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昨日はふざけたエントリーを書いたのだが(その割にえらく長々と書いたが)、今日は一転まじめな話題。 まずこういうニュースがあるわけですが。(引用開始)独首相、ダライ・ラマと会談へ 中国は猛反発9月22日19時38分配信 産経新聞 ドイツのメルケル首相は23日、ベルリンでチベット仏教最高指導者のダライ・ラマ14世と会談する。ドイツの首相がダライ・ラマと会談するのは初めてで、中国の人権問題が主要議題になるとみられる。独政府は今回の会談を「私的な意見交換の場」と位置付けているが、これまで数回訪独しているダライ・ラマを、初めて独首相府に招き入れる。これに対し、中国政府は反発を強め、受け入れをキャンセルするようドイツ側に圧力をかけている。 ドイツはシュレーダー前政権時代、国連安全保障理事会常任理事国入りを目指していたことに加え、中国が世界最大の市場を持つことから、中国政府の顔色をうかがいながら対中外交を進めてきた。しかし、独裁国家の旧東ドイツで育ち、人権の重要性を肌で知るメルケル首相はこうした外交姿勢を修正し、先月末に訪中した際も中国政府に人権の大切さを訴えた。 今回の会談は、来夏の北京五輪を控え、自国の成熟度を世界にアピールしたい中国に対し、さらに圧力をかける狙いもある。 これに対し、中国側は激しく反発、同国外務省は14日、シェーファー駐北京ドイツ大使を呼びつけ、詳細な説明を求めた。18日も「ダライ・ラマは(中国からの)分離活動を行う政治亡命者だ」と、改めて会談中止を呼びかけた。 独誌シュピーゲルによれば、独経済界の中では今回の会談実施によって、独中間の経済交流に支障が出ると懸念する声も出始めている。だが、ウィルヘルム独政府報道官は「人権問題は、中国側といつも話し合っている議題だ。独中間だけでなく、欧州連合(EU)と中国との間の議題(でもあり重要)だ」と強調している。 在独チベット関連団体代表は「チベットは今ほど、国際社会の支持を必要としているときはない。ドイツは重要な役割を果たし得る」と話す。 ダライ・ラマはシュピーゲル誌に対し、「ドイツの指導者は要職に就く前は私に会いたがるのだが、要職就任後は、中国を苛立たせないよう私を避けるのが一般的だった」と語り、メルケル首相に期待感を表明している。(ベルリン=黒沢潤)(引用終了) 中国政府側はさらに動きを見せている(記事)。 メルケル首相がダライ・ラマと会見するのと同日にミュンヘンで予定されていた、中国・ドイツ両政府の代表(ドイツ側代表はブリギッテ・ツィプリース法相)が出席しての法治国家のあり方についてのシンポジウムに、中国側が直前の金曜日になって欠席を通告していたとのこと。その理由について中国大使館は「ダライ・ラマとメルケル首相の会見とは無関係で、技術的理由」と説明しているという。ちなみにこのシンポジウムはシュレーダー政権時代の1999年から毎年開催されており、中国政府代表が欠席したことはない。 「技術的理由」ですか・・・、なんかそういうの聞いたことがありますねえ。二年前に北京や上海で反日デモが続いてた頃、呉儀副首相が小泉首相との会談をドタキャンしたときだったかな。日本政府にそういう「アジア的優しさ」のやり方が通じてもドイツ政府に通じるかな、とも思ったが、ドイツ側は十分中国政府側の底意は汲み取っているようで・・・・。メルケル首相は予定通りダライ・ラマと会談するみたいだけど。 メルケル首相がダライ・ラマと首相府で会見することについては、ドイツ政府内でもやはり激しい議論があったらしい。お決まりのパターンだが、経済団体や外務省の一部は独中関係の悪化を憂慮する立場から反対が多かったのだが、結局首相府が押し切ったということらしい。 ちなみにメルケル首相は野党党首時代の2005年にダライ・ラマと会見しており、これが二回目の会見となる。もちろんドイツの首相としては初めて。ただドイツ政府の要人がダライ・ラマと会見することは以前にもあって、フィッシャー外相(シュレーダー政権)やキンケル外相(コール政権)、ヴァイツゼッカー大統領などが過去にダライ・ラマと会見している。連邦政府のみならず、たとえばヘッセン州のコッホ州首相なんかはダライ・ラマが訪独するときはかならず会っている。 それにしてもダライ・ラマってしょっちゅうドイツを訪問してるイメージがあるな(普段はインドに住んでるんだよね?)。よほど支持者が多いのだろうか。支持者といえば、在独中国人には中国政府に邪教扱いされている法輪功の信者も結構いるみたいで、中国の人権侵害を訴えるビラ(毎度の如くかなりグロい写真が載っている)をもらったことがある。 チベットやウイグル問題(あと台湾も)そのものについては、生半可な知識でコメントしたくないので深入りしないが、漏れ聞く政府による弾圧が誇張なしの事実とすればけしからんことだと思う。中国支配下のほうが経済的あるいは民生的には利益がある面もあるのかもしれないが(一方で国内植民地になる面は否定できまい)、人はパンのみにて生きるもんでもないだろう。って、チベットについてはアンカラで見た「Tibet'te Yedi Yil」くらいしか知識がないんだが。 「ドイツが好きなので、ドイツはたくさんあった方が嬉しい」と言ったド・ゴールじゃないけど、僕は中国が好きなので「中華文明」あるいは「中華民族」に属する国がいくつかあっても面白いと思うんですが(まあ一つにまとまっているほうが東アジアは『安定』するのでしょうが)。 ドイツは中国との経済関係を非常に重視しているのだが、中国やロシアへのセールスマンとさえ言われたシュレーダー政権の頃でさえ、人権問題に関する憂慮をその都度表明していた。メルケル政権になってその傾向を強めているように思う。「責任ある超大国」としての中国に期待すればこそ、ということですかね。 欧米と「価値観を共有する」と称される日本政府は・・・・。明日の次期自民党総裁選で圧倒的有利といわれているのは、官房長官時代に台湾の李登輝前総統へのヴィザ発給に猛反対したとされる福田さんですかそうですか。なら「次の内閣」民主党の小沢党首は・・・、10月に大訪問団を引き連れて北京詣でですかそうですか。まあ東アジアには「アジア独自の事情」ってのがあるんですかねえ。ふう。・・・・・・・ とりあえず追記。 ドイツ政府は「一つの中国」政策の支持を従来から表明しており、主張しているのはあくまで「チベットの文化的独自性の保持(自治)」と「信教の自由」の保障である。 中国政府が恐れる最悪の事態は、EU諸国の首脳がドイツに続いてダライ・ラマと会見を始めることらしい。地球温暖化対策への取り組みのイニシアチヴといい、メルケル首相なかなかやるじゃないか。 メルケル首相のダライ・ラマとの会見について、世論やメディアは概ね好意的に見ている模様。 ただしこの会見について、CDUと連立している社民党(SPD)のクルト・ベック党首は「自分なら首相府ではなく、どこかよその中立的な場所で会見を行っただろう」と評したとのこと。それって例えてみれば靖国神社の8月15日参拝を13日にずらすのと同じで、あまり変える意味がないのでは・・・・? ともあれ、最近のSPDの凋落の理由がなんとなく分かる気もする。あとLinksparteiのこの出来事についてのコメントが気になるところ。
2007年09月22日
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明日からミュンヘンでビールの祭典オクトーバーフェストが始まる。行ったことないんだけど。 日本では自民党の後継総裁選が目前で、麻生・福田両候補の議論(といえるようなもんでもなさそうだが)が行われているが、今日はそのミュンヘンで行われている政治について。・・・・・・・・ ミュンヘンを州都にもつバイエルン州はドイツ南東部にあたり、連邦国家であるドイツで最大の州であり(ただし面積において。人口ではノルトライン・ヴェストファーレン州)、またドイツでもっとも保守的な州として知られている。これは割合カトリックが強いこと、また農業が盛んなことと関係しているのかもしれない(もっとも、ミュンヘンはBMWの本拠地ですけどね)。あまりいい例ではないが、政権を獲得する以前のヒトラーが活動の中心を置いていたのもこの州ですな。 それは政治にも反映されていて、この州では戦後数年を除いて一貫して保守系のキリスト教社会同盟(CSU)が政権を担当してきた。CSUは他の15州におけるキリスト教民主同盟(CDU)にあたる政党で、バイエルンにだけ存在する政党だが、州独自の政党があること自体、バイエルンの特殊性を示しているかもしれない。 とくに1978年から10年間州首相(連邦制なので州ごとに首相がいる)を務めたフランツ・ヨーゼフ・シュトラウスはドイツの保守系政治家の大立物であり、国防相のほか、1980年の連邦議会総選挙で保守政党(CDU/CSU連合)の首相候補にもなっている。ところがバイエルンはどうもほかの州の人には嫌われる傾向があって、僕の知り合いはこの州を「下(しも)オーストリア」と呼んだり、「あれをドイツの典型のように思われては困る」という(日本におけるドイツのイメージは圧倒的にバイエルンのものだが)。シュトラウスも当時の現職シュミット(社民党)に敗れている。 バイエルン州の現在の州首相は、そのシュトラウスの右腕だったエドムント・シュトイバー博士である。 シュトラウスの官房長官として辣腕をふるい「ブロンドのギロチン」とあだ名された彼は、シュトラウスの急死(1988年)で州首相となった前任者が1993年にスキャンダルで辞任したのを受けて州首相となり、CSU党首をめぐるテオ・ヴァイゲル(連邦政府・コール政権の蔵相)との党内抗争にも勝利した。最近の2003年のバイエルン州議会選挙では全議席の三分の二を獲得してまさに「保守王国」を築いた。その在任は今年で14年になる。 彼もまたシュトラウス同様保守政治家の大立物となり、保守的な政策や発言で時に物議を醸してきた。今日も「(ドイツでは)モスクよりも大聖堂のほうが大きくあるべきだ」と発言しているが、「ドイツには長年培われた『標準文化』(ドイツ語、キリスト教、民主主義など)があり、それが守られるべきだ」と主張し、移民受け入れに寛容な「緑の党」や社民党と鋭く対立してきた。さらに両党が導入した同性婚にも激しく反対している。外交では、第二次世界大戦直後にチェコやポーランドから追われた「追放ドイツ人」への両政府による補償を求める集会にたびたび出席して、両国との紛争の種を作っている(バイエルンの人口のおよそ四分の一は追放ドイツ人とその子孫であり、シュトイバー夫人もその出身であることから分かるように、大票田でもある)。またトルコのEU加盟に絶対反対の立場を採っている。 そんな彼は師匠のシュトラウス同様、CDU党首であるアンゲラ・メルケルを差し置いて2002年の連邦議会総選挙にCDU/CSUの「顔」(首相候補)として出馬したが、僅差で現職のシュレーダー首相に敗れた。シュレーダーが早々に翌年のイラク戦争への反対を掲げたのにしてやられた格好になった(もちろんそれだけが争点ではなかったが)。 2005年の前倒し総選挙では、2002年の総選挙ではシュトイバーに「顔」役を譲ったメルケルがシュレーダー首相に辛勝し、社民党とCDU/CSUの大連立政権が誕生した。シュトイバーはこの政権に経済・金融・科学研究などを兼任する副首相級の「スーパー大臣」として入閣することがほぼ決まっていたのだが、何か不満だったのか直前になって就任を固辞し(待遇面での不満があったらしい)、ミュンヘンを去ってベルリン(連邦の首都)に移ることはなかった。 ところがいったんベルリンに去ることに決めたシュトイバーに、バイエルン政界は冷ややかな視線を向けた。2002年に連邦首相に挑戦したのに飽き足らず、一度は中央政界進出を決めたのに、どの面下げて戻ってきたのだ、ということである。しかしバイエルンに「王国」と呼ばれるほどの盤石の地盤を築いた彼に、誰も面と向かって批判を加えなかった。 ところがシュトイバーの任期延長が話題になり始めた昨年になって、そんな彼におおっぴらに反対する者があらわれた。 バイエルンの「国王」に反旗を翻したのは、ガブリエレ・パウリという、フュルト選出のCSUの州議会議員だった。ファッション誌にモデルとして登場し、愛車ドゥカティ(BMWじゃないのね・・・)に跨って選挙区を回る当年50歳の彼女は、66歳のシュトイバーの任期延長を公然と批判し、新聞を賑わせた。さらにシュトイバーの右腕である官房長官が、同僚議員に彼女のアルコールや男性問題などのスキャンダルを嗅ぎまわっていることが発覚し、否認のまま辞任に追い込まれる。 「裸の王様」シュトイバーに対する彼女の批判は次第に支持を増し、「空気を読んだ」シュトイバーは今年1月に、9月いっぱいでの州首相辞任とCSU党首選への不出馬を表明した。7月、CSU執行部はバイエルン州首相の後任候補としてギュンター・ベックシュタイン内相を立てることに決した。 ところが一方で「王様」であるシュトイバーを引きずり下ろしたパウリに対する党内の風当たりは強く、吊るし上げを食った彼女は次期州議会選挙への不出馬を宣言した(3月)。転身を図った彼女がしばらくして選んだ道は・・・・なんとCSUの党首選挙に出馬することだった(7月)。CSU党首選は党内の有力政治家である上記ベックシュタイン内相とエルヴィン・フーバー経済相の間で争われることが決まっていたが、そこに彼女が闖入したのである。ちなみに現在の世論調査ではCSU支持者の15%がパウリを支持しているという。・・・・・・・ シュトイバーの退任と党首選挙が迫る今週水曜日、その彼女がCSU党首候補としての政策を発表した。その内容はその場にいた50人ほどの記者が唖然とするもので、オーストリアの記者は「またドイツ発のおバカなニュースがとれた」と喜び、生真面目なフィンランドの記者は理解できない自分のドイツ語力に自信を失って確認のため聞き返したという。 それは「結婚は7年の期間限定とする」という提案だった。結婚7年目に積極的に婚姻関係継続を役所に届け出ない場合、婚姻関係は自動的に解消される。彼女によれば、「結婚の5割は破局に終わり、その多くは7年目に起きる。離婚への恐れや経済的理由からずるずる別れない者もいるが、結婚とは安心・安全を提供するためのものではなく、愛によりなされるべきものである。婚姻関係ではなく、子供のいるところに家族がある」とのこと。またこの制度によって、貧しい人にとっての重荷である慰謝料や養育費の問題が解消され、結婚に二の足を踏むことが解消される、とその利点を挙げた。 彼女の発表した政策は11ページに及び、トルコのEU加盟に必ずしも反対しないこと、CSUが最優先に推進してきたミュンヘンでのリニアモーターカー建設計画を「ミュンヘン以外では役立たず」と断じるなどの独自性があるが、なにせこの「期限付き婚姻制度」が目立ってしまい(家族政策は彼女の政策の柱でもあるのだが)、党内外から集中砲火を浴びている。対立候補であるベックシュタイン内相は「ここはサーカスじゃない。ふざけている。立候補をやめるべき」と断じているが、彼女に追い落とされたシュトイバー党首はこの一報に驚いたそぶりも見せず、「そういうことは他の党でやったらどうか」と答えたのみだったという。 さらに今日になって、彼女はこのアイデアを漫才師のネタから剽窃したことが判明してさらに物議を醸している。日本でいえばビートたけしの本から選挙公約を探し出すようなものか。たけしの元弟子の宮崎県知事はネタに走らず結構手堅くやってるみたいだけど。・・・・・・・ 家族制度に代表される伝統的価値観を重視する保守政党・CSUにとって、彼女の政策はそれに真っ向から反するもので、「シュピーゲル」はこの提案を「ヴァイスヴルスト(白ソーセージ。バイエルンの名物)を廃止し、ミュンヘンの聖母教会のドーム屋根を吹き飛ばし、オクトーバーフェストをやめて断酒会に変えるようなもの」と例えているが、言い得て妙だと思う。 ちなみにドイツの離婚率はおよそ4割(日本は33%というが)、婚姻継続期間は平均9年半だという(一方で婚姻届を出さない事実婚の人も若い人にかなり多いのだが)。シュレーダー前首相(社民党)は3度の結婚、フィッシャー前外相(緑の党)は4度の結婚で有名だが、メルケル現首相(CDU)は二度目である(「メルケル」は前夫の姓)。件のパウリ女史も離婚経験があり(元夫もCSUの政治家)、一人娘を女手一つで育てた。 「三年目の浮気」って歌もあるけど、確かに7年というのは何か一区切りとなる期間かもしれないなあ。ドイツの大学生の平均在学期間も7年くらいだし(最近は授業料導入とか学士(バチェラー)制度の導入で短くなってるんだろうけど)。 結婚したこともない僕には何とも言えませんが。出来れば離婚は避けたい。 まじめ一辺倒なイメージがあるドイツの政治(まあ電八郎さんに教えてもらったドイツ無政府主義ポゴ党というのもあるが)、しかももっとも保守的かつ圧倒的な男性社会であるバイエルンのCSUでこのようなことが起きているのはきわめて画期的、悪く言えば戯画的としか言いようがない。CSUの多くは「ただのヒステリー女」と切り捨てているが。 彼女がCSU党首になる目は皆無で、シュトイバー現党首も「彼女は史上最低の得票に終わるだろう」と断じているが、ガブリエレ・パウリは、連邦首相であるアンゲラ・メルケル、少子化対策を推進しているウルズラ・フォン・デア・ライエン家族相とともに、今ドイツでもっとも注目すべき女性政治家の一人かもしれない。リベラルな社民党や緑の党にいま一つこういう「キャラの立つ」女性政治家が欠けているのは、むしろそこでは当たり前すぎて目立たないからか?
2007年09月21日
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You-Tubeというのを知ったのは昨年の夏だったが、これはなかなか楽しめる。 というわけで今回は僕の好きな、あるいはよく聞いた馴染みのドイツの楽曲をユーチューブで見つけて貼り付ける、というだけの日記。 残念ながら楽天広場ではEmbed(記事への貼り込み)が出来ないのでリンクを貼るしか出来ない(やっぱダメだな)。 クリックすると音楽が流れるので音量に注意。 Dschingis Khan/Dschingis Khan この曲はそれこそ大昔に聞いたことがあったが、恥ずかしながらこのグループがドイツ人だと知ったのは21世紀になってからである。ビデオの最後のほうに出てくるのはファンレターの送り先だろうか。女性の化粧や東西統一前の郵便番号表示に時代を感じる。朝6時の放映みたいだけど、こんなの朝っぱらから聞いたらテンション上がるだろうな。 パフォーマンスは日本で言うと米米クラブとかに近いのだろうか?ロシアとかモンゴルを意識した曲に特化しているが。Nena /99 Luftballons クラシックを除けば、僕が「ドイツの曲」と知って聞いた最初の曲(聞いたのは英語版だろうけど)。Nenaの化粧に時代を感じるが、今でも名曲ですな。Alphaville - Big In Japan この曲は知らなかったのだが、ドイツに行ってからドイツ人に「お前日本人なのに知らないのか」と言われた。知るかっつーの。 歌は英語だがドイツのグループ。世界的に結構流行ったらしい。ビデオはもろにゲイシャのイメージか。Herbert Grönemeyer/Halt mich グレーネマイヤーの曲はどれも好きで、特に「Bochum」が好きだが、適当な映像が見つからなかった。そこで1988年のこの曲。 誰この人?という方も、映画「Uボート」で主役のヴェルナー少尉を演じた人といえば、あああの人、と思うかもしれない。あと昨年のワールドカップ・ドイツ大会のテーマ曲(「Zeit,dass sich was dreht」)を歌ってましたね。息の長い歌手。Xavier Naidoo - Sie Sieht Mich Nicht 「Söhne Mannheim」というグループの一員として活動する一方、ソロとしても活躍している歌手。バラードものが上手い。風貌や名前からしてアフリカ系のようだ。 この曲はフランス映画「Asterix」(原作は漫画なので実写版)のドイツ版テーマ曲だったので、映画の場面がビデオにも使われている。元はコメディ漫画なんだけど、妙にしみじみしたテーマ曲である。Die Prinzen - Deutschland 「ドイツらしいもの」を歌った2001年の曲。さわりの歌詞を聞くと「ドイツ万歳」という右翼的な曲に聞こえるが、よくよく聞くと実はそうした風潮を皮肉っっている。 好悪は分かれるところらしい。Die Toten Hosen - Bayern 僕はあまり聞かないのだが、Die Ärzteと並んでドイツで一番人気のロックバンドではないだろうか。Die Ärzteはポップス調だが、Die Toten Hosenは正調ロック。 サッカー・ブンデススリーガのバイエルン・ミュンヘン(日本のプロ野球で言うと読売ジャイアンツ)への反感を歌った曲。Gerd Show - Gerhard Schröder - Der Steuersong 2002年、シュレーダー政権(当時)の「痛みを伴う改革」であるアゲンダ2010を茶化したテレビ番組から生まれた「税金ソング」。その年の大ヒットになった。こういう曲は日本にないですよね(「市民団体」が作ってるかもしれませんが)。 歌っているのはシュレーダー首相の物真似で首相本人ではない(当たり前か)。元歌はスペインの女性三人組「ロス・ケチャップ」の「アセレへ」。Rammstein - Amerika いかにもドイツ人という発音と、いかつい曲が特徴的なラムシュタイン。 曲風はずいぶん違うけど、一昔前のファルコ(「ロック・ミー・アマデウス」など。オーストリア人)に通じるものがあるか。右翼的という批判もあるそうだ。Wir sind Helden - Nur ein Wort 2001年に結成されたバンド。軽快なリズムがいいですな。曲や声質は違うけどMy Little Loverとかドリカム系?(最近の日本の歌謡曲を全然知らないので喩えが古いです)Wir sind Helden - Von hier an blind( Japanese ) 上のバンドが世界戦略のために、ドイツ語のオリジナル曲を日本語訳で挑戦した曲。ちょっと微妙。売れたのかな?Juli-Perfekte Welle 2005年夏のヒット曲。分かりやすい旋律でいいですな。Silbermond - Das Beste ハイデルベルクにいるThucydidesさんお奨めの曲。このバンドは旧東ドイツ出身だそうだ。 上のJuliになんとなく感じが似ているように思うのだが。Tokio Hotel - Durch Den Monsun 僕は決して好きではないのだが、10代の若者に異常に人気があって一種の社会現象にもなっているバンド。ドイツの人気バンドとしては例外的にメンバー全員がまだ10代で、もうすぐ兵役なのでどうするのか注目されているようだ。 日本でいう「ヴィジュアル系バンド」になるのだろうか。ドイツでも「visual-kei」というジャンルで日本のその手のバンドが人気らしいんだが、よく知らない。Heino - Die Schwarze Barbara うーん、曲は民謡風だから日本でいうと演歌のジャンルになるんだろうか。やはり中年以上向きで、学生でこれを聞いてるとバカにされるだろうなあ。こういうのをキッチュというのだろう。 声は佐々木功に似てなかなか渋いと思うんですが。Udo Jürgens - Griechischer Wein ジャンルとしては上のハイノに近く、「歌謡界の大御所」。 この曲は1975年の作で、ドイツに出稼ぎに来た孤独なギリシャ人労働者の心情を歌っている。ドイツ語の教科書にも出ていることがある(僕はそれで知った)。
2007年05月06日
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ロシアのボリス・エリツィン前大統領が76歳で死去。 「ソヴィエト連邦に止めを刺した男」だったが、新生ロシアの大統領としては正直無能の烙印を押されても仕方なかったのではないかと思う。まああまりにソ連時代のツケが重すぎてどうしようもなかったのだともは思うが。今のロシアの強気振りを見るとあの頃はロシアにとって最悪の時代だったのかと思える。 やめ方もなんか唐突だったが(むろん健康面が一番大きかったのだが)、後継に指名したプーチン首相が国内政治家の悪事も調べるFSB(旧KGB)の出身だったということ、プーチンが就任して最初に出した大統領令がエリツィン前大統領の不逮捕特権だった、というのは気になるところ(エリツィン自身は金に綺麗であることを人生の教訓にしていたそうだが、周りがねえ・・・)。 しかし人間の人生にはいくつか切所というものがあるもので、彼の場合は1991年8月の共産党保守派によるクーデタのときに戦車の上に上って市民に抵抗を呼びかけたことがそれだったのだろう。歴史に名を残したことは間違いない。 あと昨日のことだが、アメリカのジャーナリスト、デヴィッド・ハルバースタムが73歳で交通事故死した。ヴェトナム戦争報道で頭角を現し、メディア論からマイケル・ジョーダンまで幅広いルポで著名な人だった。語り口は劇的で、同じくヴェトナム戦争報道で注目されたボブ・ウッドワードが淡々とした語り口だったのとは対照的だったという。いわば現代アメリカのヘロドトスとトゥキディデスだろうか。 彼は30歳でピュリッツァー賞を受賞しているのだが、実はエリツィン大統領もこの賞とは縁があって、1997年に彼がノリノリで舞台の上でバンドと一緒に踊っている写真が受賞している。ハルバースタムはケネディやニクソンといったテレビ出現期の大統領たちを見つめ続けたが、あの酔っ払いエリツィンの映像を見ていると、エリツィンもまたメディア時代の大統領だったなあと思う。 歴史を作る人、伝える人、どちらも偉大である。・・・・・・・・・・・ ようやく本題。 旧東ドイツ、ドイツの首都ベルリンの近郊にオラニエンブルクという人口4万人の小さな町がある。旧東ドイツは東西ドイツの統一後経済不振が続き、人口の流出が続いているが、それはここでも例外ではない。ドイツ政府は巨額の投資を旧東ドイツにしているが、お役人の思惑通りに進まないのは日本もドイツも同じである。 そこでオラニエンブルク市では一発逆転の経済振興策を考えた。経済成長著しい中国に目をつけたのである。郊外には1992年までソ連軍が駐留し使用していた飛行場跡地があって今は全くの廃墟というか荒地になっているのだが、そこに5億ユーロもの巨費を投じて「チャイナタウン」を建設しようと計画している。 その面積は80ヘクタールにも及び、驚きなのは広さだけではなく、建物の外観を唐代(618~907年)の様式で統一し、いわば「ミニ長安」をこのブランデンブルクの荒野に建設しようというのである。敷地内には商業地区だけでなく居住区を設け、2000人が住むことが出来る。建設は2008年着工の予定で、完成の暁には中国から企業を誘致→中国人が多く定住→景気回復→雇用創出→ドイツ人も集まる→めでたしめでたし、となるのだという。将来的にはこの「ミニ長安」にはドイツ人と中国人が半々くらいつつ住むことを想定しているそうだ。 インタビューを見たが、地元住民には寝耳に水だったらしく、「中国人って、連中はイヌとかネコ食べるんだよね?」と先入観(だよね?)丸出しのおじさんとかもいる。まあ景気が良くなるんならいいんじゃない?ということらしい。ただ専門家には「ドイツ人はこうした郊外の大規模な計画都市に住むことに慣れておらず好まないのではないか」と、中国人はともかくドイツ人の誘致については失敗を危惧する声もあるという。 ・・・・とまあこのニュースを読んだとき、折りしも七詩さんの日記で、先日ミラノ(イタリア)で中国人が暴動、というのを見かけた。 ちょっと耳にしてはいたがなかなか凄いものだったらしく、そもそもはチャイナタウンで駐車違反の取締りをしたイタリアの婦人警官と中国人移民の女性が喧嘩になり、それがエスカレートしてついには中国人1000人と警察官数百人がにらみ合い、中国人が五星紅旗を打ち振って車をひっくり返したり激突する騒ぎになったという。駐伊中国大使は「中国人はこの数ヶ月間圧迫を受けていた。このような調子ではイタリアへの中国の投資に悪影響を及ぼす」と、暴動を擁護するどころか脅しとも取れる発言をしたと伝えられる。横浜や神戸の中華街からは想像の出来ない事件である。 僕はドイツで「チャイナタウン」といえるような地区をついぞ見たことがない。もちろん中華料理の看板を掲げる店のない町はいかなる規模であろうと無いといってよいし、駅前とか低所得層居住地域で中華料理店(実は中国系のヴェトナム人やタイ人がやっていたりするのだが)や用品店を見ることはあるが、集中している場所は知らない。まあフランクフルト駅前のカイザー通りとかベルリンの一地区とかでは確かに中国人の多い地区はあるが、先来のトルコ人やインド人、ヴェトナム人と混住している様子である(「トルコ人地区」がある都市は確かにある)。 ドイツはEUで最初に中国人に対して観光ヴィザを解禁しただけに、中国誘致には一番熱心なように思えるのだが、中国人のほうはドイツよりもむしろイギリス(間違いなく西欧で一番入国審査が厳しい)とかのほうに魅力を感じるらしく、ここ数年で日本人よりも多くなった中国人観光客や留学生を除くと、さほど「多い」という実感はなかった。チャイナタウン計画が今までなかったのもむしろ当然かもしれない。 まあ生臭い話はいいとして、僕が気になったのはこの都市計画のほうである。完成予想図を見ると確かに長安っぽい(大きさは唐代長安の100分の1だが)。ただ中国の都市では斜交する街路はないだろうし(これはむしろヨーロッパ庭園を連想させる)、コロッセウムみたいなのがあるのはご愛嬌である(ショッピングモールだろうか?)。見ようによってはローマ都市にも見えるが、それはそのはず、長安もローマ都市もグリッド・プラン(条坊制)という、街路が碁盤の目状に交差する都市計画が特徴である。ローマ都市といってもここでは属州の植民都市のことだが。 新たに征服した地に人工的に都市を建設する(つまり自然に人が集まって都市が出来るのではなく、為政者の都合で計画的に都市を作る)場合、こうしたグリッド・プランが採用されることが多い。それは区画のための測量がしやすいこと、住民の管理がしやすいことなどが挙げられる。こうしたグリッド・プランの代表的なものが長安やローマの植民都市であるが、長安は鮮卑系征服王朝の末裔である唐王朝が建設したものであることは重視されて良い。中国にこうしたグリッド・プランの都市計画が出現したのは唐よりもやや前の北魏時代の洛陽であるが、北魏もいうまでもなく鮮卑系征服王朝である。 中世ヨーロッパではこうしたグリッド・プラン都市は多くなく、上のドイツ人の専門家が述べているように、ヨーロッパ人は自然に膨張する都市居住区に住むことが好きらしく、中世ヨーロッパ都市は無秩序?な街路が多い。だだドイツのこの地域(東ドイツ)にもこうしたグリッド・プランの都市が集中的に建設された時代があったのだが、それはドイツ人が東方に植民した12世紀である。例えばクラカウ(現ポーランドのクラクフ市)などがそうである。 実はこの「ミニ長安」が建設されるオラニエンブルクは元々ベッツォウというスラヴ人の集落だったのだが、ドイツ人が入植して1216年の記録に初見され、1236年に都市権を得たという。それが今度は中国人を呼ぶというのも歴史の皮肉というべきか。 このオラニエンブルク市、調べるとなかなか面白い。 オラニエンブルクというのは1652年にこの地にブランデンブルク選帝侯(のちのプロイセン王、ドイツ皇帝の家系)の離宮が建設されたことに因む地名で、その宮殿を建てた侯妃ルイーズ・アンリエットがオランダのオラニエ家出身だったことによる。彼女は当時ヨーロッパで生産できないため「白い黄金」と呼ばれ珍重された中国や日本の磁器をコレクションして、1663年にそれ並べて展示した小部屋を作った。これはのちにヨーロッパ各地の王侯貴族によって競って作られるPorzelankammerの先駆けとなるものだった。なるほど、この町は中国と縁が無い訳ではない。 この町の歴史は華麗なものばかりではない。ナチスが政権を獲得した1933年、早くもこの町にビール工場跡地を改造した政治犯収容所が作られた。1936年にはこの町の郊外にザクセンハウゼン強制収容所が建設され、ソ連軍によって「解放」される1945年4月までに10万人がこの収容所で殺害された。なおこの町には航空機のハインケル社の工場があり、東欧などから連れて来られた捕虜などが強制労働させられ、連合軍の爆撃も受けている。・・・・・もしかして郊外の「ミニ長安」計画は中国人移民が勝手にあちこち住まないようにするための深謀遠慮だったりし・・・もごもご。 その後この町の郊外にはソ連軍が駐留し、ソ連が崩壊してエリツィン政権となった1992年まで郊外の飛行場に駐留していたのは上述の通り。果たしてその跡地に出来る「ミニ長安」に住む中国人たちは、フン族(鮮卑にモンゴル高原を追われ、ドイツにまで西遷したという)、鮮卑あるいはソ連のような「征服王朝」になることが出来るかどうか。あ、これ冗談ですよ。
2007年04月25日
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「自分たちがよその国民にどういう風に見られているか?」ということを気にする国民は、世界で日本人とドイツ人を措いてないのではないかと思う。 まあこれは実は単に僕が日本とドイツにしか住んだことが無いので他の国のことを良く知らないことのほうが大きいのかもしれないが、そういうテーマの記事が雑誌や新聞の紙面を飾ることは他の国でもあるんだろうか。日本の場合だとこれが「日本人はこんな風に見られている」といった何かに対する批判の根拠に使われたりするわけだが、後発の帝国主義的国民国家として台頭したドイツと日本にはこうした自意識過剰なところがあるのは事実ではないかと思う。 まあ同じような歴史的背景をもつイタリアが「自分たちは外国人にこんな風に見られている、恥ずかしい!!」などとしおらしく省みるとも思えないので(トルコ人にも無いだろう。韓国人にはあるかな)、こうした歴史的説明は無意味かもしれないが、トーマス・マンなどは講演「ドイツとドイツ人」の中で、世界に目を向けるドイツ人と内向きで怖がりのドイツ人というドイツ人の互いに相反する二大特徴を指摘しているので、少なくともこうした「外の目を気にする」特性があるというのはあながち的外れでもあるまい。 という長い前置きは措いて、「シュピーゲル」に出ていた、ドイツ人にとってはいささか自嘲的というか自虐的なこの記事。昨年はサッカーのワールドカップがドイツで開催され、実に空前の5200万もの人がドイツを訪問(宿泊)した。内訳はオランダ17%、アメリカ9%、イギリス9%、スイス7%、イタリア5%となる。フランスが上位に入っていないのはやはり隣国で日帰りできるからだろうか(でもオランダはそれじゃ説明がつかないな)。 ドイツ人はこの大会で、自分たちの意外なノリの良さや意外な愛国心の強さ(国旗を掲げ、勝利のパレードでうち振る)を発見し、かつ外国人に新たなドイツ人像を見せられたと思っていたようなのだが、果たしてどうだったのか。この記事では外国の記者によるドイツ旅行記の中でも、「ココがヘンだよドイツ人」と言わんばかりの記事を選りすぐって紹介してある。 ここに描かれるドイツ人像を見て、ドイツを知る人、あるいは「高尚なクラシック音楽や哲学、ベンツやアウディ、ソーセージとビールの国」という先入観をもつ人はどう感じるだろうか。・・・・・・・・「ジ・オーストラリアン」紙、コリン・ボウルズ記者 ドレスデンはザクセン州の州都であり、そこはザクセン人で一杯である。ザクセン人とは気難しくユーモアに欠け、単調な人々ある。それは食事にも現れていて、彼らにとって食事とは(それで生存できるというのが信じがたいが)常にソーセージであり、キャベツ、パン、ジャガイモ或いはアイスクリームといった付け合せが替わるだけである。 「イギリス人は誠実であろうとするあまり過度に友好的になるが、ドイツ人は友好的であろうとするあまり過度に誠実になる」といわれるが、ドレスデンはそれを証明している。 スーパーマーケットのレジの女性はかつてシュタージ(旧東ドイツの治安警察)の教育を受けたように見える。買ったものを包め?自分でなさい。ビニールの買い物袋は20セントですよ、この環境破壊者。スマイル?いえ結構。そんなの素人のすることです。非難がましい額の皺は、ここでは芸術様式である。ドレスデンに行く際は、非寛容な眼差しに備えておくことです。あなたはガイジンでよそ者であり、あなたが完璧なドイツ語を話すとしても、あなたのアクセントで見つけ出すことだろう。(訳注・ザクセンは訛りのきついことで有名なので、これはザクセンへの皮肉とも取れる)・「ガーディアン」紙、ルーク・ハーディング記者 バスの我々の席の一列前に老女が座っていた。私たちの子供が歌いだすと、数秒もすると彼女は爆発した。「恥知らず、自分の子供も静かにさせられないの?」と文句をいい、バスの中を見回した。 翌週、さらに不愉快な老婦人方と遭遇した。最初の婦人は私の息子が子供席からはみ出したことを生命に関わる危険であるかのように文句をいい、二番目は彼がポテトチップスを食べようとすること、三番目は彼がコートを羽織っていないことをそれぞれ「それは不健康よ」と非難するのだった。 ドイツは老人による老人のための統治が行われており、時に若者に対して非寛容である。イギリスの老人と異なり老人は政治の世界で重要な役を演じ(訳注・日本よりはましだと思うが)、改革を妨げてヨーロッパ一高額の年金を享受する。彼らは独自の政党「灰色のヒョウ」を持つ。 自転車で仕事に向かっているとき、豪華な棺を売っている、高貴に飾られた新しい葬儀社が出来ているのに気がついた。そこにはかつて子供服の店があった。欧州最大の国の人口動態を示す見事なメタファーといえる。この高齢化社会に唯一いい点があるとすれば、子供たちが公園でシーソーの順番を待たなくてもよいことだろうか。・「グローブ・アンド・メイル」紙、サラー・ハンプソン記者 休暇に子供たちに何か教訓的な経験をさせたいのなら、アルプスの温泉宿にいる裸のドイツ人が良いだろう。それは我が息子たちとのオーストリアやスイスでの休暇での予期せぬ一部である。 私たちは日がな浴槽の横に座っていた。家族で一緒に食事したりスキーしたりするが、我々アメリカ人にとってそれは人に裸を見せるということではなく、いつも水着を着用している。 そこに70がらみのドイツの老婦人が入ってきた。彼女は優雅に浴槽に入ろうとして、その身体を隠していたただ一枚のタオルが落ちてしまい、少し呆気にとられたふうで私たちの目の前に全裸で立った。彼女は笑ったが、息子たちは驚いて彼女を見てから目をそむけた。残りの人たちはあたかも午後の紅茶に誘われでもしたかのように微笑み返した。(訳注・ドイツ人は人前で裸になるのが割合平気であるらしいことは僕も見聞きしている)・「ニューヨーク・タイムズ」紙、アリック・チェン記者 シュツットガルト空港で私の乗ったタクシーの運転手はインドから来た中年男性で、一秒たりとも無駄にしようとしなかった。彼のシトロエンは時速140km以上でアウディ、BMW,そして数多くのベンツの間をすり抜けた。 「シュツットガルトは初めて?」と彼が問うので「ええ」と答えてスピード計を見ると、針は時速160kmを指してそれより下がることが無かった。速度制限が無い伝説的なドイツのアウトバーンを走ったときどうなるかを私は想像した。つまりそのとき私たちは高速道路を走っていた訳ではないのである。・「ジ・オーストラリアン」紙、コリン・ボウルズ記者 夢の鉄道は清潔で速く能率的だった。「2001年宇宙の旅」のコンピューターHALを思い出させる車内放送は、駅に止まるたびにこうアナウンスする:「衛生学博物館!」 ドレスデン市民の環境保護意識は高く、そのあまりゴミまでも捜査する。ある日の夕方ノックがするので私の下宿主の女性がドアを開けると、痩せて青いつなぎを着たアパートの管理人が立っている。苦虫を噛んだような表情で、手でガラス瓶を振りながら彼は言った。「奥さん」と言って彼はその空き瓶を彼女の顔の前に突き出した。「何やってんですか。捨てるゴミ箱間違ってましたよ。古紙用のゴミ箱にですよ!」 翌日の夜、私はまんじりともせずに国家ゴミ警察がドアをノックしないか待っていた。再生素材で作ったゴムの警棒を手に、私たちを地下室に連行して聴取しないかと。 ドイツ国鉄のホームにあるゴミ箱は4つに分かれている。包装用プラスチック、紙、ガラスそしてその他である。アイスキャンディの包み紙を手に、私はこれを紙かそれとも包装紙のどちらに捨てるべきか迷っていた。私はこの忌々しいものを捨てたいだけなのに、私はこの不寛容な都市に対する決断でパニックに陥っていた。もし間違ったゴミ穴に放り込もうものなら、耳をつんざく警告音が鳴って駅が厳戒態勢になり、再生素材を使った防弾チョッキを着た秘密ゴミ警察が突入してくるかもしれない。連中は私を市庁舎に連行して聴取し、もしかしたらポーランドに送ってしまうかもしれないのだ。(訳注・いうまでもなくポーランドにはアウシュヴィッツ絶滅収容所がある)・・・・・・・・ 僕はドイツ生活でさほど違和感を感じたことはないのだが(お役所やいろいろな受付の愛想の悪さは感じるけど)、こうした記事を嬉々として紹介する辺りもドイツ人に近いところがあるのかもしれない。 それにしてもボウルズ記者はドレスデンでよほど嫌な思いをしたのだろうか。いくら冗談にしてもこの悪意に満ちた書き方は尋常ではない。
2007年03月19日
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昨年日本ではクマやイノシシ出没や被害のニュースが相次いだが、ドイツでもある動物の被害が深刻になっているらしい。そんなニュースの紹介。 昨年の夏だったか、マールブルク大学の学食の前を流れているラーン川(幅20mくらい?)に掛かる橋を渡っていると、川岸に何やら獣がいるのを見つけた。結構大きくて、頭を川のほうに向けていて尻尾も藪に隠れており、胴体しか見えなかった。 この川にガチョウやカモが住んでいるのは知っているが、獣がいるのはじめて見た。よく犬を遊ばせて泳がせている人が居るが、この獣はどう見ても犬ではない。茶色っぽくて丸っこい体をしている。全体にぬるっとした感じがしたのでカワウソかイタチの類かと思った。 僕の故郷にはヌートリアという野生化した獣が田んぼとかに住んでいて(うちの近所に田んぼはありませんが)、そいつを捕まえて売ると毛皮が一万円くらいになるというので小遣い欲しさの高校生とかが探しているという話を聞いたことがあった。その噂を教えてくれた友達(彼は田舎の高校に通っていた)は間違えて「ヌートラス」と言っていたので一瞬変な怪獣を連想したものだった。ヌートリアは無論日本の在来種ではなく、元々南米原産のものがフランス経由で毛皮目的で輸入され、養殖されていたものが逃げ出して野生化したのである。 それはともかく、そのときは川辺のその獣をじっくり見ることも無かったのでヌートリアだろうと思って通り過ぎたのだが、その後しばらくして新聞(フランクフルター・ルントシャウ)を読んでいると、地元ニュース欄に「アライグマ出現」のニュースが報じられていた。またハノーファーの博物館に行ったときにアライグマの剥製を見て、こいつがドイツで野生化していることが解説されていた。 ドイツ人の友達に「川辺で変な動物を見た」と言うと、「そりゃーアライグマだよ」と言われた。あの時見たのは形状や色からしてアライグマではなくヌートリアだと思うが。 そこで冒頭のニュースだが、ドイツ、特に東部のブランデンブルク州でアライグマが猛烈に増えているという。東西ドイツが統一された頃の15年前はまだ珍しい動物だったのに、同州では昨年の1シーズンで5712頭のアライグマを射殺したという。5年前は1シーズンで1265頭だったのと比べると大幅な増加である。ドイツ全体では昨年一年で3万頭が「駆除」されたが、これは6年前の3倍になるという。 「あんな愛らしい動物を駆除なんて」と思うむきもあるだろうが、アライグマというのはむしろ害獣に属するという。雑食性で鳥や動物から畑の作物(トウモロコシが好物らしい)から貪欲に何でも食べる。しかもきわめて頭が良く、閂程度の仕掛けならすぐに覚えて開けてしまうほどだという。体長が50cmにもなるので力も強い。アニメで有名な「あらいぐまラスカル」の「ラスカル」というのは「やんちゃ坊主」という意味だそうだが、そういえばいがらしみきおの漫画「ぼのぼの」でもアライグマはいじめっ子として登場する。 アライグマの増加によって、この未知の利口な動物への対処法を知らない他の動物(特に鳥類)が危機にさらされているが、逆にドイツのアライグマには天敵が居ない。原産地の北米ではピューマが天敵だったが、ドイツに住んでいる数少ないクマやオオカミはこの新参者を食べようとはしないそうだ。まさに我が物顔で増え続けている訳である。またアライグマが問題なのは畑を荒らし他の動物への脅威になるというだけではなく、狂犬病などの伝染病やさまざまな寄生虫(回虫など)の運び屋にもなるということもある。 アライグマはナチス政権下の1934年に毛皮(軍用外套などに使用)目的でドイツに輸入され養殖されていたが(最初はヘッセン州カッセル近郊のエーダー湖に放された)、逃げ出したものが野生化した。エーダー湖のダムは1943年にイギリス空軍の爆撃で破壊され、その結果起きた洪水でドイツ人数十人と強制労働に従事していたウクライナ人捕虜700余人が溺死したというが、その時にアライグマも逃げ出したのだろうか。またブランデンブルクでも、シュトラウスベルク近郊のアライグマ養殖場が爆撃を受けて逃げ出したらしい。ドイツ全体で1956年に285匹だったものが1970年に2万匹に増加、現在は数十万匹に上ると見られる。 最近はドイツ全土で、夜間に道路を歩いたり民家の屋根に上ったり、ゴミ捨て場を荒らしたりする姿が都市部でも見かけられるようになっているそうだ。 ちょっと気になったので「ウィキペディア」を見ると、なんとアライグマは日本でも野生化と急激な増加が問題になっていると知り驚いた。既に40都道府県に分布しているといい、対策・駆除が問題になっているが、動物愛護団体の反対圧力を受けているという(本来いないはずのアライグマに食われる動物は可哀想ではないんだろうか?)。日本に居ても、タヌキと見間違えてアライグマと気付かないことがあるそうだが。 もっと驚きがアライグマが日本に広まった理由だが、やはりアニメの影響でアライグマをペットとして飼う事が流行った結果、野生化するものが多くなったという(最初の野外繁殖は岐阜の動物園から脱走したアライグマだそうだが)。「ラスカル」の話って、大きくなったアライグマが手に負えなくなって森に放すって話だったよな。飼いたくなるもんかねえ。実際のところ臆病な割に凶暴で、あまりペット向きではないようだ。 アライグマの原産地は上述のようにメキシコからカナダ南部にかけての北米大陸全域だが、毛皮目的で各地に輸出され養殖された結果、現在はドイツ全土やフランス北部、ベラルーシ、コーカサス諸国などに拡散している。本家のアメリカでは乱獲や生息域減少のためむしろ減少しているというから皮肉なものだ。(↓アライグマ帽がトレードマークのデイヴィ・クロケットが主人公の西部劇映画「アラモ」) アライグマは手でカニを捕らえる利口な動物ということで、インディアンの神話によく登場するそうで、英語名のRaccoonは、カナダ辺りに居たアルゴンキン族のアライグマの名称Ahrah-koon-em(手で引っ掻く者)が訛ったものだそうだ。ドイツ語では「アライグマ」そのままの「Waschbär」、中国語では「浣熊」とのこと。 ちなみに、野生のアライグマ(食肉目イヌ亜目アライグマ科)は名前の由来となった「洗い」をしないんだそうである。僕が川辺で見たのはやはりアライグマではなくヌートリアだったようだ。ビーバーではなさそうだし。 ヌートリア(ドイツ語ではBiberratte)は川辺に巣穴を作って住んでいる。連中も田んぼの畦(ドイツには無いが)を壊したりする害獣だそうだ。アライグマもビーバー(カナダビーバーがフィンランドやオーストリアに放流された)もヌートリアも、人間の都合(毛皮採取)であちこちに連れて行かれ、増えてしまった今は害獣で駆除対象だから哀れといえば哀れである。
2007年03月08日
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「女性を産む機械に喩えるなら・・・・」という柳沢伯夫・厚生労働大臣の講演での発言に始まった騒動はほぼ収束しているように見える。 僕にはなんだかマスコミによるミスリード、民主党などの野党(特に少子化問題を真剣に考えているとも思えない女性議員)による悪ノリ、シラを切り通す自民党の織りなすバカ騒ぎくらいにしか見えなかったので(まあ大臣の発言が不適切だったというのは謂うを俟たないが)、特に日記に書くこともしなかった。この件はドイツなど海外メディアにもかなり早くに配信されたのだが、後追い記事は出なかったみたいだし。 少子化問題を抱えているのはドイツも同じで、一人当たり出生率(女性が一生に産む子供の数)は1.3と日本と大差ない。僕の知ってる連中を見回しても、子無しが多いもんな(学生が多いというのも大きいが)。 移民の導入無しで現在の人口規模(8000万人)を維持するには出生率2.1が理想的だが、現実には増え続ける移民とその二世・三世に対し、出生率は1970年代半ばから1.5を切り続けている(22世紀には「ドイツ人」は絶滅する、などと扇動的なタイトルの記事が雑誌に載ることもあった)。ドイツはそれでもEU25ヶ国の中では中くらいで、ドイツより下の国が10もある。 ドイツで日本の柳沢厚労相にあたるのはウルズラ・フォン・デア・ライエン家族・老人・婦人・青年大臣である。2005年のメルケル政権(キリスト教民主同盟=CDU)成立と共にこのポストに就任した彼女は今年49歳、医学博士と公共衛生学修士の学位をもち(夫は大学教授の医師)、七人の子供の母親でもある「スーパーママ」である。 国会(連邦議会)議席を持たないにも関わらず、ニーダーザクセン州家族相から連邦家族相に抜擢され、また保守系政党であるCDUの家族政策委員長を務めたくらいだから、子持ちのキャリアウーマンという経歴や女性であるというだけでこのポストに就いた人ではない(まあ父親が元ニーダーザクセン州首相とCDU有力者だった事は、この異例の出世に関係あるかもしれない)。数字弄りが専門の元大蔵官僚で老人の柳沢大臣とも、そして彼をヒステリックに責め立てた「女性を代表する」と自称する女性国会議員の皆様とも、対極にあると思う。 彼女は少子化対策にも意欲的に取り組み、今年一月から親の収入に応じた養育手当支給制度を導入するなどの成果を挙げつつある。この制度では、出生前12ヶ月の親の収入(上限2700ユーロ)の三分の二(最大で月額1800ユーロ)にあたる金額が生後12ヶ月間支給される。 ところが彼女が次々打ち出す政策が、今月に入って与党CDUや連立相手のSPD(社会民主党)から激しい批判にさらされている。まず槍玉にあがったのは、全ての子供に義務教育開始前の教育(つまり幼稚園への通園)を義務付ける案で、その財源はどうするんだという批判がSPDから起こった。 ついで、働く女性支援のため託児所を2013年までに現在の三倍の75万箇所に増やす、という案が批判されている。これが実現すれば子供の3分の1以上は託児所で昼間を過ごすことになり、また30億ユーロの費用がかかる。 これに最初に噛み付いたのはCDUの姉妹政党でより保守色の強いCSU(キリスト教社会同盟=バイエルン州のみ)で、「この政策は以前のSPDや緑の党政権と変わらず、伝統的な家族観維持を主張するCDUに相応しくなく、保守層(敬虔なキリスト教徒)の支持を失わせる」と危惧している(これはあまりに党利党略にこだわっているように聞こえる)。また「男性優位の時代は終わった」というフォン・デア・ライエン大臣の発言を「男性を不当に邪魔者扱いする言い草」と批判する声もある。 さらに噛み付いたのがカトリック教会のヴァルター・ミクサ・アウグスブルク司教だった(記事)。司教はフォン・デア・ライエン大臣のプランを「女性を労働力予備軍として家庭と労働の両立に一方的に駆り立て、家庭や子供に悪影響を与えかねない」と厳しく批判した。財政難を理由に他の保障を削減する一方で託児所を増やすというのは旧東ドイツ時代の国家による育児(=国家による生産力管理や女性の労働動員)の思想と同根のものだと断じ、「これは女性を「子供を産む機械(Gebärmaschine)」と看做しているのと変わらない。国家は女性が家庭で乳幼児の育児に専念できる環境を作ることに努力すべきである」としている。また現在の「キリスト教」民主・社会同盟政権の政策が、社会主義的なSPD・緑の党連立政権の頃と変わらない、と苦言を呈した。 医師としてのキャリアを持ちながら七人の子供の母親であるフォン・デア・ライエン大臣らしい施策といえるが(彼女の家庭は裕福なのでベビーシッターなどを雇うのも苦ではなかったろうが)、子供は家庭で母親に育てられるべき、という伝統的価値観からは反発が大きいことも理解できる。また「産めよ増やせよ働けよ」という全体主義(ナチスや共産主義)的な匂いを感じてしまうのも、ドイツ現代史に鑑みれば分からないでもない。旧東ドイツでは働こうとしない者を労働収容所に入れて強制労働させ、また女性のためというより労働動員のため託児所を整備し、それをもって「東ドイツは女性問題・失業問題を完全克服した」と高らかに宣言していたのだから。 ただやはり女性であるメルケル首相(旧東ドイツ出身・子供はなし)は大臣の政策を支持しており、また与野党にもこの案を支持する声は多い。幼稚園の不足が叫ばれているのもまた事実である。一番可笑しかったのは旧東ドイツ共産党の流れを汲む左派党・民主社会党のグレゴール・ギュジ幹事長の発言で、「フォン・デア・ライエン大臣の政策は、旧東ドイツでは既に先取りして実現されていた。不当に貶められている東ドイツの政策を引き継ぐことへの忌避感が今のドイツには充満している」としている。(追記) この司教の発言の直後から、「『女は子供のために家に居ろ』というのか」「託児施設の不備により子供を抱えて苦労している親の現状に対し、あまりに無知で無神経な発言」と、司教の発言に反発する声が各政党のみならず教会内部からも上がっている。SPDには司教の辞任を求める声も出ているようだ。 どこでも突飛な言葉(喩え)は騒ぎを大きくするものらしい。・・・・・・・・・ この話題と併記するのが適当か分からないけど、アメリカとイギリスの研究チームは「武器を発明したのは女性であろう」とする調査結果を「カレント・バイオロジー」誌三月号に発表するそうだ。 セネガルのチンパンジーを観察していた同チームは、オスが腕力に頼るのに対し、筋力で劣るメスはオスとの競合上、先を尖らせた棒切れなどを武器として使用し狩猟することを発見した。同じような環境に住んでいた人類の祖先にも同様のことが起きた可能性があるという。「チンパンジーが道具を使うというのも驚きだったが、オスに筋力で劣るメスは、問題を解決するために創造力で優位に立たねばならなかったのだろう」とは、同チームのアイオワ州立大学ジル・プルーズ教授(女性)の弁。
2007年02月22日
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管理画面は多少ましになったようだ。 割合対応が早かったし、うーん、これなら引越ししなくてもいいかな?スパム対策をもう少しなんとかして欲しいけど(うちには来ないけど、他所を見てると管理画面変更後スパムの嵐がまたひどくなっているように見える)。・・・・・・・・・・ 今日はドイツのニュース雑記。 まず目に付いたニュース。ほぼおなじ内容の記事を何日か前に(ドイツの)ヤフーで見たが。要約するとこんな感じ。・日本の学校は伝統的に規律と激しい競争が支配していたが、最近(2002年以降)崩壊しつつある・そのため保守与党の日本政府(安倍首相)が学校での「軽い体罰」の許可を計画(安倍首相の諮問機関が提案)。棒などを使ったきつい体罰禁止は継続。教師の労働組合もこれに賛成。・授業量が一割増しされる・先月には学校での愛国心教育を義務付ける法律が制定された・安倍の政策は過去の左翼の影響からの脱却を目指すものだが、驚くべきことに左翼的な教師の労働組合も体罰許可を支持・最近いじめによる生徒の自殺や、受験のため規定の過程を多くの学校が無視したことが問題になっている うーん、先日の「憲法改正に意欲」のニュースもそうだったが、あまり安倍首相のイメージは良くなさそうな・・・。NATO本部を日本の首相として初訪問した訪欧(訪米より先!)のニュースも、ネット上では全然見なかったし。 ドイツ人のもつ「日本の教育」のイメージは、とにかく「ドリル(反復学習)と規律」だと思う(映画で言うと、日本人社員が皆でラジオ体操する「ガン・ホー」↓のイメージ)。ドイツの生徒が(北方先進国としては)惨めな成績に終わって騒ぎになったOECDによる学力一斉テストで日本はまあ上位にいるので(最近落ち気味ですが)、注目はされているようだ。決して真似したいとは思わないだろうけど。 ドイツの教育荒廃はおそらく日本の比じゃないと思うのだが。去年はベルリンでの校内暴力に警察が介入する事件や、元生徒による学校襲撃事件もあった。大学で学生と話していても、中学や高校時代の教師をバカにすること甚だしく、「恩師」への尊敬というものがまるで無い(「教師はアホがなるもの」と皆言っていた)。だから教師のなり手も少なく(待遇も悪いのかな?)、教師不足になっているそうだ。 まあドイツの場合は大学進学を前提とするギムナジウムと実業学校が12歳のときから分かれていて事実上階級が固定されているし、多民族化が進んでいるので(地域によってはトルコ語が出来ないと授業にならないらしい)、日本とは簡単に比較できないだろうけど。 ところで僕が「生徒」をやっていた頃には、教師が普段から竹刀を持ち歩いたり、全学年30分正座なんていう体罰はいくらでもあったと思うんだが、地方都市だったからかな?今回見直されるという「体罰禁止基準」が1948年制定というから、本当はずっと以前から体罰は禁止だったのか!・・・・・・・ 経済?ニュース。 ラウジッツ地方(ポーランドとの国境近く)でヨーロッパ最大規模の銅鉱が見つかったという。ポーランドからヘッセン(ドイツ中部)まで、地下1800mのところに150万トンの銅鉱脈が存在すると推測されるとのこと。 ドイツでの銅の採掘は長らく行われていないが(西では70年代、東では東西ドイツ統一後に整理)、不況にあえぐこの地域(旧東ドイツ・ブランデンブルク州)の経済振興にもなるだろうとのこと。ただし採掘には地下1000mの坑道建設など莫大な投資が必要で、この鉱石が市場に出回るのは早くても20年後のことという。何世代にもわたって遠くから長いトンネルを掘ったという「エジプトの墓泥棒」みたいな話だ(実際には王墓が完成した直後から、墓泥棒の被害は始まるのだが)。 中国の経済成長で建設ラッシュとなり、世界の銅価格は1トン1500ドルだったものが最近は5800ドルにまでなっているという。日本のあちこちで電線やら鉄板やらが盗まれているというニュースを目にするが、中国はそれほど金属に飢えているのか。 ちなみにロンドン金属取引所のページによれば、世界の銅生産の41%が南北アメリカ、31%がアジアからで、ヨーロッパは21%である。また使用用途は48%が建築用(何に使うんだ?)、17%が電気(電線など?)となっているようだ。 道具を青銅で作っていた時代に比べれば、用途も流通量も全然違うことだ。以前の日記にも書いたが、エジプト新王国時代には雄牛一頭(現在の価格だと平均40万円くらいか)が銅4.5kg、西周(紀元前9世紀)では奴隷五人が銅1.2kgと等価だったという。・・・・・・・・ ここ数日、禁固刑中のかつての極左過激派・ドイツ赤軍(RAF)のテロリストに対する恩赦をめぐるニュースが続いていて、来週の「シュピーゲル」誌の特集もそれのようだ。 ことのおこりはホルスト・ケーラー大統領が終身禁固刑(正確には禁固「終身の五倍+15年」)のクリスティアン・クラールに対する特赦を検討したことにある。RAFが1998年に解散宣言をしたこと、クラールが反省と改悛の弁を述べた上申書をヨハンネス・ラウ前大統領に送っていたことなどから、特赦されそうな見通しだという(というか、政治的に実権の無い大統領には、そんな権限があったのか)。クラールは1997年の州上級裁判所裁定に基づき、26年経つと連邦検察庁により仮出所が審査されるそうなのだが(ドイツには死刑がないので最高刑は終身禁固だが、実際は日本の無期懲役に近いのか)、クラールは本来2009年にその審査を迎えるはずだったのを前倒ししようというわけである。 ところがRAFによるテロの犠牲者や保守系の政治家などからは「暴力で民主主義を破壊しようとした者に特赦などありえない」「彼らに改悛などあるはずがない」と、反対の意見が相次いで出されている。一方でユタ・リンバッハ前連邦憲法裁(最高裁)判事は特赦支持派で、「犠牲者や遺族の心情は尊重されるべきだが、それと特赦の基準は別である」と述べている。 70年代初頭の日本は学生運動・ヴェトナム反戦運動から派生した極左テロが頻発したが、ドイツも似たような歴史を持っている。ドイツ赤軍は日本赤軍と並び暴力的なことで知られていた(日本語のウィキペディアには「日本赤軍の影響」とあるが、ドイツ語版では「ウルグアイの左翼ゲリラを模倣」とある)。 ドイツの学生運動が激しくなったのは、1967年にドイツ訪問中のイラン皇帝に対する亡命イラン人や左翼学生の抗議デモに巻き込まれた学生ベンノ・オーネゾルグが、警官隊の発砲で死亡したことに始まる。翌年になると各地で学生運動が激化し、日本でいう全共闘世代あるいは団塊世代にあたる言葉として「68年世代」という言葉がある(シュレーダー前首相やフィッシャー前外相の世代にあたる。フィシャー外相は在任中に、かつての警官と路上で格闘している写真が暴露された)。一部の過激学生は放火や破壊活動を始めた。 1970年にフランクフルトのデパート放火事件で逮捕されたアンドレアス・バアダーを解放するため、同志のウルリケ・マインホフらが組織した組織がRAFの基礎となった。彼らは帝国主義・大資本支配への抵抗のための「都市ゲリラ」を標榜し、銀行強盗、爆弾テロ、米軍基地や政府施設への攻撃を繰り返していくことになる。彼ら「第一世代」の活動で4人が死亡、30人が負傷したが、1972年までに主要メンバーが逮捕され投獄された。 彼らは獄中で戦時捕虜としての扱いを要求し、一方で精神的拷問を受けていると主張、抗議のハンガーストライキで死亡するものも出たので、哲学者サルトルや多くの学生活動家(オットー・シリー前内相もその一人)の支持・関心を得ていた。1975年には6人のテロリストがストックホルムのドイツ大使館襲撃事件を起こしてバアダーらの解放を要求している。 彼ら「第一世代」に共鳴した「第二世代」は、獄中にある「第一世代」の救出を目指して1977年10月に集中的にテロ活動を行った。これが「ドイツの秋」と呼ばれる一連の事件である。クリスティアン・クラールはこの「第二世代」にあたる。 それに先だってクラールらは4月、カールスルーエで連邦検察官ジークフリート・ブーバックを襲撃し、運転手二名と共に射殺した。さらに7月、ブリギッテ・モーンハウプトらと共に、ドレスデン銀行頭取のユルゲン・ポントをフランクフルト近郊の自宅で襲撃し射殺している(ポント氏の娘は僕の先生の高校の同級生で、この事件の後に裕福な家庭が崩壊する悲惨な様子を聞いたという)。のちの裁判でクラールはポント氏を誘拐しようとして抵抗されたので射殺したと主張しているが、共犯者ズザンネ・アルプレヒト(彼女はポント氏の義理の娘で知己だった)の公判では、最初から殺すつもりだったことが明らかにされている。 さらにRAFはドイツ商工会議所会頭のハンス・マルティン・シュライヤーを誘拐(その際運転手と警官3人が射殺された)、同時にRAFと共闘するパレスチナ・ゲリラによってルフトハンザ航空機「ランツフート」がハイジャックされ、モガディシュ空港(ソマリア)に着陸させられた。両方の事件の犯人らは獄中にある「第一世代」の解放を要求したが、ヘルムート・シュミット首相はこれを拒否、ルフトハンザ機ハイジャック・グループはドイツ国境警備隊特殊部隊(GSG9)の突入で鎮圧された(犯人3人と操縦士が死亡)。 自分たちの解放作戦失敗の報を聞いたバアダーらは獄中で自殺した。バアダーらの自殺を受け、誘拐犯はフランスでシュライヤーを殺害した。 RAF第二世代の一部(ズザンネ・アルプレヒトなど)は東ドイツに逃亡して匿われたが、クラールは1982年にハンブルク近郊で逮捕され、1984年にシュツットガルト州上級裁判所により終身禁固の判決を受けた。共犯のモーンハウプトは1978年にユーゴラスヴィアで逮捕され、やはり終身禁固の判決を受けたが、早ければ今年2月末に出所する可能性がある。 RAFはその後も「第三世代」(中核メンバーが20人、支援者が250人ほどいたという)が活動を続けていたが、東西ドイツ統一の頃には弱体化(旧東ドイツに隠れていたメンバーも逮捕される)、1993年の爆弾テロを最後に活動を停止し、1998年4月、BKA(連邦犯罪捜査局)への匿名の手紙でRAFの解散が宣言された。RAFのテロで死亡した人数は、警官、アメリカ兵、企業家など34人にのぼる。RAF活動家も27人が自殺あるいは警官により射殺されている。日本のような内ゲバ(ゲバの語源はドイツ語のGewaltですが)による死者はなかったようだ。 この狂騒は結局なんだったのだろうか。68年世代にはこの時代を懐かしむ人も居るし、今でもごく一部の左翼学生にはバアダーやマインホフ(1976年に獄中で自殺)を偶像視する者もいるが、大部分の人はもはや関心もなければうんざりしているかもしれない。 クラールは反省と謝罪の弁を述べているというが、日本のこうした元活動家たちはどう総括しているのか僕は知らない。まあどうでもいいことだけど。
2007年01月27日
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30年以上にわたって旧東ドイツの対外諜報機関に君臨して「顔のない男」と恐れられ、東西冷戦期に数々のスパイ小説の登場人物のモデルにもなったマルクス・ヴォルフが今日の未明、ベルリンの自宅で83歳で死去した。ヴォルフは健康だったとのことで急死のようだが、代理人を務める出版者のスポークスマンによれば「平穏な死」だったという。 この人の名前は小説「ベルリンの秋」(春江一也)で知ったのだが、まだ生きていたのか、というのが正直な感想である。ドイツ人にとっても、忌まわしいとはいえ既に「過去の人」だろう。ベルリンの壁が崩壊してちょうど17年目の今日に亡くなるというのはなんとも皮肉ではある。・・・・・・ ヴォルフは1923年、ドイツ南西部ヘッヒンゲン生まれ。父親フリードリッヒは医師で詩人かつ共産主義者、弟コンラートは映画監督になった。父親はユダヤ人の血を引いていたため、1933年のナチス政権成立時に一家はスイスおよびフランス経由でソヴィエト連邦に亡命する。 第二次世界大戦中の1940年にモスクワの航空専門学校に入学するが、42年の卒業後にコミンテルン(共産主義インターナショナル)のスパイ教育を受けた。コミンテルン解散後の1943年にはソ連の対独宣伝放送局である「ドイツ人民放送」に入り、編集者やコメンテーターとして活動する。当時の通称「ミーシャ」が彼のあだ名になった。 ドイツがソ連に敗北した1945年、ヴォルフは亡命共産主義者の一人としてドイツ(ソ連軍占領地域、のちの東ドイツ)に帰還するが、同じ時期に帰還した「モスクワ派」の頭目でのちに東ドイツの国家指導者となるヴァルター・ウルブリヒトとは距離を置いた(このため1971年のウルブリヒト失脚に巻き込まれなかった)。ヴォルフはベルリン放送に入り、ニュルンベルク裁判の取材などを行っている。1949年にドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立すると、ヴォルフは駐モスクワ東独大使館一等参事官となる。 1951年、経済学研究所という偽名を持つ東ドイツ対外諜報機関の創設に際して、ヴォルフは帰国を命ぜられ第3総局(防諜局)局長に就任した。この諜報機関は1954年に国家保安省(通称「シュタージ」)に編入され、対外諜報局長、少将及び保安省次官に任命された。 ヴォルフはシュタージを世界有数の諜報機関に育て上げた。国内では多くの非公式協力者の密告による国民監視体制を作り上げ(これはヴォルフの管轄ではないが)、国外では一万人を超える工作員や3万近い協力者を操って、東西冷戦の最前線にあって西側と熾烈なスパイ合戦を繰り広げた。ヴォルフが特に多用したのは、西ドイツ官庁の女性秘書にシュタージ将校を接近させ、男の言いなりになった彼女たちから情報を得るやり方(「ロメオ」作戦)だった。 ヴォルフのもっとも輝かしい功績は、1974年のギヨーム事件だろう。西ドイツのヴィリ・ブラント首相(社民党)の私設第一秘書になったギュンター・ギヨームは、実は1956年に難民を装って西ドイツに入り込んだヴォルフの部下であり、西ドイツ政府の内情は東ドイツに全く筒抜けになった。西ドイツの防諜機関(連邦憲法擁護庁)が彼を監視したがなかなか馬脚を現さず、ようやく1974年4月に逮捕される際、「私はドイツ民主共和国国家人民軍の将校で、国家保安省職員である。将校としての私の名誉を尊重することを望む」と述べた。共産圏との融和外交を進めていたブラントは、この事件のため首相を辞任した。なおギヨームは1981年に西側エージェント8人との捕虜交換で東ドイツに戻り、1995年に死去している。 ヴォルフは西側諜報機関にその顔すら知られておらず、「顔のない男」として恐れられていた。しかし1978年、西側に寝返ったエージェントの自供によってスウェーデン諜報機関の撮影した写真から面が割れてしまい、西側への入国を控えざるを得なくなり、その後の諜報活動に支障をきたすようになった。1979年から82年にかけて西ドイツ憲法擁護庁長官を務め、ヴォルフの好敵手となったクラウス・キンケル(のち自民党党首、外相兼副首相)は、ヴォルフと同じヘッヒンゲン出身である。 1986年、上級大将に昇進していたヴォルフはシュタージの職を全て辞した。 1989年に入って東西冷戦体制が崩壊する中、東ドイツでも民主化要求デモが頻発、エーリッヒ・ホーネッカー国家評議会議長が失脚する。11月4日には東ベルリンのアレクサンダー広場でも50万人のデモが発生する。ヴォルフはこのデモに参加して演説者の一人として登壇、民主化を要求するとともに自らの過去を明かしてシュタージへの許しを請うが、シュタージに怯えて暮らしてきた群集のすさまじい野次にさらされた。改革派政治家、あわよくば東ドイツの指導者として第二の人生を歩もうという彼の身勝手な計画は、瞬時に粉砕されたのである。 翌年東西ドイツが統一されると、西側による逮捕を恐れたヴォルフはモスクワに亡命した。ところが翌年ソ連でも共産党政権が崩壊する。ヴォルフはオーストリアに亡命申請したが認められず、ドイツとの国境で当局に自首した。1993年、デュッセルドルフ高等裁判所はヴォルフに対し国家反逆罪で懲役6年の判決を下した(ヴォルフが勤務した旧東ドイツが西ドイツとは別の独立国と看做されたため、1995年にこの判決は取り消される)。1997年には誘拐や傷害など四件で懲役2年の判決を受けた。西ドイツの政治家の過去の対東独協力に関する裁判で証言を拒否したため三日間拘置されたこともある。一方で「かつての私の協力者で政党が結成できるだけの人数がドイツ連邦議会にいる」とうそぶいた。 自らに対する裁きには「勝者による一方的なもの」と批判的で、自分は犠牲者だと言い続けていたという。晩年はベルリンに住み、回顧録などの出版に専念した。
2006年11月09日
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ドイツ西部エムスラントのラーテンにあるリニアモーターカーの実験線で昨日事故が発生し、保線作業員2人を含む23人が死亡、10人が重傷を負うという大惨事になった。まずは犠牲者(多くはリニアに乗っていた観光客)の方々に哀悼の意を、負傷者にお見舞いを申し上げたい。 しかしリニアモーターカー(ドイツ語でトランスラピッド)技術はドイツがその技術力を自負する国家事業だっただけに、事故発生直後からいろいろと生臭い話が出ている。パリでの仏独露首脳会談に臨む予定だったメルケル首相が急遽事故現場に駆け付けたのは(そのため首脳会談に大幅に遅刻した)、この事故が単なる「悲惨な事故」では済まないことを示している。 まずは引用から。(引用開始)<リニア事故>独政府、直後「安全」強調し不信感拡大【ベルリン斎藤義彦】ドイツで22日発生したリニアモーターカーの事故で、独政府や関連企業が事故直後から「リニアの技術は安全」と強調したため不信感が広がっている。背景には中国や独国内での巨額な建設計画がある。また、リニアを開発した企業は利益の薄いリニア事業からの撤退も示唆しており、政府が過敏になっている事情もあるようだ。 メルケル首相は22日、事故現場を訪れ、哀悼の意を表すと同時に「現在の知見ではトランスラピッドは安全な技術で、基本的に疑問をさしはさむ必要はない」と安全性を強調した。また、実験線を運行しているIABG社は、救出作業が続いている段階で「技術上の問題でなく、人為的なミスだ」と職員の過失を主張した。(中略) リニアの商業路線は現在、中国・上海にしかない。ドイツ国内で具体化しているのは、南部のミュンヘン―空港間38キロを約18億ユーロ(約2700億円)かけて建設する計画だけだ。しかし、費用が高いため政府や地元州の予算のめどがたっていない。トランスラピッドを開発した製鉄メーカー・ティッセンクルップ社は、利益の上がらないリニア事業に不満を募らせ今月、1年半以内に建設計画の決定がなければ、リニア技術を中国に売却すると表明。独政府に圧力をかけている。(毎日新聞) - 9月23日21時13分更新(引用終了) 人が大勢死んだその場で「でも乗り物自体に罪はないからね」とやるのは、確かにあまり誉められた発言ではないように思う。情緒を重んじる日本じゃ大騒ぎになりそうだが、ドイツではそうでもないような気がする(事故原因の追及が厳しいのはいうまでもないが)。 僕には技術的なことは全く分からないのだが、ドイツのニュースを見ていると原因はやはり「人為的なミス」という論調が中心になっている。なぜ客を乗せて時速200kmで走るリニアの先に保線車両が止まっていたのか、無人走行し完璧にコントロールされ、「世界でもっとも環境に優しく、かつ安全な乗り物」とまで喧伝されたリニアがなぜ危険を察知して自動的に停止しなかったのか、事故原因の糾明が待たれるところではある。この路線では2004年にも保線車両が脱線事故を起こしていたことが明らかになったが、リニアはともかく保線車両は人間が運転している。この調子だと死亡した保線員に責任が負わされるような感じだが・・・。 折しも「フォークス」誌が、ドイツ国鉄の長距離列車が定刻通り(5分以内の遅れ)に到着する割合が68%にまで落ち込んだと報じていて、料金ばかり上がって(いろいろ割引サービスはあるが、定価は本当に高い)トラブルが絶えない鉄道に対する風当たりは強くなりそうだが(念のため、今回の事故はドイツ国鉄とは無関係)。この記事に対してドイツ国鉄側は「一部の路線を、しかもワールドカップ期間だけを取り出してそんな記事を書くのは論評に値しない。ドイツ国鉄全体では90%の列車が定刻通りに運行されている」と反論している。ちなみにスイス国鉄では96%、イギリス国鉄では90%であるとのこと。この記事では、ベルリンとケルンやミュンヘンを結ぶ長距離特急が平均10~15分遅れているとも指摘している。1998年にエシェデでドイツ新幹線(ICE)の大事故が起きた直後は明らかにスピードを落として運転していたが、今はどうなのだろうか。 上の記事にもあるが、リニア技術はドイツの国家の威信をかけた事業といってもいい。それは武器輸出(1989年の天安門事件以来禁輸が続いているうえ、現メルケル政権は消極的になっているが)と並んで、経済成長著しい中国に売り込みたいためでもある。シュレーダー前首相(社民党)は特に売り込みに熱心で、毎年のように財界人を引きつれて中国を訪問し、現に上海線の売り込みに成功した。2002年12月の開通式に年末の忙しい時期にわざわざ出席するためほとんど日帰りの訪中をした程である。 中国が計画している新幹線事業には、ドイツ(リニア)、フランス(TGV)、日本(新幹線)が受注すべくしのぎを削っていた。中国鉄道省の官僚は現実的(死亡事故ゼロ!)な日本の新幹線が欲しかったのだが、自身がテクノクラートでもあった朱容基前首相は最新の技術であるリニアに固執し、ドイツのリニアに乗り気だった。日本側にも新幹線ではなくリニア技術での売り込みを要請し、2000年10月の訪日時には山梨県のリニア実験線を視察している(僕はたまたまその日に山梨に行っていて出くわしたのでよく覚えている)。 しかし日中関係のこじれや「(コピー大国の)中国に技術だけ持っていかれるのなら協力しない」というJR東海の葛西社長の発言もあったりして、ドイツのリニアが受注有利と目されていた。もっとも、朱首相が引退してしまうと中国政府はドイツ側に「ドイツ式を採用すると約束したことはない」と言ってドイツ側をやきもきさせ、今年に入ると中国の技術者が「ドイツのリニア技術程度ならもう中国自身で作れる」と発言してドイツ側をおかんむりにさせたばかりだった。ドイツ政府側も特許がらみなどで技術供与に消極的といい、建設計画は進んでいない。 ではこの事故に対する、世界で唯一リニアを営業運転している中国の反応はというと・・・・(引用開始)<リニア事故>中国 報道抑制 上海リニアへ批判拡大警戒【上海・大谷麻由美】ドイツのリニア事故について、上海紙・解放日報などは23日、事実関係を短く伝えた。だが、中国共産党機関紙・人民日報は一切報じていない。上海では、ドイツの技術を導入したリニアが商用運行されているが、中国政府は事故をきっかけに、中国のリニア政策にも批判が飛び火することを警戒しているようだ。 中国にとってリニアは、世界初の商用運行を実現させたという誇りであり、中国の科学技術発展の足掛かりでもある。 上海リニアはトラブルが相次ぎ、本格運行は大幅に遅れた。8月11日には火災が発生。中国メディアは「ドイツ技術を妄信したツケ」と厳しい批判を展開していた。 一方、中国政府は今年3月、上海と浙江省杭州の約175キロを約30分で結ぶ新たなリニア建設の意見書を批准したが、協議は進んでいない。(毎日新聞) - 9月24日0時10分更新(引用終了) なるほど。開業当初は運賃が高くガラガラだったという上海線、今はどうなんだろうか。 一昨年(だったっけ?)の北越地震で新幹線が停車した時、ドイツのメディアは「日本新幹線の安全神話は崩れた」といわんばかりの報道をしていたそうだが、僕はテレビを持っていなかったので見ていない。メディアの意図はともかく、悲惨な事故を伝えたいというのみでなく、他国の技術(の失敗)に敏感なのは仕方ないところか。
2006年09月23日
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(引用開始)ナチス・ドイツ:親衛隊だった過去を告白 ノーベル賞作家 小説「ブリキの太鼓」などで知られ、戦後ドイツを代表するノーベル文学賞受賞作家のギュンター・グラス氏(78)は12日付のドイツ紙フランクフルター・アルゲマイネとのインタビューで、ナチス・ドイツの親衛隊(SS)に所属していた過去を自ら明らかにした。ナチスの歴史的責任や小市民のナチス加担を一貫して取り上げ、反戦をうたう左派文壇の代表格だった同氏の戦後61年目の告白は、国内外で論議を呼びそうだ。 グラス氏はダンチヒ(現ポーランド・グダニスク)生まれ。これまでは国防軍兵士だった際に敗戦を迎え、米軍の捕虜となったと説明していた。同氏はインタビューで「両親の束縛から逃れる」ため、15歳で潜水艦部隊への配属を希望したものの採用されず、敗戦直前の17歳の時にドレスデンでSSの戦車部隊に加わったと述べた。 グラス氏は作家同士の批評活動集団「グループ47」で活動後、子どもの目で大人社会の変化を描いた1959年の長編「ブリキの太鼓」で広く認められた。99年にノーベル文学賞を受賞した。(ベルリン共同)毎日新聞 2006年8月12日 12時29分(引用終了) ギュンター・グラスと言うと戦後ドイツを代表する作家の一人である。といっても僕は文学とかに詳しくないので実はあまりよく知らず、せいぜい「ブリキの太鼓」(1959年)の粗筋を知っているくらいなのだが。 ある時知り合いのドイツ人の老人に「君はオーエ(大江健三郎)を読んだ事はあるか?」と聞かれて正直に「ないです」と答えると、「それは良くない。オーエはドイツでいえばギュンター・グラスのようなものだ。彼らのような作家の作品は読んでおくべきだ」と説教されてしまった。 かつてのSPD(社会民主党)党員で左派の代表格のようなグラスと大江健三郎は、共にリベラル・レフトの反戦主義者という点でも、またその国のある時代を代表する作家と言う点では確かに共通しているかもしれない。 まあ僕なんかには村上春樹の方が「日本を代表する作家」なんだけど(彼の作品は無国籍性が指摘されているので、こう言われるのはむしろ不本意なのかもしれないが)。(注・この老人との会話について、僕の勘違いで「三島由紀夫」と書いていたのを訂正。三島とグラスじゃ比較するにはあまりに違いすぎるのでおかしいなとは思ったんだが。大江健三郎とグラスの類似性の比較は西尾幹二もしてますね) 日本ではさほど知名度が高いとも思えないグラス氏の経歴を簡単に紹介。 グラス氏は1927年10月16日、ダンツィヒ(現ポーランド領グダンスク)生まれ。家業は商人だった。15歳でドイツ国防軍に志願入隊したと説明していたが、実際は17歳で武装親衛隊に入隊したというのはこの日記冒頭の記事にある通り。アメリカ軍の捕虜となり捕虜収容所に収容されたのち、1947年からデュッセルドルフの芸術アカデミーで彫刻を学ぶ。1953年から56年にかけて、さらにベルリンの工芸高等専門学校で学んだ。1954年に最初の結婚をしたが78年に離婚、翌年再婚している。 彫刻制作の傍ら1956年頃から著述活動を始め、詩や劇などを執筆している(当時の作品は、のちに本人がひどい出来だとけなしている)。1959年、最初の長篇「ブリキの太鼓」を発表、その実力を認められた。この作品はのちに映画化されている。この作品はブレーメン市の文学賞候補にもなったが、市議会議員の妨害で授賞されなかった。 1961年にやはりダンツィヒを舞台とする「ネコとネズミ」を発表したが、作品内に出てくる少年の自慰行為の場面が物議を醸して「不道徳図書」に指定されそうになり、作家たちの反対運動が起きている。1963年に「Hundejahre」を発表、これらは「ダンツィヒ三部作」と呼ばれる。 彼は「参加(アンガージュマン)の文学」の作家として政治に関する発言を積極的に行ない、1982年からは社会民主党(SPD)の党員になっている。しかし1990年のドイツ再統一に際し、西による東の吸収合併に反対して一国二制度を主張、ドイツ再統一に沸く世論の反発を買った。1992年にSPD党籍を離脱している。現在も社会や政治に対する発言を続けており、先立ってのムハンマド風刺画騒動では西洋側を批判、また「ビン・ラディンはCIAが造り出した陰謀」という主張を繰り返している。 1999年、72歳でノーベル文学賞を受賞した。2002年の「蟹の横這いKrebsgang」でも、ドイツ東部からのドイツ系住民の避難と遭難を描き、第二次世界大戦は彼の作品の大きなテーマの一つで、「(ドイツの罪を)忘却しないための執筆」が彼の執筆活動のモチーフとなっている。 今年9月、自己の少年時代について触れた自伝「タマネギの皮で(Beim Haeuten der Zwiebel)」を出版する予定で、今回の告白もこの自伝発表に合わせて行なわれたもの。 親衛隊というと、ユダヤ人を大量虐殺した犯罪集団のイメージがある。もともとヒトラーの私兵・文字どおり親衛隊として出発した親衛隊はハインリッヒ・ヒムラーを長官とし、第二次世界大戦の勃発に伴って独自の戦力を備えるようになるが(1940年)、それを武装親衛隊と呼ぶ。ドイツにはもともと正規軍として国防軍というものがあったが、親衛隊は国防軍からも独立した戦力であり(実際には国防軍と共に戦う事が多かったが)、最終的には90万もの人員を擁する巨大軍隊になった。イラク戦争で話題になったイラクの革命防衛隊のようなものを想像すればいいかもしれない。 かつて国連事務総長(のちオーストリア大統領)だったクルト・ヴァルトハイム氏が親衛隊将校だったことが明らかになった時、ものすごい抗議があったことが示すように、親衛隊はナチスの犯罪の象徴的な集団として語られる。やはり1985年に西ドイツのコール首相とアメリカのレーガン大統領がビットブルクのドイツ軍墓地に献花した際、その墓地に親衛隊隊員も葬られていたというので物議を醸した(日本ではこれをA級戦犯の祀られている靖国神社への参拝になぞらえる人もいる)。実際に親衛隊はホロコーストへの加担、フランスやソ連での一般市民の虐殺、捕虜の処刑などが指弾されている。 ドイツでは時々「ナチスの罪悪を負っているのはひとえに親衛隊で、正規軍である国防軍は悪い軍隊ではない」という論調をみかけるが、国防軍が親衛隊のような犯罪行為に手を染めていたか否かは論争になっている。 上の記事に見るように、グラス氏は15歳のとき(1942年?)海軍潜水艦部隊への配属を志願したが、戦局悪化による潜水艦の減少によって採用されなかった。1944年7月20日、ドイツ国防軍の一部将校がヒトラー暗殺未遂事件を起こしてからはヒトラーは国防軍への信頼を失い、徴兵者は優先的に武装親衛隊に配属されるようになった。グラス氏はそうした状況の中で武装親衛隊に対空砲助手として配属されたようだ。グラス氏より一年若い1928年生まれの者は武装親衛隊に9万5千人が配属され、これは武装親衛隊全体の17.3%にも及ぶという。 グラス氏の年齢やこうした状況を考えると、ナチス思想信奉による親衛隊従軍志願というのではない(当時のドイツの若者には普通のことだったろう)。実際インタビューの中でグラス氏は「当時親衛隊というと、損害の多いエリート部隊というイメージしかなかった。私が初めて親衛隊の徽章の意味を知ったのは、部隊が壊滅した時に、上官が制服を国防軍のものに着替えろと命令したときだった。戦後親衛隊の所業を知り、このことが汚点となって私を苦しめた」と述べている。 ちなみにグラス氏の属した武装親衛隊第10装甲師団「フルンヅベルク」(フルンヅベルクは16世紀の傭兵隊長の名)は1943年にフランスで編成され、1944年にノルマンディ戦で損害を受け、再編成のため駐留していたオランダのアルンヘムでたまたまイギリス軍の空挺降下作戦に遭遇し、これを撃退する戦果をあげている。1945年に東部戦線に配置替えされ、ドイツ降伏と共にソ連軍に降伏している。 グラス氏に問題があるとすれば、親衛隊に属していたという事実そのものよりも、自分の意志ではなかったししても、いやむしろそうだからこそ、自分が「あの」親衛隊に属していたという過去をごまかさずに語るべきだった、という事だろうか。 日本で報じられているかどうか分からないが、グラス氏は自伝の中で、ドイツ降伏後に捕虜となったアメリカ軍のバード・アイプリング捕虜収容所でのエピソードを述べているそうだ。そこで彼はヨーゼフという名の少年と親交があったという。ちょっと堅苦しかったが親切なこの少年は、グラス少年が芸術家を目指していたのに対して、自分は教会に生涯を捧げたい、と述べたという。 今のローマ教皇ベネディクト16世の本名はヨーゼフ・アロイス・ラッツィンガーで、グラス氏より一つ年下でやはりヒトラー・ユーゲント隊員として対空砲助手となり、アメリカ軍の捕虜となってこの収容所に入れられていた事が分かっている。グラス少年が知り合ったヨーゼフ少年が現在のローマ教皇かどうかは、今のところ判明していないとのこと。
2006年08月12日
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この日は午前に集中授業?(スペインの考古学に関するもの)に出る。旧知の人がドイツ考古学研究所(外務省の下部組織だそうで、こういうのは他の国には例がないようだ)のマドリッド支局長になっている。研究室仲間のDもこの秋からマドリッド支部に勤める事になっている。彼には外交官パスポートが支給される。国策みたいである。 午後は金曜から日曜にかけて行われている、恒例の町の夏祭りに行く。ステージが組まれ出店が多く出ており、川ではボート漕ぎ大会が行われている。毎年のそれとあまり変わりない。しかし折からのWM熱もあるせいかいつにない混雑で、この小さな町のどこにこんなに人が住んでいるのかと思う。まあ周りの集落から来ている人も多いんだろうけど。・・・・・・・ この日はドイツとポルトガルによる三位決定戦があるので、また同じクナイペ(飲み屋)に行く。なんとなく店内観戦の人出が前よりも少ない気がする。祭りのせいか、もう敗退しているからか。 試合のほうは双方今ひとつ動きが鈍いというか、やはりどこか真剣さが以前と段違いのように感じる。ドイツはGKカーンはじめ控え組を先発させ(バラックも休み)、ポルトガルも主将フィーゴがベンチでのスタートとなる。カーンはこれが最後だそうだが(正GKレーマンも彼と同い年だ)、やはりあの顔はインパクト(カリスマ性?)がある。ポルトガルのデコという選手も、なんだか日本人にいそうな顔で親しみがもてる。 前半は0-0で終了。後半になるとドイツが優勢になりシュヴァインシュタイガーがゴール。さらにポルトガル側のオウンゴールとシュヴァインシュタイガーの二点目もあり、フィーゴを投入したポルトガルに3-1で快勝した。ドイツ代表は今後が楽しみではあるし、EM2004の一次リーグ敗退というどん底から出発してここまでやったクリンスマン監督への支持は大きい。 さて試合が終了して家路に就こうとしたが、路上にはいつものごとくドイツのファン(ほとんどが若者)で溢れている。それぞれに「ドイチュラント!!」と雄叫びし、「ベルリン(決勝戦)なんかに行くもんか」なんていう負け惜しみ?の歌を歌っている。道路はクラクションを鳴らし箱乗りしてドイツ国旗をうち振るう車で溢れ、ほとんど無法地帯である。興奮してふざけた若者にドイツ国旗を頭から被せられたりもした。 何かのノリに似ていると思ったら、これはディスコだ。中には自家用車で荷車を牽引して、その荷車の上で若者が踊り狂って居るという者もいる。馬鹿騒ぎしているのはディスコに行きそうな若者ばかりだ。「ドイツ人の愛国心がどうこう」という議論が連日メディアを賑わしているが(下のニュース参照)、なんのことはない、ただの馬鹿騒ぎじゃないかこれは、と見ていて思った。町や場所によっては違うのかもしれないが。 ただ困ったのは家に帰るためのバスまでストップしてしまったことで、このWM騒ぎのせいか夏祭りのせいかは知らないが、予告もなく運行を停止してしまったようだった(まあドイツじゃよくあることだ)。やむを得ず暗い坂道を登って歩いて帰ったので、へとへとになった。・・・・・・・(引用開始)ドイツ 新たなナショナリズム台頭 W杯勝利重ね【ベルリン斎藤義彦】サッカー・ワールドカップ(W杯)が開かれているドイツで、これまでにないほどドイツ国旗や国歌が応援に使われ、「新たなナショナリズムの台頭か」と話題を呼んでいる。ドイツ国民はナチスの歴史から国威発揚には慎重だったが、欧州統合も進み「ドイツも『普通の国』になった」との見方も出ている。(中略) ドイツが勝利を重ねるごとに国旗が民家や商店の軒先、車に掲げられるケースが爆発的に増え、国旗を作る工場では、生産が追いつかない状態だ。 また、ドイツ各地でファン向けに設置された歩行者天国「ファンフェスト」には延べ1300万人が訪れ、ドイツのユニホームを着たり、黒、赤、金の国旗の3色を体にペインティングしたファンであふれている。 ドイツではナチスが周辺諸国を侵略した反省から、ナショナリズムに対する警戒心が強く、W杯がドイツで開かれた74年、ドイツがW杯で優勝した90年にも、これほど国旗が掲げられたことはなかった。一部の教職員組合は国旗や国歌の乱用を批判、これに政治家が反論する形で「新たなナショナリズムの台頭か否か」の論争が連日、マスコミをにぎわしている。 ただ、現在の国旗はナチが台頭する前のワイマール共和国時代のもの。ナチスはカギ十字の旗を使っていたこともあり、ネオナチと呼ばれる極右の活動はそれほど活発になっていない。 現代史が専門のパウル・ノルテ・ベルリン自由大学教授は「これほど国旗が掲げられたことにドイツ人自身が驚いている。欧州統合が進み、他国を侵略する危険はもうなく、ドイツはようやく『普通の国』になれた。極右がナショナリズムを悪用することは今後もないだろう」と話している。(毎日新聞) - 7月4日10時8分更新(引用終了)
2006年07月08日
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イラクで人質になっていたライプツィヒ出身のドイツ人技師が99日ぶりに解放されたようだ。やはり身代金が支払われたのだろうか。・・・・・ 「Spiegel on Line」を見ていると、面白い記事があったので紹介。 「緑の党」の議員であるハンス・クリスティアン・シュトレーベレ氏は「ベルリナー・ツァイトゥング」紙に対して「トルコ移民系ドイツ市民の融和の象徴として、ドイツ国歌のトルコ語ヴァージョンを制定すべきだと思う」と発言して物議を醸している。これは同時にドイツの他言語・多文化主義のシンボルともなる」と主張している。 同氏は2004年にも「(ドイツに多い)キリスト教の祝日を一つ減らして、代わりにイスラム教の祝日を一つ加えるべきだ」と発言して物議を醸している。最近ヒスパニック系不法移民の権利保護を訴えるデモが盛り上がるアメリカで、ヒスパニック系音楽家がアメリカ国歌のスペイン語ヴァージョン(Nuestro Himno)を発表したのを承けての発言だろう。 もしドイツ国歌のトルコ語ヴァージョンが出来るとすれば、歌詞はやはり「Birlik ve Hukuk ve Hurriyeti alman vatan icin!」とかなるのだろうか。しかしドイツにいるのはトルコ系市民だけではないし(そもそもトルコ系とされる中には多くのクルド人も含まれているだろうし)、最大であるトルコ語のみに許していいもんだろうか。ちなみにドイツにはおよそ200万人のトルコ系移民が暮らしているが、ドイツ国籍を取得しているのはそのうち70万人ほどに留まっている。これは「ドイツ国民」のおよそ1%弱になる。町のあちこちでケバブ屋が目立つ程には意外に少ないが、実態と統計がかけ離れているんだろうか。 まあどちらにせよこのアイデアが実現するとは思えないし、僕がドイツ人だとしても反対するだろうが、いろいろと想像を掻き立てる面白いアイデアであることには違いない。 ドイツ政界からの反応はというと、キリスト教民主同盟(CDU)は「ドイツ語の習得はドイツ社会への『融和』やドイツ国籍取得の鍵となるべきものであり、移民に誤ったサインを与えかねないアイデアだ」と一蹴したのに対し、自民党(FDP)の融和・移民担当者からは「様々な出自の人がドイツの文化を理解するいいチャンスとなりうるアイデア」と評価する声もある。 しかし一番ふるっているのはシュトレーベレ氏が属する「緑の党」のレナーテ・キュナスト幹事長(前消費者保護相)の発言で、「彼は4月1日(エイプリル・フール)と5月1日(メーデー)を取り違えたんだろう」と、軽く受け流している。やはり実現は無理のようだ。 実際のところ、多言語で国歌を制定している国はどれくらいあるんだろうか。オランダ系とフランス系が半々くらいのベルギーなんかだと二言語で国歌を制定していそうだし、やはり4言語が国語となっているスイスなんかではどうだろう。しかしこれらは移民ではなく建国時からの多言語・多民族主義であるし、状況は大きく違う。つか当のトルコなんかではクルド語国歌なんて考えられないだろうしなあ。 そういや主要な言語だけで13?もあるというインドなんかは、国歌はどうなっているんだろうか。最近「次代の経済大国」ともてはやされているが(Bricsだっけ?)、いろいろ大変そうではある。 というわけで、ドイツ系日本人(そういう人がいれば、ですが)のために、ドイツ語版「君が代」を用意しておきます(ウィキペディアからの拾い物)。 Gebieter, Eure Herrschaft soll dauern tausend Generationen, achttausend Generationen, bis Stein zum Felsen wird und Moos die Seiten bedeckt. オリジナルの節に合わせて歌うのが大変そうだ。トルコ語版ドイツ国歌もそうだが、別の歌詞を用意しないといけないだろうか。
2006年05月03日
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野球の日本代表、韓国にまた負けちまいましたねえ、韓国強いのはまあ認めるとして、やっぱ悔しい。サッカーなら諦めもつくが、こと僕の大好きな野球となると.....。 しかしアメリカがメキシコに敗れるなんていう変な希望は持たずに、もはや敗退したと肚をくくるべきなように思う。しかしいろいろ問題や議論のある大会でしたね。次もあるんだろうか。サッカーと同じでオリンピックよりワールドカップのほうが権威がある、という大会になればいいのだが。・・・・ 昨日「シュピーゲル」のネット版を見ていると、面白い記事があった。 フランスでの移民系若者の暴動騒ぎやデンマークでのムハンマド風刺画騒動を受けて、それを対岸の火事とは考えないドイツの与党で保守系のキリスト教民主同盟(CDU)は、移民受け入れの制限に向けた様々な施策導入を検討している。 例えばオランダでは今週からオランダ国籍の取得が更に厳しくされ、国籍取得希望者は語学試験のみならずオランダに関する試験のようなものを受けさせられるらしいのだが、ドイツでもそうしたものを導入すべき、という議論である。既にバーデン・ヴュルテンベルク州のCDUはその試案を発表したが、質問内容に明らかにムスリムが返事に困るような質問があったり、ホモセクシャルに関する「踏み絵」のような質問があったりして他の政党の批判を浴びた。 今度はマールブルクのあるヘッセン州のCDUがその改良版というべき質問集を作成し、「シュピーゲル」誌上に出ている。この問題のうち何問答えられないと不合格(=ドイツ国籍は与えられない)、といったことは書かれていないのだが、いわば「ドイツ国民ならば知っておくべき」、もしくはCDUが考える「ドイツ国民たる者の常識」を思わせる設問になっている。以下にその設問を訳出してみる。(ドイツとドイツ人)1. ドイツの人口はどのくらいですか2. ドイツ国内を流れる川を三つ挙げなさい3. ドイツ中央山地を三つ挙げなさい4. ドイツ連邦共和国の首都は何処ですか5. ドイツにはいくつの州がありますか。そのうち7つの州と州都を挙げなさい6. ドイツ連邦共和国が国境を接する国を三つ挙げなさい7. ドイツ国籍を得るにはどのような条件を満たさなくてはならないか挙げなさい8. あなたがドイツ国籍取得を希望する理由を三つ挙げなさい(ドイツ史の基礎)9. 「Reformation」という概念の内容は?そしてそれは誰が始めましたか10. 1848年にフランクフルトのパウルス教会で行なわれた集会は何ですか11. ドイツ史上最初の共和国は1918年に成立しました。それは何と呼ばれますか12. この最初の共和国はいつ最期を迎えましたか13. 20世紀前半の何年にドイツは独裁制になりましたか14. その時支配した政党の名前は15. 「ホロコースト」という概念を説明しないさい16. もし何者かがホロコーストは神話だとかお伽話だと言ったら、あなたはその人に何といいますか17. イスラエルの「生存権」という概念について説明しなさい18. 1944年7月20日に何が起きましたか19. 1945年5月8日に何が起きましたか20. 「第三帝国」の崩壊後にドイツは四つの占領区域に分割されました。その四つの占領軍とは誰か21. ドイツ連邦共和国は何年に成立しましたか22. 最初の連邦宰相は誰ですか23. DDRとは何を意味しますか24. 1953年6月17日、DDRで何が起きましたか25. ドイツの「経済的奇跡」とは何を意味しますか26. (1961年のベルリンにおける)「壁の建設」について説明しなさい27. ノーベル平和賞を受賞した連邦宰相は誰ですか28. ドイツは何年に再統一されましたか29. かつてのDDR地域にある現在の連邦州を挙げなさい30. 11月9日はドイツ史上特別な意味がある日です。a)1938年、b)1989年のその日にそれぞれ何が起きましたか(憲法と基本法)31. ドイツ国民の基本的権利はどこに規定されていますか32. ドイツ連邦共和国の憲法は何と呼ばれていますか33. それはいつ発効しましたか34. ドイツ連邦共和国の全ての国家権力はどこから発しますか。それにより国民にはどのような利益が生じますか35. ドイツ連邦共和国憲法の第一条はどの権利を保障していますか36. ドイツ連邦共和国における最高の立法機関はなんといいますか。またその構成員を決めるのは誰ですか37. 我々の憲法は四つの基本的権利を保障しています。その四つを挙げなさい38. 憲法では全ての人間は法の前に平等であると規定されています。その原則を説明しなさい39. ある女性が男性の親類の同行なしに公共の場に赴いたり旅行する事が許されないとします。そのことについてのあなたの意見を述べなさい40. ドイツ連邦共和国において、離婚を言い出せるのは誰ですか41. 権力分離の原則について説明しなさい42. 「信教の自由」について説明しなさい43. 映画や演劇、書籍においてはしばしばある人の宗教的感情が害されたりすることがあります。そのようなことに対してあなた個人の信条を守るために許される手段は何ですか?そして許されないのは?44. ドイツでは全ての児童生徒に法的に就学の義務が定められています。それは何歳で始まり何歳で終わりますか45. 法的に定められた就学義務の根拠は何ですか46. 親はその子に対してあらゆる態度が許される訳ではありません。許される教育方法は何か?そして禁じられているのは?47. 両親はその息子娘の配偶者選択においてどのような影響を及ぼす事ができますか?禁止されている行為は何ですか?(選挙・政党・利益団体)48. ドイツの議会選挙は憲法第38条により、一般、直接、自由、同権、秘密であることが定められています。この選挙原則について説明しなさい49. 複数政党制について説明しなさい50. なぜかつてのDDRにおける選挙が我々の民主的選挙原則にそぐわないか、理由を説明しなさい51. 現在ドイツ議会に存在する政党は何がありますか?少なくとも三つ挙げなさい52. ドイツ連邦共和国において、結党や結社が禁止される可能性のある状況には何がありますか。またあなたは禁止にもかかわらずその政党・結社を支持しますか?それはどのような条件において?53. 市民運動とは何ですか54. 経済及び労働活動における二つの利益団体を挙げなさい(議会・政府・軍事力)55. ドイツ連邦議会はどこで開催されますか56. ドイツ連邦議会選挙は通常どのくらいの頻度で行なわれますか57. ある政党に属する議員の議会内における集まりを何と言いますか58. 議会の議員には「自由委任の原則」というものがあります。これはどういうことですか59. ドイツ連邦議会選挙における「5%条項」は何を意味しますか60. 全ての市民は異議や提案を議会の特別委員会に行使する事が出来ます。連邦や州におけるこの市民代表からなる委員会をなんと言いますか61. ドイツ連邦共和国における国家元首はなんと呼ばれますか62. 連邦内閣とは何ですか63. ドイツ政府の長はなんと呼ばれますか64. ドイツ連邦共和国の戦力はなんと呼ばれますか65. それはいつどのような目的で設立されましたか(連邦国家・法治国家・社会国家)66. ドイツは連邦国家です。これは何を意味しますか67. 連邦レベルにおける各州の代表をなんといいますか68. ドイツ連邦共和国において行政は三段階に分かれています。もっとも下位の政治的共同体は何ですか69. 大部分の州における行政の長はなんと呼ばれますか70. ドイツ連邦共和国は法治国家です。法治国家とは何を意味しますか71. 法の定めるところにより、個人的報復は禁止されています。刑事事件の犠牲者は犯人に復讐する事は許されません。刑を執行する権利は誰にありますか72. ドイツの最高裁判所はなんと呼ばれますか73. 司法の独立とはどういうことですか74. ドイツ連邦共和国は社会国家です。ドイツ連邦共和国における社会保障の三つの要素を挙げなさい(ドイツとヨーロッパ)75. ヨーロッパ諸国の政治的共同体はなんと呼ばれますか?その加盟国を少なくとも五つ挙げなさい76. ヨーロッパ議会のある都市はどこですか77. ドイツ連邦共和国においてはどの選挙においてヨーロッパ市民として選挙が出来ますか78. EUにおける共同政治の計画及び決定を下す機関を何といいますか79. ドイツはどの国際的集団安全保障に加盟していますか(文化と科学)80. ドイツの哲学者を三人挙げなさい81. ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテとフリードリッヒ・シラーはドイツのもっとも著名な詩人としてしられています。それぞれの作品を一つ挙げなさい82. ドイツのノーベル文学賞受賞者を挙げなさい83. その最後の第九交響曲に有名な「歓喜に寄す」を作曲したドイツの作曲家は誰ですか?またドイツの作曲家を更に二人挙げなさい84. ドイツ人画家カスパー・ダヴィッド・フリードリッヒはそのもっとも有名な作品においてバルト海のリューゲン島の風景を描きました。そのモチーフは何ですか85. カッセルでは五年に一度、現代美術のもっとも重要な展覧会が行なわれます。それは何と呼ばれますか86. ドイツ連邦共和国には重要な大学があります。そのうち三つを挙げなさい87. ドイツにおける全国紙を三つ、公共放送局を二つ挙げなさい88. 「言論と報道の自由」について説明しなさい89. 誰かが「自由なメディアは民主主義社会の欠かさざる一部である」と言いました。あなたは賛成ですか?反対ですか?90. ドイツの映画館では2004年に「ベルンの奇跡」という映画が上映されました。この作品はどのようなスポーツ史上の出来事を扱っていますか91. ドイツで最後に夏期オリンピックが行なわれた都市はどこですか?またどのような出来事がその大会に影を落としましたか92. ドイツはスポーツの国として知られています。ドイツのスポーツ選手を三人挙げなさい93. ヨハネス・グーテンベルクは何を発明しましたか94. ドイツにおける自動車技術の先駆者を二人挙げなさい95. 1895年の医学技術上の発見で現在まで影響を及ぼしているドイツの物理学者は誰ですか96. ドイツの科学者オットー・ハーンは1938年に何に成功しましたか97. コレラや結核の病原体を発見したドイツの学者は誰ですか(ドイツ国家のシンボル)98. ドイツ連邦旗に使われている色及びその順序を言いなさい99 ドイツ連邦共和国の国家祝日はなんと呼ばれ、それは何に関するものですか100. ドイツ国歌はなんと呼ばれ、それはどういう言葉で始まりますか ・・・・・多い。既にドイツ国籍を持っている人にも難しい問題もありそうだ。また40番の前後などは明らかにムスリムを意識しての問題だろう。 あ、僕も模範回答が分かりませんので、答えを聞かれても分かりませんし採点も致しません。悪しからず(笑)。
2006年03月16日
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気がついたら一週間も日記をサボっていた。まあたまにはこういう時期もあるさ。 今日は最近ネット上で拾ったドイツ関連ニュースなどの切り貼り。(引用開始)W杯中にイランが自爆テロ?=ドイツ紙が風刺画掲載【ベルリン15日時事】ドイツ紙ターゲスシュピーゲルがこのほど、今年6~7月に同国で開催されるサッカー・ワールドカップ(W杯)で、イランが自爆テロを行うかのような風刺画を掲載した。在独イラン大使館は同紙に「無礼な行動に激しく抗議する」との文書を送り、謝罪を要求。テヘランのドイツ大使館は14日にデモ隊から投石を受ける事態となっており、先のイスラム教預言者ムハンマドに対する風刺画騒動に続き、新たな火種となりそうだ。 (時事通信) - 2月16日11時1分更新(引用終了) これまた火に油を注ぐような事を・・・。 しかしヨーロッパ側の一部にも、何だかこの問題を反省するどころかむしろイスラム側の対応をおかしがっているんじゃないかと思える節がある。「あの漫画載せたのはちょっとまずかったかな」と思ったとしてもそもそも簡単に謝罪しないのはヨーロッパの流儀だし、イスラム側にああいうふうに派手な抗議活動をされるとむしろ反発している人のほうが多くなっているのではないかと危惧する。 ドイツはイラン核開発問題では英仏と並んでEUの大国として交渉にあたったが(人口や経済規模で英仏に並ぶイタリアは何処へ・・・。笑)、そういうのもあいまってテヘランではドイツ国旗が燃やされる抗議行動が見られた。しかし他国の国旗を焼くのって中・韓国や西アジアでよく見られる光景だが、あまりドイツの国旗が燃やされているのは見た事がなかった。全世界で「燃やされる国旗」消費量の第一位はアメリカ、ついでイスラエル、日本の順番になるんじゃないかと思うが。 昨年アフマディネジャド大統領が「ホロコーストはなかった」と発言した時、「イランを2006年ワールドカップ・ドイツ大会から追放しろ」という声が「緑の党」の議員から出ていたが、無事にイラン代表は来られるのだろうか。 その関連で次のニュース。(引用開始)ホロコースト否定で禁固刑 オーストリア、英歴史家に 【ウィーン21日共同】オーストリアの首都ウィーンの裁判所は20日、英国の歴史家デビッド・アービング被告(67)に対し、ナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)を否定したとして、禁固3年の有罪判決を言い渡した。オーストリアやドイツでは、ホロコースト否定は法律で禁じられている。 イランのアハマディネジャド大統領がホロコーストを否定して国際社会の批判を招いたほか、イスラム教預言者ムハンマドの風刺漫画問題をめぐって世界中でイスラム教徒の抗議行動が続く中、今回の判決は言論の自由をめぐる議論に新たな一石を投じそうだ。(共同通信) - 2月21日8時50分更新(引用終了) うーん、これまたなんという好?タイミング・・・・。 このア-ヴィングという「歴史家」がどのくらいの専門家か不勉強にして知らないのだが、禁固3年というのは重い気もするし、そもそもこういうのはヨーロッパが重視する「言論の自由」(ムハンマドを茶化す自由)との兼ね合いはどうなるのだろうか。アフマディネジャド大統領が衝いているのはまさにこの点だが。 別のニュースではこのア-ヴィング氏は極右組織の会合に出席するためにオーストリアに入国して逮捕されたともいうし、それなら自業自得と言うかこの刑も仕方ないかなと思うが・・・。まあ中国政府にかかったら現在の日本の外相や官房長官は極右になるのだから、こういう右左の基準というのは人によって随分違うもののようだが。どちらにせよ釈然としないものが残るニュースではある。 ドイツ人の学生の多くは隣国オーストリアを「かつてヒトラーの生まれた国、今は極右イェルク・ハイダーの国」と保守的で右翼の国と良いイメージを持っていない。そのオーストリアで不遇だったヒトラーを総統に伸し上がらせた国の民である君らにそんなこという資格があるんかいな、と言いたくなったが、こらえた。そういやハイダーはかつてサダム・フセインを訪問とかしてましたな。(引用開始)イラクで拉致、解放の独女性またイラク入り 【ベルリン=佐々木良寿】イラクで武装集団に拉致された経験をもつドイツ人女性が再びイラク入りしたことが明らかになった。 考古学者のスザンネ・オストホフさん(43)で、17日、イラク北部クルド人地域の主要都市アルビルでの滞在が確認された。 イラク在住歴の長いオストホフさんは、イスラム教に改宗し、アラビア語も堪能。人道活動に従事していたが、昨年11月下旬にバグダッドから北部へ向かう途中で拉致され、3週間後に解放された。解放に際しては、独政府による身代金支払いも取りざたされた。 オストホフさんは、拉致前にアルビルで文化施設の建設計画を進めていたとされ、解放後もイラクに戻る考えを示していたことから、独外務省はイラク入りを再考するよう求めていた。 ドイツでは、男性技術者2人がイラクで拉致されたままとなっている。シュタインマイヤー外相は、オストホフさんについて「一刻も早くイラクを離れることを望むばかりだ」と記者団を前に嘆いた。(読売新聞) - 2月18日22時38分更新(引用終了) あれれ、結局またイラクに戻ったのか・・・。 そういやこのシュタインマイヤー外相が今日本に来ている。東アジア歴訪の一貫で、日曜と月曜に韓国、今日が日本、そして中国といく予定。メルケル政権発足後初の訪日・訪中となった。今日は日本アインシュタイン協会の催し物出席や麻生外相との会談を行った。 外相との会談内容は主に国連改革(日独の安保理常任理事国入り問題)やイラン核開発問題だったようだ。(引用開始)対イラン制裁、排除せず=核問題で警告-独外相 来日中のドイツのシュタインマイヤー外相は21日、都内の日本記者クラブで会見し、イランの核問題が国連安保理に付託されたことについて、「直ちに経済制裁に向かうものではないが、その可能性を完全に排除できない」と言明。イラン側が態度を軟化させずにこう着状態に陥れば、経済制裁も検討せざるを得ないとの考えを示した。 (時事通信) - 2月21日19時1分更新(引用終了) 上にも書いたがドイツは英仏とともにイランに核開発を停止するよう説得していたが、結局アフマディネジャド大統領にそっぽを向かれる格好になってかなりおかんむりのようである。 ドイツはイランにとって最大の援助国でもあるし、日本とともに伝統的にイランの友好国とされていただけに(あくまで中東を植民地化した英仏への対抗馬としての期待だったが)、イラン核開発問題では大きな役割りを担っている。ロシアやフランスともシュレーダー政権時代には枢軸と言われる程の関係を築いた。こういうのを見ると(アメリカが反対するとは言え)ドイツに安保理常任理事国入りの資格は十分ありそうに思う。 トルコ人ほどでは無いにしても、ドイツ国内にはかなりの数のイラン人がいる。しかしそのうちのかなりの部分はイラン革命(1979年)の時に亡命して来た人々である。そのためイラン政府が関与されたと疑われる反政府在独イラン人暗殺事件がベルリンで起きて外交問題になり、イランがドイツ側の制裁への報復としてイランに住むドイツ人技師を「イスラム教徒女性と婚前交渉した罪」で死刑判決を下した(執行されなかったと思う。それにしてもなんちゅう罪状だ。その反対は罪にならないというのに)、なんてこともあった。イランとドイツには友好一点張りの日本とは比べ物にならないくらいの腐れ縁がある。 シュタインマイヤー外相は日本記者クラブでの会見で、ドイツは天安門事件(1989年)以来続いているEUの対中武器輸出解禁に無条件で賛成する事はしない、と表明した。これは中国への売り込みのため解禁に熱心だったシュレーダー前政権とは一線を画すものとして注目される。ちなみにシュタインマイヤー外相(ドイツ社民党)はシュレーダー政権では内閣官房長官だったのだが、CDUと連立する今は方針が変わったらしい。 ただしドイツが中国との経済関係重視を続けることに変わりは無い。中国側も胡錦濤国家主席が木曜に外相と会見する事が急遽決定され、中国側のドイツ(EU)重視を示すもの、とドイツでは報じられている。 そういえばシュレーダー政権の時代、ドイツは中国へのリニアモーターカー売り込みに熱心で実際に上海の空港ではドイツの協力により建設されたのだが(上海の技術畑出身の朱前首相がリニアに熱心だったため)、最近中国は自分でリニアを開発してしまった(ドイツのリニアのコピーでは無いという)。あまつさえ「ドイツのものよりうちのほうが進んでいる」と中国の技術者に酷評された、という恨み節のような報道があった。 最後に芸能ネタ。 シャーリーズ・セロン(30歳)というと僕も最近ちょっと気になる女優なのだが(といいながらあまりその映画は見ていない)、彼女はドイツ国籍を取得しようとしていたという。 なんでも南アフリカ出身の彼女はその母ゲルダの祖先がドイツ系だそうで、簡単にドイツ国籍が取得出来ると思ったのだが、先祖がドイツにいたことを証明する書類の提出を求められて断念したのだという。映画撮影のため半年間ベルリンに滞在したときのエピソードとして話した。 彼女によればドイツは「レストランにペットの犬を連れて入ることが許されるなんて、なんと進んだ国だろうと思った」とのこと。そうかな?
2006年02月21日
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頼まれてドイツの法律を少しばかり日本語に訳したのだが、これがまた晦渋な文章で困った。まあ日本の法律もこんなものなんだろうが。司法試験を受けて合格する人は本当に凄いと思う。 例えばこんな感じ。Art. 5. Personalstatut.(1) Wird auf das Recht des Staates verwiesen, dem eine Person angehoert, und gehoert sie mehreren Staaten an, so ist das Recht desjenigen dieser Staaten anzuwenden, mit dem die Person am engsten verbunden ist, insbesondere durch ihren gewoenlichen Aufenthalt oder durch den Verlauf ihres Lebens. Ist die Person auch Deutscher, so geht diese Rechtsstellung vor.(日本語訳例。ただし僕の訳ではなく法律書からの引用)第五条 属人法(1)ある者が属する国の法律を適用すべき場合において、その者が複数の国に属する時は、特にその者の常居所を通じて、その者が最も密接な関連を有する国の法律を適用する。その者がドイツ人でもある時は、かかる法的地位が優先する。 ・・・訳を頼まれたのは遺産相続裁判の案件に関連したものだったので、訳したのはドイツ連邦共和国民法施行法(1896年8月1日法律、最終改正1986年7月25日)のうち国際私法の第四部、相続法に関する部分。以下に抜粋(ウムラウトが文字化けするので直してある)。 Vierter Abschnitt - Erbrecht Artikel 25. Rechtsnachfolge von Todes wegen. (1) Die Rechtsnachfolge von Todes wegen unterliegt dem Recht des Staates, dem der Erblasser im Zeitpunkt seines Todes angehoerte. (2) Der Erblasser kann fuer im Inland belegenes unbewegliches Vermoegen in der Form einer Verfuegung von Todes wegen deutsches Recht waehlen. Artikel 26. Verfuegungen von Todes wegen.(1) Eine letztwillige Verfuegung ist, auch wenn sie von mehreren Personen in derselben Urkunde errichtet wird, hinsichtlich ihrer Form gueltig, wenn diese den Formerfordernissen entspricht 1. des Rechts eines Staates, dem der Erblasser ungeachtet des Artikels 5 Abs. 1 im Zeitpunkt, in dem er letztwillig verfuegt hat, oder im Zeitpunkt seines Todes angehoerte, 2. des Rechts eines Ortes, an dem der Erblasser letztwillig verfuegt hat, 3. des Rechts des Ortes, an dem der Erblasser im Zeitpunkt, in dem er letztwillig verfuegt hat, oder im Zeitpunkt seines Todes seinen Wohnsitz oder gewoehnlichen Aufenthalt hatte, 4. des Rechts des Ortes, an dem sich unbewegliches Vermoegen befindet, soweit es sich um dieses handelt, oder 5. des Rechts, das auf die Rechtsnachfolge von Todes wegen anzuwenden ist oder im Zeitpunkt der Verfuegung anzuwenden waere. Ob der Erblasser an einem bestimmten Ort einen Wohnsitz hatte, regelt das an diesem Ort geltende Recht.(2) Absatz 1 ist auch auf letztwillige Verfuegungen anzuwenden, durch die eine fruehere letztwillige Verfuegung widerrufen wird. Der Widerruf ist hinsichtlich seiner Form auch dann gueltig, wenn diese einer der Rechtsordnungen entspricht, nach denen die widerrufene letztwillige Verfuegung gemaess Absatz 1 gueltig war.(3) Die Vorschriften, welche die fuer letztwillige Verfuegungen zugelassenen Formen mit Beziehung auf das Alter, die Staatsangehoerigkeit oder andere persoeliche Eigenschaften des Erblassers beschraenken, werden als zur Form gehoerend angesehen. Das gleiche gilt fuer Eigenschaften, welche die fuer die Gueltigkeit einer letztwilligen Verfuegungerforderlichen Zeugen besitzen muessen.(4) Die Absaetze 1 bis 3 gelten fuer andere Verfuegungen von Todes wegen entsprechend.(5) Im Uebrigen unterliegen die Gueltigkeit der Errichtung einer Verfuegung von Todes wegen und die Bindung an sie dem Recht, das im Zeitpunkt der Verfuegung auf die Rechtsnachfolge von Todes wegen anzuwenden waere. Die einmal erlangte Testierfaehigkeit wird durch Erwerb oder Verlust der Rechtsstellung als Deutscher nicht beeintraechtigt. ・・・・そんな難しいことが書いてあるわけでもないのだが、とにかく言い回しが分かりにくい。関係代名詞とか形容詞が多くて一文が長いんだよね。辞書を引いたらEine letztwillige Verfuegungは「終意処分」、つまり遺言と出ている。 ただドイツでこういう文章に出くわすのは結構あって、例えばお役所の文章とかアパートの契約書でも独特の言い回しが出てくる。契約書なんかでその晦渋な文章が面倒だと思ってあまり読まずに安易にほいほいとサインなんてしたら、承認したという証拠にされてしまうので後で困ることになる。 まあ日本でもそうだけど、より契約・文書重視の社会と言える。まあアメリカ程の訴訟社会ではないようだが、各自の自己主張の強さは日本とは比較にならないだろう。 この案件は、ドイツ人と結婚してドイツに住んで居た日本人女性の遺産をめぐるものだった。彼女は遺言状を残して、遺産の一部を日本に居る甥に遺贈するとしたのだが、ドイツの法律に従うと署名の位置などが所定の位置にないとかでその遺言状は有効性を持たない。しかし日本法では有効であり、この甥は遺産を受け取る事を望んでおり法的手段に訴えたいとのこと。ドイツ側の家族は遺産を渡したくないらしく、その遺言状は死んだ彼女がまともな状態ではない時に残した、と主張しているらしい。 どっちにしてもなんかそういう話を聞くのはいい気分ではない(幸い僕の周りでは遺産をめぐる骨肉の争いというのはほとんど聞かなかったが)。そういう気分を別にして依頼されるまま法律を武器に交渉するんだから、弁護士というのは因果というか大変だと思うし僕には出来そうもないとも感じたりする。というかこんな文章を毎日読んでいる生活は辛い。 日本で将来裁判員(陪審員)制度を導入するとかいう噂を聞いたが、本当に実施されるんだろうか。 三谷幸喜の出世作「12人の優しい日本人」を見たことがあるが、こんな文章を突然突き付けられたりしても市井の普通人は戸惑うだけで、あの話の中のように漫才みたいな馬鹿騒ぎになりはしないだろうか(もっと法や「人が人を裁くということ」について突っ込んだ話だったら、より感動出来たんだが)。 もちろん法律はもともと弁護士や検察官など限られた人々の専有物ではなく、社会に属する全員のものなのだが。
2006年02月10日
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ドイツのニュースを拾い読み。(引用開始)ラウ前ドイツ大統領死去 ヨハネス・ラウ氏(前ドイツ大統領)27日、ベルリン市内の自宅で死去、75歳。ラウ氏の事務所によると、重い病気を患っていた。99年から04年までドイツ大統領を務め、00年2月にドイツ大統領として初めてイスラエル国会でドイツ語で演説、ナチス時代のホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)を謝罪した。 31年1月、西部ブッパータールで生まれた。57年に社会民主党(SPD)に入党、58年から99年まで西部ノルトラインウェストファーレン州議会議員。78年から98年まで同州首相を務めた。 (時事通信) - 1月27日23時1分更新(引用終了) 健康状態が悪いとは聞いていたが・・・。御冥福をお祈りします。 ヴァイツゼッカー元大統領のような名調子も無ければケーラー現大統領のような国際的な経歴もないが、長年SPDの重鎮としてNRW州首相を務め、大統領就任後(僕が知って居るのは大統領としてのみだが)は素朴で率直、親しみやすい語り口で国民に語りかけていた。 ここの日記にも何度か書いたが、ドイツの大統領は象徴的で政治的実権は無いが、その発言は一定の影響はあり注目される。大体その時々の与党の功労者が選ばれる傾向がありラウ前大統領もそうして選出されたが、一昨年就任したケーラー現大統領はイギリス・アメリカ通で経済にも明るいという理由で選出されている(CDU党員という前提はあるが)。(引用開始)ハマス勝利後初、イスラエル首相代理が独首相と会談へ 【エルサレム=三井美奈】イスラエルのオルメルト首相代理は29日、パレスチナ評議会選挙後、欧州連合(EU)首脳として初めてイスラエル入りするメルケル独首相と会談する。 会談では、イスラム原理主義組織ハマスの選挙勝利を受けて中東和平交渉をどう進めるかが主要議題となるが、オルメルト氏は28日、シラク仏大統領やアナン国連事務総長らに相次いで電話し、「武装解除に応じない限り、ハマス主導政府とは接触しない」との立場を伝えており、メルケル首相にも同様の理解を求める。 中東和平では、米、EU、露、国連が30日にロンドンで4者会合を開く予定で、イスラエル側は国際的な圧力により、ハマスの現実路線への脱皮を促す方針だ。(読売新聞) - 1月30日0時48分更新(引用終了) メルケル首相は就任後まずフランス、ついでEU本部のあるベルギー、ついでイギリスやアメリカ、そしてロシアを訪問した。 まあ独仏枢軸があるからフランスを最初に訪問するというのは当然だが、シュレーダー政権時代に独露枢軸と言われるくらい接近したロシアよりも先にアメリカを訪問した。メルケル首相の課題が独米関係修復だったから当然だが、アメリカとの友好を強調する一方でグアンタナモを批判したりと是是非非の姿勢で臨み、うまくこなしているという印象がある。 次は「歴史」という問題を抱えるイスラエル訪問となったわけだが、折しもパレスチナ議会選挙でハマスが圧勝、中東和平に暗雲が、という時にこの訪問となった。難しい時期とも言えるが、逆にドイツの存在感を示すという点では絶好の時期とも言え、彼女はかなりラッキーな人では無いかと思えて来た。ここはイスラエルに「いつもあなたの味方です」と示すしかないだろう。首相府は既に、パレスチナ訪問中にはハマスとの接触は無い、と発表している。 それとイランの核開発騒動でも、ドイツは国連の安保理常任理事国と並んで対応協議に招かれている。イランにとってドイツは最大の援助国だからだともいえるが、やはりドイツの存在感が目立つ。BNDに代表される中東での情報収集力の高さ、英仏との親密な協力関係などを考えればドイツが呼ばれるのは仕方ないかもしれないが、日本もイランの油田開発や経済援助では小さくないんだが....。やはり呼ばれないんだなあ。まあ上海領事館での失態をみるにつけ、日本の外務省や政治家に対応出来るのかどうか疑問ではあるが。 イランの原子力担当長官が北京詣でをしているのを見るにつけ、安保理常任理事国の椅子がいかに強大な権益かというのが分かる(まあインドや中国はイランをエネルギー供給源として重視しているというのもあるが)。一方ドイツはイランの大統領に「イスラエルを地図から抹殺」とか「ホロコーストは嘘だ。さもなくばイスラエルをドイツに移転しろ」とか言われている上、核開発協議で面子を潰されたのでおかんむりのようだ(ドイツにとってイランはエネルギー供給源としては重要ではない)。 そういやシュレーダー前首相は毎年のように中国詣でをしていて鉄道のみならず武器の売り込みにも御執心だったが、メルケル首相がどう出るか注目していきたい。(引用開始)「イスラム教徒への差別」 独国籍取得希望調査に反発 【ベルリン29日共同】「9・11(米中枢同時テロ)を支持するか」-。ドイツ南部バーデン・ビュルテンベルク州政府が1月1日から全国で初めて実施したドイツ国籍取得希望者に対する調査について、「イスラム教徒への差別だ」との反発が出ている。 連邦政府のメルケル首相と同じキリスト教民主同盟(CDU)が政権を主導する同州は「ドイツ憲法順守が国籍取得の前提」として導入したが、希望者の“イスラム度”を測るような質問が並ぶ。連邦議会で野党が中止を迫っているものの、西部ヘッセン州も同様の調査導入の方針を示すなど論争は広がりそうだ。 ロンドン同時テロやフランスでの移民らによる暴動で、トルコ移民を多数受け入れイスラム教徒に寛容だったドイツ人にも不安感が増大していることが背景にある。(共同通信) - 1月29日19時16分更新(引用終了) まあバーデン・ヴュルテンベルクだったらねえ・・・。ありそうな話だ。ヘッセンというのも、あの州首相だったらやりそうだな。 グアンタナモにはドイツ在住のトルコ人(トルコ国籍)が米軍の捕虜となっていて、テロと無関係だと言うのでメルケル首相がブッシュ大統領に釈放を要求したというニュースもあったが、あの911テロの実行犯の多くはドイツで学んでいたんだったな。・・・・・・ 気になるイラクで誘拐されたドイツ人技師レン・ブロインリッヒとトーマス・ニッチュケの両氏の行方だが、先週末に誘拐犯からのビデオなどが送られて放送された。 二人は目隠しされ武装した一団に取り囲まれている。声明では誘拐犯は「カタイブ・アンサール・アル・タウウィード・ワ・アル・スンナ」(唯一なる神と預言者の慣行の旅団)を名乗り、イラクで逮捕されている女性囚人の解放(そういえば米軍が武装勢力の男を投降させるためその妻を逮捕した、という疑惑が報じられていた)、ドイツ政府に対しては「裏切り者の」イラク政府に対し協力を一切停止し、バグダッドのドイツ大使館を引き上げることを要求している。 専門家によればこのグループはアル・カイダ傘下のグループを名乗っているが、その行動などにやや素人くささが感じられ、昨年起きたオストホフさん誘拐事件の時に似た、単なる身代金目的の犯罪集団、という見方もあるとのこと。・・・・・・ もうすぐトリノ冬季五輪ということだが、僕は全然関心が無い。しかしilaさんのブログで知ったのだが、ドイツでは五輪派遣チームをめぐりちょっとした騒動があるらしい。 フィギュアスケートのペアでコーチを務めるインゴ・シュトイアー氏(39歳)が、旧東ドイツ時代にシュタージ(国家保安庁)の非公式協力者だったという過去が明るみになり、ドイツ・スケート協会によりトリノ・オリンピックに派遣される代表コーチから外された。同氏はこの裁定を「社会的抹殺」であり不服として法的手段に訴えるという。 トリノ・オリンピックに派遣されるドイツ代表のコーチや役員162人のうち3人が先日行われた審査によりシュタージへの協力という過去が判明し、既にスキージャンプのコーチを務めるヘンリ・グラス氏はトリノ行きを辞退している。シュトイアー氏は長野五輪の銅メダリストで、またグラス氏も冬季五輪に三回選手として参加しているが、コーチという立場によってこの審査を受けて過去のシュタージへの協力が判明し、この事態に至ったという。 ドイツの法律では、2006年末までの15年間時限立法として、公的立場にある者はシュタージの書類を管理するビルトラー機関(以前は前任責任者の名前をとってガウク機関と呼ばれていた)の審査を受けねばならない。すなわち五輪に関してはこのトリノ五輪がこうした審査の最後となる。こうした審査はいわば戦犯に対する公職追放措置のようなものだが、こういうのを見ると東ドイツというのはドイツの中でやはり「敗戦被占領国」のような扱いを受けているのだと感じる。 シュタージは治安維持のために密告を奨励し、同級生、同僚などに反政府・反共産主義的な言動をする者がいないか国民に報告させた。例えば僕の先生の姉婿は反政府的言動で当局から睨まれ結局西ドイツに亡命した人なのだが、東ドイツ崩壊後にこのシュタージの自分について記録された書類を閲覧すると、彼の言動や交友関係が3000ページにわたって、学校に入ってから西ドイツに亡命するまでの期間について微に入り細に渡って記録されていたのである。その密告者は学校の同級生や職場の同僚というごく親しく接していた人たちだった。 こうした情報提供者は当時の東ドイツ国民のうちのかなりの数に上る。ナチス時代のドイツ国民の多くがナチス党員だったのと似ている。あたかもナチスが敗れて戦犯として追及を受けたのと同様に、東ドイツの崩壊(1990年)後にシュタージとその協力者は追及を受ける事になった。しかしその書類があまりに膨大であり(ドイツ人の書類好き!!)、また協力者が相当数に上ることから大きな社会問題となった。東ドイツが滅びてもう16年が経とうとしているが、まだその心の溝は埋まらない。 シュトイアー氏の場合、まだ10代か20代の始めにシュタージの非公式協力者にされたことになる。当局によって同級生とかの言動を教えろとでも慫慂されたのだろうか。それとも本人にその気が無いのにシュタージの書類に名前が載せられてしまったのだろうか。五輪開始まで二週間を切った今の今になってこうした過去が暴かれチームから外されることにはやや釈然としないものが残る。あまりに書類が膨大で調べるのも大変だという事情もあるのだろうが、あたかも戦犯狩りのように外すのはいかがなものだろう。 密告は憎むべき行為とはいえ、五輪代表選考みたいに協会の裏事情なんかも絡んだりしていないだろうかと勘ぐりたくなる。(追記) 裁判所はシュトイアー氏の訴えを認め、トリノ五輪参加を禁じたドイツ・オリンピック協会の判断を不当とした。2月6日に協会側の反論も退けられ、シュトイアー氏のトリノ行きが決定した。
2006年01月29日
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ドイツでアンゲラ・メルケル女史(キリスト教民主同盟=CDU)が第8代首相に就任した。「ドイツ史上初の女性首相」ということが注目されているが、実は戦後ドイツでは就任時点で最も若い首相でもある。また旧東ドイツ(「オッシー」)の出身であることも話題となった。職業政治家の多いドイツ政治に新風を巻き起こせるか。(引用開始) <ドイツ>メルケル新政権発足 初の女性、旧東独出身首相 【ベルリン斎藤義彦】ドイツ連邦議会(下院)は22日、メルケル・キリスト教民主同盟党首(51)を戦後8代目の首相に選出した。史上最年少で、女性、旧東独出身はともに初めて。新首相は同日中に閣僚を指名し、議会で就任宣誓を済ませた後、閣議を開き、戦後2度目の民主・社会同盟と社会民主党の大連立政権を発足させた。混乱した政局は総選挙から65日ぶりに収拾された。ただ、首相指名投票で与党内から100人近くの造反が出た模様で、新政権は船出から困難に直面することになった。 首相指名には総議席数614の過半数の賛成が必要で、同党首は397票を獲得、首相に選出された。秘密投票で詳細は不明だが、反対票202票のうち、最大97票が与党、特に社民党から出た可能性がある。今後、民主同盟が社民党の責任を追及する可能性もある。 2大政党が大連立を組むのはキージンガー政権以来39年ぶり。閣僚は両党で半数ずつ分け合い、ミュンテフェリング前社民党党首が副首相兼社会労働相として入閣する。 新政権の最大の課題は戦後最大級の約455万人(失業率11%)に増大した失業問題の解決で、企業の負担を減らして投資を促すための社会保険料引き下げや、研究振興などで、経済成長と雇用拡大を目指す。また子育て支援策にも取り組む。 新首相は23日にフランスと欧州連合(EU)本部のあるブリュッセルを訪問し、外交デビューを飾る。シュレーダー前政権を特徴付けた反米色の強い外交は後退する一方、防衛軍の紛争地への派兵や、脱原発、環境税などの政策は継承される。 両党は9月18日の総選挙でともに過半数がとれず、前首相とメルケル党首が次期首相就任を主張して政局が混乱。今月18日になってようやく連立協定に調印した。(中略) ▽デッカー・ボン大教授(政治学)の話 新政権は「清算内閣」になるだろう。大連立は自党の政策を実現できない代わりに、不人気な政策も連立相手のせいにして実行できる利点がある。メルケル政権が消費税引き上げや歳出削減で財政赤字解消に積極的に取り組むのはそのためだ。国民も改革をある程度支持しているが、経済成長も失業者数減もなければ、国民の失望を招く恐れもある。(毎日新聞) - 11月23日0時13分更新(引用終了) この記事にも載っていたが、メルケル内閣の人事は以下の通り(カッコ内は所属政党や前歴など)。・首相 アンゲラ・メルケル博士(CDU党首、元環境相、元婦人青少年相)・農業・消費者保護 ホルスト・ゼーホーファー(CSU、元保健相)・家族 ウルズラ・フォン・デア・ライエン博士(CDU、ニーダーザクセン州社会相)・内務 ヴォルフガング・ショイブレ博士(前CDU党首、元内相)・教育研究 アンネッテ・シャーヴァン博士(CDU、前バーデン・ヴュルテンベルク州文化相)・国防 フランツ・ヨーゼフ・ユング博士(CDU、ヘッセン州議会党幹事長)・経済 ミヒャエル・グロス(CSU、党院内総務)・労働(兼副首相) フランツ・ミュンテフェリング(前SPD党首)・外務 フランツ・ヴァルター・シュタインマイアー博士(SPD、首相府長官)・財務 ペール・シュタインブリュック(SPD、前ノルトライン・ヴェストファーレン州首相)・交通 ヴォルフガング・ティーフェンゼー(SPD、ライプツィヒ市長)・環境 ジグマー・ガブリエル(SPD、前ニーダーザクセン州首相)・保健 ウラ・シュミット(SPD、留任)・法務 ブリギッテ・ツィプリース(SPD、留任)・開発協力 ハイデマリー・ヴィチョレック・ツォイル(SPD、留任)・首相府 トーマス・デ・メジエール博士(CDU、ザクセン州内相) 首相を含む閣僚のうち女性は6人、東ドイツ出身者は三人になる。 以前の日記に簡単に書いたが、メルケル新首相の経歴など。 アンゲラ・ドロテア・メルケル(博士)は1954年7月17日、牧師ホルスト・カスナーと教師ヘルリンド・カスナーの長女としてハンブルクに生まれる。生後間もなく父親が東ドイツ(当時)国内クヴィッツォウの牧師に就任したため家族とともに東ドイツに移住。弟と妹がいる。1957年から一家はブランデンブルク州テンプリンで生活する。 アンゲラは子供の頃から算数と語学(ロシア語)が得意だったという。東ドイツの子供の通例としてFDJ(ドイツ共産党青年団)に入るが、宗教的理由から党への宣誓を拒んでいる。1973年にライプツィヒ大学に入学(物理学専攻)、5年後に卒業する。卒業時に国家保安省から入省を勧められるが断っている。のちに公開されたシュタージ(東ドイツ秘密治安警察)の書類には、彼女の国家と共産主義に対する批判的姿勢とポーランドの自主管理労組「連帯」への賛同が記録されており、やや危険人物と見られていたようだ(シュタージは国家に刃向かう危険のある人物は徹底的にマークし事細かに記録している)。 彼女は研究の道を進み、卒業と同時にベルリンにある科学アカデミーの助手となる。学生時代の1977年に物理学者ウルリッヒ・メルケル氏と結婚していたが、1982年に離婚。1986年、ルッツ・ツュリッケ教授の指導で博士号を取得。その研究は炭水化物の分解に関するものだった。 1989年、東ドイツで自由化運動が起きるが、彼女はそれ以前の反体制運動(主に教会が拠点)に加わったことはなく、また共産党にも入党していなかった(アカデミー内でFDJの宣伝活動職に就いたことがあったくらい)。1989年、彼女は小政党「自由への前身」に入党し、党のスポークスマン(パーソン)となる。1990年の人民議会選挙後、ロタール・デ・メジエール首相(東ドイツ最後の首相、CDU)のスポークスマン代理に就任。8月に彼女の政党とCDUが合流したことでCDUに入党する。東西ドイツ統一直後の12月に行われた総選挙で小選挙区で立候補して当選。 1991年1月、ヘルムート・コール内閣の婦人・青少年相に抜擢される(当時メルケルは36歳)。彼女が「コールの娘」と呼ばれる所以である。同年12月、CDU幹事長代理、また1993年からはメックレンブルク・フォアポメルン州の議員代表に就任する。1994年の総選挙後、第4次コール内閣の環境・自然保護・原発保安相に指名される。使用済核燃料移送問題で「緑の党」に激しく攻撃され、辞任を要求されたこともあった。 1998年の総選挙でCDUが敗れると、コールが退きヴォルフガング・ショイブレ元内相が党首に就任、メルケルは党幹事長に就任する。この直後の1998年12月、彼女はベルリン大学のヨアヒム・ザウアー教授(化学)と再婚している。なお子供は居ない。 ところが間もなくCDUにコール政権時代の不正献金疑惑が発覚、コールやショイブレは追究される。コール元首相に「お嬢ちゃん」と呼ばれていたメルケルは猛然とコールの不正を追及、またショイブレの不明瞭な証言を攻撃して党の刷新を主張した。旧東ドイツ出身で女性という、旧来の職業政治家と無縁な清新なイメージもあって彼女は党内の支持を伸ばし、2000年4月の党大会で96%の支持で党首に承認された。 2002年の総選挙では姉妹政党CSUのエドムント・シュトイバーと首相候補指名を争ったが、朝食での協議の結果シュトイバーに首相候補の座を譲った。なおシュトイバー率いるCDU・CSU連合は僅差で現職のシュレーダー首相に敗れた。シュレーダー政権が支持を失う中で地方選挙で連勝、また大統領にCDUの候補(ホルスト・ケーラー現大統領)を就けることにも成功して党内に根強い彼女の能力に対する疑問を払拭し、今年5月、シュレーダー首相が総選挙の前倒しを決定した時には、CDUは彼女を首相候補とすることですぐに纏まった。 今年9月の総選挙では事前の予想に反して意外な苦戦となり、第一党にはなったもののSPDとの大連立を余儀なくされることとなった。さらに党内には彼女のかかげる政策や能力に公然と意を唱える者もあり(フリードリッヒ・メルツ前院内総務、ヘッセン州のローラント・コッホ州首相など)、苦しい政権運営が予想される。 外交面では、2003年のイラク戦争の際彼女は個人的には反対の意を示したが、直後にアメリカを訪問して関係修復?に努めている。対米関係はシュレーダー時代よりは好転すると考えられる。またトルコのEU加盟には反対の立場であり、「特別な協力関係」に留まることを主張している。またコソヴォのセルビアからの独立にも反対の立場である。EUの対中武器輸出解禁にも反対の立場のようだ。アフガニスタンなど紛争地への積極的な派兵は継続し、また国防相は徴兵制による軍隊も維持すると表明している。 コール首相に抜擢された当初は、太り気味の体を地味な色のスーツで包み髪はおかっぱとまるで化粧っ気もなく、いかにも「オッシー」の代表と見られていたが、党首に就任した頃からコーディネーターでもついたのか(それとも新婚のザウアー教授の趣味??)、髪形や服装に気を使うようになったのが明らかに見て取れる。髪の毛も前はもっと濃かったように思うのだが、染めていたのかそれとも今脱色しているのだろうか。ちなみに彼女の愛称は「アンジー」である。 政策の主張などはときに揺れが見られたりといささか頼りないと指摘されることもあったが、むしろこれからの手腕が見ものだろう。
2005年11月23日
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日本ではAPEC(アジア大平洋経済協力会議)に伴うブッシュ大統領の訪日、日韓首脳会談、日露首脳会談などが話題になったが、ドイツでは連立協定が調印され、いよいよ大連立政権とドイツ史上初の女性宰相が誕生する。 来る人あれば去る人あり。(引用開始) シュレーダー独政権に幕 イラク戦争で米と衝突【ベルリン20日共同】ドイツ初の女性首相率いるメルケル政権が22日に発足するのに伴い、イラク戦争をめぐり戦後ドイツ指導者としては初めて米国と本格衝突し、7年間の在任中はフランスとともに欧州連合(EU)を主導したシュレーダー首相が表舞台から退場する。 19日夜には故郷近くの北部ハノーバーで連邦軍も参加した盛大な式典が開かれ、ケーラー大統領らが首相に別れを告げた。首相自ら選曲したフランク・シナトラの「マイ・ウェイ」の軍楽隊による演奏が、「主権国家」を掲げ米国に逆らった首相の最後の“意地”を見せつけるようだった。(共同通信) - 11月20日18時10分更新(引用終了) シュレーダー「前」首相の正式な在任期間は先月18日で終了しており、現在は暫定首相という地位だった。この式典にはニーダーザクセン州のクリスティアン・ヴルフ州首相(CDU)も参列していたが、かつてシュレーダー首相はこの州の州首相だった。 シュレーダー首相が自ら選び、軍楽隊が演奏したお別れの曲は記事にある「マイ・ウェイ」の他、ガーシュウィンの「サマータイム」、そしてクルト・ヴァイル「三文オペラ」から「メキ・メッサーの殺人物語大道歌」だったという。首相は式典の最後にさすがに感極まったか目に涙を浮かべたという。 この記事だとシュレーダー首相の功績がイラク戦争反対だけだったように見えてしまうが、シュレーダー政権の7年間に他にどんなことが行われたのか、首相の事蹟とともに書いておこう。 シュレーダー首相はゲルハルト・フリッツ・クルト・シュレーダーが本名で(ドイツでは名前をいくつも持つようだが、日常の通名としてはそのうちの一つしか使わないようだ)、モッセンベルク(現ニーダーザクセン州リッペ市)で労働者の家庭に1944年4月7日生まれる。父親は彼の誕生半年後の1944年10月に工兵として従軍していたルーマニアで戦死しており、彼は父親に会ったことがない。彼には4人の姉がいるが、母親は再婚して異父弟が一人居る。彼が父親の墓参りを初めて実現させたのは、首相としてルーマニアを公式訪問した2004年8月のことだった。 苦しい家計の中、国民学校卒業後ゲッティンゲンで大工見習いや店員として働き、働きながら夜学や補習校に通って大学入学資格を得る。1966年にゲッティンゲン大学に入学して法学を学び、1971年に法学国家試験に合格、さらに1976年には国家試験に合格し弁護士となった。弁護士として元西ドイツ赤軍メンバーであるホルスト・マーラーの弁護を担当したこともある。なお戦死者の一人息子ということで兵役は免除されている。 夜間学校在学中の1963年に社会民主党(SPD)に入党、大学最終年の1971年にはゲッティンゲン地区のJuso(社会主義青年団=SPDの下部組織)代表となっている。1978年から80年まではJusoの連邦代表を務め、1980年に連邦議会に当選、1986年まで議員を務める。1983年にはハノーファー地区の党代表に就任、1986年にニーダーザクセン州議会議員に転じて議員代表となり、1990年の州議会選挙で勝利してニーダーザクセン州首相に就任した。なお州首相としてフォルクスワーゲン社の監査役にも就任している。 当初「緑の党」との連立、のちにSPD単独政権で二度(1994年、1998年)州首相に再選された。1997年にはニーダーザクセン州首相として連邦参議院議長も務めている(ドイツの参議院は地方議会・政府の代表で構成される)。この間1993年には党の中道派としてSPD党首選挙に出馬するが、ルドルフ・シャーピング(のち国防相)に敗れている。 シュレーダー氏は在学中の1968年に最初の結婚をするが3年で離婚。その後二度結婚するが、それぞれ12年、13年の結婚生活に終わった。1997年に19歳若いジャーナリストのドリス・コェップフと四度目の結婚をし、現在に至っている。彼自身に子供は居ないが、ドリス夫人の娘クララとの関係は良好という。また夫妻は2004年にヴィクトリアという名前のロシア人少女を養子としている。 宗教的にはプロテスタントだが、あまり宗教的言動はない。上海、ザンクト・ペテルスブルク、イスタンブル、ゲッティンゲンの大学から名誉博士号を授与されている。 1998年の総選挙では首相候補として連邦議会選挙に出馬して当選、SPDが第一党となったことを受け、緑の党との連立で10月27日にドイツ連邦共和国第7代首相に指名された。 シュレーダー首相はSPD内部では現実派、新中道路線とされ、一方でその公約は即物的でヴィジョンに欠けるという批判もあった。党左派を代表するラフォンテーヌ蔵相・SPD党首(当時)とは組閣直後から経済・財政政策で路線対立し、半年足らずの1999年3月に辞表を叩き付けられている。シュレーダー首相は党首を兼任し、ラフォンテーヌの後任にハンス・アイヒェル(前ヘッセン州首相)を据えた。 環境政策を重視する「緑の党」との連立だったため、脱原発政策(ここ数年で風力発電の風車が増えたこと!)や環境税の導入(ガソリンに課税)などの実績を上げた。また難民の受け入れ、技術者や熟練労働者に対するグリーンカード制度の導入、社会保障制度改革、税制改革、財政改革などを推し進めた。就任早々の1999年3月には人道介入を名目としてNATOによるユーゴスラヴィア(現セルビア・モンテネグロ)空爆に参加、戦後初めてドイツは戦争を遂行することとなった。就任一年目は野党CDUの不正献金疑惑もあって、SPDに対する支持率は高かった。 その改革路線は野党CDUのみならず、連立相手の緑の党、さらに党内左派からの批判を浴びることも多かったが、改革路線の看板を下ろすことはなかった。2002年3月 にはペーター・ハーツを座長とする失業対策委員会を発足させるが、失業対策は効果を表すどころか状況は悪化して国民の不満が高まった。 2001年9月のアメリカでの同時多発テロでは即座にアメリカとの連帯を表明、アメリカによるアフガニスタン攻撃も支持し、対テロ戦争のためインド洋に軍艦などを派遣した。また国連によるアフガニスタン復興支援に参加、陸軍部隊をアフガニスタン治安維持のために派遣している(現在に至る)。このアフガニスタンでの活動では、これまでに5名の兵士が自爆攻撃により死亡している。 2002年1月には新通貨ユーロへの移行を実現した。ドイツ外交の基盤をEUに置き、フランスとともにEUの主導国としてその東方拡大にも熱心で、2004年の10か国加盟を実現している。トルコのEU加盟についても容認の立場をとった。 2002年の総選挙では、直前の東ドイツでのエルベ川大洪水で首相が陣頭に立って災害対策を指導したこと、また予定されていたアメリカのイラク攻撃に対して明確に反対の意を表明したことが功を奏して、連立政権側は薄氷の勝利を収め、10月22日に第二次シュレーダー内閣が発足した。 イラク戦争反対の立場は国民の支持を得る一方で、対米関係は戦後最悪と言われる程に冷却化した。一方でシュレーダー政権はロシアとの関係強化、そして中国との貿易拡大に特に熱心で、首相はその在任中、財界人を引き連れて毎年中国を訪問した。EUによる対中武器輸出解禁を主張したが、連立相手である緑の党との合意には至らなかった。 2003年3月、世界のグローバル経済化や高齢化社会の到来などを見越した改革の指針である「アゲンダ2010」を発表する。しかしその改革は国民に社会保障の削減を強いるものであり、従来のSPD支持層だった労働組合の支持を失い、シュレーダー政権の人気は急激に低下する。地方選挙では与党の連敗が続き、その結果連邦参議院では野党CDUが多数を占める事態となり、改革にブレーキとなった。2004年3月の党大会では党首を辞任し幹事長のフランツ・ミュンテフェリングに党首の座を譲ったが、党勢を回復することは出来なかった。 失業者が500万人を越えた2005年には地方選挙で連戦連敗、SPDの地盤であるノルトライン・ヴェストファーレン州での敗北を受け、総選挙の前倒し実施を発表、自ら不信任決議を受けて議会を解散するという異常事態となった(議会は独自の解散権をもたないことによる措置)。総選挙は事前の予想に反して大接戦となったが結局SPDは第一党の座をCDUに譲ることとなり、シュレーダー首相は10月18日をもって退任、次期首相が指名されるまでの暫定首相職に就いていた。 シュレーダー首相は以前の宰相と比べようがないほどにメディア露出を意識し、仕立てのいい背広や葉巻きを愛好する一方で(あと現代絵画も好き)、ビールを飲み干したりサッカーに興じたりするその姿は、良くも悪くも国民に親しみ易いものとなった。テレビやラジオでもずいぶんいじられたものだった。僕はずんぐりむっくりの体格なのだが、シュレーダー首相に体格が似ている、と言われたこともある(顔は全然似ていない)。 首相は退任後は第一線から退くと言うことだが、僕のように傍から見ていると今のドイツは誰がやっても多かれ少なかれシュレーダー首相のような路線を採らざるを得ないのでは、と思い少々可哀想な気もする。日本もそうだろうが、メルケル新首相が志向していかざるを得ないであろうアメリカ型の弱肉強食社会(TOBだか何だかしらないが、どうもホリエモンにしろ村上なんとかにしろ三木谷さんにしろ好きになれないなあ)は、ドイツには向いてないのではないかとも思える。 最後は左からも右からも嫌われたが、従来の社会民主主義とこれから来るであろう厳しい現実(高齢化社会、グローバリゼーション...)との折り合いをつけようと頑張っていたシュレーダー首相には、もう少し時間をあげたかったとも思う。まあ彼の外交政策は手放しでは支持出来なかったし、解散総選挙前倒しを決めたのは彼自身だから、この結果は納得ずくなのかもしれないが。(追記) 政界引退後、シュレーダー前首相はスイスの出版社の重役に就任、自伝の出版を準備中。またロシアとドイツを結ぶバルト海海底パイプラインの監査役に就任、主に経済を通じた独露友好の立役者として当然という声もあるが、政界から財界への転進に批判も受けている。
2005年11月21日
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Bin wieder in Marburg. Am Samastag Geburtstagsparty f?r E-kun und am Sontag in Wabern. Sch?nes Wetter, aber deutlich k?lter. Mensa ist voll mit den Ersties. Eigentlich Semesteranfang ist n?chste Woche. Wie Schade f?r Hawks, aber gratuliere Marines (erst seit 31 Jahren)................Das Personal der neuen Bundesregierung steht fest.(Zitat)Merkel stellt Minister der Union vorBerlin (AFP) - CDU-Chefin Angela Merkel hat die Kabinettsliste der Union vorgestellt. CSU-Vize Horst Seehofer wird Agrar- und Verbraucherschutzminister, die nieders?chsische Familienministerin Ursula von der Leyen (CDU) ?bernimmt dieses Amt im Bund. Der hessische CDU-Fraktionschef Franz Josef Jung wird neuer Verteidigungsminister, Ex-CDU-Chef Wolfgang Sch?uble Innenminister. Die baden-w?rttembergische Kultusministerin Annette Schavan soll das Ressort Bildung und Forschung ?bernehmen. Als Wirtschaftsminister steht CSU-Chef Edmund Stoiber bereits seit l?ngerem fest.(Zitat Ende) Neue Ministern -Bundeskanzlerin: Angela Merkel(CDU, Parteivorsitzende) -Agrar- und Verbraucherschutz: Horst Seehofer(CSU, ehemaliger Gesundheitsminisiter)-Familien: Ursula von der Leyen(CDU, niedersachsische Sozialministerin)-Verteidigung: Franz Josef Jung(CDU, hesseischer Landtagsfraktionschef)-Innen: Wolfgang Sch?uble(CDU, ehemaliger CDU-Vorsitzender)-Bildung und Forschung: Annete Schavan(CDU, ehemalige baden-w?rtembergische Kultusministerin)-Wirtschaft: Edmund Stoiber(CSU, Bayerischer Ministerpresident)-Arbeit(als Vize-Kanzler): Franz M?ntefering(SPD, Parteivorsitzender)-Au?en: Frank Walter Steinmeier(SPD, Chef des Bundeskanzleramts)-Finanz: Peer Steinbr?ck(SPD, ehemaliger nordrhein-westf?lische Ministerpr?sident)-Verkehr: Wolfgang Tiefensee(SPD, Leipziger Oberb?rgermeister)-Umwelt: Sigmar Gabriel(SPD, ehemaliger nieders?chsische Ministerpr?sident)-Gesundheit: Ulla Schmidt(SPD, Derzeitige Ministerin)-Justiz: Brigitte Zypries(SPD, Derzeitige Ministerin)-Entwicklungshilfe: Heidemarie Wieczorek-Zeul(SPD, Derzeitige Ministerin)-Kanzleramtschef: Thomas de Maizi?re(CDU, s?chsischer Innenminister) Ein Hesse als Verteidigungsminister!(Zitat)Struck-Nachfolger h?lt an Wehrpflichtarmee festBerlin (ddp). Der designierte Nachfolger von Verteidigungsminister Peter Struck (SPD), Franz Josef Jung (CDU), will an der allgemeinen Wehrpflicht festhalten und auch an der von Struck eingeleiteten Reform der Bundeswehr nicht r?tteln lassen. Das neue Stationierungskonzept, das eine Reduzierung auf knapp 400 Standorte vorsieht, werde "in der Kontinuit?t weiterentwickelt", sagte Jung am Montag nach seiner Nominierung in Berlin. Ob allerdings der Wehretat mit seinen 24 Milliarden Euro wie geplant steigen werde, sei angesichts der angespannten Haushaltslage nicht vorhersagbar.Der Vorsitzende des Deutschen Bundeswehrverbandes, Bernhard Gertz, begr??te die Nominierung von Jung, Zugleich warnte er davor, den Streitkr?ften im Zuge der Haushaltssanierung Geld wegzunehmen. Dem neuen Finanzminister Peer Steinbr?ck (SPD) m?sse man "verklickern, warum bei der Bundeswehr nichts mehr zu holen ist", sagte Gertz dem "K?lner Stadt-Anzeiger"; (Dienstagausgabe). Er setze dabei darauf, dass Steinbr?ck Leutnant der Reserve sei. (Zitat Ende)
2005年10月17日
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今はカッセル近郊のとある場所に滞在中。ドイツ中部を南へ北へ。先週後半は20℃超と暖かい日が続いた。この辺りは朝方すごい霧に包まれる。・・・・・・・・・・ パキスタンの地震は死者二万に及ぶ勢いという。アメリカもそうだが、どうも最近大きな自然災害が多い。・・・・・・・・・・・・ ドイツの連立協議も正念場になっている。シュレーダー首相の退陣は避けられない模様。(引用開始) 初の女性首相めぐり攻防 独2大政党がトップ会談へ (共同通信) 【ベルリン9日共同】ドイツ初の女性首相が誕生するかどうかを決める2大政党のトップ会談が9日夜(日本時間10日未明)、ベルリンの連邦議会で行われる。シュレーダー首相の社会民主党(SPD)と女性首相候補メルケル氏のキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)が、大連立政権発足に向けた詰めの攻防を繰り広げる。 両陣営は閣僚や連邦議会議長などのポスト配分で歩み寄っているもよう。シュレーダー首相退陣を交換条件にSPDがどれだけ主要ポストを握れるかが焦点とみられる。[ 2005年10月9日15時50分 ] (引用終了) ニュースを見た限りでは、SPDは国防、外務などの重要ポストを得る模様。ポスト配分はSPD8、CDU6という。当初外相就任が言われていたシュトイバーCSU党首(バイエルン州首相)は経済相か内相就任を希望しており、CDUと政策・主張が似通うペーター・シュトルック国防相やオットー・シリー内相は留任する模様(強硬路線でブッシュ政権に受けのいいシリー内相は外相に転じるという予想もある)。シリーが外相??ドイツもおしまいだ。 CDUの州首相からはペーター・ミュラー州首相(ザールラント)、クリスティアン・ヴルフ州首相(ニーダーザクセン)などが連邦内閣に入ると見られている。閣僚が決まったらこの日記でも紹介してみよう(暇があればですが)。 しかし「大勝」したFDPやLinkeはどこに行ってしまったんだ。
2005年10月09日
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風邪のほうは熱が引いて一段落。しかしまだ咳と鼻詰まりが止まらない。万全の調子とはいかないようだ。・・・・・・・ ドイツのニュースをいちいち追いかけるのも面倒になってきたので、今日は転載でごまかそう。(以下引用) 独新政権 「大連立」の方向 90年連合・緑の党参加否定【ベルリン=黒沢潤】十八日に行われた総選挙の結果、勝者不在の異例の事態となっているドイツでは、第一党となった野党キリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)が政権の枠組み作りを続けているが、二十一日時点で選択できる連立の形態としては、与党、社会民主党(SPD)との「大連立」に絞られつつある。 CDU・CSUとSPDは二十二日、大連立をにらんだ交渉を行うが、これに先立ち、CDU・CSUは二十日、首相候補のメルケル氏を新議員団長に再選した。CDU・CSU内部では選挙後、事前の得票予想を大幅に下回る選挙結果について、同氏の責任を問う声がくすぶっていたが、当面は同氏を前面に押し立てて連立交渉を行う姿勢を確認した。 二十二日の連立交渉でメルケル氏は、SPDのシュレーダー首相らとの会談で大連立実現の可能性を探る。これに関連し、SPD幹部のウォーウェライト・ベルリン市長は二十日、地元ラジオに対し、シュレーダー首相抜きの大連立の可能性について言及した。両党内では、四年間の大連立の期間中、メルケル氏とシュレーダー氏に二年ずつ首相職を任せる妥協案も取りざたされている。 一方でCDU・CSUは、野党の自由民主党(FDP)に加え、連立与党の90年連合・緑の党との「ジャマイカ政権」(三党のシンボルカラーと同国国旗の類似性からの命名)実現の可能性もなお、模索している。 90年連合・緑の党とCDU・CSUは二十三日に連立交渉を行う予定だが、両党間では、税制や雇用・環境政策面での隔たりが大きい。これに関連し、90年連合・緑の党のビュティコファー代表は二十一日、「CDU・CSUとは多数の課題で互いの方針が合致せず、彼らとは裏口から首相府に入れない」と述べ、政権入りしない考えを表明。このため、「ジャマイカ政権」実現の可能性は小さくなりつつある。 一方、SPDと90年連合・緑の党は二十一日、今後の情勢について意見交換したが、左派党との連立や閣外協力の可能性を否定した。(以下略)(産経新聞) - 9月22日2時29分更新(引用終了) まあこんなもんですかね。しかし「任期を半分づつ」というのはひどい案だな。アイスランドでは過去にそういう例があったと思うけど(連立協議に基づくドットソン前首相→アウスグリムソン現首相への禅譲)。大連立したらますますひどいことになりそうに思うのだが。少なくともSPDは日本の社会党みたいになりはしないだろうか。 あと緑の党とFDPはやはり相容れないようだ。うちと連立組むならFDPは生まれ変わらないと、とまで言っているようだし。SPDはFDPとの信号機連立にやぶさかではないようで呼びかけを続けているようだが。・・・・・・・・ 今週の「シュピーゲル」はなかなか面白い記事が多い。毎週月曜の発売なので選挙に関しては特別号が出ていてこの号には出ていないのだが、ドイツ首相の執務についての記事で、具体的にはドイツ首相官邸の様子や専用車、専用機、外国貴賓出迎えの式次第などについて書いてある。 設立50周年を迎えたドイツ連邦軍についての記事もあるが、今日はケルン大聖堂の前でセレモニーがあったようだ。反戦団体からはキリスト教のシンボルと軍隊を結びつけるのはけしからん、とするデモがあったようだが、シュレーダー首相は「ドイツ連邦軍は民主主義の軍隊であり、人権擁護の為に尽力している」とその役割を称えたそうだ。また今日はアフガニスタン(ISAF)での駐留延長と任務拡大も閣議決定された。 冷戦中の1964年には連邦予算の33%を軍事費が占め、徴兵期間も18ヶ月だったが、現在は予算削減の対象となって予算は9.5%、徴兵期間は半分の9ヶ月になっている。もっとも、ドイツが連邦軍が初めて戦争したのは冷戦終結後のことで(対ユーゴスラヴィア)、治安維持と復興支援の為に駐留するアフガニスタンでは現在まで17人の死者(うち攻撃による死亡4名)を出している。以上二つの記事についてはまた触れるかもしれない。 海外の記事もあったが、ロシアでは右派の政治家の肝いりで、ウクライナのティモシェンコ前首相とグルジアのサアカシヴィリ大統領(のそっくり?さん)が絡むポルノ映画が作られるらしい。いくらこの両国がロシアから離れたとはいえ、程度低う。ドイツと同日に36年ぶりの選挙が行われたアフガニスタンのハミード・カルザイ大統領のインタビュー記事もある。あとは中国関係の記事が多かった。日本でも報じられた、死刑囚(昨年は少なくとも3400人が処刑されている)の肌からコラーゲンが作られ輸出されているという記事のほか、当局のインターネットの検閲に関する記事など。 そして日本やドイツどころの騒ぎでは済まないと予測される、中国とインドでの高齢化社会の到来についての予測記事が出ている。中国では2050年には60歳以上が人口の31%を占めると予測されているそうだが(インドは21%。2050年にはインドが人口16億人で中国を抜いて世界一になると予測される)、日本と同じように年金制度が破綻したりするんですかね。まさか景気維持のために人口を際限なく増やすわけにもいかないだろうし。中国経済が伸びるというのは短期的には間違い無いが、高齢化社会を迎えたときにどうなるのだろうか。まあその頃には僕はこの世にいないだろうし知ったことではないが。一人っ子政策ならぬ姥捨て山政策とかしかねないな、共産党政府は(笑)。なんといっても全体主義ですからね。 中国経済には興味はあるが、中国の体制を見るヨーロッパの目は徐々に厳しくなっているように感じる(まあ元々ドイツの雑誌に日本に対しても好意的な記事が載る事はあまりないのだが)。今週号はたまたまそういう記事が並んだだけか。・・・・・・・・・ 昨日の日記に載せる予定だった、ドイツのワイマール共和国時代の選挙結果について書く。なぜこんなのを書くかというと、勝者不在の今回の選挙結果や混迷の連立協議、そして仮に新内閣が成立したとしても、その前途多難は目に見えていて、なんとなくワイマール時代を連想したからである。あまりに突飛な連想かもしれないが。 ワイマール体制については、ネット上では別宮暖朗氏の「第一次大戦」というホームページがあって、ワイマール共和国時代の選挙結果に関するページもあるので、そちらを見てもらったほうが早いし、ここに書くのは屋上にさらに屋根を掛けるようなものだが、まあ僕は書いて覚えるたちなので、備忘のために書く。 ワイマール共和制下の選挙制度は100%比例代表制だった。こうかくと死票が少なくていかにも結構に思えるのだが、この結果小政党が乱立し、その混乱の中からナチスの台頭を許すことになった(そのため今のドイツでは5%以下の得票しかない政党は議席が得られず、小政党の乱立を防いでいる。一方極端な例として、やはり小党乱立が続いたトルコでは最近10%条項というのが決められ、その結果国会に政党が二つしかない事態になっている)。 また似たような小政党が並ぶので、ナチスや共産党のような極端な主張をする政党が目立ってそちらに票が流れやすく、健全な中道政党が育たなかった。また別宮氏が指摘するように、地元に密着した政治家が育たず、また比例名簿順位が全てなので議員は党執行部の方針に逆らえないという決定的な弱点がある。また比較的強かったドイツ共産党が、自らの勢力拡大のためとはいえしばしばナチスと組んでSPDを攻撃し、健全な政党政治を妨害したことも大きかっただろう。 以下に結果を書く。・制憲選挙(1918年1月19日、定数421) ドイツ社会民主党(SPD)163、カトリック中央党91、ドイツ民主党(DDP)75、ドイツ国家人民党(DNVP)44、ドイツ共産党(独立社会民主党=USPD含む)22、ドイツ人民党(DVP)19、その他7(選挙後、SPD、中央党、DDPの連立によりシャイデマン(SPD)内閣成立)・第一次帝国議会(1920年6月6日、定数459) SPD102、共産党(KPD)88、DNVP71、DVP65、中央64、DDP39、バイエルン人民党(BVP)21、その他9(SPDなど連立与党が勢力後退、共産党と右翼各政党が躍進。宰相が短期間に交替する混乱期の幕開け)・第二次帝国議会(1924年5月4日、定数472) SPD100、DNVP95、中央65、共産62、DVP45、ナチス(NSDAP)32、DDP28、BVP16、その他29(中央党主導の連立政権が成立。ナチスが議席獲得)・第三次帝国議会(1924年12月7日、定数493) SPD131、DNVP103、中央69、DVP51、共産45、DDP32、BVP19、ナチス14、その他29(ドーズ案批准をめぐり紛糾し解散。中央党主導の中道右派政権成立)・第四次帝国議会(1928年5月20日、定数491) SPD153、DNVP73、中央62、共産54、DVP45、DDP25、BVP16、ナチス12、その他25(SPDと共産党が復調、SPDによる「大連立」政権成立)・第五次帝国議会(1929年9月14日、定数577) SPD143、ナチス107、共産77、中央68、DNVP41、DVP30、DDP20、BVP19、その他72(失業保険制定を巡りSPD政権が崩壊し解散。DNVPと共闘したナチスが大躍進)・第六次帝国議会(1932年7月31日、定数608) ナチス230、SPD133、共産89、中央75、DNVP37、BVP22、DVP7、DStP(ドイツ国家党=ドイツ民主党が改称)4、その他11(中央党のブリューニング内閣が倒れ解散。ナチスが第一党に。ヒンデンブルク大統領はヒトラーを嫌い中央党のフォン・パーペンに組閣を指示)・第七次帝国議会(1932年11月6日、定数584) ナチス196、SPD121、共産100、中央70、DNVP52、BVP20、DVP11、DStP2、その他12(パーペン政権の経済恐慌対策を巡り紛糾、解散。ナチスは議席を減らしながらも再び第一党となる。パーペンは退陣しシュライヒャー内閣成立。1933年1月の地方選挙結果を受け、内閣は国家非常事態宣言と国会解散をヒンデンブルク大統領に要請するが拒否、ヒトラーに組閣指示)・第八次帝国議会(1933年3月5日、定数647) ナチス288、SPD120、共産81、中央73、DNVP52、BVP19、DStP5、DVP2、その他7(首相就任直後のヒトラーが組閣指名の条件に則って国会を解散。選挙期間中に帝国議事堂放火事件が起き、ナチスは国民保護を名目に非常事態を宣言して共産党を事実上非合法化。選挙後の3月24日、中央党の協力で全権委任法が可決し議会停止。同年5月に他の全ての政党を解散・禁止し、12月に一国一党制を制定) やっぱりナチスは政権獲得後のやり方が急で強引だなあ。・・・・・・・・・ あ、そういや今日は国会での指名選挙で第三次小泉内閣が成立したそうですね。すっかり忘れていた。
2005年09月21日
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今日は涼しいが快晴で清々しい天気であり(まるで日本晴れのようだった)、絶好の選挙日和だった。もっとも僕にはドイツでの選挙権は無いが。天気も良く関心も高いと思われたが、投票率は77.7%で前回2002年総選挙(79.1%)よりも下回った。 先に結果を書いてしまうと、なんともすっきりしない結果に終わった。選管発表による各政党の得票率は、 CDU・CSU(キリスト教民主・社会同盟) 35.2% SPD(社会民主党) 34.3% FDP(自由民主党) 9.8% 左派政党・PDS(民主社会党) 8.7% 緑の党 8.1% その他 3.9%となった。現在のSPD・緑の党連立の得票は合計で42.4%、一方CDUとFDPの野党連合は45.0%でこれを上回ったものの、どちらの陣営も過半数を取れない状況となった。なお暫定議席数はCDU・CSU225、SPD222、FDP61、左派・PDS54、緑の党51となる。NPD(極右政党である国家民主党)の女性候補者が急死したドレスデン選挙区の小選挙区議席は延期されて10月2日の投票で決まるのであくまで暫定だが、ほぼ今回の総選挙の結果が出たといっていいだろう。 とにかくFDPと左派政党・PDSの躍進が目立つ。それぞれCDU、SPDの票を食う形になり、FDPは1990年の東西ドイツ統一後もっとも躍進し、今回が初見参となる左派政党も5%条項(比例代表で得票率5%以下の政党は得票を没収され議席を与えられない。小政党乱立を防ぐための措置)を突破して議席獲得を果たした。SPDは1957年や1990年に次ぐ低得票率、CDUもコール政権が退陣に追い込まれた1998年総選挙に次ぐ低い得票率となった。戦後二大政党としてドイツ政治をリードしてきた両党にとっては厳しい結果となった。 事前の世論調査(支持率40%超)に比べてCDUの得票の少なさが際立つ。直前まで決められなかった人がFDPに流れてしまったのが原因だろうが、メルケル党首の指導力の無さ、ありていに言ってしまえば東出身で女性ということを危惧しての投票行動なのかもしれない。なお地域別の得票を見ると、北ドイツ(ヘッセン北部、ニーダーザクセン、ノルトライン・ヴェストファーレンの都市部)はSPD、南ドイツ(バイエルン、バーデン・ヴュルテンベルク)はCDUとかなりはっきりと支持傾向が分かれた。左派党はやはりPDSの地盤である旧東ドイツと、ラフォンテーヌ元蔵相の地盤であるザールラントでの支持が多かった。「緑の党」は大都市部やフライブルク、FDPはヘッセン南部やラインラント・プファルツなど富裕層の多い地域で支持率が高い。 なお心配された極右政党NPD(昨年のザクセン州議会などで議席を獲得)の国政進出は避けられた。 シュレーダー首相は「CDUのメルケル党首は過半数を取れなかった。これは彼女が信任されなかったことを示している」と自陣営の勝利を宣言、続投の意志を示した。一方CDU側はCDUが第一党になりFDPとの連合がSPD・緑の党連立の得票率を上回ったことは現政権に対する審判が下ったものとして組閣を進める意向を強調した。激しく選挙戦を戦った両陣営は一歩も譲る気配が無い。 しかし実際問題として首相指名選挙は過半数をとれないとどうにもならない。もちろん少数与党という事態も考えられるが、ドイツ政党政治の伝統として少数与党を認めない傾向がある。「議会政治の常道」からいえば第一党であるCDUを中心とした連立政権になってしかるべきだが、そこは二大政党制に近いながらも意外に複雑なドイツの政党政治である。組み合わせとして挙がっているのは以下の通り(カッコ内は各政党のシンボルカラーによる命名)。1.大連立(黒赤連立)=CDUとSPDによる連立。これが一番現実的と言われており、議席数も7割に達し安定した政局運営が出来る。また過去に大連立をした実績もある。しかし互いに勝利を主張して真っ向から対立する両党の歩み寄りはあるのか?2.信号機連立(赤黄緑連立)=現在の与党であるSPD・緑の党に、FDPを加え過半数突破を目指すもの。しかしFDPのヴェスターヴェレ党首は開票直後、この組み合わせは無いと言明している。FDPはかつて連立相手のSPDを裏切ってシュミット政権を退陣に追い込み、コール政権を成立させた経歴(1982年)があるのだが・・・。3.ジャマイカ連立(黒黄緑連立)=現在の野党連合であるCDU・FDPに、緑の党を加えて過半数突破を目指すもの。緑の党やCSUのシュトイバー党首(バイエルン州首相)はこの連立の可能性も除外しなかったが、CDUと緑の党は外国人政策や原発廃止政策などで真っ向から対立しているうえ、地方議会でも連立の実績がなく実現は難しいかもしれない。 ここで第四党にのし上がった「左派政党」の名前がいずれの連立組み合わせの中に出てこなかったのは奇異に思えるが、左派政党が両陣営との連立協議に応じず野党としての立場を堅持すると宣言していること(日本共産党みたいですな)、そして何より、左派政党の母体がPDSであり、PDSはかつて東ドイツに恐怖政治体制を敷いたSED(ドイツ社会主義統一党=東ドイツ共産党)の流れを汲んでおり、両陣営ともこの党との連立を忌避していることが挙げられる。若者はともかく、冷戦時代を知る人の間にはSEDに対する圧倒的な忌避感情があり、この党と下手に手を組むと自陣営のイメージダウンに繋がりかねない危険性もある。 まあ今後の連立協議の中で互いにどう態度が変わるか分かったものではないが(僕はラフォンテーヌ元蔵相は案外オポチュニストではないかと思っているので)、左派政党との連立は現在のところきわめて非現実的という見方が強い。8%超の議席を得た左派政党内部でも、PDSのギュジ派と元SPD左派(WASG=「労働と社会正義のための選挙運動」)のラフォンテーヌ派との間で党内主導権をめぐる議論が活発化することは想像に難くない。 というわけで現在は全く五里霧中の状態である。これから10月まで活発化するであろう連立協議の結果によってはメルケル、シュレーダーどちらが首相になってもおかしくない。連立組換え・閣外協力いずれかの形で二人のうちどちらかが首相になったとしても、次政権はきわめて困難な政治運営が予想される。何より今のところドイツ議会は自らの解散決定権がないので(法改正の動きもある)、またも内閣不信任で解散ということになるのだろうか。そしてこの選挙は戦後のドイツ政治を貫いた二大政党制の終わりの始まりになるのだろうか?? 赤緑連立が続くにしても現在の改革路線(アゲンダ2010、ハーツIV)の見直しが迫られるだろうし、CDUも弱者切捨てとも取れる税制改革を計画している。混迷する政局のために改革が中途半端になったりすることはないだろうか。ドイツ経済界は早くも政局の不安定による経済への悪影響に懸念の声をあげている。日本と同じく社会の高齢化が進むドイツで何らかの改革が必要なのは衆目の一致するところだが、どちらにせよ社会国家としてのドイツは瀬戸際に立っていることは間違い無い。(おまけ)過去のドイツ連邦議会選挙の結果。+は連立を示す・第1回(1949年) CDU31%+FDP11.9%、SPD29.2%、KPD(共産党)5.7% (戦後最初の内閣としてアデナウアー政権)・第2回(1953年) CDU45.2%+FDP9.5%+GBBHE5.9%、SPD28.8% (GBBHEはポーランドやソ連に故郷を追われた「追放ドイツ人」の政党)・第3回(1957年) CDU51%+DP3.1%、SPD31.8%、FDP7.7%、GBBHE4.6% (DPは「ドイツ党」。この選挙ではフランス占領下だったザールラントが復帰)・第4回(1961年) CDU45.6%+FDP12.8%、SPD36.2% (アデナウアーが退陣、エアハルト政権誕生)・第5回(1965年) CDU47.6%+SPD39.3%、FDP9.5% (「大連立」によりキージンガー政権誕生)・第6回(1969年) SPD42.7%+FDP5.8%、CDU46.1%、NPD4.3% (SPDとFDP連立によりブラント政権誕生。極右NPDが議席獲得)・第7回(1972年) SPD45.8%+FDP8.4%、CDU44.9% (ブラント内閣不信任決議による解散総選挙。SPD勝利)・第8回(1976年) SPD42.6%+FDP7.9%、CDU48.6% (シュミット政権の連立与党が勝利)・第9回(1980年) SPD42.9%+FDP10.6%、CDU44.5% (シュミット連立政権またも勝利。しかし82年にFDPとの連立が破綻し不信任)・第10回(1983年) CDU48.8%+FDP7.0%、SPD38.2%、緑の党5.6% (コール連立政権の勝利。緑の党が初めて国政に進出)・第11回(1987年) CDU44.3%+FDP9.1%、SPD37.0%、緑の党8.3%・第12回(1990年) CDU43.8%+FDP11.0%、SPD33.5%、「連合90」1.2%、PDS2.4% (東西統一に伴う選挙。旧東独に特例措置がとられ5%以下のPDS等が議席獲得。東西統一に反対した「緑の党」は議席を失う)・第13回(1994年) CDU41.5%+FDP6.9%、SPD36.4%、緑の党7.3%、PDS4.4% (コール政権四選。PDSは小選挙区で議席獲得)・第14回(1998年) SPD40.9%+緑の党6.7%、CDU35.1%+FDP6.2%、PDS5.1% (SPDと緑の党の連立によるシュレーダー政権誕生)・第15回(2002年) SPD38.5%+緑の党8.6%、CDU38.5%+FDP7.4%、PDS4.0% (シュレーダー政権が薄氷の勝利)
2005年09月18日
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今日は午前中は雨が降り気温は13℃程度、とても肌寒く革ジャンを着てちょうどいいくらいの気温だった。ドイツは今年の夏は冷夏だったそうだで(僕がトルコに行く前と帰ってきたときはちょうど好天で気温が上がっていた時期だったようだ)、本当かどうか知らないが暖房をつけていたという人も居た。南ヨーロッパは猛暑だったらしいのだが。 今日は研究室でDの製図の手伝い。思わぬ額の給料をもらってしまった。・・・・・・・・・・・ ドイツ連邦議会総選挙もいよいよ明日が「最後のお願い」になる。日本の選挙のような宣伝カーが走り回ることも無いし、同級生だと名乗る投票のお願いの電話がひっきりなしにかかってくることも無い(ましてや「最後のお願い」の土下座なんてのはあり得ない)、日本に比べれば静かなものである。候補者の顔写真が町中に貼られるたり、法定の選挙ポスター掲示板があったり、放送で各政党のスポット広告が入ったりするのは同じ(政見放送はあるのだろうか。テレビが無いので分からない)。 各候補者は市民会館などで演説会や集会を開いて支持者や関心のある人を集めるのだが、街頭演説というのは大都市以外ではあまりなさそうだ。選挙カーもそうだが騒音にうるさい国なので(「騒音がうるさい」のではない)、そういうのはご法度なのだろうか。日本だと小選挙区の候補は候補者の地縁とか人柄とかで決めることも多いようだが、ドイツは政党政治がより徹底しているので属する政党で決めることが多いようだ。ちなみに僕の住む小選挙区の議員はSPDだが、議席を守るのに必死なのか一番選挙活動を熱心にしている。なおドイツは小選挙区・比例代表並立制で、投票用紙には小選挙区候補者名と政党名の二つを書く。 大学でも各政党の支持者の学生がいて、彼らが学食でビラを撒いたりしている。SPD(社民党)の下部組織であるJUSO、CDU(キリスト教民主同盟)の下部組織であるRCDS、FDP(自民党)の下部組織であるJunge Liberalenなど。一番資金が豊富なのはRCDSなのだが、大学は往々にして左派が強いので見かけるビラはSPD、緑の党、PDS(民社党、旧東ドイツ共産党の流れを汲む)のものが多い。 開票の際は各政党・候補者は一般に開放したパーティーを開いて事務所に支持者を集める。開票速報を皆で見て一喜一憂するようだ。 肝心の選挙の帰趨だが、ARD(ドイツ公共放送)の世論調査による各政党の支持率はCDU41%、SPD34%、左派政党・PDSが8.5%、緑の党7%、FDP6.5%、その他(極右のNPDや無所属など)2%となっている。ただしどの党に投票するか決めかねている人もまだ居るようなので数字は多少動くかもしれない。しかし与党SPD・緑の党の連立政権にとって厳しい状況であるのは変わらない。 ただCDUとFDPの連合が勝ったとしても過半数獲得は厳しそうな状況で、そのため連立の組替えなどがささやかれている。最初はSPDとCDUの大連立も言われていたが、ここに来て「信号灯連立(Ampelkoalition)」、つまり現在の与党であるSPD(赤)、緑の党(緑)にFDP(黄)を加えるという話も出た(括弧内は各政党のシンボルカラー)。しかしFDPは今のところ応じるつもりは無いようで、選挙結果を受けての連立協議になるのだろう。ちなみにCDUのシンボルカラーは黒、PDS・左派党はピンクである。以前は連邦議会にはドイツ国旗と同じ黒・赤・黄しか政党が無かったのだが、東西ドイツが統一した1990年頃から緑とピンクが加わった。 SPD左派(オスカル・ラフォンテーヌ元蔵相)とPDSが合同した「左派党」は一時支持率が12%に上って台風の目となるかに思われたが、福祉とか社会保障とか耳あたりのいいことばかり言う割に具体的な政策などが発表できないままなので、支持が離れている。 僕が気になる在独トルコ人の動向を書いておくと、「緑の党」はトルコ語ポスターまで用意して集票を目指している。もともと緑の党は外国人歓迎政策なのでトルコ人の多くは緑の党の支持のようだ(言うまでも無いが国政選挙権があるのはドイツ国籍をもつ者のみ)。シュレーダー首相もトルコ系の新聞社を訪問して支持を訴え、CDUの批判を浴びている。・・・・・・・・ 今日大学でもらったSPDのビラに、赤緑連立政権(SPD+緑の党)7年間の業績を並べて政権の存続を訴える内容が書いてあったのだが、その「業績」を書いてみる。(以下翻訳)「教育政策」-全ての若者は両親の収入に関係無く一等の教育を受ける権利があります・赤緑は子供の早期教育を望んでいます。そのため幼稚園、保育園、託児所の充実を支援します・赤緑は各州で全日制学校の整備に尽力しました・赤緑は大学(学部)の授業料導入に反対します・赤緑によって引き上げられた学生補助金のおかげで、大学進学者が劇的に増えました「家族政策」-赤緑は不利な立場の若い家庭を的確な援助により支援します。家庭とは子供の居る場所であるべきです・家族政策の予算が大幅に増やされました。育児補助金だけでも37.5%も増えています・赤緑は低収入の家庭に育児特別手当を導入しました・育児休暇制度の改善により両親は仕事と育児の両方が出来るようにします・次いで両親の収入に応じた育児補助金制度を導入し、家族、特に片親の家庭での育児休暇を保障します。「エネルギー・環境政策」-赤緑は自然資源について責任ある持続的な、首尾一貫した政策をとっています・赤緑は脱原発と、決められている(廃止までの)猶予期間を堅持します・再生エネルギーは2004年までに電力消費量の9.3%にまで増やすことが出来、またバイオ動力燃料が急増しました「女性政策」赤緑は一貫して社会や職場での男女同権実現に努力しています・年金改革により、女性を老年期の貧困から守るため育児期間への考慮と基礎年金を導入し、配偶者独自の年金が得られるようになりました・赤緑は男女の経済的な機会均等を推進してきました・初めて婦人に対する暴力防止の為の総合的施策を打ち出しました。婦人の権利は明らかに強くなりました。「殴る者は出て行くべきである」「外交政策」-赤緑は明確な外交・ヨーロッパ政策を堅持しています。平和、社会正義、そしてドイツの国益のために・赤緑はヨーロッパにおける低賃金や社会保障のダンピングを望まず、ヨーロッパ全体の社会保障国家モデルを追求します・赤緑はドイツを平和大国と位置付けています。イラク戦争に巻き込まれる事を防ぎました。・赤緑は公正なグローバリゼーションを目指します。開発援助額を増やしました 以上の政策を堅持します。赤緑連立以外に選択肢はありません 9月18日はxx候補に投票を!(以上翻訳)
2005年09月16日
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今日も曇りがちの一日だった。 研究室に行くとちょうどEが来ていて、彼女は今日教授資格認定論文(Habilitation)を書き上げて装丁に回したところで、お祝いをするからお前も来いという。今は夏休みで研究室に誰も居ないからお鉢が回ってきたのだろうが、夕方は彼女のおごりでイタリア料理を食べに行った。なんか得したな。デザートにパンナ・コッタというのを食べたが、クリームを固めたようなもので、美味しかったけどすごく太りそうだった。・・・・・・・・・・ 今日の日記のタイトルはおどろおどろしいが、ベルリン地方裁判所で始まったある事件の公判に関するニュースである。 今年2月、ベルリンに住むトルコ系ドイツ人の女性ハティン・スルジュ(23歳)が頭部に数発の銃弾を受けて殺害された。ベルリン警察は彼女の兄弟3人を殺人容疑で逮捕した。動機は「家族の名誉の為にふしだらな妹(姉)を殺害した」というものだった。ドイツ人にしてみれば「前時代的」なこの殺害動機及びこの公判は注目されている。今日の公判では末の弟アイハン(19歳。ドイツでは未青年も苗字をイニシャルで表現した実名で報道される)が罪状を認めたが、検察の調書に対し、自分の単独犯行であると主張した。 ハティンはベルリンで育ったトルコ系ドイツ人だが、18歳のとき親の決めた相手(しかも従兄弟)と結婚するためトルコに送られた。翌年ドイツで男児を出産したが、彼女はトルコに戻らず事実上別居状態になった。半年後には両親の家を出て独りで生活を始め、電気技師としての職業訓練を受け自立しようとしていた矢先に兄弟によって殺害された。 アイハンの自供によれば、今年2月7日に彼女の家を訪れ、彼女は帰りのバス停まで弟を見送ったが、その際自分の生活スタイルを弁護した上で「私は自分の望む男と寝る」と言ったという。その言葉にカッとなったアイハンは持っていたピストル(ネットで知り合ったロシア人から買ったという)で彼女の頭を撃ったとのこと。 一方検察の主張では、この殺人は兄弟の謀議による計画的犯行であり、銃を用意したのは長男のムトゥル(26歳)で、次男のアルプアスランは見張り役、アイハンはハティンを家から誘き出す役に過ぎなかった、としている。 トルコ(及びイスラム社会)では娘に対する親の管理は厳格である。特に農村部では甚だしい。都会でも娘のデートにお目付け役の親や兄弟が付いて来るというのはごく普通のようだ。僕自身も経験したのだが、あるとき博物館の若い女性職員たちと飲みに行ったのだが、約束の場所には彼女たちの父親も来ていた。お父さんたちはこっちの邪魔をしたくないのか話に加わらず、端っこのほうで独りで飲んでいた。 ましてや婚前交渉などもっての外だし、田舎では結婚相手は親同士もしくは家同士が決めるのが普通らしい。殺されたハティンの場合がそうだったが、イトコ婚もよく行われている。僕らの発掘隊の宿舎で料理人をしていた女性は親の言いつけで従兄弟と結婚したのだが、式の前日にこの結婚を嫌がって泣いていたという。結局彼女は離婚して今はイスタンブルで自立しているが、母親とえらく揉めたそうだ。 こうした道徳観念をもったトルコ人たちが、ドイツにやって来る。トルコ人にしてみればドイツは乱れたフリーセックスの世界であり、トルコの若者(男性)はドイツ(ヨーロッパ)に行けばディスコでナンパし放題、自由に彼女がたくさん作れてやりたい放題だと思い(確かにそうかもしれない)、ヨーロッパ行きを熱望する。しかしこと自分の姉妹や娘のこととなると厳格になる。 今年僕らが滞在した村はかなりの田舎だが、そんな村にも夫の仕事でケルンに住んでいたという小母さんが居て、上手くは無いがドイツ語を話していた。この村とドイツはまるで別世界である。ストレスも溜まるだろうし、家庭内で文化摩擦が起きるのも無理は無いかもしれない。ドイツに住むトルコ人女性と家庭のしがらみを描いた映画(ファーティフ・アキン監督の「Gegen die Wand」)も作られている。そして上記のような事件が起きると、「異質なイスラム社会」というイメージが非イスラム系のドイツ人の間に定着する。 今年の夏はドイツ人、トルコ人の両方とトルコのEU加盟是非についてよく話したのだが(というか僕は通訳をしただけ)、ドイツ人の一人はトルコのEU加盟賛成派、もう一人は反対派だったのに対し、トルコ人は概ねEU加盟を希望していた(ただし加盟交渉の見通しについては一様に悲観的だった)。 賛成派のドイツ人は「トルコはEUに入るために非常に努力しており、またそれをやり通すことが出来る。EUにとっては『異質』なトルコを加盟させることはむしろチャンスであり、それができないならEUは閉鎖的・排他的な組織に留まるだろう。問題はむしろEUのほうにある」と言う。一方反対派のドイツ人は「既に今も十分ドイツにはトルコ人が多く、またイスラム原理主義者の活動が活発化している。トルコでの原理主義者に対する取締りが厳しいので、原理主義者はむしろ法の甘いドイツにこぞって移住して勝手にイスラム法を施行し、ドイツの法治を踏みにじっている」と主張する。断っておくが反対派の彼にもトルコ系の友人はたくさんおり、彼が問題視しているのはこうしたドイツ社会に馴染もうとしないトルコ人である。 僕にとってはあくまで他人事ではあるのだが、トルコがEUに入ればいい事ばかりではないというのは漠然と予想できる。10月からトルコとEUの加盟交渉が本格化するが、どうなるのだろうか。今週末の総選挙の争点は専ら失業対策や税制改革など経済・社会福祉問題に集中し、双方のネガティヴ・キャンペーンもものすごいが、トルコのEU加盟に明確に反対するCDU(キリスト教民主同盟)がどれだけ票を伸ばすのかも見物だろう。
2005年09月14日
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この日はThucydidesさんがイスラエルに向かって去る日なので(厳密にはフライトは明日だが、早朝なのでフランクフルトに宿を取る)、見送りも兼ねて僕もフランクフルトに行った。K君Uさんは日本から新婚旅行にドイツに来るUさんの友人を迎えにやはりフランクフルトに行くので、同行した。 昼食はレーマー広場に面する寿司屋で食べた。ここは味はともかく寿司のセット(サラダとうどん、飲み物付き)が12ユーロともっとも安く食べられる店である。店長は日本人らしく、店内の装飾も最近ありがちなインチキな日本イメージではなくて結構まっとうなのだが、店員も客もほとんどは日本人以外である。今日はなぜだか店員も客もタイ人ばかりで、しかも客はどう見ても性転換したとしか思えない野太い声のタイ人「女性」ばかりだった。 その後Thucyididesさんと市街をぶらぶらし、夕方に中央駅で別れる。僕はマールブルクに戻り、今度は明日トルコに出発するK君の送別の飲み会に参加する。Uさんの友人夫妻も来ていて、久しぶりに関西人のノリ(飛行機の長旅で疲れているようだったが)に接して面白かった。・・・・・・・・・・ 最近忙しくて書けなかった時事ネタなど。 トルコでPKK(クルド労働者党)の分派によるテロ活動が再び活発化している。治安部隊への襲撃は聞いていたが、ロンドンのテロに触発されたのかこの所無差別自爆テロを行うようになっている。チェシメに続いてリゾート地クシャダスでも自爆テロがあり、イギリス人観光客などが死亡している。観光収入に活路を求めているトルコに対して観光客減をもたらし、政府への打撃とするのがテロリストの目的だろう。クルディスタン独立などといった目的や情熱は理解できないでもないが、無関係の人を巻きこむテロは絶対に弁護されたり許されるべきものではない(トルコに観光に来てお金を落とすのはトルコ政府への援助だから敵だ、という理屈なのかも知れないが、屁理屈と膏薬はどこにでも付く)。 僕が行く(であろう)のはトルコでも田舎のほうで、こうしたテロが起きる可能性は低いのだが、気になるニュースである。・・・・・・・・ ドイツでは9月18日に総選挙の実施が見込まれているが、「シュピーゲル」誌の世論調査によれば今のところ野党CDU(キリスト教民主同盟)が42%、与党SPD(社民党)が29%の支持と、政権交代が見こまれている。SPD左派(オスカル・ラフォンテーヌ前党首)とPDS(民社党、旧東ドイツ共産党の流れを汲む)が合体してその名も「左翼政党」を結成して支持を伸ばしており、SPDの票がそちらに流れることも考えられ、与党は苦戦が必至なようだ。 CDU側は政権獲得後の消費税の引き上げをマニフェストに盛り込んでおり、またテロ対策強化で協力関係にあるFDP(自民党)との対立も招いており、それが波乱要素となって選挙戦への影響も考えられるが、今のところシュレーダー首相の大逆転勝利は考えにくい。 さてそのCDUの党首で次期首相候補と目されるアンゲラ・メルケル女史が、明日からフランスを訪問するのだが、それに合わせてCDUの外交問題担当のフリードベルト・プリューガー氏がフランス紙「フィガロ」に寄稿した内容が注目されている。 2003年のイラク戦争をめぐっては、フランスを中心としてドイツ、ロシアがアメリカの一国主義に反対して連合しアメリカとの関係冷却を招いたが、プリューガー氏は選挙でのCDU勝利のあかつきにはこの「独仏露枢軸」を終わらせ、ドイツは対米接近する可能性がある、と示唆している。「アメリカと違う考えをもつことに理由はあるが、アメリカに対抗するような三国の結束は、東欧諸国のアメリカ接近を招いた」とその理由を挙げている。 東欧諸国がイラク戦争に賛成もしくは派兵してアメリカ接近の姿勢を示し、ラムズフェルド国防長官に「新しいヨーロッパ」と賞賛されたのはドイツで流行語にもなったが、最近似たような出来事があった。先日ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)市創立750年記念式典に際して独仏露の首脳が集結してその協力・友好関係を誇示したが、その席には隣接するポーランドとリトアニアの首脳は呼ばれなかった。両国は旧ソ連による支配や暴虐に対する謝罪をロシアに求めているのに対して、ロシア側は戦勝を理由にそれを拒絶して関係が冷却し続けているためだが、プリューガー氏はこうしたことでEUの結束が乱れるのは避けるべきだ、としている。 ドイツとフランスの協力関係については、EUの牽引役として協力関係を維持すべきと主張し、またトルコのEU加盟問題では一致した行動が必要との見解を示しているが(CDUはトルコのEU加盟に反対しており、「特別な協力関係に留まるべき」と主張している)、その協力関係はアメリカに敵対すべきものではないとの主張をしているらしい。 アメリカは国連安保理改革問題に関しては、日本の常任理事国入りのみを支持してドイツのそれには保留もしくは否定的見解をとっているが、ドイツの保守派には冷戦をともに戦い50年来の同盟関係にあるアメリカとのこうした関係冷却化を問題視する声がある。CDUが政権を獲得すれば親米路線に転じるだろうとの予測は当初からあるが、こうした具体的な主張で現れ始めた。「イラク戦争反対」とか感情的な反米・親米によるものではなく、東欧のEU新規加盟諸国との関係強化を主眼とした外交政策転換は、いかにもドイツの保守派らしい言いぐさである。 イラク戦争ではその対応が米英日と仏独露中で分かれて「海洋国家・大陸国家」といった地政学論が行われたりする一方で、田中宇さんのように「世界各国がアメリカから離れて世界は多極化し、急成長する中国がその一極となってこのままでは日本はアメリカと共に自滅する」という見通しが述べられたりもした。ドイツはここに来てそうした分類や見通しから外れた動きをしようとしている。 SPDがこのあたり(反米・反イラク戦争という感情)を上手く利用すれば、まだ選挙に勝ち目はあるのかもしれないが。
2005年07月18日
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もう7月になってしまった。早いもので今年も後半に突入である。 暑い暑いと日記に書いていたら、今日になって天気が悪くなり昼間でも気温が20℃に達しなかった。半袖で外出すると肌寒いくらいである。ここの天気は全く極端である。 今日は連邦議会の首相信任決議のニュースで持ちきりだった。任期満了の来年に予定されている総選挙を前倒し実施するために、与党SPD(社民党)の議員の一部がわざと保留票を投じ、「予定通り」の反対多数でシュレーダー首相の信任が否決された(つまり不信任)。憲法の規定により大統領は三週間以内に議会を解散し総選挙か否かを決定しなくてはならない。見通しではケーラー大統領は三週間の期限ぎりぎりまで解散を決定しないと思われており、総選挙は9月18日になると見られている。地方議会で惨敗続きで求心力が低下した首相が国民に直に信を問うべく大博打に出たわけだが、今のところ野党の勝利が見込まれている。 議会の解散と選挙の前倒し実施は他ならぬシュレーダー首相、そして野党CDU(キリスト教民主同盟)の意志でもあるのだが、ドイツ憲法は議会が自らの意志で解散することを禁止しているので(与党が有利な状況の中で恣意的に解散総選挙を行えないようにするため)、こうした複雑な手続きとなった。こうしたやり方は憲法(連邦基本法)の精神に反した法の悪用であるという意見も根強く、与党を含む一部議員は連邦憲法裁判所に提訴する構えである。またいくつかの弱小政党は、こうした解散は準備期間を奪い弱小政党の議会進出の機会を奪うものだと反発している(小政党乱立を防ぐため、得票率5%以下の政党には議席は与えられない。自由解散の禁止もこの5%条項も、議会の混乱でナチスの台頭を招いたワイマール共和国時代の反省に基いて設けられた制度である)。単に首相が辞任すればよかったことではないかという声もある(その場合通常ならSPDの中から誰か別の人が首相になるわけだが、この状況で首相をやりたがる人もいないだろう)。 今日は奇しくも第9代ホルスト・ケーラー大統領が就任して1周年でもあるのだが、この前代未聞の事態に大統領はどう対処するのだろうか(まあ憲法の規定に従えば議会の解散と総選挙を命じるしかないのだが)。戦後のドイツでは通常大統領に政治権限はほとんど無く象徴的存在なのだが、いわば「御前会議で聖断を仰ぐ」ような異常事態というわけである。 話が飛ぶが、現在のドイツとイタリアはほぼ同じような政治体制を取っている。大統領は象徴的存在であり、政治権限は首相が握っている。共和制とは言っても大統領権限の強いフランスやロシア、首相のいないアメリカとはかなり違う。むしろ戦後日本の天皇制に見かけの制度上は似ているといえる。ただ1000年以上も世襲が続いている日本の天皇制と両国の大統領制度を並列扱いするのは無理があるかもしれないが。 どういう偶然か、日独伊の三国は近代的な中央集権国家になった時期はほぼ同じである。イタリアが教皇領であるローマを収めて一応の統一を完成したのが1870年9月、ドイツが普仏戦争で勝利してプロイセン王を皇帝とする帝国になったのが1871年1月18日、大政奉還・王政復古後の日本で廃藩置県が行われたのは同年7月だった。 ただ日本が古代的な復古主義を呼号したのに対して、イタリアとドイツはそれぞれ辺境に位置するサルディニア・ピエモント王国とプロイセン王国が実力で周辺国を切り従えた統一だった。日本で言えばやはり西南雄藩からなる官軍の島津家(薩摩)か毛利家(長州)が諸侯の盟主として日本皇帝を名乗るのと似たような事態と思えばいいだろう。イタリア統一の過程では伝統的宗教権威であるローマ教皇はむしろ排除されて教皇領を武力で占領しており(イタリア政府と教皇庁は1929年のラテラン条約でヴァチカン市国が独立するまで対立していた)、またドイツ統一の過程では古い統一の象徴だった神聖ローマ皇帝(日本で言えば将軍のような地位だろうか。ただし既に1806年に廃止されている)たるハプスブルク家が排除されていた。将軍を排除し一種の宗教権威である天皇を担ぎ出した日本はこの両者とは微妙に違う。 王家がにわか出来のせいか知らないが、ドイツは第1次世界大戦の敗戦時(1918年11月)に革命が起きて皇帝ヴィルヘルム2世が亡命(オランダで客死)、イタリアは第2次世界大戦後の1946年に国民投票で僅差で王制の廃止が決定されている(ウンベルト2世など旧王族は追放されイタリアへの入国が禁止された)。もし敗戦直後の日本で天皇制の存続を問う国民投票が実施されていたら、どういう結果になっていたのだろうか。 ドイツは帝政廃止後の共和制の中でヒトラー率いるナチスが選挙で合法的に政権を獲得し(1933年1月)、翌年首相職に大統領職を兼ねた「総統」になったのに対し、イタリアのムッソリーニ政権は王制下でいわば非合法のクーデターで成立したものである(1922年)。ローマ進軍に成功したムッソリーニに国王が非常大権で組閣を命じたものであり、法的根拠は本来無く、統領(ドゥーチェ)のムッソリーニはあくまで国王に政治・軍事を委託されていたに過ぎない。 一方ナチス・ドイツやファッショ・イタリアと同じファシズムとして同列に扱われることもある戦前の日本では、ヒトラーやムッソリーニのような強烈な個性は出ず、満州事変(1931年)以降13人も首相が交代しており一体誰が責任者なのか判りにくいところがある(天皇の戦争責任云々はこの辺も関係するだろう)。どれも似ているようでこの辺は随分と違うし、お国柄といえるかもしれない。首相が猫の目のように変わったのはワイマール共和国時代のドイツや戦後のイタリアもそうだったが、現在のベルルスコーニ政権は結構長く続いている。・・・・・・・・・・ 中国の胡錦涛国家主席がロシアを訪問中。共同軍事演習やシベリアの石油パイプライン建設の協力、そしてアメリカの一国主義に一致して対抗していく姿勢を打ち出した。随分仲が良さそうじゃないか。 なんだかこの二大大陸国家の協力を見ていると、モンゴル帝国を連想するなあ。元とジュチ・ウルス(キプチャク・ハン国)みたいだ。これにフレグ・ウルス(イル・ハン国)であるイランが加われば完璧(原発を売り込みたいロシアはイランの強硬派新大統領を歓迎しているというし)。ただしこの三国ではモンゴル支配はあたかも暗黒時代の扱いだが。チャガタイ・ウルスは中国の派兵や影響力が噂されるキルギスタンあたりだろうか。そういやインドのムガル帝国なんかまさに「モンゴル帝国」(ムガルはモンゴルが訛ったもの)そのままだしな。ただしこれはイスラム教徒ということでインドよりもむしろパキスタンが直系か。 ヨーロッパのうちモンゴルに征服されなかった地域がほぼ現代のEUに相当する。現在のトルコはシワスのあたりまでがモンゴル(フレグ・ウルス)領で、やはりどっちつかず状態である。一方東アジアでは、当時の朝鮮半島は高麗、つまり元(中国)の属国か・・・。ヴェトナムやチベット、ビルマも元の宗主権を認めていた。元によるインドネシアへの遠征は失敗している。
2005年07月01日
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今日も快晴で気温が30℃に達している。 連邦議会解散に持ちこみ総選挙の1年前倒しという博打にでたシュレーダー首相とSPDだが、首相不信任決議が成立しないと解散できないので、党内からわざと造反者を出さないといけない。ところが誰が不信任票を投じるべきかで党内が揉めているようだ。そりゃあ党策とはいえ嫌だろうな。そうするくらいならラフォンテーヌのように離党するだろうし。 そこでSPDは将来議会が自らの意志で解散出来るよう基本法(憲法)改正案提出を計画しているという。ドイツの基本法は日本国憲法と違ってしょっちゅう改正されることはよく知られるが、随分お手軽なものだ。もちろん批判が早速出ており(連立相手の「緑の党」からも)、小党が乱立して解散総選挙と政権交代が頻繁に行われたワイマール共和国時代(1919~33年)への反省から設けられたこの条項を無くすべきではない、という声が多い。 一方野党CDUは、勝利して政権を担った場合財源確保のため2007年の消費税引き上げを検討していることが明らかになり、CDUと連立を組むことが確実視されるFDPに批判されている。CDUとFDPは、治安強化を目指すCDUのテロ対策案(主に国内のイスラム原理主義者を想定したもの)でも対立している。 今日ノルトライン・ヴェストファーレン州(NRW、先日州議会選挙が行われたばかり)の州都デュッセルドルフで「日本デー」が開催される。デュッセルドルフは人口60万の商業都市だが、6500人の日本人が生活しておりドイツでは最も日本人の多い町となっている。いつからか知らないがこの時期に「日本デー」と銘打った祭りが行われているようだ。これについては昨日研究室でK君に聞いたし、今日もラジオで報じている(僕が普段聞いているラジオは西ドイツ放送局WDRだが、NRWが拠点)。100万人の訪問客が見込まれているそうだ。すごく行ってみたいが状況的にそれどころではなさそうだな。 その日本祭りのホームページを見ると、様々な催し物があるらしい。 最近は日本文化といえば「Manga(マンガ)」だが、この祭りでもコミケというほどでもないがマンガ本(最近は日本式のマンガを書くドイツ人作家が多く誕生しており、同人誌みたいなのもあるらしい)の販売や展示、アニメ映画の上映が行われるらしい。以前のフランクフルト総領事だった人は外務省広報局の出身で文化アタッシェだったこともあり、こうしたドイツのコミケや集まりには積極的に出かけていたようだ。もっとも僕自身はマンガは嫌いではない(あれば読む)にしてもあまり興味が無いのだが。 その他日本酒の試飲会、習字、折り紙、生け花といった伝統文化紹介のほか、やはり日本文化として人気の高い武道(柔道、弓道、剣道、居合、合気道)の演武も行われるようだ。すごいのは盆踊り大会で、着物・浴衣を着た大勢の日本人・ドイツ人が舞台に上がって盆踊りを披露するらしい。ていうか盆踊りって舞台の上でするもんじゃないよな。やはり誰でも参加出来るようにして飛び入りでやるもんでしょう、ありゃあ。「西洋の踊りは足で踊るが、東洋の踊りは手で踊る」と書いたのはルイス・フロイスだったように思うが、盆踊りはドイツ人にはエキゾチックに見えるだろう。僕も小学生の頃近所の小学校で盆踊り大会に参加したが、もう随分やってないな(大学の寮祭で踊ったことはあるが)。 クライマックスは日本式の花火大会で、午後10時半から30分間、ライン河沿いで花火が打ち上げられるという。今日みたいな暑くて快晴な日にはピッタリだろうな。花火など随分見ていないから(というか日本の夏自体をもう何年も経験していない)、すごく見てみたい。ライン河の景色にあうかどうかは分からないし、ドイツの夏は日が長いので10時半だとようやく暗くなったくらいの時間だろう(だから開始時間がこんなに遅い。日本の花火大会は普通8時くらいですよね)。 最後に花火大会に行ったのは茨城県の土浦でだった。この大会は日本最大?の花火品評会で、時期が10月といまいち風情に欠けるが、規模がそこらの花火大会より格段に大きくまた技巧に優れた花火が集結する。 件のホームページを見ていると鎧武者の一団の写真が出ている。鎧武者の行列というか仮装大会があるらしい。これをやっているのは日本人かと思ったら、「タケダ」というドイツ人のグループだった(「ウエスギ」じゃないのか)。確かに姿こそ日本の鎧武者だが、顔が・・・。 そのホームページを見るとまたびっくりである。マニアだ・・・。あの顔で着物や直垂を着られると違和感がすごい。まあ日本にもナチス制服の格好をするグループ(ドイツだと犯罪行為ですぜ)があるそうだからお互い様かもしれないが、ここまでやりこむ熱意には胸を打たれる。 以前ヨーロッパ中世の扮装をするサークルをこうした祭りで間近に見たし、ローマ軍やゲルマン人のコスプレをするグループも見かけた事がある。ローマ軍はともかく中世の格好をするグループは時として極右思想と結びつきやすいそうなのだが、こういう侍の格好をするグループの思想的背景は何なんだろうか。単なる日本愛好(黒沢明の「影武者」に感激したのだろうか)からここまで出来るのなら大したもんだ。 このページを見せて「ドイツ人て変だな」とドイツ人に言うと、「ドイツ人は仮装して歩くのが好きなんだよ」という答えが返ってきた。1930年代にドイツを風靡した突撃隊やヒトラー・ユーゲントの制服も一種の仮装行列だったのだろうか。
2005年05月28日
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今日は晴れたり曇ったりだったが、気温は20℃近くまで上がった。 プレゼントを探して町を徘徊したのだが、いいアイデアが浮かばない。僕自身が本さえ手に入れば嬉しいというつまらない人間なので、相手の立場に立って考えられないのか(こう書くと最悪の人間みたいだが。はあ)、人にプレゼントするのはいつも一苦労である。 夜研究室仲間のDに誘われてコンサートに行く(K君Uさんも一緒)。ここの地元出身のギタリストの小さなコンサートで、ギターの彼とヴォーカルの女性の二人組である。曲目はスティング、チック・コリア、ビージーズ(このギタリストがファンなんだそうだ。いかにもそういう年齢だったが)などをギター用に編曲したカヴァー曲と、多少のオリジナル曲だった。9時前に始まって11時くらいに終わった。客は中年以上が多く、僕らは一番若いほうだった。確かにビージーズの世代かもしれん。 結構聞いたことのある曲が並んでいたのだが、とにかくこのギタリストの技巧というか技には参った。横に居たDは自分でもギターを弾くので(毎年トルコに持ってきていて暇なときに弾いていた)、大感激の様子である。この人たちのCDまで買っていた。僕自身は楽器はからきしダメで学校の音楽の授業では苦労したのだが、ギターをカッコ良く弾けるようになったらなあ、と思ったことくらいはある。しかしどうやったらああいう指や手の動きになるのか、雑な僕には難しそうだ。ヴォーカルの女性も力強い声で良かったです。 ドイツの政局の動きの続き。日本に居る人には無縁の話だし、僕にドイツでの選挙権がある訳でもないので読んでも退屈かと思いますがご容赦を。単なる関心だけで書いている。 地方選挙で連敗続きの与党SPD(社民党)だが、今日になって元党首で前蔵相のオスカル・ラフォンテーヌ氏が離党した。ラフォンテーヌ氏は以前からシュレーダー政権の「痛みを伴う改革」(アゲンダ2010、ハーツIVなど、社会保障の切り捨て・切り下げを伴う改革)路線を公然と批判していたのだが、今年秋に前倒しになった総選挙でシュレーダー政権の路線では戦えないと公言し、離党勧告を受けていたこともあってついに離党した。今後は新しい左翼政党やグループの創設を模索するという。 ラフォンテーヌ氏はSPD左派に属し、従来の労働組合などを支持基盤としていた。SPDの首相候補としてCDUのコール政権に1990年(東西統一直後)の総選挙で敗れたのち、SPD右派のルドルフ・シャーピング党首(のちシュレーダー内閣で国防相)に代わって、1995年にSPD党首に就任した。その後SPD内部で新中道派と呼ばれる現実派グループが台頭(イギリスのブレア政権などと同じ動き)、ニーダーザクセン州首相だったゲルハルト・シュレーダーが党首となってから98年の総選挙では見事に政権奪回に成功した(コール政権が飽きられていたというのもあるが)。ラフォンテーヌ氏はSPDの重鎮として蔵相のポストをあてがわれたが、シュレーダー首相の中道・現実路線に嫌気がさしたのか(ちょうど対ユーゴ戦争の時期だった)、就任半年も経たないうちに辞表を叩きつけて故郷のザールラントに戻っていた。その後も歯に衣着せぬ発言でSPD執行部から煙たがられていた。 昨日CDUのアンゲラ・メルケル党首について書いたが、まだ彼女が勝利が確実視される同党の首相候補に正式に指名されたわけではない。しかし雑誌「シュテルン」は早くもメルケル内閣の人事が取り沙汰されていると報じている。 それによれば、もっとも懸案となっている景気回復・失業対策・赤字改善の重責を担う経済・財務相には党の実力者(2002年の総選挙の際の首相候補)であるエドムント・シュトイバー・バイエルン州首相を想定しているという。バイエルンでは圧倒的な支持を誇る同氏だが、中央政界に入るのだろうか。確かにバイエルンは経済的にはうまくいっている州ではあるが。同じく失業対策を担う労働・保険相にはペーター・ミュラー・ザールラント州首相の名が出ている。州首相クラスをこの人事に当てて重視する姿勢を見せたいところなのだろう。 CDUと連立を組むことが予想されるFDP(自民党)には閣僚ポストが二つあてがわれ、党首のギド・ヴェスターヴェレ氏は内相ポストを得るという。従来連立相手の小政党には外相と副首相のポストが与えられるのが慣例だが(FDPからはゲンシャー外相、「緑の党」からはフィッシャー外相を出している)、そのポストはヴォルフガング・ゲルハルトFDP幹事長が就任見込みと報じられている。CDUはトルコのEU加盟に公式に反対しているから、この問題では穏健なFDPがどこまで影響力を行使出来るだろうか。EU中心主義の現在の外交に大きな変化は無いとは思うが、先に書いたようにやや対米協調に転じる可能性もある。 国防相にはCSU(CDUのバイエルン版)からミヒャエル・グロス幹事長。EU憲法が介入のための展開機動部隊の創設を定めているくらいだから、従来の国防政策に大きな変化は無さそうだ(ただしFDPは徴兵制廃止を主張している。まあ「緑の党」もそうだが)。文科相にはバーデン・ヴュルテンベルク州文科相のアンネッテ・シャーヴァン女史が予定されているとのこと。この人はカトリック保守派として著名であり、学校でのイスラム教徒(生徒・教師)によるスカーフ着用禁止令の是非にも影響を及ぼすかもしれない。
2005年05月24日
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今日は夕方激しい夕立があった。 昨日のNRW(ノルトライン・ヴェストファーレン)州議会選挙でSPD(社民党)・緑の党の連立が大敗して39年ぶりに同州にCDU(キリスト教民主同盟)・FDP(自民党)連立政権が誕生することを受けて、連邦政府のシュレーダー首相は連邦議会総選挙の1年前倒し実施を発表、ドイツ政局はにわかに活発化してきた。この破れかぶれともいえる首相の作戦には驚きの声も出ている。 手続きとしては7月1日に首相の信任投票を議会で行い、そこで不信任が可決された場合、大統領は即座に議会を解散して選挙を告示できる。日本と違ってドイツでは首相や与党が恣意的に議会の解散や選挙時期を決めることは出来ない(任期満了に伴う次回選挙は2006年秋だった)。この場合、普通なら連邦議会ではSPD・緑の党が多数なので不信任決議は成立しないはずなのだが、今回は与党内からわざと不信任票を投じて解散に持ちこむつもりのようだ。もとより首相の改革姿勢は与党内、特にSPD左派からも反対の声が出ているとはいえ、解散するために自分の党の代表に不信任票を投ずるこのやり方は「連邦基本法の精神に反し、法の悪用である」という批判の声も出ている。 ちなみに過去には1982年9月にSPDのシュミット政権が不信任が可決され退陣したが、これは連立相手のFDPがCDU側に寝返って不信任に回った為である。 なお連邦参議院は地方(州)の代表から選ばれるので、各州の勢力分布がそのまま反映される。参議院の選挙は各地方(州議会)選挙がそれに相当する。シュレーダー政権は地方選連敗続きで、旧西ドイツではブレーメン市とラインラント・プファルツ以外全ての州首相がCDUによって占められている(全16州の内シュレーダー政権就任時に11だったSPD政権は5つのみ)。そのため参議院では既に与野党逆転している。この辺の仕組みはいかにも「連邦共和国」というべきだろう。 さてこうしてめでたく?解散・総選挙が決まった場合、9月18日が投票日としてほぼ内定したようだ。SPD及び緑の党は自党の代表としてそれぞれシュレーダー首相、フィッシャー外相(兼副首相)を推すことを決めたが、問題はおそらくこの選挙で勝つと見こまれているCDU(キリスト教民主同盟)のほうである。その代表(=首相)候補は順当に行けばすなわち次期首相となるからである(なおFDPは既にCDUとの連立を前提にしている)。 前回2002年総選挙では、CSU(バイエルン州のみのCDUの姉妹組織)のエドムント・シュトイバー党首(バイエルン州首相)が代表として選挙戦を戦ったが、不可避とされた翌年のイラク戦争への姿勢(つまり対米姿勢)やバイエルン以外ではいまいち不人気なシュトイバー氏の個人的評判も影響して、SPD・緑の党が辛勝した。現役のシュトイバー氏はしかし今回は再出馬をしない方針であると伝えられている。 そこでにわかに注目を集めていているのがCDU党首のアンゲラ・メルケル党首である。前回総選挙では代表の座をシュトイバー氏に譲ったが、これは彼女の指導力に対する疑問の声が大きかったことで、シュトイバー氏との協議の結果身を引いたことによる。そもそも彼女はコール政権の不正献金疑惑発覚でCDUの支持ががた落ちしたとき(2000年)にクリーン・イメージで党首に選ばれたのだから、リクルート事件の時の海部首相と同じで政治力は本来期待されていなかった。ところがその彼女も党首を務めること5年、今度の総選挙は彼女を代表にという観測が強い。順当にいけば「ドイツ史上最初の女性首相」誕生ということになる。 もっともCDU支持者のアンケートでは、同じく若手のニーダーザクセン州首相のクリスティアン・ヴルフ氏を推す声がもっとも強いのだが(あれ?ヘッセンのローラント・コッホ州首相はどうしたんだろうか。笑)。CDUは正式には5月30日に首相候補を指名するとのことだが、メルケル氏でほぼ決まりのようだ。 アンゲラ・メルケル氏は旧姓カスナー、1954年ハンブルク生まれ。幼時に牧師の父親の赴任先である東ドイツに移る。1977年ウルリッヒ・メルケル氏と学生結婚、翌年ライプツィヒ大学を卒業(専攻は物理学)、同大学の助手となる。1982年に離婚、1986年に物理学の博士号を取得。ベルリンの壁崩壊後の1990年にCDU入党、同年の総選挙で当選。1991年、コール政権の婦人・青少年相に就任、1994年には同じくコール政権で環境・自然保護・原子力保安大臣に任命される。1998年、連邦議会でCDUは敗北し野党となる。同年ヨアヒム・ザウアー教授(化学)と結婚。コール政権時代の不正献金疑惑の中、2000年にCDU党首に選出された。 参考までにドイツの歴代首相を記しておく。・ドイツ帝国(1871~1918年)宰相 1871~90年 オットー・フォン・ビスマルク(1862年からプロイセン首相) 1890~94年 レオ・フォン・カプリヴィ 1894~1900年 ホーエンローエ・シリングスフュルスト公フロドヴィヒ 1900~09年 ベルンハルト・フォン・ビューロウ 1909~17年 テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェグ 1917年 ゲオルク・ミヒャエリス 1917~18年 ヘルトリンク伯ゲオルク 1918年 バーデン公マックス・ドイツ共和国(1918~1945年)宰相 1918~19年 フリードリッヒ・エーベルト(SPD) 1919年 フィリップ・シャイデマン(SPD) 1919~20年 グスタフ・バウアー(SPD) 1920年 ヘルマン・ミュラー(SPD) 1920~21年 コンスタンチン・フェーレンバッハ(中央党) 1921~22年 ヨーゼフ・ヴィルト(中央党) 1922~23年 ヴィルヘルム・クーノ(無所属) 1923年 グスタフ・シュトレーゼマン(ドイツ人民党) 1923~24年 ヴィルヘルム・マルクス(中央党) 1925~26年 ハンス・ルター(無所属) 1926~28年 ヴィルヘルム・マルクス(2期目) 1928~30年 ヘルマン・ミュラー(2期目) 1930~32年 ハインリッヒ・ブリューニング(中央党) 1932年 フランツ・フォン・パーペン(中央党) 1932~33年 クルト・フォン・シュライヒャー(無所属) 1933~45年 アドルフ・ヒトラー(国家社会主義ドイツ労働者党) 1945年 ヨーゼフ・ゲッベルス(国家社会主義ドイツ労働者党)*二日間のみ 1945年 シュヴェリン伯ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・クロシク・ドイツ連邦共和国(西ドイツ、1949年~)首相 1949~63年 コンラート・アデナウアー(CDU) 1963~66年 ルートヴィヒ・エアハルト(CDU) 1966~69年 クルト・ゲオルク・キージンガー(CDU) 1969~74年 ヴィリ・ブラント(SPD) 1974~82年 ヘルムート・シュミット(SPD) 1982~98年 ヘルムート・コール(CDU)・ドイツ民主共和国(東ドイツ、1949~90年) 1949~64年 オットー・グローテヴォール 1964~73年 ヴィリ・シュトフ 1973~76年 オットー・ジンダーマン 1976~89年 ヴィリ・シュトフ(2期目) 1989~90年 ハンス・モドロウ 1990年 ロタール・デ・メジエール(この人のみCDU、他は全て社会主義統一党)・統一ドイツ(ドイツ連邦共和国、1990年~) 1990~98年 ヘルムート・コール(CDU) 1998年~ ゲルハルト・シュレーダー(SPD) 「Spiegel Online」には昨日のNRW州議会選挙の結果がグラフなどで詳しく出ているが、その中で興味を引いたのが小選挙区ごとの得票率をまとめた地図である。SPDがトップの地区を赤、CDUがトップの地区を青で表示しているが、州の真中にあってかつての産業地区だったドルトムント、ボッフム、デュイスブルクが赤色のなのに対して、周辺の地区はほぼ青と実に綺麗に分かれている。非都市部は概ね青いのだが、金持ちの町として知られるデュッセルドルフだけは都市部にもかかわらず真っ青で笑える。最大の都市ケルンでは、中心部は赤、郊外は青のようだ。2000年の選挙のときはデュッセルドルフ始め都市部のほとんどが真っ赤だったことを思えばいかにCDUが躍進したか分かる。 この表は政党ごとの各地区での得票率も見られるのだが、お金持ち・インテリのための党として知られるFDPはやはりケルンやデュッセルドルフでの得票率が高い。CDUはパーダーボルンで得票率65%の高率を記録したが、この町は司教座があって敬虔なカトリックが多いことで知られているので納得である。環境保護政党である「緑の党」は都市部であるケルンとビーレフェルトで得票率が高い。問題は外国人排斥を訴え極右に分類される「レプブリカーナー」(共和党)だが、この党はなぜかヘルネ(ボッフムの北)のみで2.4%の比較的高い得票があった(アーヘンでも2.1%)。ヘルネでは一部の外国人への反感が強いのだろうか。旧東ドイツ共産党系であるPDS(民社党)の支持はドルトムント、デュイスブルクなどの労働者の町、そして大学町ビーレフェルトで支持が多かった。なお共和党、PDSは比例代表での得票が5%以下だったので議席を獲得できなかった。 人口ではドイツ最大の州であるNRWだが、中世以来の伝統的な都市であるアーヘン、ケルン、パーダーボルン、産業革命以来の産業都市ドルトムント、ボッフム、エッセン、そして非都市部と様々な面があるのだが、こうも綺麗に結果が分かれるのは面白い。
2005年05月23日
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今日も天気はすぐれなかった。気温は15℃くらいで涼しい。去年はもうすこし暖かかったような気がするが。 昨日行ったイタリア料理店は、結果から言うとハズレだった。いつも混雑しているなかなか人気の店だというので多少の期待はあったのだが、注文したスパゲッティはくたくたに茹でられていた。マリナーラだったのだが、入っている具もあまり良くなかったし(最近ドイツでもよく見かけるカニカマボコが入っていた)。 思わずK君が「アルデンテという言葉があるがあれは和製イタリア語で、本当はイタリアでもスパゲッティはくたくたに茹でるものではないのだろうか?日本人向けに硬めに茹でているのでは?」と疑問を呈するほどだった。教訓:ドイツではスパゲッティを注文してはいけません(よほど高級なイタリア料理店でもない限り)。この店はピザは美味しいのだろう、多分。 店のオヤジはなかなか愛想が良く、客の横に座りこんで話し込むくらいである。その息子と思しき動きの良くないウェイターも居る。サルディニア島の出身だそうで、チーズやワインにはサルディニアのものもあった。サルディニアはなかなか料理が美味しいところだというが。 ドイツのシュレーダー首相は現在隣国チェコを訪問している。チェコのジリ・パルーべク首相(前首相の汚職疑惑での辞任を受け就任したばかり)と会談し、また強制収容所のあったテレジエンシュタットを訪問し、ナチスの犯罪行為による犠牲者に対して献花している。ところがまたぞろ「ドイツの過去」を巡る議論が出てきているので記しておく。 昨日ドイツの保守系野党CSU(キリスト教社会同盟、最大野党CDUの姉妹政党)のエドムント・シュトイバー党首はズデーテン・ドイツ人の会合に出席し、チェコでエドヴァルド・ベネシュ大統領(在任1935~38年及び1945~48年)の銅像の除幕式が行われたことを批判して、この銅像建設は和解と善隣の進むドイツ・チェコ関係に水を差すものだ述べた。 「ズデーテン・ドイツ人」というのは第2次世界大戦前に現在のチェコに住んでいたドイツ系住民のことで、終戦(1945年5月)直後ベネシュ大統領の指令によってチェコスロヴァキアを着の身着のままで追放されドイツに逃れた人々(とその子孫)である。一見すると戦後日本の満州や朝鮮半島からの引揚者に似ているが、ズデーテン地方にドイツ人が住み始めたのは12世紀頃からで、彼らにしてみれば先祖代々の地と財産を奪われた上追放されたことになる。 シュレーダー首相はこのシュトイバー氏のチェコ批判に対し、「この批判は受け入れることが出来ない。ズデーテン・ドイツ人問題の原因と結果を混同すべきではない。この問題はドイツによるチェコ占領と戦争の結果であり、それはドイツが引き起こしたものである。ドイツとチェコは和解し1997年の宣言で協力して共通の将来を築いて行くことに同意しており、その協力関係はEUの将来でもある」とプラハで述べた。またチェコのパルーべク首相はシュトイバー発言を「内政干渉である」と述べ、またチェコ社民党の報道官は「かつてチェコスロヴァキアとベネシュ大統領が聞かされたナチスの物言いのようだ」とシュトイバー氏を厳しく批判した。 シュレーダー首相の発言に対してCSU側も反論、「これは恥ずべきことで、首相たるものが外国で自国の人間の悪口を言うのは悪い民主主義のスタイルである。かつてのチェコスロヴァキア政府によるドイツ系一般住民追放は誤ちであり人権に対する侵害である」という声明を出した。またハンガリー外務省もこの論争?に参戦、「この問題は未解決の歴史問題であり、チェコ政府が『集団の罪』という考え方から距離を起き、ヨーロッパの原則を受け入れることを希望する」という声明を出している。ハンガリーは第2次世界大戦ではドイツ側で参戦し、終戦後やはりベネシュ指令によってチェコスロヴァキアにいたハンガリー系住民が追放されている(スロヴァキアはかつてハンガリー領だった)。 「集団の罪」というのは、ドイツ人やハンガリー人全体が悪いのでこの報復は当然であるという考え方であり、一方ドイツやハンガリーなどは「悪いのはナチスや指導部であって国民に罪は無い」としている。追放されたドイツ人やハンガリー人は戦前にはまぎれも無い「チェコスロヴァキア国民」ではあったのだが。 こうしたチェコやポーランドからの「追放ドイツ人」はCDU・CSUといった保守系政党の強力な支持母体であり、無視できないものがある。ちなみにCDUというと「荒れ野の40年」演説(1985年)のリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領(在任1984~94年)を出した党でもある。ナチスの犯罪行為については謝罪・反省するが、戦後に起きたこうしたドイツ系住民に対する報復行為は別問題であるというのがその立場だろう。以前は第2次世界大戦後のソ連による国境変更を認めず、現在ポーランド及びロシア領になっているシュレジエン及び東プロイセンの領有権を主張していた。 一方シュレーダー首相はSPD(社民党)に属し、この党はかつてヴィリ・ブラント首相(在任1969~74年)を出したが、ブラント政権は現在の東方国境(オーデル・ナイセ線)を認める立場を早くから打ち出し、ポーランドやソ連との接近(1972年の友好・不戦条約締結)に成功している。東西ドイツが統一されたとき(1990年)はCDUのヘルムート・コール政権だったが、統一を最優先し周辺国の支持を得るためこの問題を不問にした。 チェコスロヴァキアが国家として独立したのは第1次世界大戦後の1918年で、それまでの400年間、ドイツ人王朝のオーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあった。上にも書いたが12世紀頃にドイツ人の東方植民が活発化し、チェコ、ポーランド、ルーマニア、バルト三国、ロシアなどにドイツ人コミュニティが出来た。ドイツ人は優れた農業技術(三圃制農業)や鉱山開発技術をもっており、当地のキリスト教化や文化形成、都市化に貢献した。鉱山の多いズデーテン地方やシュレジエンにドイツ系住民が多かったのは偶然ではないだろう。 独立したチェコスロヴァキアは多民族国家として船出した。その人口比はスラヴ系のチェコ人が46%、スロヴァキア人13%、ウクライナ人3%に対し、ゲルマン系のドイツ人が28%、ウラル語族に属するマジャル(ハンガリー)人が8%だった。1918年の独立直後、アメリカ大統領ウィルソンの唱える民族自決の原則に基き、ドイツ系住民は住民投票を実施してドイツ・オーストリアへの併合を求めたが、戦勝国(米英仏)はこれを拒否し、またチェコ軍が進駐して実現しなかった。 独立後20年の間、チェコはマサリク大統領とベネシュ外相の善隣外交で工業国として成長したが、内政ではドイツ人やスロヴァキア人の独立運動が続き不安要素だった。一方隣国ドイツではヒトラー率いるナチス党が台頭し1933年に政権を掌握する。ドイツ人の多いズデーテンのドイツ併合を画策するズデーテン・ドイツ人のコンラート・ハインラインはヒトラーと気脈を通じ、地下組織「ズデーテン・ドイツ人郷土戦線」、のちに「ズデーテン・ドイツ人党」を結成する。そんな中、マサリク大統領が引退し、ベネシュ外相が大統領になった(1935年)。 再軍備、ラインラント進駐、オーストリア併合と拡張政策を続けるナチスは1938年に目標をチェコスロヴァキアに定め、ズデーテンのドイツ人がいかに虐げられているかを宣伝した。ハインラインはカールスバード綱領を採択しドイツ人の自治回復を求め、ナチスはこれに応えてズデーテン地方のドイツへの割譲を迫った。両国間には軍隊が集結し、またチェコを支援する英仏が動員令を下し、大戦への危惧がヨーロッパを覆った。 イギリスやフランスはこうしたドイツの拡張政策に対して「宥和政策」と呼ばれる戦争回避・弱腰の外交で臨んだ。1938年9月29日、当事国チェコを除いた英仏独伊の四大国はミュンヘンで会談し、ズデーテンのドイツ割譲を認める代わりにドイツはこれ以上の拡張を望まない、という協定を結んだ。ズデーテン地方はドイツに割譲され、ベネシュは辞任した。イギリス首相ネヴィル・チェンバレンは帰国して「国民の皆さん、戦争の危機は回避されました」と演説し歓迎された。 ところが翌年3月、ヒトラーは舌の根も乾かぬうちに、チェコスロヴァキア大統領エミール・ハーハをドイツに呼びつけ、軍事的脅迫をもってドイツの保護国となる条約に調印しろと迫った。昏倒寸前のハーハは署名しドイツ軍がチェコに進駐、チェコは保護国(属国)とされ、スロヴァキアは名目上の独立を獲得した。ヒトラーに騙されたことに気づいた英仏は臍を噛んだが後の祭だった。ナチス・ドイツの矛先がポーランドに向かったとき、英仏が介入し第2次世界大戦になった(1939年9月)。 前大統領ベネシュはイギリスに亡命し、臨時亡命政府を組織した。かつて頼みとした英仏に見捨てられドイツに無抵抗で併合された苦い経験から、大戦中の1943年にベネシュはソ連との間でソ連軍によるチェコスロヴァキア解放に関する協定を結んだ(ウクライナ人の多いスロヴァキアの一部割譲を見返りとした)。1945年5月の大戦終了(ドイツ降伏)後、ベネシュは祖国に戻り、ソ連の支持を受ける共産党との連立で大統領に就任したが、その最初の施策はズデーテン・ドイツ人とハンガリー人の追放だった。彼らの土地や資産は没収され国家のものとされた。これによりズデーテン・ドイツ人300万人が難民化しドイツやオーストリアに逃れた。 このようなドイツ系住民の追放はポーランドやソ連(東プロイセン)でも行われ、その総計は1600万人に上る。また300万人が逃避行のさなか死亡したという。こうして逃れたドイツ人はバイエルン州やニーダーザクセン州、メックレンブルク、シュレスヴィヒ・ホルシュタインなどの地方に多く住みついた。ちなみにホルスト・ケーラー現ドイツ大統領(1943年生まれ)もそうした難民の一人である。 ソ連はチェコスロヴァキアを自分の勢力圏と認識していたが、ベネシュは親西側姿勢を捨てなかった。1946年の選挙では共産党が勝利、同党のクレメント・ゴットワルト(ソ連に亡命していた共産主義者)が首相となった。ベネシュは政党政治による民主主義的政治運営を望んだが、それはソ連の意志とは相容れなかった。東西冷戦が明らかになる中、ソ連はチェコ支配確立をめざし、チェコのマーシャル・プラン参加を取りやめさせたりした。 1948年2月、警察権力への共産主義者浸透に抗議して非共産党系閣僚12人が辞任して政治危機となった。ソ連の意を受けた共産主義者アントニン・ザーポトツキーが組織するストライキやデモが頻発し、この辞任劇を「ベネシュ大統領による共産党排除の陰謀」と糾弾した。ゴットワルト政権によって見せかけの選挙が行われ、その結果ベネシュは新しい人民共和国憲法への署名を慫慂されたが拒否、6月に辞任した。ゴットワルトが大統領となり(ザーポトツキー首相)、チェコスロヴァキアの共産主義国化が加速していくことになる。ベネシュは失意の中その年9月に病死している。
2005年05月17日
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今日も気温は低めで晴れたり曇ったりの繰り返しという天気だった。 イラクで日本人が拉致されたというニュース。武装勢力のホームページに掲載されたそうだが、イラク西部で交戦の末、重傷を負い一人だけ生き残っていたこの日本人を拉致したという。身分証明書など所持品などからアメリカの警備会社で働くいわば傭兵のようだ。 最近忘れられがちなイラクでは(この日記でもほとんど触れていなかった)、ザルカウィの側近が逮捕されたとか(えらく側近が多いようだが)、相次ぐ自爆テロで多くの死者が出ているなどのニュースが入ってきているが、一体どうなっているんだろうか。 今日はドイツの劇作家フリードリッヒ・フォン・シラー(1759~1805年)の没後200年にあたるそうで、記念して彼の作品が各地で上演されるようだ。 モスクワではソ連の対独戦勝60周年記念式典が開催され、旧連合国のアメリカ、フランスなど50ヶ国あまりの元首が参列したという(イギリスのブレア首相は組閣を理由に急遽取り止め)。報道とか見る限りスローガンの「和解と協調」というよりもロシアの国威発揚のように見えるけど。ドイツの首脳として初めてシュレーダー首相が招待され参列した。ドイツの報道では同じ敗戦国として日本の小泉首相が参列したこと、またイタリアのベルルスコーニ首相が軍事パレードに感激していたが、それは自国が戦勝国だと思っているからだという意地悪な報道もあった(イタリアは1943年に連合国に寝返っている)。 あと昨日の議会での記念式典でのケーラー大統領の演説に対して、与党SPD(社民党)と「緑の党」から批判が出ているらしい(大統領は野党CDUの出身)。ナチスの犠牲者を全て同列に扱ったこと、ドイツの愛国心を強調するような内容などがけしからんそうだ。 うちにはテレビが無いので見ることが出来ないのだが、今日ドイツのテレビ局ARDでアルベルト・シュペアーを主人公にしたドラマ「シュペアーと彼」が放映されるそうだ。「彼」というのはナチスの総統ヒトラーのこと。去年の映画「Der Untergang」(ヒトラー最後の12日間を描いた映画)に続き、お茶の間のテレビにも記録映像とは別の生きたヒトラーが登場することになる。映画に比べてドラマとしての演出が多い内容みたいだが、シュペアーに関する新研究の成果なども盛り込み、ナチス指導者としては比較的好意的に見られていたシュペアーを批判的に扱う内容のようだ。先週の雑誌「シュピーゲル」では「アルベルト・シュペアーとその総統・悪のマネージャー;暴かれた『良いナチ高官』の伝説」というタイトルで特集があった。 日本ではシュペアーって誰?という人のほうが多いと思うが、彼はヒトラーの一番のお気に入りとして、一時はもっとも彼に信頼されていた人物である。ナチス政権下では1942年から軍需大臣を務め、ドイツ敗戦後のニュルンベルク裁判(1946年)では人道に対する罪で懲役20年の判決を受けた。被告の中で罪を認めた数少ない人物でもある。1966年に刑期が明けて出獄、回想録を出版し、ドイツ出版史上もっとも多く売れた自叙伝となった。その回顧録の影響もあって彼はナチス高官の中では比較的好意的に扱われており、上記の映画「Der Untergang」でも、狂気じみて悪あがきする醜いナチス高官たちの中で唯一、冷静な若い紳士として登場している。 アルベルト・シュペアーは1905年ハイデルベルク生まれ。裕福な家庭の出身で祖父も父親も建築家だった。ベルリン工科大学で建築を学び、1930年代初頭にナチス党を支持し始める。1931年に友人と共に入党したが(党員番号474481)、リベラルな父親には黙っていた。政治に関心はあっても、彼の夢は建築家としてのキャリアを積むことだった。彼はカール・ハンケという人物と仲良くなるが、ハンケはゲッベルス宣伝相のお気に入りだった。おりしもナチスが政権を獲得したばかりで、ハンケの肝入りで1933年にベルリンに大臣公邸を建設する計画に参画する。この仕事がヒトラーの目にとまった。 権力を得たばかりのヒトラー首相はかつて建築家を目指していたこともあった。彼は連日この工事現場を視察していた。ヒトラーは16歳年下のこの若い建築家を食事に招き、まもなくそのお気に入りとなった。ヒトラーはシュペア―が来ると「恋人が来たかのように」喜び、共に建築設計図や模型を前に熱心に議論した。シュペアーはヒトラーの別荘のあるベルヒテスガーデンに妻子とともに引越した。公務に多忙なヒトラーはしばしば深夜にシュペアーを呼びよせ、何人たりとも二人の会話を遮ることは許されなかったという。 シュペアーはニュルンベルクでの党大会のデザインを任され、さらに1936年には首都ベルリンの大改造計画を一任された。これはベルリンを世界の首都「ゲルマニア」に改造するというもので、ベルリン南駅と北駅の間に、パリの凱旋門の三倍の大きさの凱旋門、そしてシャンゼリゼ大通りよりも太い街路をもつ官庁街を設け、その中心として収容人員18万人、ローマの聖ピエトロ大聖堂の7倍の大きさを持つ巨大なドームをもつ会堂が設計された。その様式は新古典主義と呼ばれ、装飾を抑え簡素ながらも直線的でモニュメンタル(ショーヴィニズム)なものである。 1939年にはその遠大な計画のうち首相府を完成させたが、それは長さ421mという巨大なもので、入り口から応接間までが長さ300mの吹き抜け廊下になっているというものだった。この工事を僅か12ヶ月で完成させたというので、シュペアーはヒトラーにその組織運営能力も評価された。もっとも、この工事は実際には1937年から準備されており、これはナチスの仕立てた「伝説」である。この計画を巡りシュペアーと対立したベルリン市長はヒトラーに無能者呼ばわりされ更迭されるなど、シュペアーの権力は強固になった。 この首都大改造を実行するため大量の石材が必要となったが、その調達に協力したのがハインリッヒ・ヒムラー率いる親衛隊である。共にヒトラーの若いお気に入りである37歳のヒムラーと34歳のシュペアーは緊密な協力関係を構築し、数ある強制収容所のうち、ナッツヴァイラー収容所とグロース・ローゼン収容所は、石材入手を目的として花崗岩の採石場の近くに設置されたものである。 またこの首都大改造で市民の居住区の新設が必要になったが、それにユダヤ人の強制退去を提唱し、また彼自身、ユダヤ人から没収同然の格安で購入した不動産などで個人的な財を成している。彼の都市計画ではユダヤ人のみの特別居住区が想定されていた。 1939年9月の第2次世界大戦開戦でシュペアーとヒトラーのベルリン大改造計画は中断を余儀なくされた。彼の計画のうち完成したのは上記の首相府のほか、テンペルホーフ空港、交通省、航空省だけだった。シュペアーは計画の頓挫を恐れ戦争には反対だったが、ヒトラーの機嫌を損ねたくないので黙っていたという。 1940年、ドイツ軍はフランスを占領する。宿敵を破り得意絶頂のヒトラーはシュペアーを同行させ、共にパリの建築物を鑑賞している。 1941年からユダヤ人の東方移送が始まったが、そのリスト製作にはゲシュタポとシュペアーの部下があたっていたことが最近の研究で明らかになっている。シュペアーはニュルンベルク裁判ではユダヤ人絶滅計画への関与を否定し証拠不充分で死刑を免れ懲役20年に減刑されており、またその回顧録でも関与を否定している。 1942年2月、フリッツ・トート軍需相が飛行機の墜落事故で死亡すると、シュペアーはヒトラーによってその後任に任命された。シュペアーはユダヤ人を始めとする強制労働で軍需物資の集中的生産に力を入れる。またアウシュヴィッツを始めとするユダヤ人絶滅収容所の建設に関しても、軍需相として親衛隊への建設物資供与の権限を持っており、彼がユダヤ人絶滅計画に関与せずまた知らなかった、とのちにニュルンベルク裁判や回顧録で主張したのは偽りのようである。1944年末に60万人いた強制収容所の囚人のうち50万人が兵器生産に従事させられていた。 シュペアーは贅沢品の生産を中止させて軍需物資の生産に集中させ、またばらばらに生産されていた兵器生産を一元的に管理し、42種の軍用機のうち5種、151種の軍用車両のうち23種を残して生産を停止させるなどの措置を取った。ナチス高官の多くは、国民の反対を招いた第1次世界大戦の記憶から、「総力戦」に対して躊躇するところがあったが、シュペアーとゲッベルス宣伝相は総力戦推進論者だった。シュペアーの就任から2年後(1944年)にドイツの兵器生産はシュペアー就任直後の三倍という最高潮に達し、ヒトラーはもちろん敵国のアメリカからもシュペアーの手腕は高く評価された。シュペアーは気難しいヒトラーとの交渉にも長けており、最初は静かに懸案を切りだし、話の途中であたかも偶然紛れ込んでいたかのように書類の間に建築の設計図を混ぜて建築の話題に振り向け、長話の末疲れたヒトラーに言い出しにくい懸案を切り出して、その承認を易々と得たという。またシュペアーは統計上数字のごまかしを多用して煙に巻き、ゲッベルスをして「彼のいうことは信じられない」と言わしめている。 戦況は1945年になると敗北が決定的になった。ヒトラーはドイツ国内のインフラ(電気・水道など)全てを破壊せよとする「ネロ指令」を発令する。これはドイツ民族が世界の覇者になれないのならばいっそ滅んでしまえばよいという彼の考えによるものだった。ところがシュペアーはこの指令に従わず握りつぶし、またヒトラーと同じような考えを持つ者から守るため、こうした施設に護衛を配置した。このことが戦後シュペアーの評価を高め一種の人気さえ持たせる一因になったが、その本心がどこにあったのかははっきりしない。また最近の歴史家は、この「ネロ指令」拒否に関してシュペアーの役割を過大評価すべきではないと考えている。シュペアーが握りつぶさずこの指令が下達されていても、実行されたとは考えにくいからである。また彼が最後まで兵器生産を督励してドイツの敗戦を遅らせたことも考えるべきだ、という。 1945年4月24日、首都ベルリンはソ連軍に包囲されようとしていた。もはや自殺を覚悟してベルリンに残る決意を表明したヒトラーに、彼はネロ指令を実行しなかったことを告げた。その瞬間ヒトラーは目に涙を溜めたという。シュペアーはヒトラーの傍に留まることを申し出たがヒトラーは黙ったままだった。中断のあと、午前三時に面会し別れを告げた彼に対し、「あなたは行くのか。よろしい。ではまた」と冷たく告げ握手した。それが彼がヒトラーを見た最後になった。ヒトラーは1週間後にベルリン包囲戦のさなか自殺した。 シュペアーはベルリン脱出後連合軍に逮捕され、上記のように1946年にニュルンベルク裁判で懲役20年の判決を受けた。何度か恩赦による早期出獄の話も出たが、その都度ソ連による抗議があって結局彼は満期の1966年まで獄中にあった。出獄後はハイデルベルクに隠棲し、回顧録や獄中日記を出版、また歴史家のインタビューにも応じている。ヒトラー死後36年経った1981年、訪問先のロンドンのホテルで急死した。76歳。 シュペアーには6人の子供が居るが、同名の長男は建築家として活躍、2000年のハノーファー万博、北京五輪施設のデザインなどを担当している。長女ヒルデはヒトラーと並んで撮影された写真(1942年)が残っているが、ベルリン市議会の社民党議員を務めた。今年67歳になる末娘マルグレートはハイデルベルク大学で考古学を専攻したのち写真家に転じ、考古学者の夫と共にイラクやシカゴに住んだ。今年になって自分の父親や自分の人生への影響に関する回想録(「あなたはシュペアーの娘ですか?」)を出版し話題になった。 ある人が晩年のシュペアーに尋ねた。もしもう一度人生をやり直せるなら、ハイデルベルクの堅実な建築家として生涯を過ごすのと、もう一度同じ人生を送るのと、どちらが宜しいでしょうか? シュペアーは答えた。「同じことをもう一度やりたい。あの栄光をもう一度、あの不面目をもう一度、犯罪をもう一度、そしてもう一度、歴史の中に生きたい」
2005年05月09日
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今日は60回目のドイツの第2次世界大戦終戦記念日である(「母の日」でもある)。 1945年5月8日、ベルリンでソ連軍司令官ジューコフ元帥に対してドイツ軍のカイテル元帥らが降伏文書に調印し(米英仏に対しては前日に調印が行われた)、5月9日をもってドイツの無条件降伏が発効した。ロシアでは調印文書が発効した5月9日を祝うようでモスクワでの記念式典は明日行われるが(そのため対日戦勝記念日も9月3日のようだ)、ドイツを始め他の国では今日5月8日を記念日としている。 ドイツ連邦議会では記念式典が行われ、ケーラー大統領が記念演説した。ケーラー大統領は「この戦争を記憶することに『終わり』はない」と述べてナチス支配とそれが人類に対して引き起こした惨禍を記憶し反省し続けることを呼びかけた。「我々ドイツ人は驚愕と羞恥をもってドイツ人が引き起こした第2次世界大戦とドイツ人の始めた反文明的なホロコーストを振り返る」「人種主義や極右主義には二度とチャンスを与えまい」「我々はドイツ人を含む全ての国民の犠牲者に対して哀悼の意を表明する」などと述べた。また「こんにちのドイツは外見的のみならず内面的にも全く違った国であり、ドイツを破りナチス支配から解放してくれた全ての国民に感謝したい。ただドイツ人はその自らの力もあって多くを達成したのであり、ドイツはナチス時代の上にそのアイデンティティを作り上げた。その(過去の)一部を排除しようとする者は、ドイツを損ねる者だ」と述べた上で「我々はその国に誇りをもつ正当な理由がある」と、ドイツの国際貢献について述べるなど前向き志向を強調した。 僕はたまたまテレビ中継でこの演説を見たが、戦後のソ連軍占領下における不法行為(捕虜や住民に対する拉致及び強制労働)や、それを引き継いだ旧東ドイツの恐怖支配について言及する場面があり、キリスト教民主同盟(CDU)出身の大統領とはいえ、ちょっと意外だった。 ベルリンではネオナチおよそ2000人が集合し市街中心部へのデモ行進をしようとしたが、3000人の左翼団体がそれを阻止しようと集結し、双方の衝突・暴力行為を恐れた警察の要請を受け入れ、ネオナチ側はデモ行進を中止した。 僕はというと、今日は晴と雨が入れ替わりにやってくる妙な天気の中、マールブルク市の北の外れの郊外にあるヴェァダ(ヴェルダ)という集落のあたりを散歩した。昨日の飲み会でその話をしたら「長老会」のメンバーも来ると言うので結局総勢6人でハイキングに近い散歩をした(こういうのにハイヒールで来る人もいるのだなあ)。ビールや食べ物も持参して途中休んだりした。 ところが誰かの日頃の行いが悪いのか、歩いているときに限って激しい雨になり、ずぶ濡れになった。そうかと思ったら爽やかに晴れたりした。 最初はヴェルダのまた北の外れにあるヴァイセンシュタインという城跡に行く(ここが僕の当初の目的地だった)。城跡といってもドイツの古城のイメージと違い地上構造物は礎石しか残っておらず、発掘調査によってその存在が明らかになった。標高260mほどのこんもりとした山(丘)で、北側は丘陵に続いてなだらかだが、東側と南側は切り立った崖になっており、特に東側にはラーン川とその氾濫原がすぐ麓にある。この山は赤い砂岩質が多い周辺の地質と異なり、白い岩とその風化土で出来ているのでこの名がある。 マールブルク市はほぼ南北に流れるラーン川を挟んで東西にある丘陵地帯の谷間に出来た町だが、このヴァイセンシュタインの山はその谷の北側の入り口を扼する場所にある。ヴァイセンシュタイン山の頂上からは東方のケェルベという集落と南方のマールブルクが一望に見渡せ(ただし現在は樹木に覆われ見通しがきかない)、警戒所として絶好の場所にある。マールブルク城もそうだが、ラーン川の渡しを扼する場所でもあるのだろう。 既にラ・テーヌ時代(紀元前5~1世紀)にはケルト人がこの頂上に何らかの施設を作っていたようだ。北側のなだらかな丘陵には6重の堀があるそうで(「ザルツグラーベン」。北側の防衛上の欠点を補う役目があったのは間違い無い)、これは時代は不明だが、中にはこのケルト時代のものもあるのではないだろうか。 その後紀元後900年頃になって再びこの山頂に木造の城が築かれる。城といってもおそらく塔が一本だけ立つ簡単なものだった。11世紀初頭には四角い石造塔に代わり(のちに五角形に改造される)、11世紀後半にはさらにその周りを一重の石壁が囲むように改造された。こうした塔+壁一重構造の城はこのあたりに無数に築かれており、13世紀に方伯領主の館として改造されたマールブルク城も本来そういう姿だった(参考・近くのメルナウ城)。ヴァイセンシュタイン城はより下位の在地領主・貴族によって築城されたものと考えられるようだ。この遺跡自体は地味だが、中世ヨーロッパの築城技術の進歩が発掘で明らかになった例として貴重なようだ。 ヴァイセンシュタイン城跡からはザクセン朝のドイツ皇帝ハインリッヒ2世(在位1002~24年)の銀貨が出土している。この城の終焉については、1248年にチューリンゲン方伯の血を引くブラバント家に嫁いだゾフィー(ハンガリー王女で聖人に列せられたエリザベートの娘)が、チューリンゲン方伯シャウエンブルク家の遺領を分割して引き継ぐ際に起きた戦争で六ヶ所の城が破壊されたことが記録に見え、このヴァイセンシュタイン城はその一つであろうと当初考えられたが、出土した遺物を見る限りは、既に12世紀の半ばにはこの城は放棄されていたらしい。マールブルク城はゾフィーの子孫であるヘッセン方伯家の居城としてその後も維持・整備が続けられ現在の華麗な姿になっているが、このヴァイセンシュタイン城は忘れられて森の中に埋もれていった。1980年代から数回発掘され、現在は礎石の上に石を継ぎ足して出土した壁の位置を分かりやすくしてある。 この城跡を見終わった後、山を降りて歩いて近くの集落であるヴェルダに向かう。現在はマールブルク北郊の住宅街になっているが、本来は独立した村だった。史料での最初の言及は1232年で「ヴェルテ」という名前だったという。かつての村の中心にはマルティン教会があり、14世紀に建設された塔がある。この教会は石造の塀で囲まれており以前はその内部は墓地だったのだが、現在は第1次世界大戦に従軍し戦死した村の若者の記念碑のみがある。 この壁を見ると、なんと銃眼がしつらえてある。こういう村の「防備墓地」というのは中世(13世紀)によくあると聞いていたので、その実例が見られて感激である。いざ事があった際、村人が家畜を連れてこの防備墓地に立てこもったのである。教会は塔があって見晴らしが良いし、塀で囲まれた墓地はそのまま砦に早変わりした。それにしてもヨーロッパというのはなんと物騒な地域だったことか。この壁の銃眼はどうみても鉄砲出現以降、つまり15世紀以後のものに見えるし、この教会が現在の形になったのは1769~74年だというからかなり新しい時代のものかもしれない。 さて現在のヴェルダの集落はむしろ住宅街・団地だが(大学の寮もある)、かつての村の中心部には昔ながらの農家の大きな納屋が残っている(19世紀末から20世紀初頭のものらしい)。そこでは羊が放牧されているのだが、一見すると住宅街の中の公園に羊が放されているようで面白い光景である。羊好きのK君は感激していたが、ここで激しい雨になってしまった。
2005年05月08日
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5月に入ってから最初の日記。このところ日記を書く気力もネタになるニュースも無かった。心に弾みが無くなっているのだろうか。 日本はゴールデンウィーク、しかも今年は大型連休だそうだが、ドイツは5月1日のみが祝日である。と思ってぼんやりすごしていたら、明日がキリスト昇天祭で休みだということに気付かなかった(去年は5月20日だった)。 今日は夕方激しい夕立があった。気温は20℃くらい。 僕らの先生がうちの大学とは違う職場に応募していることが分かった。これだけ景気の悪い大学に居て、しかも雑用で忙しい(日本の大学教官よりはましだろうけど)となれば他の職場(考古学研究所)に行きたくなるのも分からんではないが、随分贅沢な話ではある。それ以外にも今年はうちの研究室(僕も含めて)が大きく様変わりしそうだ。 今日のニュースから。 シュレーダー首相がトルコを訪問中。EU加盟に向け人権などさらなる改革を求めた。 ドイツ政府は企業を優遇し法人税を引き下げた。これにより企業の業績を良くして雇用機会を増やしてもらい、500万人近い失業者対策にしたいらしいのだが、そういう対処療法じゃダメだっつの。 今年は終戦(1945年5月8日)60周年というので、ドイツのテレビやラジオは60年前を回想する番組ばかりである。つい先日までは新教皇のことばかりで、「いつからドイツ人はこんなに信心深くなったんだ」と研究室仲間でほとんど無信仰のDがおかんむりだったくらいなのだが。 さて今日学食で食事をしていると、いつものように多くのビラがテーブルに置かれている。そのうちの1つに目が行って読んでみた。反ファシズムの左翼系学生団体のビラのようだ。そこには「5月8日 解放の日」とある。内容はというと、5月8日はドイツがファシズム(ナチス)支配から解放された日である、最近保守系・右翼の政治家・マスコミが歴史を歪曲してこの日を「ドイツの敗北と悲劇(東西分裂や東欧からのドイツ人追放)の日」にしようとしているが、ドイツがナチスから解放されたこの日は祝うべきであり、連合国(ソ連、アメリカ、イギリス)に感謝すべきである、という内容だった(デモ行進やパーティーの案内もある)。 読んでみてものすごい違和感を感じてしまった。ドイツが「敗北」したのは自明で、この日がナチス支配の終焉だったのは間違い無いが(実際にはナチス党は終戦前の5月5日に解党している)、それを「解放」というのはそれこそ「歴史の歪曲」ではないか。ほとんどのドイツ人は(「騙されていた」とはいえ)連合国と命をかけて戦っていたのだし、いくらかの抵抗運動があったとはいえヒトラー支配を倒したのはドイツ人自身ではなく連合国の武力だった。この言い草でいえば、アメリカは2003年にイラクを「解放」したことになるが、このグループはイラク戦争には反対なのだから滑稽極まりない。 確かに5月8日はソ連の戦車に乗ってドイツに帰ってきた共産主義者やノルウェーに亡命していたブラント元首相(SPD)にとっては祖国「解放」の日だっただろうけど。読みようによっては彼ら(このグループ)の大好きなソ連や旧東ドイツの共産党支配を正当化したいだけのようにも見える。 このビラによれば、1945年5月8日を「ナチス支配からドイツが解放された日」と位置付けたのは、終戦40周年の1985年に行われたリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領(当時)の有名な「荒れ野の40年」演説だという。過去の大戦やユダヤ人迫害に対するドイツ人の罪を率直に認め謝罪した演説として日本でもよく知られており一種の信奉者も居るようだが、ドイツではこの演説はその後大きな議論(特に彼の属するキリスト教民主同盟の内部で)を呼んだという。 この演説はドイツの左翼系からは謝罪の面を強調して評価されているが、ドイツの覇権主義と決別するという内容ではないこと、ヴァイツゼッカー自身が弁護士として1948年にナチス政権の外務次官だった父親の弁護をしていること(結局懲役7年の判決だった)、大部分のドイツ人をナチスの「共犯者」ではなく「犠牲者」としていること(なんというかコペルニクス的転回だが)などの問題点が指摘されている。また同演説の中で「5月8日以降に苦しみを負った」故郷を追われたドイツ人や捕虜となったドイツ人に対する共感から「戦勝記念式典に参加する理由は無い」と述べており、彼自身の政党・キリスト教民主同盟(CDU)の支持母体である、いわゆる「被追放者」(終戦直後チェコやポーランドから追放されたドイツ人)に配慮を示した内容になっている。この「被追放者」の問題は保守系や極右がこのんで取り上げる問題である。 1995年の終戦50周年には保守派の政治家、評論家などが「フランクフルター・アルゲマイネ」紙に全面広告を打って「5月8日は解放の日などではなく、ドイツ人追放、東ドイツでの圧制と東西分裂が始まった日」であり、5月8日はドイツが連合国のエゴの犠牲者になった日である、と主張した。この広告には300人ほどが署名したという。このビラによればこうした「歴史の歪曲」は10年後の現在さらに続いており、ユダヤ人への迫害を相対化しようとしてCDUを追放されたマルティン・ホーマン議員や、戦後にソ連がドイツ捕虜や市民に課した抑留・強制労働を「第2のアウシュヴィッツだ」と評した著述家、ドレスデン空襲を「爆弾によるホロコースト」と主張する極右政党NPD、戦争によるドイツ人の被害ばかりを強調する雑誌「シュピーゲル」(注・僕には決してそうとは思えないのだが)や映画などを挙げている。 こうした反動や歴史歪曲の動きに対抗して「5月8日を祝おう」というのがこの団体の主張である。 このビラを研究室に持っていってドイツ人に見せたが拒否反応が返ってきた。本当はやや左寄りの彼の本音を聞いてみたいのだが、無理かもしれない。それにしても5月8日を「解放の日」として祝おうというのは、見ようによってはものすごい開き直りである。ナチスやファシズムに対する批判は当然としても、そういう「向こう岸」に立つようなやり方で本当に歴史を「真摯に反省」できるものなのだろうか。第2次世界大戦はおろか、冷戦や東ドイツも知らない若い世代だから言えることなのかもしれない。 歴史認識といえば、先週のニュースになるがこういうことがあった。ドイツのヴォルフガング・ティアーゼ国会議長(社民党)は先週中国を訪問し、北京の共産党幹部学校で講演をした。内容は多極化する世界(EU、アメリカ、中国)やそれに対応した国連改革の必要性、至高の価値観としての自由、民主主義や人権といった内容だった。質疑応答で聴衆(当然共産党幹部)の一人が、「ドイツ人と違い日本人は過去の中国やアジアでの蛮行を反省しておらず、国連安保理常任理事国入りの資格が無い」と発言した。 これに対してティアーゼ議長は応答せず、「他人の過去を云々するものは、まず己の過去を見つめることが必要だ。中国がその例をを示すことによって道義的に優位に立つことが出来る。なぜならば過去は他国ばかりでなく自国にもあるからだ」と答えた。直接の言及は避けたが、天安門事件や「大躍進」といった過去から目を背ける中国共産党(ドイツ社民党とは友党である)への注文だった。ティアーゼ議長はさらに「中国は日本との議論の席につき、歴史や先入観について話し合うことが必要だ。より大きく、強く、寛大な者がそれを言い出さなければならない」と述べた。聴衆はこの答えに一瞬黙ってしまったが、やや遅れて拍手があったという。 ティアーゼ議長はこの他中国首脳との会談で人権問題(チベット、世界最多の死刑執行、民主化、法治など)を再三取り上げた。中国の求めるEUによる対中武器輸出解禁については、中国の外相が「EUはアメリカや日本の圧力に屈せず解禁して欲しい」と述べると、「武器輸出解禁が遅れているのは中国の人権問題や台湾への姿勢の為だ。EUの政策にアメリカや日本は関係無い」と切り返した。また訪問最終日には自らチベットを訪問し、チベット問題の進展をアピールした。財界人を引き連れて中国に耳あたりの良い事ばかりを言うシュレーダー首相とはえらく違うが、これは首相と国会議長という立場の違いにもよるのだろうか。
2005年05月04日
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この日は昼前からフランクフルトに行く。ここからは電車で一時間くらいで、人口60万でこのあたりでは最大の都会である。「人口60万」というと日本だと岡山くらいの大きさであまり大きいように思えないが、ドイツでは大都市の部類に入る。特にフランクフルトは国際見本市、ヨーロッパ中央銀行、ライン・マイン国際空港などがあって高層ビルが立ち並ぶ大都会といっていい。 家を出たときはまだ雲があったが、午後になって晴れて気温がぐんぐん上がって25℃にまでなった。 今日フランクフルトに行ったのは考古学博物館の展示を見に行くためだった。今は「銀の力」と題してカロリング朝(8~9世紀)時代のドイツ、オランダや、同時期のチェコやヴァイキング(デンマーク)の遺跡から出土した銀製の装身具、武器の装飾、銀貨、祭具などを展示している。いつもながらこじんまりした特別展だった。 考古学博物館は第2次世界大戦の空襲で破壊された修道院を修復した建物の中に入っている。あまり目立たないところにあるので客も少なく職員もあまりやる気が無い。最近常設展示の配置換えを行ったらしく展示ケースの場所が変わっていた。あと今日はどういうわけかフランクフルト市内の博物館は全て入場無料になっていたようだ(普段は学生料金2ユーロ)。 次いでフランクフルト歴史博物館に行く。こちらは観光地として有名なレーマー広場の近くにあって周りは観光客で溢れている。EUの東方拡大1周年を記念してか、レーマー広場ではステージが組まれてバンドの生演奏が行われたり、EU各国の旗が翻っていた。 フランクフルト歴史博物館は都市フランクフルトの歴史をテーマにした博物館で、結構大きい。ここに来るのは久しぶりだったが、こちらも展示が大きく変わっていた。常設展示の変更は今も続いているようで一部入れない部門もあった。以前見た記憶の無い、博物館の地下に保存されている中世フランクフルトの遺構(王宮や城壁など)が展示されていて、詳しい解説(一部日本語あり)もついている。 大きく変わったのは20世紀の市民生活に関する部門で、随分モダンな展示になっている。やはりナチス時代の展示に力が入っている。あと膨大なコインのコレクション(ドイツ植民地や戦時中の占領地で発行されたコインもある)や中世の美術品など、展示は多岐にわたっている。改装工事の完成が待ち遠しい。展示場所があちこちに分散していて内部がちょっと分かりにくくなっているが。 アメリカのケネディ大統領が1962年にフランクフルトを訪問したときの映像が流されていたが、ドイツの市民はアメリカ国旗をうち振るって熱狂的に迎えている。今年2月にブッシュ大統領が訪問したときのことを思うと隔世の感がある。 その後市街をぶらぶらして本屋に入ったりする。日本書籍を専門に販売する店では、キャンペーン中なのか日本語新聞(朝日か日経)をただで呉れた。買うと7ユーロもする。あとお決まりでスターバックスに入り、暑いのでフラぺチーノを飲んだ。 中央駅の周りは以前も書いたが無国籍の様相を呈している。アラブ、インド、トルコ、韓国、中国、イタリアなどさまざまな国の人が入り乱れている。店はケバブ屋やポルノ・ショップなどで、全般にあまり雰囲気は宜しくない。なぜか砂漠迷彩の軍服を着たアメリカ兵が三人歩いていたが(イラクから休暇で来たのだろうか)、こうなるともうどこの国だか分からない。これが一歩道路を変えると中世ふうの建物やぴかぴかの高層ビルが同居し、ネクタイ・スーツ姿(こういう姿を普段あまり見ないドイツではかなりスノッブな印象である)のビジネスマンが歩いていたりするので不思議な街である。 夕方電車に乗ってフランクフルトを発ち、家に戻る。夜は遅くまで飲み会。E君にすっかり迷惑をかけてしまった。 備忘のためフランクフルトの歴史を記す。 フランクフルトが最初に文献史料に見えるのは794年2月22日、カロリング朝のカール大帝がマイン川の渡し(フルト)を渡って半年ほどそこに滞在した記録であるという。カールはフランク族の王なので、その地は「フランコノフルト」と呼ばれ、それがフランクフルトという名前になった。なお別の史料で6世紀にフランク族(当時はメロヴィング朝)がアレマン族(どちらもゲルマン人)と戦った際にマイン川の渡しを発見していたともいい、語源には別の説もあるようだ。しかしフランクフルト市はこの794年を建都の年と定め、1994年には建都1200年を祝っている。 伝説ではザクセン族との戦いに敗れたカールが敗走中にマイン河の渡しを偶然発見したことになっているが、実際にはそれ以前からマイン川の渡河地点という要衝にあるフランクフルトには集落があった。今の大聖堂のあたりの丘にはローマ時代には街道の宿駅のようなものがあったという。また浴場なども見つかっているが、その遺構は保存されて大聖堂前の公園に展示されている。 カール大帝といえば800年のクリスマスにローマ教皇によって戴冠され、神聖ローマ皇帝を名乗り、そのフランク王国はのちのドイツ、フランス、イタリア、つまり西欧世界の基礎となった国家として知られている。上にカール大帝がフランクフルトに居(王宮=プファルツ)を構えたと書いたが、フランク王国には定まった首都というものが無く、数千人の取り巻きを引き連れた王が居る場所がすなわち「首都」だった。なんだか遊牧民の征服王朝を彷彿とさせるが、これは当時の西ヨーロッパは生産力も低くまた国内流通も未発達で、一箇所に首都を維持できず、王が自らの宮廷の威容を見せつけて物資を現地調達していたという事情による。フランクフルトと京都(平安京)は建都の年こそ同じだが実態は随分違う。カールの「王宮」はアーヘンなど何ヶ所かにあるが、その実態はこじんまりしたものだったようだ。 カールの子であるルートヴィヒ敬虔王、その子のカール禿頭王(西フランク王)もフランクフルトに滞在した記録がある。フランクフルトを含むドイツにあたる東部はカールの兄ルートヴィヒ(「ドイツ人王」)に継承される。東フランク王国(ドイツ)はルートヴィヒの子孫に継承されるがルートヴィヒ4世幼児王の死(911年)で断絶、諸侯の合議によってフランケン伯コンラート1世が東フランク王に選出された。以後ドイツ王の地位は諸侯の選出によるという観念が成立し、王の絶対権力は制限されドイツ国家の形成に大きな陰を落とすことになる。 コンラート1世の死後、ザクセン公ハインリッヒが東フランク王位を継承する(919年)。ハインリッヒはフランクフルトの王宮の周りに城壁を築いたが、これは相次ぐマジャル(ハンガリー)族やノルマン人(ヴァイキング)の侵入に対処したものらしい。その規模はおよそ400mx300mである。これがのちのフランクフルト市街の核となった。ハインリッヒの子オットー1世はマジャル族を撃退してローマに遠征して神聖ローマ皇帝として戴冠し、ドイツ国家の基礎を固めた大帝として知られるが、フランクフルトにも度々訪れロシアやスペイン(当時はイスラム教徒)、ビザンツ帝国の使者を引見している。オットー1世の孫オットー3世は子が無く、遠縁のハインリッヒ2世が継いだが、その後はフランク族のザリアー家のコンラート2世が選出される。ザリアー家の支配下ではフランクフルトは王宮としての機能を失っていた。 ザリアー家が断絶すると1138年にシュヴァーベン地方シュタウフェン家のコンラート3世(ザリアー家の縁戚)が「ドイツ王」に選出される(内紛からローマで戴冠できなかったので神聖ローマ皇帝を名乗れない)。コンラートは再びフランクフルトを王宮に選び(現在の歴史博物館の場所にあたる)、シュタウフェン朝の時代にフランクフルトは拡張され(1kmx500m)、都市を囲む城壁が築かれた。当時の人口は1万ほどだったという。コンラートの子フリードリッヒ1世(赤髭王。十字軍に参加)やその孫フリードリッヒ2世はフランクフルトでドイツ王に選出され、フランクフルトはドイツ王を選出する場所としての地位が確定した。13世紀は農業生産の向上や交易の活発化でドイツ各地で都市が勃興した時代であり、フランクフルトでも市が開かれ、富を得た市民共同体による教会建設が行われた。 都市の勃興とは裏腹に、ドイツの内政はザリアー家の断絶後混乱を極めた。ドイツ国王(皇帝)の地位は有力諸侯(ハプスブルク家、ルクセンブルク家、ヴィッテルスバッハ家など)の選挙で選ばれるようになったが、その諸侯は各自の領地拡大に奔走して国王権威を軽視し、また対立する派閥によって王とは別に「対立王」が立てられることも多かった。その混乱を収めようとしたのが1346年に選出されたボヘミア(チェコ)王カール4世で、1356年に「金印勅書」を発し、皇帝選挙権のある7選定侯の規定、フランクフルトでの選出やアーヘンでの戴冠など(いずれも過去のドイツ皇帝の故事に則ったもの)、ドイツ皇帝の選出規則を設けた。 しかし結局のところこの規定は形式的なものになり、15世紀後半以降オーストリア王ハプスブルク家の強大化によって事実上帝位はハプスブルク家の世襲とされた。しかしドイツ皇帝の選挙や戴冠などの儀式はフランクフルト(レーマー広場)で行われた(戴冠式が行われたのは1562年のマクシミリアン2世以降)。これはフランスのナポレオンによるドイツ征服によって神聖ローマ帝国の枠組みが瓦解する直前、最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世(オーストリア王)が戴冠した1792年まで続けられた。 ヴィッテルスバッハ家のルートヴィヒ(4世)のとき(1333年)、フランクフルト市街はさらに拡張され東西1.4km、南北1kmにまで拡大した。都市を囲む城壁には60あまりの塔が備えられたが、今も残るエッシェンハイマー塔などはそのうちの1つである。16~17世紀には大砲の発達に対応して城壁の代わりに堀や堡塁が建設されたが、無用になった19世紀に取り除かれ(フランクフルトの場合、ナポレオンの指示によるという)、現在は公園になっている。 フランクフルトはフランドル(ベルギー)と北イタリアという二大産業地域を結ぶ商業都市として栄えた。特にユダヤ人の商業活動が盛んで、のちにロスチャイルド財閥を築くマイヤー・ロートシルトは1744年にフランクフルトのユダヤ人街で生まれている。また同じ頃、ドイツの生んだもっとも偉大な作家といわれるヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは皇帝顧問官の子として1749年にフランクフルトで生まれている。 フランス革命(1789年)やそれに続くナポレオンによるドイツ占領は、それまで各領邦レベルにとどまっていたドイツ人の意識をナショナリズムへと変化させ、ドイツ統一が叫ばれるようになった。ヨーロッパ各地で革命が起きた1848年、フランクフルトの聖パウルス教会(レーマー広場の近くにある)で最初のドイツ国民議会が行われたが、フランクフルトがかつて(統一)ドイツ皇帝の選出と戴冠の地であるという伝統を意識したものだった。 翌年議会は異民族支配を続けるオーストリア王ではなく、興隆著しいプロイセン王を世襲のドイツ皇帝とする憲法を定め、議会の代表はプロイセン王フリードリッヒ・ヴィルヘルム4世に面会しドイツ皇帝冠を捧げようとしたが、王は帝位は民衆の議会ではなく神が決めるべきものとしてこれを拒絶、議会は瓦解した。結局ドイツの統一はプロイセンの武力によって行われ、1866年にフランクフルトはプロイセン領に組み込まれ帝国自由都市としての地位を失った。 19世紀末の人口急増で市街地はかつての城壁の区域を越えて拡大した。第2次世界大戦では甚大な被害を蒙ったが再建された。かつての理念上の首都として、分裂した西ドイツの暫定首都の候補にもなったが、宰相アデナウアーの意見や議会の採決により結局より小さいボンに決まった。ドイツ再統一が行われた1990年にはヨーロッパ中央銀行がフランクフルトに設置されることが決まり、かつての国際金融中心地としての地位を取り戻した。
2005年04月30日
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今日は雨が降ったりやんだりの天気だった。風邪のほうは薬を飲んで休んだせいかだいぶ良くなった。 この4月は中国各地での反日デモ(というか暴動)が騒がれた。このデモで叫ばれたことの1つに「日本の国連安保理常任理事国入り阻止」というのがあった。一方で中国はドイツの常任理事国入りを支持する姿勢を打ち出している。日本にはこれを捉えて「ドイツは過去の歴史を直視し反省しているから、中国(や韓国)の支持を得られているのだ。ドイツを見習え」と唱える人が見うけられるが、おめでたいというほか無い。国連安保理改革に歴史問題云々は関係無くて単に近隣国が常任理事国入りするのに反対なだけであって、歴史認識問題云々はその粉飾に過ぎない。ドイツの常任理事国入りにはイタリアなどが反対しているが、同じく地域の中堅国でドイツによる侵略を受けたポーランドは、ドイツの常任理事国入りには反対し、日本のそれには明確な賛成を表明している。それだけのことである。 まあ現在のドイツと中国の関係がきわめて良好なのは間違いない。大企業のトップを引き連れた両国首脳の相互訪問は毎年のように行われている。ドイツのシュレーダー首相は、1989年の天安門事件以来続いているEUによる対中武器禁輸の解禁を、フランスと共に強く主張している(台湾への姿勢や人権問題を理由に他のEU加盟国が反対しており実現していない)。 ではドイツと中国の関係は歴史上常に理想的なパートナーシップだったかというと、とてもそうとは言えない。中国はドイツによる中国侵略のことは忘れてしまったかの観がある。おととい4月23日は、1895年の「三国干渉」から110周年になるので、日本もからむ近代のドイツ・中国関係をざっと見てみる。 ドイツが中国と最初に関係を持つのは、プロイセン王立アジア貿易会社が1751年に中国(当時は満州人王朝の清朝)に来航したときからという。もっとも中国は当時朝貢貿易しか認めず、また海外交易でも帝国主義でもドイツは完全に出遅れてイギリス、フランス、オランダ、そして中国とは地続きのロシアにも遅れを取っていた。多くの領邦に分裂し統一国家の無かったドイツの状況を考えれば無理も無い。 1840年のアヘン戦争、1856年~58年のアロー号戦争などで中国がイギリスやフランスに敗れてその弱体化が明らかになると、プロイセンはすかさず1860年にアジア派遣艦隊(軍艦3隻)を東アジアに派遣した。出遅れた植民地獲得競争に参入するためである。この時この艦隊は天然の良港である膠州湾(山東半島)を調査している。中国とプロイセンは交渉の結果、翌1861年9月2日に正式な国交と通商関係を樹立している。この艦隊はまた同時にアメリカによって開国させられたばかりの日本も訪問し、1860年12月に日普修好通商条約を締結している。その際このプロイセン艦隊は蝦夷地(北海道)にも目をつけてその奪取すべきことを本国に具申しており、実に油断も隙も無い(そのあたりの顛末についてはeba3515さんの日記に詳しい)。もっともプロイセンはこののち10年は悲願のドイツ統一に忙殺される。 地理学者フェルディナント・フォン・リヒトホーフェンは1868年から71年にかけて中国各地を旅行してその成果を地誌「ヒーナ(中国)」という大著にまとめたが、彼も膠州湾を視察して、将来のドイツ海軍の軍港とすべきことを具申している。リヒトホーフェンというと「シルクロード」という言葉を作り、「さまよえる湖」ロプ・ノールを発見した探検家スウェン・ヘディンの師として知られる碩学だが、学問研究がそのまま帝国主義に結びついていた時代だった。 1870年の普仏戦争でプロイセンがフランスを破ってドイツを統一すると、ドイツは一躍ヨーロッパ最強の陸軍国としての評価を得た。近代化を目指す明治日本が軍制をフランス式からドイツ式に切り替えたのと同様、中国もドイツの軍制に着目し、1872年には早くも軍閥政治家・李鴻章が部下をドイツの陸軍士官学校に派遣している。1885年には李鴻章によって天津に陸軍士官学校が開設され、ドイツ人教官が招かれている。 1890年、ドイツでは若いヴィルヘルム2世が即位する。微妙なヨーロッパの勢力均衡に意を砕いた宰相ビスマルクは事実上罷免され、苦労知らずで夢想家のヴィルヘルムとそのイエスマンの宰相による気ままで露骨な「ドイツの世界戦略」が始められる。その影響は東アジアにも及んだ。 1894~95年の日清戦争では、ドイツ式に訓練された日本軍が、同じくドイツ式ながら訓練不徹底だった清国軍を破った(清国軍の旅順要塞はドイツ・クルップ社製の大砲が装備されていたが、一日で陥落した)。1895年4月17日、李鴻章を代表とする清国代表と日本との間で下関条約が締結され、遼東半島・台湾などの日本への割譲などが決められた。ところが東アジアでの日本の突出を嫌うロシアはイギリス・フランス・ドイツに干渉を呼びかけ、ドイツとフランスがこれに応じ(既に中国に最大の権益を持っていたイギリスは沈黙)、4月23日いわゆる「三国干渉」が行われる。ドイツは日本に対し、日本の遼東半島領有は東アジアの平和維持や朝鮮の独立維持の上で不安定要因となりヨーロッパの不利益であること、ドイツはイギリスと違い日本の「真の友邦」であり、その立場から日本の遼東半島領有を憂慮すること、三国(露独仏)に対する戦いは日本にとって望みの無いものであってこの勧告を受け入れるより無い、と通告した。日本はこの要求を飲まざるを得なかった。 1896年、ドイツは膠州湾沖に軍艦を派遣する。翌年11月、膠州湾のある山東省でドイツ人宣教師2名が殺害される事件が起きる。これを口実として即座にドイツは膠州湾を占拠、1898年年3月、ドイツは清国との間で膠州湾の99年間の租借協定を締結し、また山東省内の鉄道敷設権を得た。なお同じ頃イギリスは威海衛(山東省)、ロシアは旅順(遼寧省)、フランスは広州湾(広東省)を租借している。 膠州湾租借地の管理は植民地省ではなく海軍省の管轄とされ、ドイツは膠州湾に一大海軍根拠地を建設し、膠州湾に面する人口400人の漁村に過ぎなかった青島(チンタオ)は人口20万の港湾都市へと成長していった(当初の租借地全体の人口は8万余だった)。ドイツは青島に大学や工場、そしてビール醸造所を建設した。1903年に建設されたビール醸造所はドイツの醸造法そのままのビールを生産し続け、現在も「チンタオビール」として親しまれている。なおドイツはこの植民地建設に最初の10年で10億ライヒスマルクを投資したが、期待に反して収入はその10分の1にも満たず、持ち出しの大きい植民地だった。 1900年、山東省を始め中国北部一体で義和団の乱が発生する(ドイツでは「拳闘士反乱Boxeraufstand」と呼ぶ)。前年山東省では洪水や蝗害が発生して農民は疲弊し、その不満にキリスト教や外貨に対する排斥運動が加わって大暴動となった。暴動の矛先が自分に向くことを恐れた西太后率いる清朝政府は、この暴動を許可してむしろ帝国主義勢力への尖兵に利用しようとした。同年5月、各地の義和団暴徒は首都北京に向け進軍、翌月北京に居た各国外交団など473人、その守備兵力450人、そしてキリスト教徒の中国人3000人などが北京の一角に孤立した。ドイツ公使クレメント・フォン・ケッテラーはこの間義和団によって北京の路上で殺害されている。義和団に中国の正規軍も加わって公使館街にこもる少数の各国部隊を攻撃した。ただし清国政府や軍内でも異論があり、この攻撃に大砲は使用されなかった。 イギリス、アメリカ、ロシア、ドイツ、フランス、オーストリア、イタリア、そして日本からなる列強各国は救援軍を派遣、8月半ばに北京に達し、西太后は西安に逃亡した。北京は各国連合軍による略奪にさらされ、なかでも仏像の内部に金が隠されているという噂を信じたロシア兵は寺院の仏像を壊して回った。乱もおおむね収束した9月、ドイツのアルフレート・グラーフ・フォン・ヴァルダーゼー元帥が連合軍の司令官となり、義和団の掃討と捕縛を続けた。またロシアはこのどさくさにまぎれて20万の兵を満州(中国東北部)に侵入させ、鉄道権益保護と称して清国政府にその駐留を認めさせた(1904年の日露戦争へと繋がる)。 翌年清国と各国の間で講和条約が締結され、多額の賠償や不平等条約が定められた。中でも公使を殺害されたドイツに対しては、皇子を団長とする謝罪使がベルリンに送られた。 1914年8月に勃発した第1次世界大戦では、日本は日英同盟を根拠に連合国側に参戦しようとした。日本はドイツに最後通牒をつきつけ、ドイツ東洋艦隊の退去もしくは武装解除と膠州湾の日本への引渡しを要求した。ドイツ側が返答しなかったため日本は8月23日にドイツに対し宣戦布告、イギリス海軍と共同で膠州湾を海上封鎖した。ドイツ東洋艦隊は既に膠州湾を脱出しており、太平洋を東に航行、南米を回ってドイツ本国を目指したが、この年末にフォークランド沖海戦でイギリス艦隊に敗れ壊滅している。 日本とイギリスは青島攻略を目指しておよそ3万の兵(日本の第18師団が基幹で日本軍がほとんど)を差し向けた。アルフレート・マイヤー‐ヴァルデック海軍大佐(膠州総督)の指揮の下、第3水兵大隊を主力とするドイツ軍守備隊約5000は2ヶ月の攻防によく堪えたが、弾薬が尽きたため11月7日に降伏した。膠州湾はそのまま日本の支配下に置かれたが、その返還を求めた中華民国政府(1912年の辛亥革命で成立)に対して逆にいわゆる「対華二十一ヶ条の要求」をつきつけてこれを承諾させ、青島支配を続けた。中華民国政府が日本の要求を受諾した1915年5月9日は中国の「国辱記念日」とされた。なお中国は1917年になってドイツに対し宣戦布告している。 1918年11月にドイツは降伏し帝政は瓦解、翌年のヴェルサイユ講和条約で海外植民地の全てを失った。1922年のワシントン軍縮会議では日本は膠州湾の中国への返還と日英同盟の廃棄などを呑まされて外交的に完敗した。青島は中国領に戻ったが、商売目的でなお多くの日本人が在留した。中国で排日運動や暴動が起きて在留日本人がその犠牲になると、日本は邦人保護を理由に青島・山東半島に軍隊を派遣(1927・28年の山東出兵)、日中関係はさらに尖鋭化してゆく。 1926年、経済視察のため中国を訪問していたドイツのマックス・バウアー大佐は中国国民党政府の軍人・蒋介石と知己となり、軍閥割拠状態の中国平定を目指す蒋介石は軍制改革を進め、バウアーはそれに貢献した。さらにドイツは軍事顧問団を派遣し、その見返りに中国から戦略物資(タングステンなど)を供給された。海外植民地を失った「持たざる国」ドイツにとって、巨大な中国は新規参入の可能な魅力的な市場だった。蒋介石というと妻の宋美齢を通じたアメリカとのコネクションが注目されがちだが。 ドイツでナチス党が政権を獲得した1933年には、ヨハンネス・フォン・ゼークト元参謀総長が蒋介石の軍事顧問として赴任、1936年の彼の帰国後はアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンがその後任となっている。1937年に蒋介石は日本との日中戦争を開始するが、中国軍の最精鋭とされたのはドイツ式の訓練を受けドイツ製の兵器を持つ部隊であり(その装備は時としてむしろ日本軍よりも優れていた)、その作戦計画はドイツ軍人ファルケンハウゼンが立案したものだった。日本とドイツはすでに1936年に日独防共協定を締結していたが、ドイツは中国への武器輸出をやめようとはしなかった。いわゆる「南京大虐殺」(1937年12月)の目撃者とされるジョン・ラーべがドイツのジーメンス社の南京支社長だったというのはよく知られている。ラーベにとって中国軍はお得意様だった。 日本によるロビー活動もあって、1938年4月になってようやくドイツは中国に居た軍事顧問団を引き上げている。日本が世界大戦の渦中に飛び込むのはその3年後のことである。
2005年04月26日
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僕らが子供の頃、「ジンギス・カン」という曲が流行った(流行ったというほどは流行ってないかも)。なぜか大阪城公園でかかっているのを聞いたが「ジン、ジン、ジンギスカン、ホーレラホニャララ・・・」と歌う強烈なリズムが耳に残った記憶がある。麻原彰晃マーチじゃないが、「思わず口ずさむメロディ」である。 その後記憶の隅に留めつつも気にかけずに過ごしてきたのだが、ドイツに来てから「あれはドイツ人が歌っているんですよ」と教えられてびっくりした。「ジンギスカン」というのはグループ名でもあり、1979年に発売されたこの曲は代表作にしてデビュー曲でもあるそうだ。グループはその他「Moskau」などの(ドイツでの)ヒット曲を出したが、いつのま間にか解散したそうだ。 インターネットというのが出来てこの曲についても簡単に調べられるようになった(聞くことも出来る)。著作権の問題とかが心配なのでドイツ語歌詞の転載はやめるが、その日本語訳を記しておこう。おいらも暇だね。 フ、ハ、・・・ ステップの風と共に駆け競う 数千の騎士 ハ、フ、ハ 一騎が先頭を駆け、皆それに付き従う それはジンギスカン ハ、フ、ハ その馬の蹄は 砂を打つ あらゆる国に恐怖と驚愕をもたらし 雷光も雷鳴もそれを止められない フ、ハ、(ジン ジン ジンギスカン へー 騎士 ホー 騎士 へー騎士 進め ジン、ジン、ジンギスカン)* さあ兄弟 酔えよ兄弟 殴れよ兄弟 もっともっと ウォッカを持って来い ホホホホ なぜなら我らはモンゴル人 ハハハハ 我らはもう酔っ払ったぞ (*繰り返し) へー 者共 ホー 者共 踊れよ 者共 いつものように 彼の哄笑が聞こえる ホホホホ 笑い声は大きくなる ハハハハ そして彼は杯を一息で空ける 気に入った全ての女は そのテントの中に連れ込む ハ、フ、ハ 彼を愛さない女は居ないということだ この地上には ハ、フ、ハ 彼は一晩に7人の子供をはらませ その敵には嘲笑うのみ なぜなら彼の力には誰も抗えない フ、ハ、 (*繰り返し) さあ兄弟 酔えよ兄弟 殴れよ兄弟 もっともっと ウォッカを持って来い ホホホホ なぜなら我らはモンゴル人 ハハハハ 我らはもう酔っ払ったぞ (*繰り返し) へー 者共 ホー 者共 踊れよ 者共 いつものように 彼の哄笑が聞こえる ホホホホ 笑い声は大きくなる ハハハハ そして彼は杯を一息で空ける ハ、フ、・・・・ ・・・ふざけたイメージの歌だが内容は案外真面目?ではある。しかしなんというかこういう描かれ方をされたモンゴル人が可哀相だな。ジンギスカンやモンゴル帝国というとやはりこういうイメージが定着しているのだろう。 ただモンゴル人というよりロシア人のイメージではないだろうか、この歌は。発表された1979年という時代(ソ連はブレジネフ政権の末期)やドイツの20世紀を考えるとそう思いたくなる。ロシア人は「目の青いモンゴル人」と書いたのはアンブローズ・ビアスだっけ。
2005年03月26日
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今日はまた快晴だ。 九州で地震があったそうですね。ラジオのニュースで繰り返し報じている。 アメリカのラムズフェルド国防長官が、イラク戦争開戦2周年のテレビ・インタビューで「トルコがイラク戦争で米軍の領内通過を認めていれば、イラク政府指導者の迅速な拘束に成功し、その後の犠牲や混乱(テロ)はかなり防げただろう」と述べたらしい。トルコは開戦直前になって北からイラクに侵攻するはずだった米軍(第4歩兵師団)の領内通過を認めなかった経緯がある(トルコは見返りに経済支援を要求していた)。 潜伏してイラクでのテロ活動を指示していたというフセイン元大統領の義弟が先日シリア(?)で拘束された事件を受けての発言だろうが、まあアメリカから見りゃあそうだろうな。トルコにしてみればイラクの混乱に巻き込まれたく無いだろうしその目論みは成功したわけだが(約束していたイラク占領への派兵も拒否した。一方でトルコ特殊部隊が秘密裏に北イラクに潜入していたという話もある)、この発言には「言いがかりだ」と怒るだろう。アメリカにすれば、イラクが一応片付いて今更トルコの歓心を買う必要がなくなったのだろうか? 一方先日の「世界婦人の日」のデモ隊に対するトルコ警察による暴力がEUで問題視され、EU加盟交渉にも影響が出るという見方もあるが、トルコも大変ですな。 今年は日本におけるドイツ年だそうで、行事は4月から始まるそうだが、まあそれに関連というわけでもないが、様々なデータで日独比較をしてみよう。出典はSPIEGEL ONLINEに出ている各国要覧である。僕はこういう比較データとか地図とかを見ていると飽きないのだが、今回はここから日独のみ、比較可能な数値だけを並べてみる。・面積;日 37万7864 km²(北方領土除く):独 35万7027 km²・人口;日 1億2715万人:独 8253万人・滞在難民数;日 2657人:独 90万3千人・都市人口率;日 79%:独 88%・若年(15歳以下)人口率;日 14%:独 15%・人口密度; 日 349人/km²:独 236人/km²・人口増加率;日 0.14%:独 0.07% ・女性一人あたり出産数;日 1.3回:独 1.4回・徴兵制;日 無し:独 有り(9ヶ月)・兵力;日 23万9千人(陸14万、空4万、海4万) :独 28万4千(陸19万、空6万、海2万)・対GDP比軍事支出;日 1.0%:独 1.5%・対GDP比厚生支出;日 6.2%:独 8.1%・同 教育支出;日 3.6%:独 4.5%・同 高齢者扶助支出;日 6.9%:独 12.1%・人口1000人あたり医師数; 日 1.9人:独 3.3人・同 ベッド数;日 16.5:独 9.1・新生児死亡率;日 3人:独 4人(新生児1000人につき)・出産死亡事故数;日 10人:独 8人(妊婦10万人につき)・就業者数に占める女性の割合;日 41.7%:独 42.4%・HIV感染者数;日 0.10%以下:独 0.10%・平均寿命;日 男 78歳 女 85歳 :独 男 75歳 女 81歳・義務教育;日 6~15歳:独 6~15(16)歳・就学率;日 小 100% 中 100% :独 小 86% 中 88%・大学数;日 約160:独 91・国民総生産(GNP)成長率;日 0.3%:独 0.2%・国民総生産(GNP)総額;日 4兆3239億ドル:独 1兆8763億ドル・一人あたりGDP;日 34010ドル:独 22740ドル・GDP産業別割合;日 第1次 1% 第2次 31% 第3次 68% :独 第1次 1% 第2次 30% 第3次 69%・対GDP比研究開発費;日 3.09%:独 2.50%・失業率;日 5.4%:独 8.6%・インフレ率;日 -0.9%:独 1.1%・国家収入;日 6551億ドル(中央政府のみ。うち所得税37% 法人税30%) :独 9204億ユーロ(うち所得税49% 法人税27%)・国家支出;日 6230億ドル(中央政府のみ):独 9871億ユーロ・経常収支;日 1124億ドル :独 465億ドル・外価準備高;日 4696億ドル:独 891億ドル・開発援助額;日 98億4700万ドル:独 49億9000万ドル・海外直接投資額;日 9兆0870億ドル:独 37兆2960億ドル ・エネルギー生産;日 1億0400万t ÖE:独 1億3374万t ÖE・エネルギー消費;日 5億2072万t ÖE (うち原子力10%、天然ガス13%、石炭22%、石油49.3%) :独 3億5109万t ÖE (うち原子力11.2%、天然ガス23.2%、石炭26.2%、石油37.3%)・耕地面積;日 13.2%(うち灌漑面積54.7%) :独 34.5%(うち灌漑面積4%)・森林面積;日 24万1000 km²:独 10万7000 km²・年間森林伐採面積;日 -34 km²:独 0km²・産業別人口割合; 日 男 第1次 5% 第2次 37% 第3次 57% 女 第1次 5% 第2次 21% 第3次 73% 独 男 第1次 3% 第2次 44% 第3次 52% 女 第1次 2% 第2次 18% 第3次 80%・貿易収支;日 516億ドル:独 776億ドル(ともに黒字)・輸出総額;日 4612億ドル(米30%、中13.5%、韓6.3%) :独 7210億ドル(仏10.6%、米9.3%、英8.4%、伊7.4%)・ハイテク機器輸出額;日 947億ドル:独 868億ドル・輸入総額;日 4096億ドル(米18.1%、中16.6%、韓4.9%) :独 6433億ドル(仏9.2%、蘭8.3%、米7.3%)・鉄道総延長;日 2万165km:独 3万6652km・道路総延長;日 11万66340km(うち76%舗装):独 23万735km(うち99%舗装)・1000人あたりの乗用者台数;日 572台:独 606台・国際空港数;日 5:独 18・河川交通;日 1770km:独 7500 km・1000人あたりのラジオ台数;日 956:独 570・同 テレビ台数;日 785:独 661・同 電話器数;日 558:独 651・同 携帯電話器数;日 637:独 727・同 パソコン器数;日 449:独 412・同 インターネット使用率 日 449:独 412・対GDP比情報・通信支出額:日 5.3%:独 5.2%・自然保護区面積;日 6.8%:独 31.9%・一人あたりエネルギー消費;日 4099kg ÖE:独 4264kg ÖE・二酸化炭素排出量;日 11億8450万トン:独 7億8550万トン・淡水の使用用途;日 農業 64%、工業17%、家庭 19% :独 農業 20%、工業69%、家庭 11%・海外からの旅行者数;日 523万人:独 1796万人・観光収入;日 34億ドル:独 191億ドル <講評> 日本とドイツってかなり似たところがあるようだ。産業構造などはほとんど同じみたいだし。大きく違うのは水の利用や耕地面積など農業面だが、これは稲作と麦作の根本的な違いに起因する。あと日本は山がちで可住地が限られていることは、道路や鉄道の総延長や森林面積に関係しているのだろう。ドイツの貿易額が大きいのは陸続きの国が多いことを思えばむしろ当然だろう。経済に関しては日本の国債などに関するデータが盛り込まれていないように見える。 社会の高齢化、少子化はドイツでも深刻な問題のようだ。ドイツの場合外国人がどんどん入ってきているようにも思えるが、その辺はあまりデータに出てきていないように見える。携帯電話が日本よりも出まわっているのは意外だった。むしろ日本のほうが先んじていたのだが、ここ数年で追い越されたようだ。 エネルギー消費量は電力量だけではないようだが、原発廃止のイメージと違い原子力への依存は日本とさして変わらない。これは隣国の原子力大国フランスから買っていることも関係するのだろう。
2005年03月20日
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今日も雪が舞ったが、積もらなかった。 今日は3つの選挙のニュースがあった。ポルトガル総選挙、スペインでのEU憲法批准に関する国民投票(加盟国初)、そしてドイツ北端の州シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州での議会選挙だった。 ポルトガルでは中道左派の社会党が勝利、投票率41%と国民のEU問題への関心の低さを露呈したスペインでは批准賛成が多数(77%)を占めた(EU憲法の内容を知らない人がほとんどのようだ。なおドイツは連邦議会での議決で済ませるらしい)。これらはまあ予想通りの結果だったようだ。 予想外の展開になったのは、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州の選挙結果だった。北ドイツらしくSPD(社会民主党)の強い地盤であり、また11年間その任にあるハイデ・ジモーニス州首相(SPD)はドイツの州首相の中で唯一の女性ということもあって個人的な人気もまずまずだった(なお連邦政府の閣僚15人のうち6人が女性、またキリスト教民主同盟=CDUの党首こそ女性だが、ドイツの政界はやはり男性優位の社会である)。中央の連邦政府の制度改革政策が不人気でSPDは支持を失っているが、この州ではなおSPDやや有利と見られていた。 ところが蓋を開けてみると、SPDは思わぬ敗北を喫したようだ。即日開票の途中経過だが、得票率で言うとCDU40%、SPD38%、FDP(自民党)と「緑の党」がそれぞれ6%台といったところらしい。議席配分見込みでいうとそれぞれ30、28、5、4という配分になり、2議席を獲得するSSW(南シュレスヴィヒ選挙者連合)を加えてもジモーニス首相のもと連立を維持していたSPD・緑の党はCDU・FDP連立に議席数で1議席及ばず、開票結果によっては退陣の可能性も出てきた。 なおザクセンに続いて地方議会進出が危惧されていた極右NPD(国家民主党)だが、得票2%程度にとどまり、少数政党乱立を防ぐために規定されている「5%条項」により議席は与えられない。一方上記のSSWも得票4%程度だが、この政党はこの地方のマイノリティであるデンマーク人の政党であり(この地方は長い間デンマーク領だった)、特例によって5%を割っても議席が与えられることになっている。 SPDは地方選挙では敗北続きであり、近々予定されているSPDの牙城ノルトライン・ヴェストファーレン州の議会選挙の行方も怪しくなってきた。厳しい社会保障切捨て政策を実行しながら失業率が一向に下がらない連邦政府への不満が転嫁された格好になっている。連邦議会選挙ならば外交問題を争点に出来、現にシュレーダー政権は2002年の総選挙はイラク戦争反対を訴えて辛うじて勝利を収めたのだが、地方選挙ではどうしても争点が雇用や福祉問題になる。 ドイツは16の州及び独立市からなる「連邦共和国」を名乗るだけに、地方政治はかなり大きなウェイトを占めている。特に教育や社会福祉関係は各州政府の権限が非常に大きい。また連邦参議院(Bundesrat)は各州議会の代表(及び州首相)から構成されるので地方議会の勢力関係がもろに反映され、また日本の参議院よりも権限が大きい。先日日本でも全国知事会議が話題になったが、非常に大雑把に言えばドイツの参議院は知事会議に毛の生えたようなものだといえる。ただドイツでは地方でも政党・議会政治が貫徹していて、州首相は日本の知事ような直接投票ではなく、議会によって選ばれる。 連邦首相も州首相から選出されるのが通例となっている。連邦首相になる直前にシュレーダー現首相はニーダーザクセン州首相、コール前首相はラインラント・プファルツ州首相を務めていた。SPDのフランツ・ミュンテフェリングやCDUのアンゲラ・メルケルは一応「党首」だが、各党の首相候補というと州首相の中の実力者から選ばれることが多い。 備忘の為にドイツ各州の州首相を記しておく。次の総選挙はシュレーダー首相が三選するのか、それともこの中から次期連邦首相が出るのか。・バーデン・ヴュルテンベルク州(州都=シュツットガルト市) エルヴィン・トイフェル(CDU)・バイエルン州(州都=ミュンヒェン市) エドムント・シュトイバー博士(CSU)・ベルリン市(市長) クラウス・ヴォヴェライト(SPD)・ブランデンブルク州(州都=ポツダム市) マティアス・プラチェック(SPD)・ブレーメン市(市長) ヘニング・シェルフ博士(SPD)・ハンブルク市(市長) オレ・フォン・ボイスト(CDU)・ヘッセン州(州都=ヴィーズバーデン市) ローラント・コッホ(CDU)・メックレンブルク・フォアポメルン州(州都=シュヴェリン市) ハラルド・リングシュトルフ博士(SPD)・ニーダーザクセン州(州都=ハノーファー市) クリスティアン・ヴルフ(CDU)・ノルトライン・ヴェストファーレン州(州都=デュッセルドルフ市) ペール・シュタインブリュック(SPD。連邦経済相に転出したヴォルフガング・クレメントの任期を受け継ぎ昇格)・ラインラント・プファルツ州(州都=マインツ市) クルト・ベック(SPD)・ザールラント州(州都=ザールブリュッケン市) ペーター・ミュラー(CDU)・ザクセン州(州都=ドレスデン市) ゲオルク・ミルブラント教授(CDU)・ザクセン・アンハルト州(州都=マクデブルク市) ヴォルフガング・ベーマー教授(CDU)・シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州(州都=キール市) ハイデ・ジモーニス(SPD)・チューリンゲン州(州都=エアフルト市) ディーター・アルトハウス(CDU) なお「博士」はDr.、「教授」はProf.Dr.の訳。ドイツには学位を持った政治家が多い。 大雑把に言って北部及び工業地帯はSPD、南部もしくは農村部ではCDUが強い。
2005年02月20日
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今日は午前中に雪が激しく降ったと思ったら、午後は晴れて雪が溶けた。不安定な天気である。 気付かなかったのだが先週で今学期は終わっていたそうだ。長い春休みに入るが、もとより大学院生には関係無い。 今日はドイツ東部の街ドレスデン(ザクセン州都。現在の人口50万弱)が英米連合軍の爆撃を受けて壊滅してから60周年にあたる。それを受けて様々な催しがあったようだ。 ドレスデンにはおよそ3年前に行ったことがある。空襲で破壊された聖母教会は共産主義政権下の旧東ドイツでは「ナチス支配の悪と英米帝国主義者の残虐行為の象徴」としてあえて瓦礫の山のまま放置されていたが、東西ドイツ統一後の1994年に再建が始まった。市民の募金に加えアメリカやイギリスからの寄付もあり、なるべく瓦礫の中の石材を利用しつつ(破片になった石材を組み合わせ、補充は最低限にする)行われた復元工事は10年以上かかり、「世界最大のパズル」と呼ばれている(同じようにしてワルシャワなども復元されている)。僕が行ったときはまだドームの天井部分が出来ていなかったが、先日竣工式が行われたばかりである。 芸術に力を入れたザクセン公国の栄華を偲ばせる、旧市街の中心にあるツヴィンガー宮殿、レジデンツ(宮殿)、ゼンパーオパー(ザクセン州立歌劇場。リヒャルト・ワーグナーの「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」初演の地)は全て旧観通りに復元されている。僕が行ったときはその年夏のエルベ川大洪水の直後で、閉鎖されているところが多かったが。 ドレスデン空襲が行われたのは1945年2月13日から翌日にかけてである。当時ドイツ軍の前線は大きく後退し、東では東プロイセンやポーランドにソ連軍が逆侵攻、西では米英連合軍がライン河西岸のドイツ領を占領しつつあった。ソ連軍の報復を恐れた一般市民は大挙して西方に疎開しており、ドレスデンはそうした避難民でごった返していたという。 米英連合軍は長らくドイツ本土に対する爆撃を続けており、それはドイツが発明しスペイン内戦中にゲルニカで初めて実施した「恐怖(テロ)爆撃」理論に基くもので、生産施設を攻撃すると共に敵国民の戦意を挫こうとするものだった。ところが現在に至るまで、空襲のみで戦争に勝利をおさめることは出来ないのが理である。連合軍は1942年からは焼夷弾を用いた無差別爆撃、1943年には大編隊による昼間爆撃、そして1944年の1年間で65万トンもの爆弾をドイツ本土に投下したが、ドイツ国民の戦意は挫かれるどころかますます高揚し、またドイツの兵器生産は1944年第四四半期にそのピークを迎えていることが示すように(もちろん他の産業を犠牲にして兵器生産を優先した結果でもあるが)、産業への打撃も決定的ではなかった。ドイツ軍は1944年半ばまでは対空砲や戦闘機で盛んに連合軍の爆撃機を迎撃しており、連合国側にも被害は多かった。 上記のとおり1945年に入ると地上戦や爆撃の効果が出てきてドイツ軍の抵抗は急速に弱体化し、連合軍機は我が物顔でドイツの都市を次々と廃墟にし始めた。1945年の4ヶ月だけでドイツへの爆弾投下量は50万トンに達した。都市のみでなく、戦闘爆撃機による鉄道や道路、橋梁といった交通施設への攻撃も続き、一般市民多数が犠牲になった。 それまで大規模な空襲が行われていなかったドレスデンは、そうした状況下で爆撃の標的となった。二日前まで行われていた連合国首脳によるヤルタ会談の結果を受け、ドイツ東部に達しようとしていたソ連軍への支援の意味もあったという。 2月13日午後9時40分、ドレスデン市に空襲警報が発令され市民は自宅の地下室に逃げた(内陸部のドレスデンは空襲を想定しておらず防空壕はまったく用意されていなかった)。午後10時13分から15分わたりイギリス空軍の爆撃機244機がドレスデン旧市街上空で総計900トンの爆弾・焼夷弾を投下、旧市街の4分の3はたちまち大火災に包まれた。次々と落下する爆弾は消火活動を妨げ、市民は地下室にこもっていた。その三時間後、今度は529機のイギリス空軍のランカスター爆撃機が来襲し1500トンの爆弾を絨毯爆撃方式で投下し、郊外へ避難する市民を襲った。 さらに14日正午にはアメリカ軍のB-17爆撃機311機が来襲し主に工業地帯や駅を爆撃したが、その際病院にも被弾した。翌15日午前10時、聖母教会は崩落、正午に再びアメリカ軍のB-17爆撃機211機が来襲し、主に工業地帯を狙って460トンの爆弾を投下した。この際戦闘機による民間人への機銃掃射が行われたという証言もあるが、日付の間違いが指摘されている。 市街の建物22万戸のうち8万戸が全壊、7万戸が大破した。疫病の恐れから続く4日間で7千の遺体が焼却されたという。またドレスデン市内に住むユダヤ人の中には、迫る収容所送りを恐れ空襲の混乱に乗じ脱出した者もあった(作家のヴィクトル・クレンペラーなど)。ドレスデンへの空襲はその後も小規模かつ断続的に行われ、ドイツ本土での地上戦が続く中、ドレスデンは3ヶ月後の終戦までドイツ支配下であり続けた。 この空襲による死者数は、犠牲者数を過大に宣伝した当時のナチス政権や冷戦中のソ連のプロパガンダもあって最大で20万、最小で2万5千とその見解は大きく開いているが(どこかで聞いた話だ)、現在のドイツ側公式見解では当時の警察報告とそれに含まれなかった人数を加味して3万5千程度と見られている(つい最近まで13万や7万と言われていたようだが、犠牲者数の把握は非常に難しいようで議論が絶えない)。この数字は都市空襲の犠牲者数としては広島・東京・長崎・ハンブルクに次ぐものであるという。 なお当時捕虜米兵としてドレスデンに居たカート・ヴォネガット・ジュニアはドレスデン空襲を体験し、屠殺場に潜んで九死に一生を得た体験を「スローターハウス5」という小説にして発表し(1969年)、1972年に映画化もされているそうだ。 今日は昼間にドイツ全土から集まったネオナチ5000人が、ワーグナーの曲をかけながら「ドレスデン空襲の犠牲者を忘れない」と書かれた横断幕を掲げ、市内を行進した。彼らはまた、ドレスデン空襲の死者は公式見解の3万5千よりも多いと主張した。ザクセンでは先月極右政党NPDがザクセン州議会の議場で騒動を起こしたばかりである。 ドイツではこうしたネオナチのデモ行進には必ず反ファシズムのデモが同時に行われるのだが(衝突を避けるためネオナチのデモ隊は警官隊に取り囲まれて行進する)、今回も左翼団体も加わった6000人が、ナチスへの抵抗のシンボルである白いバラを胸に着けて集まり「ナチスは出て行け」と叫び、衝突を避けるため警察は反ネオナチ・デモ隊の70人を一時拘束した。 夕方にはヴォルフガング・ティアーゼ連邦議会議長(SPD)を含む1万5千人(全市では5万人とも)が鎮魂のロウソクを持ち寄ってゼンパーオパー前の広場に集合し、ネオナチの集会に反対し、また60年目の和解と平和を静かに呼びかけている。ドイツ空軍が1940年に無差別爆撃して破壊したイギリスのコヴェントリー大聖堂からは、再建なった聖母教会に十字架が贈られ、和解を強調した。空襲開始時間の10時13分にはドレスデンの全ての教会の鐘が鳴らされ、犠牲者を追悼した。 シュレーダー首相(SPD)は声明を発表し、「歴史の歪曲は許されない。私たちは原因と結果をさかさまにしてはならない」と、ドレスデン空襲を招いたのはナチス政権下のドイツの責任であったと述べている。ドイツのマスコミもドレスデン空襲の話題には必ずドイツ空軍による無差別爆撃という「前史」に言及しており、同じ論調といってよいだろう。自国の被害を殊更に言いたてる事は、ドイツでは「復讐主義の現れ」とされているので従来避け気味であったことは以前書いた。 今日もどこだかの町で「旧連合軍爆撃の不発弾処理で避難」のニュースがあったが、ドイツでは爆撃の爪跡は今も所々に残っている。 一方でこの週末にミュンヘンで開かれたNATO安全保障会議でシュレーダー首相が米欧関係の再編に言及して(ただし首相は風邪で欠席しシュトルック国防相が代読)アメリカ側の否定的対応を招いたり、ラムズフェルド国防長官が米欧和解ムードの演出するなど、(建前にしても)歴史が流れていることを思わずには居られない。東アジアでは未だに冷戦期さながらの核兵器による恫喝外交が行われようとしているが。 今年は終戦60年ということで、ドイツの全主要紙は毎日「60年前の今日」という欄を設けて、日替わりで当時の戦争体験者の日記、手記、軍部の発表などを紹介している。これは5月8日まで続くのだろうが、日本の新聞もそういう企画とかはしているのだろうか。僕も日を改めて、僕が聞いた父や祖母の空襲体験談などを書いてみようと思う(祖父の従軍体験談はおととし日記に書いた)。
2005年02月13日
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昨日家に帰ってから深夜に雪が降ったらしく、朝起きると一面雪景色だった。夕方までには半ば溶けた。今年は暖冬というより、寒暖の差が激しい不安定な気候というべきか。 日本の実家に居る妹(最近の言葉で言うとパラサイトシングルというのか)からメールが来たが、ドイツ車を買ったという。うーん。稼いでますな(車種によってはドイツ車のほうが安いのかな?)。うちの妹は男ではなく飼い猫に貢いでいるようだが、おいらもぽんと車が買えるようになってみたいものだ。 ドイツの隣国デンマークで総選挙があり(平日にするのね)、開票中にもかかわらずラスムッセン首相率いる与党の中道・右派連合の勝利が確定的という。移民制限やトルコのEU加盟阻止への流れに傾くのだろうか。 そのデンマークに隣接するドイツ最北端のシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州では再来週に州議会選挙が予定されている。事前のアンケート調査では極右政党NPDに投票するという人が2.5%に達し、昨年のザクセンやブランデンブルクについで極右政党が地方議会に進出することが危惧されている(ザクセンでも事前調査で得票4%程度だったNPDが実際には9・2%の得票があった)。ザクセンなど旧東ではなく、旧西ドイツでそういうことになれば、事態はいよいよ深刻である。 一方保守系野党CSU(キリスト教社会同盟)エドムント・シュトイバー党首(バイエルン州首相)は、先月のザクセン州議会でのNPD騒ぎを受けて「NPDが躍進したのは、シュレーダー政権の経済政策の失敗が原因だ」と、与党SPD(社民党)と緑の党の連立を攻撃している。確かにドイツの失業者数は戦後初めて500万人に達している(この背景には経済政策だけでなく、働こうとしない若年層や単純労働者層・高年齢層失業者の存在など構造的なものもあるのだが)。この攻撃に対してドイツ・ユダヤ人協会のパウル・シュピーゲル事務局長は「極右の支持拡大を経済問題に矮小化するのは適当ではない」と釘をさし、また政治学者も「問題を単純化して宣伝し、政争の道具にするのはNPDのやりくちと同じ」とCDU・CSUの理屈を批判している。 痛み(社会保障の削減)を伴う与党の改革政策への批判も大きいが、野党にもそれに代わるビジョンや人材に欠けているようだ。日本では何かとよくドイツが引き合いに出されるが、あまり真似しないほうがいいかもしれない。 僕は昼食はたいてい学食を使っているが、昼食時にはかなりの量のビラがテーブルに置かれる。学生自治会の広報、政治団体の宣伝や主張(デモ参加の呼びかけなど)、飲み屋やカフェの宣伝、イベントの宣伝、キリスト教団体の広告などその種類は様々である。 日本と同じで今日びの学生はあまり政治に関心が無いので(といっても主張する国民性や学生のエリート意識のせいか日本に比べると雲泥の差だと思う)、多くは紙飛行機やメモ用紙代わりにされたり、学食が閉まるときにゴミ箱行きの運命にある(あちこちに置かれたビラを片付けるのは大変な仕事だと思うのだが、学食当局はよく黙っているものだ)。 いつも食事をするときは暇つぶしにそういうビラに目を通すのだが、今日その中から目を引いたものを紹介(抄訳)。 EUの軍事化を阻止しよう!・その「平和」は「戦争」を意味する 5月9日に連邦議会で批准される予定のEU新憲法では軍事が重要なテーマとなっている。平和組織としてのEUであるにも関わらず、新憲法は世界中で戦争が出来るようにするための武装保持を定めている。例えば加盟国の武装義務などである。EU軍は専業化・中央集権化され、地域的制約なしに、たとえば「対テロ戦争」や「武装解除戦争」のための展開が予定される。新憲法ではヨーロッパ裁判所の判断なしに、ドイツのような大国の意志が優先されるEU委員会の判断で、帝国主義的な力の政治を行うことが出来る。・「EUとドイツ製の戦争」 組織されるのはいわゆる戦闘グループと呼ばれる1500人規模の精鋭部隊で、24時間以内に世界中のどこにでも展開できる。この部隊は6万のEU介入部隊から送られる。ドイツはこの部隊に最大の1万8千人を参加させ、また毎年240億ユーロを拠出している。そのためにドイツやヨーロッパ中で社会保障が削減されている。ドイツでは「国民の参加」を名目とした徴兵制と、人道支援の美名の下に市民は軍隊に馴らされ、市内を軍用車が走行するのも当たり前にしようとしている。だがEUの平和・民主主義政策が虚名なのと同様ドイツ連邦軍は平和の軍隊ではない。・中身の知らされない憲法が批准されようとしている! フランスではEU新憲法批准を国民投票で決めようとしているのに対し、ドイツではその決定に参加することも出来ない・そのためEU新憲法の真の内容を知り、それに抗議する事は重要である。2005年2月12日にミュンヘンで開かれるNATO安全保障会議に抗議しよう!今こそ軍縮を!社会的世界を!EUを軍事大国にするな!ドイツの戦争参加絶対反対!社会保障削減と軍備ではなく、富の平等な分配を!公正無くして平和は無い!代表連絡先 ぺトラ・シュトルック ○○市ラムズフェルド12番地 ・・・内容からして共産党系(具体的には旧東ドイツ共産党系のPDSか?まあ学食での政治主張ビラの多くはPDS系の学生によって撒かれるのだが)のビラと分かる。要するにミュンヘンでのデモ隊参加の呼びかけですね。書いてある内容は事実に基いているが、問題を極度に単純化して自分の主張を通そうとするのは左右問わず同じ手法らしい。 最後の連絡先はドイツのシュトルック国防相(彼の名前を女性形に変えてある)とアメリカのラムズフェルド国防長官(ドイツ系の同国防長官の苗字を地名として書いてあるが、そんな地名はこの町には無い)をもじった洒落のつもりらしい。 こういう無粋なビラばかりでなく、文化的なのもある。以前もらった「ノー・カー・デイ」を呼びかけたビラの裏側にあった、ケストナーの詩。 Die Zeit fährt Auto (von Erich Kästner, Veröffentlicht 1928) Die Stätde wachsen. Und die Kurse steigen. Wenn jemand Geld hat, hat er auch Kredit. Die Konten reden. Die Bilanzen schweigen. Die Menschen sperren aus. Die Menschen streiken. Der Globus dreht sich. Und wir drehen uns mit. Die Zeit fährt Auto. Doch kein Mensch kann lenken. Das Leben fliegt wie ein Gehöft vorbei. Minisiter sprechen oft von Steuersenken. Wer weiß, ob sie im ernste daran denken? Der Globus dreht sich und geht nicht entzwei. Die Käufer kaufen. Und die Händler werben. Das Gold kursiert, als sei es seine Pflicht. Fabriken wachsen. Und Fabriken sterben. Was gestern war, geht heute schon in Scherben. Der Globus dreht sich. Doch man sieht es nicht.
2005年02月08日
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今日は昨日・一昨日よりは暖かかったが、十分寒かった。昨日の午後に降った雪がまだところどろ残っている。 今日は午後研究室でひたすら図面描き。僕は自分で言うのもナンだが図を描くのは上手いほうではないかと思う。ただこれは線描に限った話で、絵の具を使うと途端にぐちゃぐちゃになる。ずぼらな性格でパレットや絵の具をいい加減に使うからだろう。あと人物画も苦手。得意なのはあくまで無機物、しかも「絵」ではなく「図」のみである。 さて一日遅れだが、昨日のニュースから。(引用開始) 都国籍条項訴訟:管理職受験拒否は合憲 最高裁が逆転判決 日本国籍がないことを理由に東京都の管理職試験の受験を拒否された韓国籍の都職員女性が、都に200万円の賠償などを求めた国籍条項訴訟の上告審判決が26日、最高裁大法廷(裁判長・町田顕長官)であった。判決は「受験拒否は法の下の平等を定めた憲法に反しない」と初判断を示し、都に人事政策上の幅広い裁量権を認めた。そのうえで、都に40万円の賠償を命じた東京高裁判決(97年11月)を破棄し、原告の請求を棄却する逆転判決を言い渡した。原告の敗訴が確定した。 外国人の地方公務員任用は全国で広がっているが「様子見を続けてきた自治体も多い」(都幹部)とされ、管理職登用を一切認めない都の姿勢を適法と認めた判決は全国に影響を与えそうだ。 原告は在日韓国人2世で都職員の保健師、鄭香均(チョンヒャンギュン)さん(54)。94年度の管理職選考試験で申込書を出したが受け取りを拒否され、95年度は受験申込書すら配布してもらえなかった。 判決は労働基準法が国籍による差別を禁じている点に言及し「外国人について日本国籍者と異なる扱いをするには合理的理由が必要」と述べた。 さらに都の管理職を(1)公権力を行使したり、重要な施策に関する決定やその決定に参加する者(公権力行使等公務員)と(2)公権力行使等公務員への昇任を待っている者--に分け「公権力行使等公務員に外国人が就任することは、国民主権を原理としたわが国の法体系の想定外」と述べた。 そのうえで、(1)だけでなく(2)にも外国人の任用を拒否している都の人事政策について「都の判断で行うことができる」と幅広い裁量を認め「都の人事は合理的な理由があるから、違憲でも違法でもない」と結論づけた。 判決は裁判官15人のうち12人の多数意見。弁護士出身の滝井繁男、裁判官出身の泉徳治の両裁判官は「法の下の平等に反し違憲であり、都に賠償を命じた2審は相当」などと反対意見を述べた。 東京地裁は96年5月、「外国人には憲法の保障が及ばない」と請求を棄却。東京高裁は「憲法の保障は外国人にも及び、一切の昇進の機会を奪った都の措置は違憲」と逆転判決を言い渡したため、都が上告していた。【小林直】毎日新聞 2005年1月26日 15時39分(引用終了) 僕はうかつにも、地方公務員に外国籍者(多くは在日韓国・朝鮮人だろう)を採用するところが増えているとは知らなかった。まあそれはそれでいいかな、となんとなく思ったのだが、気になったのは判決後の記者会見で原告が言ったというこの言葉だった。「哀れな国ですね。世界中に言いたい。日本には来るな、と。外国人が日本で働くことはロボットになること。人間として扱われない」 正直言ってこの言葉にはむっとしたし、こう言う事を(怒りのあまりとはいえ)公言する人が公務員なのか、と思うと薄ら寒い気もした。同時に、日本とはそんなひどい国なのか?と思った。僕が今住んでいるドイツにはトルコ系200万人を筆頭に多くの移民が住んでいるが、どういう扱いを受けているのだろうか気になった。 僕はここで大学(ドイツの大学はほぼ全て公立)の仕事をしたことがあるのだが、その契約の際に「ドイツ連邦共和国基本法(憲法)に忠誠を誓う」と宣誓させられたことを思い出した(あくまで書面上のことだが)。まあこれは公務員ではなくて補助職員のようなもので、また研究機関では通常の公務員と扱いが違うみたいだし。 なんとなくこの件が引っかかっていたので、今日昼ご飯のときに法学を専攻するドイツ人学生と食事したのを幸い、ドイツではドイツ国籍の無い人でも公務員になれるのか?と聞いてみると、「ドイツ国籍が無い者は国家・地方を問わず公務員にはなれない」ということだった。「でも公立学校の先生とかにはなれるかもしれない。トルコ系の児童・生徒って多いし」とも言う。 彼女に日本における在日の立場と、ドイツにおけるトルコ系の立場の話をしたら、法学徒として興味があるようだった。また国家統合を目指すEUがらみで、今後こうした国籍問題がどうなっていくのかというのも興味深いテーマである。 その後研究室で、研究室仲間に同じ質問をしてみた。彼は政治や社会に関心があるだけに(attacの活動家でもある)、むしろ昼の彼女よりよく知っていた。答えは明確に「否」である。国籍が無いものに公務員などお話にならない、ということだった。トルコ系の先生も多いという公立学校の先生はどうだ?と聞いてみると、「その人たちはドイツ国籍を取得しているはずだ」という。例外として、ノルトライン・ヴェストファーレン州では警官にドイツ国籍で無い者を採用することがあるらしいが、それは将来のドイツ国籍取得が採用条件になっているという。 彼に「スウェーデンとかでは外国人を公務員に採用しているようだけど?」と水を向けると「そうだろうね。だからあの国は昼間っから酒を飲む奴ばかりになるんだ」と「自由」で日本でも有名なスウェーデンに対して否定的な答えが返ってきた。断っておくが彼はトルコ系住民の多いドイツ北西部の出身で、しかも日本でいえば間違い無く人権派・左翼に属する思想の持ち主だが、公務員に関しては国籍の無い者を採用することは思いもよらないらしい。 朝日新聞が今日付の社説で、昨日の最高裁の判決を「時代遅れの判決」と酷評したそうだが、環境先進国(これは部分的には正しい)・戦後補償を完全解決(これは間違い)、そして「超国家」地域統合組織EUの中心国であるドイツは、日本よりもさらに「時代遅れ」の国ということらしい。(以下ユーロピアンさんのコメントにより訂正) ユーロピアンさんによるご指摘を受けて、ちょっと調べてみたが、僕の住むヘッセン州を始めとして多くの州では公務員採用条件として「ドイツ国籍を保持するかEU国民であること」が挙げられている。「ドイツ国籍がないとドイツでは公務員になれない」というのは誤りである。 現状ではトルコ人がドイツで公務員になれないことに変わりは無いが、トルコのEU加盟交渉をめぐる議論にこのことが関わってくる可能性もあるのだろう。付言すれば、EU諸国内の関係をそのまま日韓関係に引き移すことは出来ないと思う。(さらに追記) 上の訂正について、翌日このドイツ人に聞き質したところ、「EU国民は外国人(Ausländer)とは呼ばない」という答えが返ってきた。やはり「外国人」という単語の内容をめぐって僕の理解と齟齬があったらしい。これは新鮮な発見だった。 その場にはイタリア人もいたのだが、彼女によると「イタリア語ではそういう意識は無い」と言っていた。もっとも彼女は日本人の僕らに「あなたたちも明日の(市長選挙の)投票行くの?」と聞いてくるくらいだから(言うまでも無いが非EU国民である日本人にドイツでの参政権は無い)、あまりEU内における「外国人」のこととか考えたことの無い人だろうけど。 上にも書いたが人口8000万のドイツにはおよそ200万人のトルコ系(トルコ国内では少数民族にあたるクルド人も含む)住民が居る。彼らの多くは1950年代末から60年代にかけて、西ドイツ経済の急成長を助けるために安い労働力として招かれた「ガストアルバイター」やその子孫である(ちなみに鉱夫として日本人が西ドイツに出稼ぎに行った時代もあったそうだ。なお先日日本でも話題になったが、政治亡命のクルド人も多いのだろう)。今はガストアルバイターを新たに呼ぶ制度はもう無いが、親戚による招待などの形でトルコからドイツに出稼ぎ・移住する人は後を絶たない。 その200万人のうち、ドイツ国籍を有する者は70万人くらいだという。ドイツは国籍出生地主義、また実質的に二重国籍を認めているので日本とは単純に比較できないのだが、この数字を見る限り、在日韓国・朝鮮人同様、ドイツに居ながらドイツ国籍を取ろうとしないトルコ人も多いようだ。トルコ人は独自のコミュニティをもち、概ねイスラムという宗教を保持している。若い世代はともかく、1世やお年寄りにはドイツ文化に溶け込めない部分があるのだろうし、「いつかベンツに乗って故郷に錦を飾る」というのがそういう人たちの希望でもある。 トルコ人は飲食店や美容・芸能関係など主に実業界で活躍している。そういえば市役所や警官にトルコ系を見たことが無い。夏休みになるとお土産を満載(洒落ではなく)した在独トルコ人一家の車が陸続としてバルカン半島を南下し母国に向かう。僕らはそれに混じって陸路トルコに行っている。 在日韓国・朝鮮人と、経済的理由で自分の意志で移住した在独トルコ人の問題を一緒にするな、と言われるかもしれないが、最近は現在の在日韓国・朝鮮人のルーツは経済的目的から自発的に日本に渡った人がほとんどだったというのが定説になっていると聞いている。だとすれば在独トルコ人とよく似ているし、条件が揃っても国籍を取ろうとしない人が結構多い点も似ているように思う。ドイツはドイツ国民たるユダヤ人を迫害した過去もあるので、マイノリティとかの人権はナイーヴな問題なのだが、国籍が無い限り国政参政権も公務員資格も与えられないとはやや意外だった。 まあ「歴史問題」とかが無いぶん(といってもドイツとトルコの腐れ縁は19世紀後半から始まっているのだが)、在独トルコ人は決して第2の祖国であるドイツを憎んでは居ないと思うし(在日の人だって日本へのルサンチマンを抱えつつもどっぷり漬かっている訳だが)、「ドイツの公務員になれないのは不当だ」とトルコ人が騒いでいる話は寡聞にして知らないが。 在日韓国人(僑胞)は韓国での選挙権が無いなど国籍上の「母国」でも差別されていると聞くが、在独トルコ人はどうなのだろう。 以下は余談。僕はかねがね韓国・朝鮮人とトルコ人というのはよく似た国民性ではないかと思っている(どちらも中央アジアの騎馬民族に起源があるからだとか言うともはや眉唾の話だが)。自分自身の乏しい体験に加え、楽天とかでトルコ及び韓国に住む人の日記を読み比べるとその感を強くする。 その母国が熱狂的な民族主義であること、自国が世界に冠たる国だと(冗談でなく)思いこんでいる人が多いこと、親族・家族の絆が強いこと、性格が「熱い」ことなどである。朝鮮語で「ケンチャナンヨ」またそれとは別に「恨」と呼ばれる気質も、トルコ人には濃厚にあるように思う。韓国人の顔かたちこそ、トルコ人よりも日本人のほうが近いけど、ハートはよりトルコ人のほうに通じるのではなかろうか。
2005年01月28日
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いや今日はホンマ寒かった。日中でも零下だったのではなかろうか。 夕方研究室で図面を描く。無心でトレースしていると充実感があって精神的にいい。ロットリングの握り過ぎでペンだこが出来た。 とりあえず今年は既に「業績」2本が決定しているが(大した業績でもないが掲載される雑誌だけは立派)、これは去年からの繰り越しだからもう1つか2つは欲しい。まあほんとは博士論文をとっととまとめるほうが先決だが。 次の日曜日は僕の住むマールブルク市の市長選挙が予定されている。多選が禁止されているので現職のディートリッヒ・メラー市長(CDU=キリスト教民主同盟)は任期(4年?)満了に伴い引退、新人5人の争いになっているが、あまり争点も無いのでさほど盛り上がってもいないようだ。まあ僕は外国人なのでもとより参政権はないのだが。 今日から不在者投票が出来るらしく、郵便受けには「最後のお願い」のチラシがどかどか入っている。名前見れば参政権なさそうなことくらい分かりそうなもんだが、片っ端から入れてくれる。本命はCDUのルッツ・へーア氏とSPD(社民党)・緑の党の推すエゴン・ファオペル副市長らしい(ドイツの市では与党が市長、野党第一党が副市長を出す仕組みのようだ)。JUSO(SPDの下部青年団体)のチラシを見ると、PDS(民社党=旧東ドイツ共産党)のピート・メッツ候補に入れても死票になるのだからファオペルに入れろと露骨なことが書いてある。第一回投票で誰も過半数を得なかった場合、上位二人の決選投票になる。 僕の研究室仲間のDはattac(反グローバリゼーション団体)の活動家だが、attacマールブルク支部は各候補に公開質問状を出したらしい。彼によればCDUの候補は回答もいい加減なうえ、ブルシェンシャフト(右翼学生団)の支持もあって思想的に問題がある、さらにマールブルク出身ではなくケルンの出身でこことは本来全く縁が無いそうで、とても推せないそうだ(なおattacは特定政党の支持はしないとのこと)。ついでに僕にはこの候補の顔が気に入らない。 今日カールスルーエの連邦憲法裁判所(最高裁)は、「大学授業料は違憲ではない」という判決を下した。早速ハンブルク州、バーデン・ヴュルテンベルク州などCDUが政権を取っている州では授業料導入を検討しており(卒業・就職後に徴収するプール制も検討されている)、反対する学生の抗議活動も始まっている。CDUはこの判決を歓迎しているが、国際競争力強化のため大学進学率の向上を目指しているエーデルガルト・ブールマン連邦政府教育相(SPD)は、授業料導入によって進学率向上に歯止めがかかることを危惧するコメントを出している。 ドイツでは「希望するものは誰でも教育を受けられる」という建前から、戦後長らく大学の授業料は基本的にタダだった(登録料などの名目で年間1万円程度の金額は徴収されていた)。授業料の徴収は法的に禁止されていたようだ。しかし教育行政を管轄する各州の財政事情が悪化するにつれ(日本と同じく高齢化社会の問題に加え、従来の高度福祉政策が破綻しつつある)、規定以上の修業期間を超過する学生から授業料(一種の罰金というべきか)を徴収する州が増えてきた。我がヘッセン州でも、昨年から10ゼメスター(1ゼメスターは半年)以上在籍する学生から1学期500ユーロ(約7万円)程度の授業料を徴収している(なお大学院生は対象外なので僕は授業料を払っていない)。 判決理由について憲法裁判所は、授業料導入により大学教育の質を向上させうること、大学や学生自身の自助努力を促すこと、1学期500ユーロ程度の授業料ならば学生の経済生活に支障は無いことなどを挙げている。一方授業料導入反対派は「貧乏人から教育の機会を奪うネオリベラリズム・階級主義であり、戦後のドイツが目指した社会保障国家の崩壊だ」と批判している。 まあ授業料のないドイツで学生が優遇され、いきおい在学期間が他国に比べて長かったのは事実ではある。一方でそのために基礎学問の充実や堅実な研究が保障された「ドイツらしさ」があったのもまた事実だと思うのだが・・・。全般にドイツの高等教育は速成重視のアメリカ・イギリス式への変化を目指しているようだ。 2003年10月に「ユダヤ人も虐殺をした犯罪民族だった過去がある」と講演で発言し、「ホロコーストを相対化しようとした」と猛烈な批判を浴びてCDUを追放されたマルティン・ホーマン衆議院議員(無所属)の近況。メックレンブルク・フォアポンメルン州ヴィスマル地区のユンゲ・ウニオン(CDUの下部青年組織)は二月の講演会にホーマン氏を講演に招いたが、党のイメージダウンを恐れたCDU党中央が慌ててその招待取り消しに躍起となり、昨日になって取り消された。 責任を取って辞任したこの組織の代表によると「CDUのアンゲラ・メルケル党首を招待したが、多忙な上興味がなさそうだったので、ホーマン氏を呼んだだけだ」と述べている。ホーマン氏は「反セム主義とCDUの時代思潮」というタイトルの講演を行う予定だったという。ヘッセン州選出、しかもCDUを除名されたホーマン氏を招いたのが、旧東ドイツのCDU青年団体だったことに注意したい。 この取り消し措置についてホーマン議員は「私は未だにCDUに属すると思っている。しかし思想の自由は民主主義の根幹であり、若者に党上層部の耳当たりのいいことやあたり障りの無いことばかりを聞かせることの将来には危惧を覚える」とのコメントを出している。 賭けのための八百長判定疑惑の出ているサッカー主審のロベルト・ホイツァー氏(25歳)について、ドイツ・サッカー協会(DFB)はこの件の捜査を検察に委ねた。協会は同氏に辞職を迫ったが、同氏は疑惑を否定し辞職しない構えを見せ真っ向から対立している。一方「シュテルン」誌は同主審がクロアチアのマフィア組織と接触があったと報じている。 2006年のドイツでのサッカー・ワールドカップを控えての、ドイツ・サッカー協会のイメージダウンを招くスキャンダルに、同大会実行委員長であるフランツ・ベッケンバウアー氏も困惑しているそうだ。
2005年01月26日
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今日は昼間は晴れていたのに、夕方になって昨日のような雨模様になった。おかげで川も増水している。今年の冬は全般に暖冬である。 ドイツ極右の政治組織というと、NPD(ドイツ国家民主党)とDVP(ドイツ国民連合)がある。ドイツの選挙制度にはナチスの台頭を許したワイマール共和制時代への反省から、小党乱立を防ぐための「5%条項」というのがあって(得票率5%以下の政党は議席を貰えず、その得票は上位党に分配される)、この両党が国政の場に議席を確保することは防がれてきた。また現在のシュレーダー政権は2002年にNPDを非合法化する法案を提出しようとしたが、憲法違反のおそれもあったので見合わせた経緯もある。 しかし昨年の旧東ドイツ2州(ザクセン及びザクセン・アンハルト)での地方議会選挙では、失業率の高さ(2割近く)や「二等国民」という差別(賃金格差)に起因する極右への支持、さらにシュレーダー政権の保険削減に対する不満を吸収する形でこの両党が躍進、5%条項を突破し議席を得た。対立していたこの極右両党はつい先日選挙協力を約し、2006年の国会選挙での議席獲得を目指すと発表したばかりである。 今年は終戦60年ということで第2次世界大戦に関する行事が多いが、今日ザクセン州議会の会場を、12議席をもつNPD議員が騒然とさせる出来事が起きた。 エーリッヒ・イルトゲン議長(CDU=キリスト教民主同盟)は、今日で議会が休会に入るため、休会中に控えているるアウシュヴィッツ強制収容所解放60周年(1月27日)、ドレスデン大空襲60周年(2月13日)を前に、開会に際してナチスの犯罪行為による犠牲者に黙祷をささげることを提案した。ところがNPDはドレスデン空襲の犠牲者にのみ黙祷を捧げることを主張、議長に申し入れを行った。議長はこれを退け黙祷が行われたが、12人のNPD議員はその際に一時議場を去った。 その後ドイツの過去に関する演説が行われたが、NPDのホルガー・アプフェル州幹事長はその演説で「ドレスデン空襲の犠牲者数は非常に厳密に数えられているが、その他の犠牲者の場合はそのように些細さは無く、ゼロが1つ抜けても気にしない」と、皮肉を込めて犠牲者数のはっきりしないホロコーストを暗に指す発言を行った。またドイツ敗戦の日(1945年5月8日)を「偽りのドイツ解放の日」と呼んだ。 アプフェル議員がさらに「ドレスデン空襲は1933年以降のナチス支配とは関わりの無いところで行われた、イギリス・アメリカのギャング犯罪者による冷血な産業的大量殺人で、爆弾によるホロコーストと言ってもよい」と叫んだところで、イルトゲン議長は制限時間超過を理由に同議員のマイクの電源を切らせた。 続いて登壇した、ドレスデン大空襲の体験者でもあるSPD(社民党)州幹事長のコルネリウス・ヴァイス議員は演説の中で「このようなゲッベルス宣伝相を思わせるような憎悪を煽る演説の後で話すのは困難なことだ。全ての民主的政党はこのことを悲しみ、記憶に留め、またこのようなことが二度と繰り返されないよう神に祈るだろう」と述べ、またドレスデン大空襲は、1933年のナチス政権掌握、焚書による思想弾圧、1938年のユダヤ人大迫害事件である「水晶の夜」、そしてゲルニカ(スペイン)やコヴェントリー(イギリス)に対するドイツの無差別爆撃の延長上にあることを忘れるべきではない、と強調した。 ヴァイス議員はさらに「恐怖は破滅へと導く。炎は最後には放火者自らの国にも及ぶ。ドイツの都市は次から次へと連合国の爆撃の犠牲となり、ドレスデンも最悪の形でそうなった。眩惑された国民は最後にはその責任を取らされたのだ」と続け、復讐主義を警告したうえで「(放火のための)たいまつを取ろうとする者を押さえ込まねばならない」と締めくくった。NPDを除く全ての政党(CDU、SPD、PDS、FDP、緑の党)の議員は、ヴァイス議員に対し起立して数分間に及ぶ拍手を送ったという。 審議進行妨害を理由に議会ははNPDに対する懲罰を検討しており、またPDS(民社党=旧東ドイツ共産党)はNPDの結社禁止法案の提出を検討している。一方ザクセン州検察庁はアプフェル議員他一名に対し国民扇動罪(日本の破防法のようなものか)容疑で捜査することを検討している。 一方2月13日には全国のネオナチ5000人がドレスデンに集結し、州議会の前を行進する事を検討しているという(もっとも、ネオナチ集会には必ずそれに数倍する人数の反ネオナチの集会がすぐ傍で行われることが多い)。 ドイツに来たばかりの頃、日本の知り合いたちに「ドイツに居てネオナチとか大丈夫なのか」とよく聞かれたが、僕はネオナチに遭遇したことは一度も無い。一方旧東ドイツ出身の学生に「俺の故郷はネオナチばかりだぜ」とおどかされたことがある(彼自身は共産党の支持者だった)。東にはあまり行ったことは無いが(ドレスデンとマイセンくらい)、普通に町を歩いていていきなりネオナチに襲われるということは無いので、誤解の無いように。 ただ反ナチス教育が徹底していた西側と、「ナチスのみならず資本主義も敵」という教育を行っていた共産党独裁政権が崩壊してしまい、その偽善が白日の下にさらされた東側とでは、歴史認識にも違いがあるのだろう。高い失業率や一向によくならない東ドイツの経済状況もそれに拍車をかけているようだ。 ただし、連合国の都市爆撃がいかに冷酷であったかは、最近ドイツの保守系マスコミもよく取り上げるようになった。日本ではむしろ革新系の反戦運動のほうで原爆や東京大空襲の悲劇がよく取り上げられ海外にもアピールするが、自国の戦争被害をアピールするのはドイツではナチスの罪悪を相対化しようとする極右のすることとされている。
2005年01月21日
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いつの間に雪が降ったのか午前中は道端に雪が積もっていたが、午後には全部溶けてしまった。 日記全文が表示されてページがでろーんと長く表示されていたのだが、原因を突き止め修正。メンテナンスか新機能追加のせいか知らないがいじくりまわしてぐちゃぐちゃにするのは勘弁して欲しい(以前には非公開日記が機能追加の変更の影響で公開されてしまったこともあったそうだ。僕は非公開日記は書いてないので関係無いが)。 先日韓国政府が1965年の日韓基本条約の議事録を公開し、個人補償に反対したのは他ならぬ韓国政府で、法的に個人補償の義務があるのは韓国政府だということが明らかになった。韓国側では「(もはや理屈ではなく)道義的責任から日本はさらに補償すべきだ」「条約を解消して締結しなおせ」という声もあがっているようだが。 どういう偶然か知らないが、今年はドイツ・イスラエルの国交樹立40周年でもある。まあ日韓関係とドイツ・イスラエル関係を同列に扱うことには抵抗感があるが(日本は韓国・朝鮮人の「最終的解決」=絶滅など目指していなかった)、戦後補償をめぐる問題があったので一応「似ている」としておこう。 ドイツからは今月末にホルスト・ケーラー大統領がイスラエルを訪問し、国会(クネセト)で記念演説することになっているのだが、一部の国会議員からこの大統領演説に対し抗議の声が上がってちょっとした問題になっているようだ。 イスラエル紙「マアリヴ」が月曜に報じたところでは、与党リクードのダニー・ナヴェー保健相は「ホロコーストの生存者が生きている限り、イスラエルの国会でドイツ語が話されることは許しがたい」と同紙に述べた。またクネセトのへミ・ドロン副議長は「ドイツ語がイスラエル国会で響き渡ることなど考えられない」と、国会議長に対しケーラー大統領がドイツ語で演説することを禁じ、英語で演説するよう求めたという。またケーラー大統領がドイツ語で演説する場合はボイコットを呼びかける動きもある。 続報によればルーヴェン・リヴリン議長は「ドイツはイスラエルの友好国であり、その大統領が母語で話すことを禁じることなど有り得ない」と、これらの要求を拒否したという。2000年2月に当時のヨハンネス・ラウ大統領がイスラエルを訪問した際にドイツ大統領として初めてイスラエル国会で演説しホロコーストについて謝罪したのだが、その時ラウ大統領はドイツ語で演説し、また歓迎されているという。ただ抗議してボイコットした議員はいたようだ。 在独ユダヤ人協会のパウル・シュピーゲル事務局長は「南ドイツ新聞」の取材に対し「どの言語で演説するかは大統領の裁量に任される」としながらも、「もしドイツ語を聞くに耐えられないという国会議員が居るのならば、その感情は理解されるべきだ」と述べている。 一方ワルシャワ・ゲットーでの迫害経験者である文芸評論家マルセル・ライヒ・ライニッキ氏は「フランクフルター・アルゲマイネ」(火曜日付)とのインタビューで、「このような要求が出てくるのは恥ずべきことだ」と批判し、「ドイツ語すなわちナチスの言語という考え方はばかげている」として、アインシュタイン、フロイト、マルクス、カフカ、シェーンベルクといったドイツ語を話したユダヤ人の業績や、シオニズム運動を率いてユダヤ人国家を提唱したテオドール・ヘルツルはドイツ語をその国家の国語に考えていたことを挙げた。同氏はまた「このような議論はイスラエルに今育ちつつある世代には無く、やがて無くなるだろう。そしてそれは喜ばしいことだ」と述べている。 ユダヤ系ドイツ人である両氏以外の意見は報じられておらず、ケーラー大統領が何語で演説するかは不明。IMF専務理事だったケーラー大統領ならば、英語での演説に語学力上の問題は全く無いが。 様々なホロコーストを扱った映画とかを見ると、がなりたてるドイツ兵が叫ぶドイツ語が出てくる。それは醜く恐ろしいものに聞こえる。死の恐怖と隣り合わせで毎日を過ごしたホロコースト経験者が「ドイツ語は二度と聞きたくない」というのも理解できる(所詮理解したつもりなだけなのだろうが)。 しかしいくらなんでも一部国会議員の今回の要求は行き過ぎではないだろうか。外交慣例にも反するし、全く前向きではないように思う。 ついでにドイツとイスラエルの国交樹立について簡単に調べてみる。 戦後の戦勝国による占領を経て主権を回復した西ドイツ(ドイツ連邦共和国)政府は、1953年にイスラエルとの間でナチスのユダヤ人迫害に対する補償に関するルクセンブルク協定を結び、在イスラエルのユダヤ人に対し30億ドル、また他地域のユダヤ人に対しユダヤ人協会を通じ4億ドルの個人補償を約束した(この協定には与党キリスト教民主同盟はじめドイツ国内の反対が大きく、批准は国会で辛うじて可決した)。この協定締結の背景には、過去の克服への姿勢を示すことで、当時交渉中だったアメリカからの経済援助をさらに引き出す思惑もあったという(アデナウアー首相の書簡にも書かれている)。(イスラエルとの協定とは別に、ドイツ国内に居住するもしくはしたことのあるユダヤ人被害者に対しては同年連邦補償法、1957年に連邦返済法を制定、さらに各国とのナチス犯罪被害者救済協定、さらに1992年のユダヤ人協会との合意による過酷緩和措置などの立法でドイツ政府は合計800億マルク以上をユダヤ人個人に支払っており、給付は現在も続いている。なおドイツ政府が一時消滅し、かつ冷戦構造下で東西分裂したため戦勝国との包括的な平和条約は締結されず、国家間賠償は現在に至るまで行われていない。「賠償」という言葉は戦争当事国間で使われるものであって、たとえば日韓間やドイツ・イスラエル間の問題では用いられないそうだ) 第2次中東戦争後の1960年、ドイツのコンラート・アデナウアー首相とイスラエルのダヴィッド・ベングリオン首相はニューヨークで会談し、ドイツによる対イスラエル経済・軍事支援を約した。建国から10年あまりのイスラエルは、独立から続いている周辺アラブ諸国との戦争に備えるための軍事費や貿易赤字に苦しんでいた。イスラエルは1962年には貿易保護関税を撤廃し、フランスを中心とするEEC(ヨーロッパ経済共同体)との協定で対欧接近を図った。当時イスラエルの核開発などを巡り最大の支援国アメリカとの関係が冷却化していたことも関係するのだろう(当時アメリカはアイルランド系のケネディ大統領だったが、ベングリオン首相は「カトリックがホワイトハウスに入るとろくなことが無い」とこぼしていたという。一方フランスはイスラエルと共同で核開発を進めていた)。 1963年、ヨルダン川の水資源利用を巡りアラブ諸国とイスラエル関係は再び緊張した。ドイツは秘密裏にイスラエルに武器援助を行い、続いて1965年5月、ドイツのルートヴィヒ・エアハルト首相とイスラエルのレヴィ・エシュコル首相との間で国交が樹立されている。国交樹立のための秘密軍事援助とみてよいだろう。イスラエル国民の多くはドイツとの国交樹立に反対していた。 イスラエルと敵対する、エジプトを始めとするアラブ諸国10ヶ国はこれに抗議して西ドイツとの国交を断絶、エジプトは西ドイツへのあてつけとして東ドイツのヴァルター・ウルブリヒト国家評議会議長を招待している(当時西ドイツは、東ドイツを国家承認した国と断交する「ハルシュタイン・ドクトリン」を採っていた)。なお東ドイツは「ナチスの過去とは無関係」という立場をとっていた上、イスラエルとの国交を樹立しなかったので、ユダヤ人に対する補償は行っていない。
2005年01月19日
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ブログ(Web Logの略)を始めてもう3年半くらい経つ。 最初は友人がブログ(当時はこういういかにもアメリカ的な無粋な略称はなく、Web日記と呼ばれていた)を始めたのを見て、自分もやってみようと気軽に思ったのが始まりだった。もともと文章を書くのは嫌いではなかったのだが、手続きが簡単でホームページ作成のような煩わしさもないので(ていうか作ったこと無いから知らんけど)、横着者の僕が三日どころか三年も続いている。 ブログサイト(正確にはなんて呼ぶんでしょうね)の都合で二度引越しさせられたが、移るたびに量が多くなり、楽天ではついに暫く持つことはないだろうと思っていたホームページ紛いなもの(このページの事です)まで持つに至った。全く驚きである。今はニュースは他の方のブログから得ることも多い。 さてこのブログ・ブーム、ドイツではようやく火がつき始めたところらしい。現在ドイツ語圏にはおよそ7万5千のブログがあるそうだが、楽天日記だけで15万の会員が居ることを思えば(15万全員が続けているわけではないだろうが)、その少なさが分かるというものだろう。(Leadcoreさんの御指摘により訂正;日本最大のブログサイトである楽天広場の会員数は、30万以上である。「15万」というのは24時間以内に日記を更新した人の数らしい。すげー。楽天だけでドイツ・スイスオーストリアのブログ総数の4倍くらいになるわけだ) ただブログ数は急増中らしい。報道、文化、政治、コンピュータ、趣味、日常などブログの種類は日本と変わらないようだが、どうもドイツ人からはじっくりコンピュータに向かってブログを書くというのがイメージしにくい。携帯電話もそうだったが、ドイツは意外と保守的なのか鈍感なのか、こういうものの導入がアメリカや日本よりも数年「遅れて」いるようだ。そういえば僕の周りにブログをやっているというドイツ人をまだ見たことがない。自分の日記を人に見せようという感覚もドイツ人にはあまり無いのではないだろうか(道路から家の中は丸見えですけどね。そのせいかきちんと片付いている家が多い)。 フランスでも若い人を中心にようやくブログ・ブームに火がついたようで、一日1000づつくらい増えているようだ。父親が娘のブログを見て娘の飲酒を知ったり、靴マニアのブロガーが靴の写真400枚を掲載して問い合わせが殺到している、なんていうのが物珍しそうに報じられている。日本では似たような記事が99年くらいの「AERA」に載っていたみたいだが、まだ一般のドイツ人やフランス人には自分の日記や趣味を不特定多数にさらけ出すブログは「奇異なもの」なのだろう。僕はブログの存在を知ったのと始めたのがほぼ同時期だったので、さほど違和感無かったが。 聞いたところではアイスランドでもブログ・ブームだそうだ。 ヨーロッパでブログというと「アメリカのもの」という印象があるようだが、実際ブログ・ブームはアメリカでもっとも進行している様だ。 ある調査によれば昨年11月の段階で、アメリカのインターネット利用者の7%(800万人)がブログを持ったことがあるらしい。また27%はブログを常習的に読んでいるという。2003年3月の時点ではそれぞれ3%・11%、2004年2月の時点で5%・17%だから、この数年、特に昨年急増したことが分かる。ただしインターネット利用者の3割弱しか「Blog」という言葉を知らなかったという調査結果も出ている。 ドイツではまだこういう調査さえ行われてないみたいだから、ブログが定着するのはまだ先のようだ。 上に「遅れている」と書いたがこれは実は不適切で、インターネット普及率や国民性も関係するかもしれない。トルコ人が人と話さずにコンピューターに向かってブログをしこしこ書いているのは想像つかないし(フィンランド人やチェコ人はなんとなく「ブログ向き」な気がする)。去年インターネットカフェで見た限りでは、チャットはトルコでもなかなか人気のようだ。
2005年01月13日
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今日は特に日記を書く気も無かったのだが、まあドイツらしいニュースが入ってきたので書きとめておく。 昨日(三王礼拝)の説教で、ケルン枢機卿のヨアヒム・マイスナー氏は中絶や安楽死を批判して(言うまでも無くカトリック教会は妊娠中絶を認めていない)、以下のように述べた。「まずヘロデ王が、ベツレヘムの子供たちを皆殺しにさせた。ついでヒトラーやスターリンのもとで数百万人が殺害された。そしてこんちにの我々の時代には、数百万の生まれる前の子供たちが殺害されている」 これに対して、在独ユダヤ人協議会議長のパウル・シュピーゲル氏が「ザールブリュックナー・ツァイトゥング」に対し「このような言葉は数百万のホロコーストの被害者に対する侮辱だ。ナチス政権の犯罪行為と中絶や安楽死を同等に見るような発言はまったく容認できない」と述べて謝罪を求めた。「緑の党」のクラウディア・ロート党首や教会信者組織からも厳しい批判が出ており、「枢機卿の権威を損なうものであり、またユダヤ教とキリスト教の対話のうえで計り知れない損害をもたらした」と厳しい批判を浴びている。 ドイツではナチスのユダヤ人虐殺(ホロコースト)は「比較のしようのない絶対的な悪事」とされていることを知っておかないと、一種の例え話のつもりで話したであろう枢機卿のこの発言が、なぜこうも厳しく批判されるのかが理解できないだろう。聖書に出てくるへロデ王の逸話やスターリンによる粛清と同格に語られただけでも許しがたいうえに、妊娠中絶や安楽死と同等に扱ってナチスの悪事を「相対化」しようとした、というのがこの批判の眼目である。ちなみにナチスには心身障害者を安楽死させて「処理」した罪もあるのだが。 断っておくが僕はナチスのユダヤ人迫害を肯定するつもりも無いし、「ホロコーストは無かった」などというつもりも毛頭無い。その凶悪さ、許しがたさについては人並み以上に知っているつもりである(あくまで本や映画でですが)。また中絶や安楽死については「出来ればしないほうが良い」という程度の意見である。それにしても、このような一種の「言葉狩り」が建設的なものだろうか?という疑問はある。 ドイツでは一昨年奇怪な自殺を遂げたユルゲン・メレマン元副首相(自由民主党=FDP)やマルティン・ホーマン議員(CDU)がやはり「ユダヤ人も人殺しをした」とか現在のイスラエル政府の施策を批判してドイツ中の非難を浴び、共に所属政党を追放されている。僕は彼らの発言を逐語的には知らないが、傍目には一種の意見封殺のような印象をもった。住んでいるとはいえよその国のことだから口出しはしないし彼らを擁護する謂れも無いのだが、何か釈然としない気分は残っている。 ドイツでは政局や時事問題をパロディにして茶化す「カヴァレット」という漫談がある。ラジオを聞いていたら今度の津波災害についてもかなりきわどい不謹慎なことを言っていたように思う。そのような批判精神旺盛なカヴァレットも、ユダヤ人のことには口をつぐんだままである。僕も身をもって体験したが、とにかくホロコースト関連のことだけは絶対に冗談になりえない。日韓ワールドカップでドイツ・韓国戦のときに韓国サポーターがヒトラーの肖像とかを持ち出していたそうが、それはドイツ人がもっとも忌み嫌う嫌がらせだったろう。 日本では「進歩的」な人が例えば南京大虐殺や日本軍の蛮行を取り上げてナチスの蛮行と比較しようとする。ところがドイツの「進歩的」な人は「ナチスの蛮行は絶対的な悪で他のものと比較などしてはならない」という意見だから、むしろ西尾幹二氏のような保守系の意見のほうがドイツの「進歩派」と意見があう。逆に日本の進歩派は「日本も過去にこんな悪いことをしたんです」と訴えようとするが、ドイツやイスラエルの人に「でもナチスほどの悪事は在り得ません」とたしなめられることになる。これは僕のオリジナルな意見ではなくて、ドイツ近代史に詳しい西尾幹二氏や佐藤卓巳氏(国際日本文化研究センター)の著書から得た知識である。 ドイツのマスコミは概ね「日本は先の大戦への反省と補償が足りない」という論調で、韓国や中国の主張と一致している。ところが建前ではドイツの犯した悪は本来比較のしようが無いのだから日本のことをどうこう言えた義理ではないようにも思うのだが。僕はドイツの戦後補償が「成功した」、つまり周辺諸国と良好な関係が築けたのは、ドイツが誠実だったからではなくて(いやまあ誠実な一面はあるでしょうけど)、冷戦という国際環境とソ連という同じくらい暴虐な帝国がヨーロッパに身近に存在したからドイツへの憎しみが「相対化」されたのだと思っている。 ていうか周辺諸国もユダヤ人迫害という点では同じ穴の狢だったし、そもそもドイツは周辺諸国に国家賠償をしていないのだが。イスラエルの人は今でもドイツを許さないそうだが、そこは日韓・日中関係と似ている。ドイツの戦後補償が「成功した」とはそもそもいえないようにも思える。 話が変わるが、「田中宇の国際ニュース解説」の最新号を読んだのだが、ますます過激な意見になっているのでびっくりした。アメリカはイラクでは勝てない、というのが最新号の分析で、その意見そのものはまあ現状分析の結果でもあるし僕も「まあそうかな」と納得出来るところがある。 ところが最後の結論の所で、「自衛隊の派兵延長を支持する親米派の論客より、小泉政権を嫌う反戦運動家の方が日本の国益に沿った主張をしているという、皮肉な事態になっている。日本は、イラク撤退を主張するパット・ブキャナンあたりの保守派や、アメリカの反戦運動家に、こっそり資金提供するぐらいのことをした方が良いともいえる。」ときたもんだ。なんかもうすごいですね。 ブキャナンというとキリスト教・白人至上主義のバリバリの保守派(孤立主義)で、それこそ中絶や避妊に反対するような人なのだが、それかそれとは正反対の反戦活動家を支援しろって、言ってることが支離滅裂じゃないか。そんな秘密工作とも言えないお粗末なことに税金を使われたら国民はたまったものではない。第一日本がしなくたって、田中さんの大好きな中国とかがやるだろうに。
2005年01月07日
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スマトラ津波の犠牲者は15万を越え、まさに史上最悪の自然災害の1つになった。疫病流行の恐れもある被災地での救援活動も本格化してきた。 ドイツでも募金や寄付の呼びかけが盛んで、うちの大学の学食にまで張り紙がされて募金箱が設置されている。こういうのはかつて無かったことだ。僕も小額だが思わず募金した。 今日の正午は犠牲者を追悼して3分の黙祷が捧げられ半旗が掲げられたというし(僕はその時間は家に居た)、新聞(「ビルト」)やテレビ(WDRなど)でも募金を呼びかけて相当な額が集まっているといる。 ドイツ人F1レーサーのミヒャエル・シューマッハーが高額の募金をしたというのも話題となっている。芸能人ではスピルバーグ監督やディカプリオ、サンドラ・ブロックの名前も出ていたな。もちろん善意の募金だから額の多寡ではないだろうしいいことだとは思うのだけど、やはりスターの募金ばかりが大きく報道されるというのは何か一言いいたくなる気もする。 そんな中以下の報道があった。(引用開始) 独、695億円の津波支援を決定【ベルリン=宮明敬】ドイツ政府は5日、インドネシア・スマトラ島沖地震と津波の被害への対応について特別閣議を開き、支援額を当初表明した2000万ユーロ(約27億8千万円)から5億ユーロ(約695億円)に引き上げることを決めた。 支援期間は3-5年を見込んでいる。ドイツはこれで日本が予定している5億ドル(約525億円)を上回り世界最大の支援国になる。 ドイツの被災者が死者60人、行方不明者1000人以上に上り国民の関心が高い上、国連安保理常任理事国入りの条件である国際的声望を高めるためにも大規模支援が必要と判断したとみられる。(読売新聞) - 1月5日21時34分更新<インド洋津波>被災地支援で700億円拠出 ドイツ政府【ストックホルム斎藤義彦】ドイツ政府は5日、スマトラ沖大地震の被災地支援のための緊急閣議を開き、5億ユーロ(約6億6300万ドル)の拠出を正式決定した。その数時間後に、豪州が10億豪ドル(7億6500万ドル)の拠出を表明。トップの座を明け渡したものの、積極的な支援が注目を集める。(中略) 死者数は現在60人だが、最終的には数百人にのぼるとの予測もある。ドイツの災害・事故史上、最大級の犠牲で、政府としての哀悼を最大限に示す狙いがある。ドイツ大統領府は5日、犠牲者を追悼する国家式典を20日に連邦議会議事堂で開催すると発表。9日にはベルリン大聖堂で追悼礼拝も行われる。 一方、福祉削減などで内政面での支持率が低下しているのを憂慮し、外交面で得点を稼ごうとした意図も透けて見える。シュレーダー首相は02年の総選挙前、独東部の洪水に際して巨額の支援を行い、得票率を上げたことがある。 財政難の中で、財源も不透明なままの大盤振る舞いに野党からは「ふまじめだ」との批判が出ている。また、海外への援助に従事する市民団体からは「他の地域への援助が削られて回されるのでは」との疑念の声も出ている。(毎日新聞) - 1月6日1時35分更新(引用終了) シュレーダー首相は今日の閣議で復興費用5億ユーロの拠出を決め、日本が既に拠出を表明していた5億ドルを抜いて最大拠出額となった。ドイツのマスコミも嬉しそうに(?)「この額は世界最大」と報じていた。早期にけた違いの5億ドル拠出を決めていた日本の名前がここ数日の報道で頻出していたから、これは報じがい?もあっただろう。ただしドイツの名誉の為に断っておくが、シュレーダー首相は「大事なのは額の多寡ではない」と記者会見で断っている。 しかし数時間後に、インドネシアの隣国であるオーストラリアがさらに多額の拠出を決めたため、2位になった。現在のドイツの報道では「第2番目の額」と報じている。日本の名前はあまり出てこなくなった。 当初3500万ドルの拠出を決めていたアメリカが日本の5億ドル拠出を追う形で一挙に10倍に増やしたことも示すように、言うのは憚られるが拠出額の競争の様相を呈してきているのは否めない。現に復興支援会議のためジャカルタ入りするルイ・ミシェルEU委員が「美徳行為の競争になるのは好ましくない」と苦言を呈している。一方国連のヤン・エゲラン災害対策調整担当官は「競争は私にはどうでもいいことで、拠出額が多ければ多いほど良い」と述べている。 どなたかがブログで書いていたが、この額の多寡って為替レートに相当影響されている。今でこそ史上最高水準のドル安ユーロ高で五億ユーロは五億ドルよりもかなり多額になるが、ユーロ導入時はほとんど同じだったはずだ。ユーロ高のおかげで心持ち日本より物価が安いと感じていたドイツは、今や割高に感じるようになった。ユーロ高のおかげでドイツは今やアメリカを抜いて世界最大額の輸出国になっている。 たかが為替の問題じゃないかというがさにあらず、湾岸戦争のとき(1991年1月)には日本が90億ドルの戦費拠出をアメリカに約束したが、橋本蔵相とブレイディ財務長官の会談の際に拠出が円建てかドル建てかが詰められておらず、日本側は当然円建て、アメリカ側は当然ドル建てと思っていた。ところがその後のドル高進行で日本が拠出した額が5億ドルほど目減りしてしまい、日米間に深刻な対立をもたらすことになった(マルク建てだったドイツが目減り分を追加拠出したので、日本も別の名目で追加支援して目減り分を補填している)。 被災者援助はもちろんいいことだし賛成なのだが(まあ無理でない程度ならですが)、国家が国家に援助する以上、100%善意の援助などありえず、それは政治的な意味を持たざるを得ない。現に今日の記者会見でドイツのフィッシャー外相は対象国(インドとマレーシアは辞退)のインドネシアとスリランカについて「この災害を機に内戦の終結を望む。この援助はそのためのものでもある」と訴えていた。被害の大きかったインドネシアのアチェやスリランカでは分離独立派と治安当局の衝突が続いている。 上に引用した読売と毎日の解説は、ドイツの巨額拠出の理由をそれぞれ外交と内政的要因から説明しているが、あながち的外れでもない。今日の「フランクフルター・アルゲマイネ」紙などは、政府がこの災害の「援助外交」において、ドイツの国際的地位向上や当地の内戦終結など政治問題解決にむしろ腰が引けている(慎重に過ぎる)ことをやや批判的に報じていた。拠出額競争では全く名前の出てこないフランスを引き合いに出して「フランスの外相は地震翌日には軍用機で現地入りした」と報じ、現地入りしようとしないシュレーダー首相やフィッシャー外相の姿勢に疑問を呈している。 日本のマスコミがこんな事書いたら「不謹慎だ」と叩かれるだろうなあ。
2005年01月05日
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毎年の事ながらクリスマス休暇でドイツ人やヨーロッパ人学生が帰省してしまい、寮はアラブ人と中国人ばかりが目立つ。残念ながらホワイトクリスマスとはいかなかった。 この日は午後にUさんK君の家での小パーティーに招かれた(招かれたんだよな?)。他にRさん、Iさん夫妻、そしてMさん一家が来た。Mさんちの生後5ヶ月のお嬢さんにもお目にかかることが出来た。例の無い大きい赤ちゃんだそうだ。 夕方最終バスで家に戻る。そう、今日は夕方以降、全ての公共交通機関がストップする。留学最初の年はそれを知らずにえらい目にあったものだった。まあここみたいな小さな町ならまだいいが、ロンドンみたいな世界的大都市でも地下鉄もバスも止まってしまうのだから恐れ入る。フランクフルトもそうなのだろうか。 家に向かう途中エリザベート教会の前を通ったが、クリスマス礼拝に参加する座りきれないほどの善男善女で溢れていた。いつもはあまりこういうことはないのだろう。この人たちは自家用車や徒歩で帰るのだろう。 ちなみに(何度も書いたが)ドイツでは25日・26日をWeihnachten(クリスマス)として祝日にしている。クリスマス・イブ(24日)を祝日に指定しているのはヨーロッパではチェコとスロヴァキアのみらしい。ついでにクリスマス休暇について見てみると、・25日のみ祝日=スペイン、フランス、アメリカ・25、26日両方祝日=オーストリア、スイス、ベルギー、チェコ、デンマーク、フィンランド、イギリス、ギリシャ、ハンガリー、イタリア、アイルランド、ルクセンブルク、ノルウェー、オランダ、ポーランド、スウェーデン、スロヴァキア 僕は結構いい年になるまでサンタクロースの存在を信じていたのだが(いつもお願いしても買ってくれない親がプレゼントしてくれているとは思わなかった)、クリスマスの起源についてまるわ太郎さんの日記とパティターニさんの日記が紹介されている。へえ、ミトラ教が起源なのか。ミトラ教といえばペルシア起源の宗教で、ローマ帝国に伝播して軍人を中心に大流行してその遺跡も多いのだが(ペルシアではむしろゾロアスター教、のちにイスラム教が広まってやはりミトラ教は陰が薄い)、同じ東方起源のキリスト教が広まると抹殺されてしまった。 あまりサンタと関係無いが、キリスト教はローマ帝国をも殺すというか変質させたが、やはり宗教というのは文明にとって根幹に関わるものなのだろう。EUへのトルコ加盟反対論者は、深層心理にそういう恐れを抱いているのかもしれない。
2004年12月24日
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今日は昼から雪になり、少し積もった。今年はホワイトクリスマスになるのだろうか。 ドイツの雪はきめが細かくさらさらの粉雪なので、踏みつけると固まりやすくアイスバーンになりやすい。旧市街の石畳などはてきめんに滑りやすくなる。配達のワゴン車が車輪を空回りさせながら力ずくで旧市街の坂道を登っているのを見たが、チェーンとか着けなくて大丈夫なのだろうか(着ける時間が無かったのかもしれないが、ドイツではこうした「力任せ」という場面が多い)。この町は谷間にあって坂が多いので、バスなんかは一部区間は走れなくなることもある。 寒波が来たのか、市内を流れる川も部分的に凍結していた。ちなみに夕方の気温は0℃だった。 町中は日本で言う「師走」の慌しい雰囲気で、かなりの人出だった。デパートも本屋も化粧品屋も玩具屋も電器屋も、クリスマスのプレゼントを買う人でごった返している。レジは長蛇の列だが、店のほうは客を待たせることには頓着しないのかレジを全開しようとはしない。これは日本とドイツの接客上の大きな違いである。クリスマス商戦も今日明日が追い込みである。こういうのは日本もドイツも変わらない。 寒さのせいかクリスマス市は閑散としていた。そういや今年はクリスマス市(屋台が並んでいる)をひやかさなかった。まあ、毎年グリューヴァイン(温ワイン)とソーセージにシュトレンで変わり映えしないし。クリスマス市は23日を最後に終わってしまう。 一方大きなカバンを抱えた帰省する学生も多く見かけた。ふつうドイツ人はクリスマスを家で静かに過ごす。23日を最後に大学のすべての機関は閉鎖され(入れるところもあるのだが暖房が入らない)、1月2日までの冬休みに入る。学食も休業である。
2004年12月22日
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