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最近、ヨシさんという顕正会員からコメントをいただいています。そのヨシさんと、浅井会長が日顕上人のお言葉を改ざんした件で論争になりました。 その際にヨシさんが強調していたのが、「宗門は御遺命に背いた」という顕正会独特の論理です。 しかし、これこそが顕正会の問題に関しての核心なのです。顕正会は「宗門は御遺命に背いた」と会員に吹聴しており、ゆえに顕正会員は「宗門は御遺命に背いたから間違っている」と思い込んでいます。 顕正会員が日達上人・日顕上人を御法主上人として認めていないのも、「宗門は御遺命に背いたから間違っている」と思い込んでいるからです。 顕正会が五座三座の勤行をしないことや、顕正会の偽本尊の件も、仮に法華講員から指摘されても、「宗門は御遺命に背いたから~」と考え、自分に「顕正会が正しい!」と言い聞かせてしまいます。 その呪縛から顕正会員を解放するには、「宗門は御遺命に背いた」という顕正会の主張を打ち砕かねばなりません。 顕正会は日蓮大聖人の御遺命が「国立戒壇」であると巧みに宣伝し、「宗門は国立戒壇を放棄したから間違っている」と主張しています。しかし、「顕正会の主張する国立戒壇」は誤りであり、宗門からすでに破折されています。 このブログでも2009/12/23~2010/1/4の記事で、「顕正会の主張する国立戒壇」を破折しましたが、この機会に改めて書いておきます。国立戒壇については機会があれば、その度に破折したほうがいいようです。 かつて、日蓮正宗では「国立戒壇」を主張していた時期がありました。しかし、「顕正会の主張する国立戒壇」とは、同じ「国立戒壇」という名称を使用していても意味が異なったのです。 それでは、具体的にはどこが異なったのでしょうか? 顕正会では御遺命の戒壇を建立すべき場所は「天母山」であると主張していますが、戒壇建立の地は「天母山」ではなく富士大石寺なのです。 現在の顕正会では御遺命の戒壇を建立すべき場所は、富士大石寺から東へ4キロ離れた所にあるという「天生原(天母山)」であると主張しています。大石寺から東へ4キロ離れた所にあるというこの「天生原」のことを、顕正会では以下のように「天母山」であると主張しています。 「天母山と天生原とどう違うのか。天生原の中心にある小高い丘を天母山というのである。」(『日蓮大聖人の仏法 改訂版』230ページ) 「では細井管長はどのように『天生原』(この中心地が『天母山』)を否定したのかといえば、」(『正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む』167ページ) しかし、御遺命の戒壇を建立すべき場所は、天母山ではなく富士大石寺なのです。第26世日寛上人は、『六巻抄』の『文底秘沈抄』において、 「本門戒壇の本尊所住の処、豈戒壇建立の霊地に非ずや。」(『六巻抄 顕正会版』64ページ) 「本門の本尊所住の処に応に本門の戒壇を起つべし、」(『六巻抄 顕正会版』69ページ) と仰せられ、本門戒壇の大御本尊がまします所に御遺命の戒壇を建立すべしと御指南されています。本門戒壇の大御本尊のまします所が大石寺であるのは、言うまでもないことです。 さらに、顕正会も妙信講の時に、御遺命の戒壇を建立すべき場所は、富士大石寺(大石ヶ原)であると述べているのです。 「下条より約半里ほど離れた北方に大石ヶ原という茫々たる平原がある。後には富士を背負い、前には洋々たる駿河湾をのぞみ、誠に絶景の地であり、日興上人はこの地こそ、本門戒壇建立の地としての最適地と決められ、ここに一宇の道場を建立されたのである。」(『富士』昭和39年9月号 23ページ) この記述は、大石寺は御遺命の戒壇を建立する地ではないと言い張る、現在の顕正会の主張とは全く違うものです。 そして、顕正会の主張する「天母山戒壇説」ですが、この説は誤りであり、「天母山戒壇説」の根拠はことごとく崩壊しているのです。 顕正会では「天母山戒壇説」についての歴史的検証を全く無視しており、誤った「天母山戒壇説」を顕正会員に教える浅井会長は、もはやまともな指導者ではありません。 「天母山戒壇説」についての詳細は、すでに2009/12/27の記事で書いていますので、そちらを参照して下さい。 あまり細かく書いて、かえって理解しにくくなってもいけないので、とりあえず一旦ここで筆を置くことにします。 ・2009/12/27の記事http://plz.rakuten.co.jp/arinokingo/diary/?act=view&d_date=2009-12-27&d_seq=0&sact=c&lp=1&c2=803276210
2011年02月07日
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10月13日は大聖人が御入滅あそばされた日です。顕正会ではこの日、本部会館に限り「御大会式」が行われます。 では、日蓮正宗ではどうしているのでしょうか?富士大石寺では、11月20~21日に宗祖御大会が奉修されています。 また、宗門末寺では、総本山の御大会の意義に準じて、御会式(おえしき)が奉修されているのです。 『大白法』の平成21年10月16日号に、「御会式に参詣しましょう」という記事があるので、以下に転載します。 「十月と十一月は、皆さんが所属する寺院において『御会式』が奉修されます。御会式は、弘安五(一二八二)年十月十三日、日蓮大聖人様がお亡くなり(御入滅)あそばされ、御本仏としての御境界を示されたことをお祝いする儀式です。 (中略) 御会式では、『立正安国論』と御歴代上人の申状を、御住職をはじめ御僧侶方が捧読されます。 (中略) 申状とは、御歴代上人が幕府や朝廷に対して折伏するために認められた書状のことを言います。また、国の権力者や代表者を折伏することを国主諫暁と言います。 (中略) この申状捧読の儀式は、五百年以上も前の第九世日有上人の代から行われています。この儀式は、私たちが大聖人様の立正安国の精神を持ち、折伏に邁進するためにあるのです。ですから、申状捧読の儀式の最中は、手を合わせて拝聴し、御本尊様に折伏実践を誓い、『広宣流布(立正安国の精神をもって、南無妙法蓮華経の正しい教えを世界中に弘めて安穏な社会を築くこと)』が実現するように御祈念してください。御会式は、一年で最も大切な行事です。ぜひ、家族と一緒に参詣しましょう。」 御会式は、一年で最も大切な行事であるゆえに、法華講では、「毎日364日欠かさずお寺に参詣しても、御会式のたった一日の参詣ができなければ、本宗の信者ではない」とも言われてきました。
2009年10月30日
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顕正会の会長だった浅井昭衛氏が逝去されてから、けっこう時間が経ちました。顕正会の皆さんも、少しは冷静に昭衛氏の死を受け入れることができるようになりましたか?昭衛氏が亡くなった後、私は法華講の機関紙である『大白法』を見返していて、あることに気が付き驚きました。それは、『大白法』で浅井昭衛氏の死が「予言」されていたということです。令和5年9月1日付の『大白法』の「異流義破折」というコーナーでは、昭衛氏がまともな根拠も示さず日顕上人の御臨終の相を誹謗したことについて破折した上で、下記のように述べられていました。「浅井よ、遠からず訪れる自らの臨終を恐れるがよい。その時、その悪臨終は、隠蔽されることなく、公に晒す結果となるであろう。」(『大白法』第1108号)この記事は令和5年9月1日付です。そして、浅井昭衛氏が亡くなったのは、同じ年の10月16日なのです!『大白法』で「遠からず訪れる自らの臨終」と予言されてから、わずか1ヶ月半。浅井昭衛氏の死は現実のものになりました。このことに気が付いた時、私はとても恐ろしくなりました。なぜなら、私も昭衛氏と同じように日顕上人や宗門を誹謗していたからです。顕正会を脱会していなかったら、私も昭衛氏と同じ目に遭ったかもしれません。恐ろしくなったと同時に、法華講に入って正しい信心ができるようになって本当に良かったと思いました。一方、浅井昭衛氏の予言は当たらないことで有名でした。彼の予言については、私のブログの『浅井会長の予言-1〜2』で詳しく取り上げたので、こちらもぜひ読んでみて下さい。『浅井会長の予言-1』『浅井会長の予言-2』このように浅井昭衛氏は当たりもしない予言で人々を惑わし、まともな根拠も示さず日顕上人の御臨終の相を誹謗した挙げ句、急死したのです。顕正会の皆さんは、こんな昭衛氏の本性をよく見極めなければいけません。そもそも、日顕上人の御臨終の相をあれだけ誹謗していたのに、その張本人が急死したら洒落にならないですよね?
2024年08月04日
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