PR
Category
Keyword Search
Freepage List
Calendar
Comments
「私のささえである主(1)」
インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network
Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しま
した。以下のURLをクリックすると見ることができます。
2015年1月13日放映「 信仰の妨げ(2)物への執着 」
「私のささえである主(1)」
詩篇18篇16~19節
甲斐慎一郎
「主は私の強い敵と、私を憎む者とから私を救い出された。彼らは私よりも強かったから。彼らは私のわざわいの日に私に立ち向かった。だが、主は私のささえであった」(17、18節)。
冒頭の聖句から「ささえ」ということについて考えてみましょう。
一、三種類の「ささえ」
この「ささえ」という言葉は、文語訳では、「支柱」となっていますが、これは、「つっかい棒」ということです。日本語の「人」という文字は、長い棒を短い棒で支えていますが、このように人間というものは、何かを支えとして生きている者です。 私たちは、自分のからだを支えるためには、
しっかりした地面や床が必要であり、また肉体の生命を支えるためには、新鮮な空気や水や食べ物が必要です。しかし、それ以上にもっと大切なものは、心の支えです。人は、心の支えを失うなら、最悪の場合は、自らの生命を絶ってしまうのです。心の支えとは、言い換えれば、生きがいのことです。
人は各自、様々なものを心の支えとして生きていますが、分類するならば、次のような三つになるのではないでしょうか。
1.自分および自分が生み出すものを心の支えとする。
これは、自分の体力や実力や手腕、また名誉や地位を心の支えとし、それを生きがいとすることであり、自分により頼むことです。
2.他の人および他の人が与えてくれるものを心の支えとする。 これは、自分では何もせず、他の人を心の支えとし、それを生きがいとすることであり、他の人により頼むことです。
3.神および神が与えてくださるものを心の支えとする。 これは、自分が生み出すものや他の人が与えてくれるものを心の支えとせず、ただ神のみを心の支えとし、生きがいとすることであり、神により頼むことです。
二、間違った「ささえ」
もし、私たちが自分および自分が生み出すものを心の支えとするなら、どうなるでしょうか。自分の思いどおりになれば、高慢や誇りのとりこになるでしょうし、反対に自分の思いどおりにならなければ、自己卑下やひねくれのとりこになるでしょう。 また私たちが他の人および他の人が与えてくれるものを心の支えとするなら、どうなるでしょうか。他の人が自分の思いどおりにしてくれれば、怠慢や貪欲になるでしょうし、反対に自分の思いどおりにしてくれなければ、憎しみや恨みや妬みに満ちてしまうでしょう。
このように自分であれ、他の人であれ、私たちは、人間を心の支えとするなら、うまくいってもいかなくても、心は様々な罪に満ちてしまうのです。聖書は、「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ」と教えています(エレミヤ一七章5節)。
三、正しい「ささえ」
このようなことから、私たちの心をほんとうに支える正しい心の支えというのは、次の二つの条件を満たさなければなりません。
1.私たちを裏切ったり、失望させたりしない不変で不動なものであることです。
2.私たちをいい気にさせて誇らせたり、怠けさせたりしないものであることです。
この二つの条件を満たす正しい心の支えは、神および神が与えてくださるものを心の支えとすることです。なぜなら、神こそ「わが巌、わがとりで、わが盾、わがやぐら」(2節)であるとともに、「神、その道は完全」(30節)とあるように、神は人間が誇ったり怠けたりしないように、人間が考える最善のことではなく、神の計画された最善のことをいつも私たちにしてくださるからです。
そして私たちは、神のみを心の支えとするなら、神は、私たちを神のみこころにかなった者に形造られるだけでなく、他の人の助けをも与えてくださるのです。
甲斐慎一郎の著書
→
説教集