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増永城(ますなが)増永 増永では、重俊の子息政平が増永村を領して増永七郎と称した。 南北朝時代の貞和六(1350)年に、足利直冬(尊氏の猶子で、弟忠義の養子)が、増永名内迫村の地頭職を増永孫二郎隆平に安堵状を送っている、この安堵状には、武蔵国人西郡小代郷内に田畑一町(3000坪)と在家も同時に安堵されている。観応年間に起こった観応の擾乱こおいて、直義は京の尊氏を攻めて、一旦は尊氏を京から追い落としたが、後に毒殺された。この時、小代郷に加恩の地を得た隆平が、直冬の徴兵に応じて尊氏攻めに従軍したとも言われる。 なお、室町期に竜造寺が野原庄に攻めこんだ際、多くの地蔵の首を切り落としたといわれているが、その代表的なものが正楽寺付近に残っている。館山 増永には、新才、北外磯、南外磯、北蔵屋敷、南蔵屋敷および堀後などの字がある。堀後天満宮の下に中屋敷という字があり、堀後には堀之内という下名があったと思われる。この東側に森があって、「館山」と呼ぱれ、周囲には濠(堀)を巡らしていたという。ここが、堀之内の屋敷地で、政平の本拠館であったと推測される。 なお、堀後の東奥に潮見という字があり、小代水軍のための高台であったと思われ、近くに鎌倉時代の墓(持ち主不明)がある。場所がいまいち?不明??
2026.06.09
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荒尾氏館(あらおし) 荒尾村大門口にあった門は、西角氏邸のコンクリート塀内に取り込まれており、現在は、残っていない。 前記大門口の南、字上屋敷、前田は増永に属しているが荒尾氏館に関する地名である。上屋敷は館の前であり、家臣達の屋敷地であったと思われる。館の南側は以前、水田となっていたが、その一部を前田といい、館周辺の本田として最良の地であり、荒尾氏の直営田であったと考えられる。ちなみに、館の前の前地を前田、後の田地を後田と言っていたらしい。この地は、戦前では陸軍の「東京第二陸軍荒尾製造所」の共栄会(炊事場、食堂、売店)敷地であり、戦後は「第一紡績荒尾工場」となっている。詳細はよく分からない
2026.06.09
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菰屋館(こもや)場所を金城の先に置いてはみましたが、詳細不明??
2026.06.09
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小野城 清里小学校の一帯の「北城のロ」、「南城の口」という字名が残っており、この地の字は「小野」となっており、これをとって小野城にしたと思われる。 築城者や時期は不明である。詳細不明??
2026.06.09
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鳥が城 荒尾市樺の府本小学校の一帯に、鳥が城という字名が残っており、鳥が城という城があったと思われる。 丘陵の末端地にあたっている。詳細不明??
2026.06.09
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金城(きん)です。 国道208号線と県道長洲・野原線の交差点から、長洲方面へ200m進んだ所にある。「長田地区」内の低丘陵地で、「金城神社」一帯が城跡といわれている。社地は周辺との比高1.5~2.5mで40m平方の平坦地である。県道を挟んで「北屋敷」「南屋敷」の字名が残っている。小代氏の家臣渡辺某が菰屋に城を構えたことが伝えられている。ここには後で金城社が建ったので、宮前とも呼ばれ、城を宮前城とも呼んだ。この城には地下道があり、出口と入り口は這わなければ入れないのだが、内部は立っても手が届かないくらいの高さである。通説では、城の抜け穴とも言われている。
2026.06.08
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田倉館(たくら) 字田倉に中世の館跡がある。井手城から約500mほど離れており、井手城を含めたこの地域の防御施設であったと思われる。 敷地内には、現在、本田正俊氏宅が建っている。近くの田倉公民館が西北約100m離れている。 南側は五つ角になっており、地元では「大門口」「追手口」「じゃもん口」または「古きんど」等と呼んでいる。小代氏の遺蹟には「じゃもん口」とよばれる所が多い。 屋敷面積は二反五畝(2.5万平方メートル)あり、ほぼ正方形である。屋敷の西北側の中央から東の角にかけて土塁の痕跡(高さ1.5m、幅40cm程度)が見受けられる。 館の裏は「おっく」と呼ばれる。この館跡には、現在堀の痕跡は見受けられないが、土塁の外側には空堀が巡らしてあったという。
2026.06.08
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井手城(いで) 井手城は、丘陵地の北端(通称:権現山)に築かれた平山城である。 本井手地区の田倉集落の奥まった所が城地になっており、遺構は、東西38m×南北100mの範囲に残存している。 中央の本丸跡と思われる所は平地であり、権現宮境内となっている。 東、北および西側には土塁が巡っている。 南端からは、参道が集落側へ延びている。 北側は標高47~49mで、これより先は絶壁となっている。 なお、参道の階段下までは車で行けるが、道が狭く、Uターンも厳しい。周りは竹林になっている。
2026.06.07
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袴嶽城(はかまだけ)。田次郎丸館の山城です。 荒尾市万田袴嶽(万田山)にあり、3つの頂きを持っている。山は三井鉱山の所有地で、東の山頂は、東と北斜面が石炭採掘後の坑内充填(坑道の崩落防止)のために大きく開削された。南側斜面はゴルフ場となった。山全体は雑木が繁茂しており、山道も殆ど塞がれている。東山頂下の西尾根と南尾根には二条ずつの堀切が残っている。(追記)山上に在った権現堂が208号線沿いに移設されています。https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/202111110000/
2026.06.07
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田次郎丸館(たじろうまるかん)跡 田次郎丸館跡は荒尾市と大牟田市の境付近(原万田浦田)に位置しており、袴嶽(標高114.7m)の北裾部にあたる。海岸線からそれほど離れていないが、周囲からみれば標高6mの微高地である。現在、国道208号線の東沿にある「かずやコスメデイア」葬祭場の北側に空堀(外堀および内堀)と土塁が残っている。 外堀は幅25m、深さ2.5m、長さ230mの水堀で、内堀は幅7.4m,深さ3.3m、長さ130mの空堀であり、内堀と外堀の間には幅5m、高さ3.5m、長さ120mの土塁が巡っている。空堀の東側は国道工事のため埋め立てられたが、南東から北西へカーブしていたという。 田次郎丸館は小代氏一族が鎌倉時代よりこの地を支配していたところで、後述の袴嶽城と関係も窺わせる。 館の一部(南側)の一隅に持仏堂がある。持仏堂は東光寺といい、藤原吉家が永正6(1509)年に両親(道祐・妙秀)の冥福のために建立し、堂内には薬師三尊・十二神将を安置したことが書かれた厨板がある。また、境内に建てられた五輪塔や六地蔵塔の中にある十三仏碑は高さ132cm、幅76cmの板碑である。208号線沿いのかずやコスメディアの一部敷地内です。土塁跡も残っている。(現地の案内板)田次郎丸居館跡及び古塔群 市指定 昭和四十年六月一日 所在地 荒尾市原万田字浦田ここは長者屋敷ともいわれ、鎌倉時代から室町時代の名主、田次郎丸の館跡である。遺跡全体からみれば北に偏った、 高さ約二メートルの高地上で周囲の展望のきく唯一の高所である。遺跡南東の袴岳頂上(直線距離一・一キロメートル)に袴岳城があり、田次郎丸屋敷と関係があつたと言われている。 周囲に外壕、内壕を有し、外壕は幅約二五メートル、深さ約二・五メートル全長二三〇メートルの水壕であつたと考えられる。内壕は、現在長さ一三〇メートル、幅七・四メートル、深さ三・三メートルの空壕、内壕と外壕との間に幅五メートル高さ三・五メートル、長さ一二〇メートルの土塁がめぐる。館の一隅に薬師堂がある。厨子背面板の墨書縁起によれば、持仏堂は東光寺といい、藤原吉家(法名宗秀)が永正六年 (一五〇九年)九月十四日、両親(道祐、 妙秀)の冥福のため建立し、薬師三尊仏も造顕してまつったという。 荒尾市教育委員会 東光寺(薬師堂)
2026.06.06
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大園山館(おおぞのやまかん)跡は有明小学校内です。 大園山館跡は荒尾市の西域・中央部にあたり、標高13~19mで、現在有明小学校の運動場の一部になっている。 昭和52年に発掘調査がおこなわれたが、その遺構は完全に埋め戻された。校門の西側には二重土塁が残っている。 ここの領主は、重俊の六男・資経と言われているが、系図によれば、五男・資重が領したといわれている。 有明小学校の西南部1/4および校区西側50mx100mの範囲に内堀と土塁が巡っていたが、校舎敷地工事のため、上記の二重土塁を除いて、殆んど消滅した。内堀の外側に、さらに外堀が巡り、二重の堀を形成していた。この東側一部が二重土塁として残っている。この状態は、原万田の田次郎丸館の構成と同じである。蔵満城にも二重の堀(内側は崖下、外側は増水川)があったといわれている。 有明小学校の西、道路を挟んで、畑地になっており、その下に大園新一氏宅がある。大園氏によれば、数十年前まで、畑の中に掘跡が残っていたが、畑造成のため、消滅したそうである。校門を入った左手に案内板があります。(現地の説明板)大園山居館跡 おおぞのやまきょかん あと(1)位置 荒尾市一部宇大崗山有明海をのぞむ、高さ約二十四の増水台地には昔から「大園さん屋敷」とよばれる高地があり、その場所を「大園山」ともよんでいました。この地が有明小学校の新しい敷地となり、市教育委員会が昭和五十二年に調査し、「大園山居館跡」が発掘されました。また杉谷地区では弥生時代や中世の墓地もみつかりました。大園山の土塁などの一部は保存されていますので、皆さん大事にして下さい。(2)遺構 館の東の部分に二重の堀と二重の土塁が良く残り、北の部分には帯状の溝(幅二十四)がありました。この溝は堀切に伴なう土塁を壊して堀を埋めた結果と考えられ、発掘によって二重の堀がみつかりました。南と西の部分は段落ちで、南の部分の東側半分には、かなり壊れた状態で二重堀が残っていました。西の部分は、現在の道路部分が堀跡と考えられています。 堀の大さとは北の外堀(幅二~六、深さ一~二)を除いて、 幅四~五、深二m程度で、土星の大きさは幅四~五、高さ二m前後でした。その他、館内部からは土器溜やビット(柱穴) 群がみつかりました。(3)出土遺物 土師器(約九割)の皿・坏。瓦器の埦。瓦質のスケ鉢片。土師質の土鍋片・火舎片。須恵器。中国竜泉窯系の青磁片など出土遺物の時代は十三世紀代のものが中心です。(4)館が造られた年代 館中央部のビット群、土器溜は、館がっくられる前のの十二ー十三世紀代の小土豪(名主)の生活の跡で、館そのものは、十三世紀代に小代氏(一部氏)によって造られたと思われます 参考文献「大園山,杉谷道點」(荒尾市教育委員会 昭和五十三年) 昭和五十五三月 荒尾市教育委員会 荒尾市文化財保護委員会
2026.06.05
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平山城(ひらやま) 平山城は城集落の北側にある標高70m程の丘陵に築かれていた。 山頂は広い平地で畑や竹林になっており、南側は低地で県道荒尾南関線が東西に走っている。東は平山川流域の湿地地帯を挟んで小岱山麓に面している。北の高尾山との間は深い谷となっている。西は敵亡(てこぼし)谷を隔てて大蔵台地に接している。 現在は明確な遺構は残っていないが、かつては土塁と空堀に囲まれた長方形の区画が存在したという。 この城は筒が嶽城の北西を守る第一線の要害であるので北国守衛とも呼ばれたといい、近くには「城の下」、「大蔵」、「敵亡」、「馬無疵」などの下名がある。 また、平山村を領した平山権守正行が、東西1町25間、南北40間の城を構えたと伝えられ、そのあたりを陣屋敷と呼んだ。グリーンランドから高速インターへ抜ける道沿いの丘にある。登り口の周囲は住宅地(城下町)となっており、分かり難い。山頂の平らな土地は畑になっており、登城道も畑への道となっている。此処は、大牟田方面からの攻撃の受け場所となっており龍造寺などと戦があった。
2026.06.04
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片山家の城・韮塚城(にらづか) 片山勝九郎・弥十郎父子は蔵満城の西側に城を構えたと伝えられる。そこは、韮塚または六郎丸と呼ばれる土地であるので、城の名も韮塚城または六郎丸城と呼ばれた。 明治の頃までは堀切の跡が見えていたといわれているが、現在は全て田畑に変わり、勝九郎の墓といわれる古い石塔が残っているにすぎない。奥の林が石塔のあるところで、ここには市の木となっている「ちしゃのき」がある。この写真の頃は、このお宅の横を通って上がれたが、今は個人の駐車場となって入れない様だ。(参考に)ちしゃの木とは、チシャノキ(萵苣の木、学名:Ehretia acuminata)は、ムラサキ科チシャノキ属の落葉高木。和名は、若葉の味がチシャに似ていることから付けられたが、樹皮や葉がカキノキに似ていることからカキノキダマシともいわれる。なお、チシャとはレタスに似た菊科の一年草または二年草。石塔とちしゃの木の立杭杭の横の、この大木がちしゃのきかな? まつのきどん、は不明。なお、警察署と湿地センターとの道路の角にも案内杭がある。32.962863, 130.439371以前「この案内と現地の間が離れており行けない」と市に訴えたが、「県のものなので県に言って」とあしらわれた、この入口表示との間に市で案内を追加すれば良いのに?と思ったが。
2026.06.04
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蔵満(くらみつ)城址 蔵満城は現在の天四柱神社一帯に築かれていたという。天四柱神社のある所は台地の端に位置する。遺構としては、土塁、堀跡の一部が残っている。天四柱神社の横には城公民館(現在海下公民館)があり、それらの前面には小代氏一族蔵満氏の居城跡とする標識が立っている。また、城の南側に浦川が流れており、外堀の役目をしていたと考えられる。 美名尻城跡 蔵満城の南約200mの所に蔵満天満宮があるが、これは野原八幡四の宮であり、蔵満城の支城美名尻城と思われているが、実際はここが蔵満城であるという説もある。珍しく白杭が立てられている。説明板は無い。近くの天満宮が蔵満城跡だという位置論争がある。近くの畑を見てあるくと、土塁跡と思われるところもある。東側は浦川沿いの崖になっており、古くは浦川は海が入り込んでいた。蔵満から野原さんへは、船で一部で渡って行っていたそうだ。大園山館や増永城とは、今は幹線道路経由で遠く感じるが、旧道で直線で往くと直ぐ近くである。
2026.06.03
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宮内城(くない) 国道208号線と県道314号線との交差点の北側一帯が六町と呼ばれ、宮内城(六町城または六反城)跡とみられており、周囲に本丸・二の丸・三の丸・馬場・大門などの地名が残っているが、遺構は残っていない。また、上記交差点の南西には天神の森がある。この城との関係は不明だが、近くの荒尾市役所の東側にある浄業寺は小代氏の菩提寺で「浄業寺古塔群」(熊本県指定重要文化財)があり、小代重政をはじめ歴代城主とその一族の墓が残っている。なお、この城跡には遺蹟の痕跡(土塁や空堀など)は一切残っておらず、昔の姿を想起することができない。炭鉱電車と、国道208号線により、切り開かれており、城跡は残っていない。浄行寺など重要施設を守る重要な城だったハズなのだが。あらお葬祭の向かい側が本丸台だったのではないかと説明された。
2026.06.03
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尾形山城(おかちやま)です。本村館の山城と考えられている。 屋形山城は熊本県荒尾市荒尾東屋形山にある。 荒尾村を領した泰経が屋形山に城を構えた。この頃は、城が山城であるため、城主は普段南西の麓に住み、そこが屋形と呼ばれたので、城のある山を屋形山と呼んだが、あとでおかち山になったと伝えられる。 この城は、本村館の詰め城であったと考えられる。山に登るには、来夢うどん店の向かいから道がある。車はダメ。歩いて。城跡の痕跡は見られず、山頂には水道施設がある。施設には登れる展望台がある。
2026.06.03
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本村館跡(ほんむら)です。有明医療センター(旧市民病院)の西北の森になります。 本村には国道208号線から折れ込む市道(セブンイレブンの横道)が通っており、地元で「山の神屋敷」と呼ばれている集落に入ると左へ急カーブとなっており、この付近の字は大門口であり、地元では“じゃもんぐち”と転化されて呼ばれている。この集落には上屋敷という字名も残っている。この大門口を左折して300mほど進むと左側高台に「薬師堂」があり、当時、本村館跡(口述)に近侍していた侍たちの持仏堂であったと思われる・堂内には薬師如来と神像が安置されている。この宮の代々の守役・管理者は弥山家であり、宮の行事の際には自ら太鼓をうって神事を行ったという。また早朝にも毎日太鼓をうっていたというが、諸事情により、現在は行っていないそうである。 この薬師堂全面の小高い所が小代泰経の館(本村館:堀之内)跡である。南側の大牟田荒尾(126号)線側から入ると、荒尾市民病院があり、その左側で一番高い駐車場の奥から郭内に入れる個所がある。主郭(Ⅰ郭)は横幅約40m、縦幅約50mで、周囲には幅約3mm、深さ約2mほどの土塁・空堀がほぼ完全な形で残っている。この北側のⅡ郭は、主郭の広さの約半分で、ここも土塁・空堀で囲まれており、櫓台跡と思われる遺構が観察される。南側のⅢ郭は主郭の半分ほどの面積で北および東側に土塁・空堀が残っている。館の周囲の大堀跡は、南側にも伸びており、山林の端まで続いている。郭の中で大堀の遺構全体が完全に残されている城跡・館跡はこの他には見受けられず、小代氏の館の内、唯一現存し、今後の保存が一層大事である。本村館は、竹林となっている。病院の立替えでも残されて、散歩道として整備される様な話も聞いたが、現在は北の職員駐車場から通路が出来ている。この館跡の西側が城下町だった様だ。南端に、四角い土地があったが、見張り台だった様に聞いた。病院建設で分からなくなった。この土地は、更に西の丘と繋がっており、炭鉱電車のため崩されたそうだ。現県道126号線。案内板も白杭も、何も無い。教育委員会の保存熱を感じない。
2026.06.03
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筒ケ嶽城(つつがたけ)です。通常は守備兵がいるだけで、戦の時に梅尾城から登って籠城する城だったようだ。 筒ヶ嶽城は小袋山の最高峰標高501.4mの筒ヶ嶽山頂に築かれている。 筒ヶ嶽城は筒ヶ嶽山頂の主郭を中心として南の曲輪群、北の曲輪群、そしてその東の曲輪群に大別することができる。主郭部から南曲輪群にかけては戦国時代末期に改修されたと思われ、深く長い空堀と西側に巡らせた横堀により防御を固めている。全体的に遺構の状態も良く規模もよい。 主郭部は南北二段で北側の山頂の曲輪の西側面に城内で唯一の石積が残っている。 南の段には財宝を収めた底なし井戸の蓋と伝えられる巨石が残る。南下には横堀が巡らされ直ぐ下に南曲輪と区画する堀切を設けて遮断している。 北下には南北に長い削平地があり、主郭の東下に帯曲輪となって伸びている。北端は小高くなり、北側の堀切に面して土塁を設けている。 西の針の耳に通じる尾根の根元には二重堀切を設けて遮断している。 主郭部の北にある北曲輪群は主郭との間に大堀切を設け、それに面した南西側にやや土塁状の土盛りを残す。北に向かって小段が続き、その先端は西側を竪堀、東側を垂直に削り落として土橋にしている。 東曲輪群に向かう東側には北側に二条の竪堀、南側に一条の短い竪堀が残っている。おそらくは手前は堀切であったと思われるが不明瞭である。現在の小岱山登山ルート地図である。全ルートを踏破しようと、歩いたルートは青ペンで塗っている。小岱山とは、筒ケ岳や観音岳、丸山、長助などの総称であり、筒ケ岳が最高峰である。なお、小岱山の字についても論争があり、小代氏の小代山だろうとの論もある。本ブログで解説している。また、蛇ケ谷からのルートは九州自然歩道に選ばれております。籠城時の物資の搬入は、南関側の登山ルートが使われたらしい。(二の丸の巨石)・巨石:筒ケ岳の巨石:この巨石は、財宝を収めた底なし井戸の蓋石と伝えられており、筒ケ岳城落城の折、大判小判が敵の囲をかすめて隠されたとの伝説が残っています。巨石には、郷土出身の大学者月田蒙斉の「小岱山に登る」の詩が刻んであります。 環境省・熊本県(注) 詩碑は、曽孫月田彬氏が昭和15年に書いたもの。「手に藤花をぬきて次第に登る。無辺の風色眸間(ホウカン)にいる。高瀬川みなぎる長洲の海、雌石(シセキ)の晒松水無(サイショウスイム)の間(文は漢文)」
2026.06.02
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では、其々の城趾について見てゆきましょう。最初は、梅尾城(うめお)です。 梅尾城は筒ヶ嶽城から西へ派生した尾根の先端頂部、標高149mの山頂に築かれており、山頂から南西の曲輪群と北東尾根の曲輪で構成されている。東にフロン谷(風呂谷)、北にカジヤ谷(鍛冶屋谷)があり、北東の曲輪を「馬かけ馬場」と呼び、周囲には「殿の屋敷」・「土居内」などの地名が残っている。 南西の曲輪群が主郭部とみられ、かなり広大な削平地が南北に拡がっている。北東端が高く、南西下に堀切があり、その先に堀切に面した部分を土塁状に削り残した小段と二条の堀切が続き土橋が架かる。先端の堀切は北側に竪堀となって伸びている。この南西側一帯はシダ類が茂っていて遺構の確認が難しいが、放射線状に竪堀があるようにも見える。南端付近の東側に一部石塁の混じったような土塁が残る。 北東尾根との間には箱堀の堀切で区画される。北東尾根の曲輪は南側はきれいに削平され、東側には石塁の混じった土塁があり虎口になっているが、北側に向かって高くなった斜面はほぼ自然地形で、その先に二重の堀切を設けて尾根を遮断している。ただこの先は北の尾根側が高く、南の曲輪側には特にめぼしい防御施設もなく、あまり意味のない堀切に思える。小代氏の本城です。府本に在ります。小岱窯の、小岱山への登り道の脇から、登り口があります。登り口の、反対側がお花ですので、こちらに居館が在ったのでは無いかと思われます。登り口の階段先に、いのしし避けの柵がしてあります。以前は柵を開けて入れたのですが?位置のマップと、拡大図に縄張りを同寸で貼り付けてみました。縄張り図と、付近の写真です。本丸には東屋が在りました。お散歩コースにでもしようかという時期があったのでしょうか?祠と白杭も在りました。(登城口の説明板)梅尾城跡:梅尾城は低山に築かれた山城で、小岱山の西域末端に位置する。遺構は 標高一二〇・六九mから一五一・六二mの尾根筋にみられる。山腹はいず れも急峻で、低山ながら要害の地である。堀切や土塁等の遺構が残っている。 中心部のⅠ郭は標高一四五m。主軸方位は北から南にあり、中途から西 側へ緩やかに弯曲し平場を形成する。Ⅱ郭は北西側の尾根筋にある。主軸方位は北西から南東にあり、直線的 に延びている。端部は小山状をなし、最高所は標高一四八・四二mで、平場部分は標高一四七mである。Ⅲ郭は標高一四三m。主軸方位は北東から南西にあり、Ⅰ郭と同様に中途から西側へ弯曲する。
2026.06.02
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前頁の説明と、Gマイマップの紹介です。Gマイマップは、QRコードから見ることが出来ます。Gマップにマークをたてていますので、城址位置を拡大して見る事が出来ます。また、Gマップの現在地表示を使えば、城址に対して現在地を知ることが出来ます。さらに、ルート検索でカーナビとしても使えます。自分で城址に行く時にご活用下さい。小代氏の系図と城趾の関係です。荒尾の城址は、小代氏の居城です。小代氏が、1275年に鎌倉幕府の指示により野原荘へ下向し、府本に住み、兄弟・家臣に領地を与え城(居館)を築かせたのが始まりです。その後、加藤清正が肥後に入城するまで荒尾を領します。 系図の左が、領主で、梅尾城が平城で筒ケ岳城が山城です。(黄色が山城ペアです) 重泰の弟の政平には、増永(マスナガ)に領地を与えてますが、城址位置が判っていません。 三男の泰経には、本村を与え、本村館と尾形山城を建てています。 その他、分家・家臣にも城(居館・砦)を建てさせています。小代氏の城の配置としては、海に向かって配置されています。幕府からの命が元寇に備える為だった為か。ここで、古い時代の荒尾の海岸線を見てみましょう。作蔵先生が、現在の地図に昔の海岸線を入れられたマップです。長洲は、海で、現在の文化センターまで海でした。桜山小学校の下まで海でした。菰屋(コモヤ)野原近くまで海でした。蔵満城から野原さんへ行くには、船で山浦へ渡ってから行くことになっていました。
2026.06.02
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「荒尾の城址」で講演をやることになったので、その資料を準備しています。「荒尾の城址」というタイトルで図書館に置かせて貰っている資料が基本です。資料の表紙です。「A 219.4 アラ」が図書館の整理番号です。このNOで資料の置かれている棚を探して下さい。荒尾市の地図に、城址を配置しました。18城があります。城のリストです。別名、所在地、城主を示します。城の位置です。マップ緯度経度:緯度経度を示し、この値をGマップに示せば位置が分かります。 マップコード:カーナビに使われている位置コードで、カーナビの目的地に入力します。 駐車場緯度経度と駐車マップコード:駐車場が離れている場合、駐車場を示します。 登口:登り口がある場合に示します。ぜひ自分で訪問してみて下さい。
2026.06.01
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増永城です。https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/202105230000/(作蔵先生文書より)増永氏 増永右馬允政平は、背後を丘陵を楯にして、前方に有明海を臨み、堀に囲まれた土地に館を築いた。館の周辺には浦殿・船丸屋敷、堀の内等の名主層の名がみられ、子孫の系譜も下図が知られており、これは戦国時代まで活躍していた。
2026.04.23
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菰屋館跡です。
2026.04.23
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小野城です。記事なし
2026.04.23
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円城です。番城です。https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/202106110000/
2026.04.23
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金城です。https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/201910100000/
2026.04.22
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井手城です。https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/201910090000/
2026.04.22
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袴嶽城です。https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/201910090000/https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/202010230000/https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/202010240000/https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/202010250000/https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/202111110000/
2026.04.22
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田次郎丸館です。https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/201910080000/
2026.04.22
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大園山館です。https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/201907130000/https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/201910070000/
2026.04.22
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平山城です。https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/202004240000/https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/202004250000/
2026.04.21
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韮塚城です。https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/201910110000/https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/201910070000/
2026.04.21
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蔵満城です。https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/201907110000/https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/202209040000/https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/202209030000/https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/202209040000/
2026.04.21
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宮内城です。https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/201910070000/
2026.04.21
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屋形山城です。https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/201907180000/
2026.04.21
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本村館跡です。https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/201910070000/https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/202104210002/https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/202011130000/https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/202010290000/
2026.04.20
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筒ヶ岳城です。https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/201906030000/https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/202009120000/https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/202009130000/https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/202009140000/https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/202009150000/https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/202009160000/https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/202009170000/https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/202307200000/
2026.04.20
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このフログの記事から、梅尾城の情報をまとめてみました。https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/201907100000/https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/201907080000/https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/202307300000/https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/202407150000/https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/202212070000/
2026.04.20
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図書館講演の予定 以下のような城趾を照会します。乞うご期待!
2026.04.18
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講演会のチラシ(案)が出来ました。皆様のご参加、お待ちしています。
2026.04.12
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アクセスが、9並びとなり、あと1つです。あれ? 通り過ぎてしまいました。
2026.02.17
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荒尾市立図書館で行われる、歴史講演会にて講演をする事になりました。26年8月9日(日曜) 多分11時から テーマ:荒尾の城址 以前寄贈した「荒尾の城址」の内容です。参加をお待ちしてます。チラシも出来る様ですので、出来たら再度お知らせします。
2026.02.10
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四反田しただ地蔵石像に来ました。32.96758, 130.50657以前は見つけられずにいましたが、草が刈り取られていて見えました。道沿いの畠への登り口の上でした。「荒尾市の文化財」より 海行原より四反田集落の人口近くの畑の畦に立っている。基礎、棹、請台、石像の4部よりなり、石像の首は失われ、尊名は確かでないが、臍前へそまえで宝珠を持つ姿は延命地蔵である。正面に「三界萬霊」、側面には「天明八年戊/申 椛村、笠助、おいる おいよ おいね おみね」とある。村人の話によるとここより数体の骨が掘りだされたというので、天明八年(1788)の飢饉との関係も考えられそうである。
2026.02.09
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今朝見たら、69並びでした。めずらしいので撮っておきました。見て頂いて感謝です。
2026.02.05
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小岱山の山影です。現在 657301件 です。見て下さって有難う御座いました。現在 市学会は休眠中です。
2025.07.31
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熊日新聞 28日の記事です。増田警神については、講演会で取り上げました。こちらもご確認下さい。https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/202011170001/
2025.07.28
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熊日新聞に、津波石が照会されました。本ブログのこちらもご参照下さい。https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/202005070000/https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/202005200000/
2025.07.27
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加藤神社に来ました。この石段の上まで津波が来たのだそうです。石段の上から海の方角です。下の家は二階まで浸かってしまいます・・・
2025.07.15
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熊本ギョーザでランチ 32.877711, 130.575217最後の一個になって慌てて・・自家製野菜が自慢で、サラダは取り放題でとても美味しかったです。
2025.07.05
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大浜天満宮に来ました。 32.897792, 130.550203飛行場跡の説明板がある公民館のとなりです。
2025.06.25
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