために出過ぎたまねを
し(同2章12節)、また神の力を知らない不信仰のために正しいこ
とにも臆してしまいました(同2章15節)。
このように人は、神の前に静まって力を得なければ、出過ぎたま
ねをし、しかも必要で肝心なことができなくなってしまいます。言
い換えれば、止まっていなければならない時に飛び出し、進んでい
かなければならない時に後ずさりするのです。これは忍耐と勇気の
欠如によるものですが、この忍耐と勇気の欠如こそ、静まることが
必要な理由です。
二、静寂の力の秘訣(18節)
イザヤは、「幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は」と言い
ました(18節)。
キリストは、人間の外側のことばや行動は、内側の心や思いの表
れであると言われました(マタイ5章21~32節、12章34節)。心
に満ちていることがことばになり、行動になるのです。ですから神
に喜ばれない出過ぎたまねをせず、しかも神に喜ばれる必要で肝心
なことをするためには、まず心がそうなっていなければなりません。
もし私たちの心の中に、神に喜ばれない願いが満ち、また神に喜
ばれる願いがほとんどなければ、出過ぎたまねをし、必要で肝心な
ことができなくなってしまうのは当然です。
私たちは、静まって神を待ち望まなければなりません。祈りは、
ただ神の前に自分の願いを並べ立てることではありません。それは、
神に喜ばれない願いや思いを静め、神に喜ばれる願いや思いを燃え
立たせて、神のみこころと力を待ち望むことです。
祈りの消極面は、静まることです。静まるとは、神以外のすべて
のものから目を離して分離することであり、人間的または肉的な願
いや思いを止めることです。私たちは、こうする時にのみ、真の忍
耐を身につけることができ、出過ぎたまねをして飛び出すことから
救われるのです。
祈りの積極面は待ち望むことです。待ち望むとは、ただ神のみに
目を向けて期待することであり、神のみこころと力を受け取ること
です(イザヤ40章31節)。私たちは、こうする時にのみ、真の勇
気を身につけることができ、臆して後ずさりすることから救われる
のです。
三、静寂の力の効果(21節)
イザヤは、「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳は
うしろから、『これが道だ。これに歩め』ということばを聞く」と
言いました(21節)。
静まって神を待ち望む人は、全く自主性がなくなり、神の操り人
形になるのでしょうか。決してそうではありません。右に行くこと
も左に行くことも自由であり、日常茶飯事は聖書の教えに基づいた
常識を働かせて自主的に行動することができます。
しかし静まって神を待ち望んでいる人は、常識を働かせている小
さな出来事の中にも、気がつかないうちに神に導かれ、また大きな
出来事は、アジヤからピリピに渡ったパウロのように特別な神の導
きと干渉によって進退しているのです(使徒16章6~10節)。
甲斐慎一郎の著書 → 説教集