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「逃避の霊的な教え」
インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network
Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しま
した。以下のURLをクリックすると見ることができます。
2012年11月23日放映「神の悩みと人の悩み」
http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=59006&dreamon=Y
「逃避の霊的な教え」
甲斐慎一郎
箴言28章1節
「悪者は追う者もないのに逃げる。しかし、正しい人は若獅子の
ように頼もしい」(1節)。
「逃避」とは、文字通り「逃げて避ける」ことです。これは「エ
スケープ」という英語のままで、よく用いられることばです。
逃避する時、私たちは、何から逃げようとするかが問題です。な
ぜなら聖書は、逃避することは、必ずしも悪であるとは教えていな
いからです。たとえばペテロは、「イエス・キリストを知ることに
よって世の汚れからのがれ」(第二ペテロ2章20節)と述べ、罪か
らのがれることは必要であると教えています。
それでは、どのような逃避がいけないのでしょうか。それで、逃
避ということ関して、その対象と、その意味と、その霊的な教えに
ついて聖書から学んでみましょう。
一、逃避の対象について
オズワルド・サンダースは、聖書の中には、死を祈り求めた預言
者が三人いると述べています。その三人とは、モーセ(民数記11
章15節)と、エリヤ(第一列王記19章4節)と、ヨナ(ヨナ4章
3節)です。
彼ら三人の、死を祈り求めた原因を調べてみると、次のようにな
ります。モーセは、直面する困難や重荷に耐え切れなくなり、エリ
ヤは、戦いに疲れ切ってしまい、それぞれ現実から逃避したかった
のでしょう。ヨナは、神の御顔を避けて、逃避したものの、自分の
思い通りにならない現実に嫌気がさして自分から逃避したかったの
ではないでしょうか。
このようなことから聖書が戒め、また禁じている逃避は、次の三
つのことです。
1.現実からの逃避です。
2.自分からの逃避です。
3.神からの逃避です。
二、逃避の意味について
このような逃避は、何を表しているのでしょうか。
1.敗北の表れです
人間には、だれでも取り組まなければならない問題や課題、また
負わなればならない重荷や十字架というものがあります。これが人
生の現実です。しかしこの現実から逃避しようとすることは、戦わ
ずして、すでに敗北しているのです。
2.わがままの表れです
このような逃避は、自分さえよければ、ほかの人は、どうなって
も構わないという身勝手さ、また自分を変えようとしないで、環境
を変えようとするわがままの表れです。
3.無責任の表れです
罪を犯したアダムとエバは、神の御顔を避けて隠れましたが、こ
れは謝罪も償いもせずに、自分のしたことに責任をとろうとしない
無責任や責任転嫁です。
三、逃避の霊的な教え
それでは、この逃避ということから何を教えられるのでしょうか。
私たちは、この逃避という観点から信仰を学ぶことができます。
1.信仰は、神と自分から逃避せず、神に踏みとどまることです。
罪人の特徴の一つは、神を避けて隠れることです。しかし神から逃
避することは、滅びであることを知らなければなりません。
2.信仰は、神のもとにのがれ、神にすべてを任せることです。
神から逃避するということは、とりもなおさず神にすべてを任せる
ことを拒むことです。ですから神は、神から逃避する者を救うこと
も助けることもおできにならないのです。
3.信仰は、現実から逃避せず、正面から取り組んで、勝利を得
ることです。
「
神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対
できるでしょう」(ローマ8章31節)。私たちが神から逃避せずに、
神のもとにのがれるなら、神が私たちの味方になってくださり、神
から恵みと力が豊かに与えられて、現実の問題に打ち勝つことがで
きるのです。
甲斐慎一郎の著書 → 説教集