俺はバイトなので、
上司という言い方でいいのかどうかよくわからないけど、
部長であるその男の人は言った。
「新城紅葉にあえるぞ?」
手には寒い地方に行く電車のチケットが握られ、
俺の目の前でひらひら揺れていた。
ようするに休日出勤と、遠距離の出張の申し出だった。
出張先でなにかトラブルがあり、
人手が必要になったらしく、
以前に会ったことのある女の人からの依頼で、
どうやら俺にご指名がかかったのらしい。
地方の会社だからって、
そんな普段着で入ってもいいのか迷ったが、
俺は指示どうりにその足で新城さん達がいる場所に向かっていた。
「クレハ、ほら、棚橋くん来たよ、棚橋くん。」
俺の顔を見つけると、女の人はホッとしたような顔で、
隣にいた新城さんをヒジでつついた。
「・・・カズくん。」
彼女はまた元気がなかった。
「ご苦労さまです。」
俺はなるべく微笑みながら、
もってきた大きなボストンバックをゆかに置く。
「まだ時間あるから休憩しておいで、ね?」
なんだかボンヤリしている新城さんと、
着いたばかりでわけがわからない俺を、
彼女は強引にあいている部屋におしこんでドアを閉めた。
「・・・あ・・。」
新城さんは俺の顔を不思議そうに長いこと眺めていた。
「・・あのね・・。」
やっと話された言葉を聞き漏らすまいと耳をこらす。
「はい。」
薄暗い部屋の中では顔が見えづらくて、
なるべく彼女の顔に近付いていた。
新城さんの手が俺の腕をつかむ。
なぜだか少し震えている。
「どうしたんですか?」
どさくさにまぎれて、彼女の髪に触ってみた。
あるかないかのチャンスだと思った。
「・・・今だけでいいから。」
いいながら新城さんの小さな体が、
スルリと俺の胸の中に入る。
手だけではなくて、
彼女の全身が小刻みに震えているのがわかった。
「大丈夫ですか?」
いったいどうしたんだろう。
いけない気持ちになりつつあった自分の思考が止まる。
それどころではなさそうだ。
役得でその体を包むように抱いて、
少しでもおさまればいいと思った。
彼女の細い腕も俺の背中にまわされる。
「寒いですか?」
なんとかしてやりたいけど、理由がわからない。
「違うの・・・。」
続けてなにか言おうとした彼女の言葉が聞き取れなくて、
「え?」
自分の胸の中にいる彼女にますます顔を近づけてみた。
ちょん。
と唇が触れる。
俺の唇に。
え?
心の中で驚いていると、
背中にまわっていた彼女の腕がすばやくのばされ、
両手で俺の頭を優しくわしづかみにした。
まるで恋人がするような濃厚なキスが、
彼女からなされている。
くりかえされるかわいい動きに、
俺は途中からあわててこたえた。
突然の出来事に反応をかえすだけで精一杯だった。
「・・・ごめんね・・。」
まだそのままでいたい俺の体から彼女が離れてゆく。
呼び止めようとした俺に微笑んで、
彼女はホホに軽く口づけてくれた。
もう震えていない。
目をあわせないまま、彼女が部屋を出て行きドアが閉まる。
何かを奪われたような脱力感があった。
その思いに身を任せる。
弱々しく笑う彼女、眠った時の無防備な顔。
触れた唇の記憶、震えている肩。
俺は彼女に心を奪われたのだ。
あの愛しい存在そのものに。
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