荒尾史学会のブログ

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熊本県荒尾市で地元の歴史を勉強するサークルです。
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2021.04.27
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カテゴリ: 情報
本の照会をひとつ、熊本の古戦場という本を読んだ。




荒尾関係の部分を照会する。

小代、大野の合戦 金山原の戦: 荒尾市金山: 天文19年(1550)2月、豊後守護の大友義鑑が、家督の争いから家臣に殺され、長男義鎮(のち宗麟)があとを継いだが、それまで大友家に服従してきた筑後・肥後の諸氏の多くは、その混乱に乗じて離反をはかろうとした。 しかし肥後の北部では、荒尾の筒ヶ岳城主小代実忠が父重忠の志を継いで大友家への忠勤を守り抜こうとした。そのため4月28日には、筑後の三池氏、南関方面の大津山・和仁・辺春諸氏その他から居城を攻められたが、井手中務少輔・中島佐渡守ほかかなりな犠牲をはらいながらもこれを撃退し、義鎮からいたく賞せられた。勢いに乗った実忠は、7月半ばごろには逆に三池氏を攻めて、その城を落としている。 いっぽう隈本では、やはり大友家の動揺を機に、鹿子木氏が菊池家の老臣田島氏らとはかり、八代にいる義鑑の弟菊池義武を隈本城に迎えて大友家に対抗しようとした。このとき開田城の大野親祐もその味方についており、また南関藟嶽城の大津山氏は、いつのまにか肥前の龍造寺氏と結んでいた。 宗麟はこれを知ると大いに怒り、8月上旬小代実忠に直ちに両者を討つよう命じ、「働きしだいで所領のことも考えよう」と申し送る一方、大軍を隈本城に差し向けた。 10日、実忠の将兵は開田城に向かったが、金山原で大野勢と出会い、激戦のすえこれを打ち破り、翌11日には一転して藟嶽城を攻め、少なからぬ打撃を与えた。隈本城が落ちたのは、それから間もなくのことであった。 いま金山には、金山原の戦で倒れた将士をとむらったという首塚が残っている。近くには最後まで、戦にちなむ「太刀洗」という地名もあったと伝えられている。


小代、龍造寺に降る 梅の尾城の戦  荒尾市府本  天正5年(1577)3月筑後の諸将を降した龍造寺隆信は、同月下旬、梅尾城の小代親忠に降参をすすめてきた。だが親忠は、父実忠とともに主家大友氏の恩顧に報いるためこれを断わり、小代越前守・荒尾家経に2千の兵を授け、逆に原万田の山鹿超えから三池へ進撃して肥前勢の虚をつかせようと考えた。 間者の知らせでこれを知った肥前勢は、いち早く山鹿越えに数千の兵を伏せて待ちかまえた。かくて小代勢は、ここに差しかかるやいなや不意を襲われて大混乱におちいった。米の山まで進んだ一隊も、鍋島勢に出会うと一戦にも及ばず引き返して来る。越前守たちは思わぬ犠牲を出し、からくも梅尾城へ逃げ帰ると、場内の乳母を間者の仲間と見破って切り捨てたが、時すでに遅かった。 肥前勢は荒尾になだれ込み、各地で寺社や民家を焼き払いながら梅尾城をめざした。小代勢は、いま「敵亡(てこぼし)」と呼ばれる平山の入り口でこそその一部を全滅させたが、いよいよ城を囲まれると、切って出た越前守も家経も郎党百人余りとともに討ち取られ、やがて戦う力を失った。親忠はついに降参し、父実忠は人質となって肥前に行くことになった。 ところで肥前勢は、小代家の菩提寺である浄業寺の釣鐘を戦勝の記念品として持ち帰るため船に積んで大島を発ったが、急に海が荒れ始めたうえ釣鐘が「帰ろう、帰ろう」と鳴り出したので、これは御仏の怒りに違いないと恐れ、海に投げ捨てて行ったという。そこは「浄業寺えご」と呼ばれ、明治のころまでは、八朔の潮のときだけ釣鐘の龍頭が見えると伝えられた。 小代氏の降参は、やがて肥後北半の降参をさそうこととなる。なお隆信は、実忠が老齢なのをあわれんで、ほどなく帰している。


島津勢の輸送船団敗退 大島沖の海戦  筑後と肥後の諸将は、龍造寺隆信に制圧されたあとも、しばしば反抗をくり返した。 天正8年(1580)9月、鷹尾城(33.12897, 130.44279)の田尻氏は、怒った隆信が近く大軍を率いて攻めて来ることを知ると、諸将と相談して大友氏に救援を求めたが、大友氏は、もはやその力がないとしてこれを断わった。田尻氏が、やむなく島津氏に救援の使者を出すと、島津氏はこれを北上の好機として即座に承知し、天草の志岐らに鷹尾への兵糧急送を命じた。 兵糧を山と載んだ十数隻の船は大矢野島の登立を発ち、9月10日、宇土の三角から船団を組んで帆を連ね、その日のうちに鷹尾に着こうとしたが、風が弱くて船足は遅く、荒尾の大島沖で日が暮れてしまい、その夜はそこに錨をおろさねばならなかった。いっぽう、隆信はいち早くこれを知り、船団をさえぎらせるため身軽な兵船30余隻を放った。 11日の早朝、島津方の船団は、美しい旗をなびかせ色鮮やかな木蘭のかいで櫓声勇ましく漕ぎ寄せたこの兵船に取り囲まれて驚きあわて、囲みを破ろうとあせったが、積荷が重くて進退が自由にならず、遠くからは鉄砲を撃ちかけられ、近づいては熊手や長鎌で攻め立てられて犠牲者が続出し、みるまに3隻を乗っ取られ、残りの船はさんざん追い回されたあげく命からがら三角へ逃げ帰った。 戦さが終わった大島の沖には、肥前勢に討たれた島津方の死体がいくつも浮かんだ。土地の人々はあわれんで、荒尾村の浜近くにこれを葬り、まんじゅう型の塚を3つ築き、あとで地蔵を祀ったという。 もちろん筑後勢は、兵糧が届かなかったため戦うことができず、下旬、隆信が3万の大軍を率いて攻め入ると、またも人質を出して降るほかはなかった。


島津龍造寺の激突  繁根木川の戦  天正5年(1577)以降、隈部氏の協力を得て、赤星、合志、小代氏らを降して、肥後北方に勢力を持つに至った龍造寺隆信は、天正8年頃には、益城地方を狙い始めた。 一方、南から北上する島津義久は、この頃までには、天正6年の耳川の戦いで大友義鎮を破った勢いに乗って、芦北、八代の相良氏と、宇土の伯耆顕孝を降していた。天正11年10月には、その弟義弘が2万の大軍を率いて肥後北半を目ざしたので、隆信の嫡男政家は3万7千(5万ともいう)の大軍を率い、筑後の柳川を経て玉名郡の高瀬(玉名市)に進み、山鹿・花むれ・伊倉・大浜の線に陣を広げた島津方と繁根木川をはさんで対峙した。 しかし、両軍はともに全九洲に勇名とどろく強兵である。互いに戦機をうかがって無気味なにらみ合いを続けることとなった。もし戦端が開かれたら、いずれが勝つにせよ、九州の天地ははかり知れぬ影響を受けることが明らかである。 そこで筑前の秋月種実が仲介に立った。両軍は、繁根木川を境に領地を分け合うことで和睦し、龍造寺方は大野別府に、島津方は横島城にそれぞれ見張りを置いて兵を引いた。繁根木川の水は、幸い血に染むことを免れたのである。 ところで翌12年3月、島津方は島原で隆信を討ち取った。義久はその首を肥前へ届けるため使者を出したが、使者が筑後の摂津で受け取りを断わられ、再び義久のもとへ持ち帰ろうとして繁根木川に差しかかった。首は両家の境を越えまいとしてかにわかに巨岩のように重くなったため、近くの願行寺に葬って弔ったという。


田中城の戦い。





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最終更新日  2021.04.27 00:00:19
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