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2024年12月04日(水)晴東京は10日以上も晴れの日が続いている。今回歩くのは、文久元年(1861年)板「東都麻布之絵図」のうち、現在の港区南麻布1~2・5丁目に当たる地区。07:50 四の橋交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第67回 】を歩き始める。「絶江坂」を上る。承応2年(1653年)切絵図にある「曹渓寺」が、坂の東側に移転してきた。初代和尚の絶江が名僧だったため、この辺りの地名になり、坂名の由来にもなった。落語「黄金餅」にでてくる「麻布絶江釜無村の木蓮寺」は、この辺りにあったことになっている。韓国大使館の敷地は、切絵図では「松平陸奥守」の辺りになり、陸奥国仙台藩伊達家(外様)の下屋敷があった。仙台藩下屋敷北側の坂道は「仙台坂」といい、切絵図には「仙タイサカ」とある。明治時代、総理大臣を2度(第4代・第6代)務めた松方正義がここに邸宅を構えていた。「有栖川宮記念公園」を訪れる。かつてこの辺りは陸奥国盛岡藩南部家(外様)の下屋敷で、切絵図には「南部美濃守」とある。明治時代に有栖川宮御用地となり、高松宮御用地を経て、1934年 東京市に賜与され、記念公園として一般開放された。公園南側の坂道は「南部坂」という。「木下坂」を下る。坂道西側に備中国足守藩木下家(外様)の上屋敷があったことに、坂名は由来する。切絵図には「木下備中守」とある。足守藩上屋敷跡地には、スイス大使館などがある。「北条坂」を上る。坂下南側に河内国狭山藩北條家(外様)の下屋敷があったことに、坂名は由来する。切絵図には「北條遠江守」とある。09:05 愛育病院前交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第67回 】はここで終わり。四の橋交差点 → 愛育病院前交差点 : 5.7 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 239.7 km )
2024.12.04
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2024年11月30日(土)フレーム組立治具を製作する。2.5mm 厚のMDF板(中密度繊維板、木質繊維を原料とする成形板)に船体上面図を貼り付け、フレームの位置に穴を開ける。
2024.11.30
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2024年11月23日(土)曇のち晴勤労感謝の日。北寄りの風が吹いて、少し寒い。今回歩くのは、文久元年(1861年)板「東都麻布之絵図」のうち、現在の港区南麻布3~4丁目に当たる地区。08:00 狸橋 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第66回 】を歩き始める。「天現寺」を訪れる。切絵図には「毘沙門天 天現寺」とある。本尊は毘沙門天。毘沙門天の生まれが寅年・寅の日・寅の刻なので、境内には狛犬ならぬ「狛虎」が鎮座している。狛虎の台座には天保6年(1835年)の銘がある。「広尾稲荷神社」を訪れる。拝殿は弘化4年(1847年)に造営されたもので、天井に高橋由一による墨龍図が描かれている。切絵図に広尾稲荷は載っていないが、神社が鎮座しているのは「堀田摂津守(佐野藩下屋敷)」とある辺り。高橋由一(1828~94年)は幕末から明治時代に活躍した洋画家として知られ、この天井画は二十歳頃の作といわれる。高橋家は下野国佐野藩堀田家(譜代)に仕える藩士の家柄。由一は幼少時から狩野派に師事していたが、文久2年(1862年)蕃書調所画学局に入り洋画の指導を受けた。切絵図にある「光林寺」を訪れる。この寺の広い墓地の奥に、オランダ人ヘンリー・ヒュースケンの墓がある。安政3年(1856年)アメリカ公使館通訳として来日したヒュースケンは、万延元年(1861年)攘夷派薩摩浪士の襲撃に遭い、暗殺された。フランス大使館の敷地は、切絵図では「戸澤上総介」の辺りになり、出羽国新庄藩戸澤家(外様)下屋敷があった。元和8年(1622年)戸澤政盛が初代新庄藩主になって以降、版籍奉還まで11代にわたり、戸澤家が新庄藩を治めた。ドイツ大使館の敷地は、切絵図では「酒井壹岐守」の辺りになり、旗本酒井家の屋敷があった。大正時代から昭和初期、この地は政治家の小泉策太郎の邸宅だった。大使館の東側に朱塗りの武家門があるが、これは酒井家の門ではなく、小泉が造った庭園に他所から移設したものという。「薬園坂」を下る。切絵図には「御ヤクエンサカ」とある。江戸時代前期まで坂の西側に幕府の麻布御薬園(薬草栽培所)があったことに、坂名は由来する。貞享元年(1684年)5代将軍徳川綱吉の白金御殿拡張のため、麻布御薬園は廃止された。切絵図の薬園坂下の古川に「四ノ橋 相模殿橋ト云」とある。四ノ橋の別名の相模殿橋は、常陸国土浦藩土屋相模守(譜代)の下屋敷が、橋の北側にあったことに由来する。切絵図には「土屋采女正(うねめのかみ)」とある。土浦藩下屋敷跡地には、現在 イラン大使館などがある。08:55 四の橋交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第66回 】はここで終わり。狸橋 → 四の橋交差点 : 3.7 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 234.0 km )
2024.11.23
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2024年11月20日(水)A46番~A49番のカントフレームを製作する。1.5mm 厚と2.0mm 厚のウォールナット板材を貼り合わせて、フレーム厚を3.5mm とする。カントフレームは3分割のダブルフレームなので、フレーム1組(右舷・左舷の2本)あたり12ピース。
2024.11.20
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2024年11月13日(水)快晴秋晴れ。乾いた空気。微風。歩きめぐり日和である。今回歩くのは、嘉永7年(1857年)板「目黒白金図」のうち、現在の港区白金3~6丁目に当たる地区。07:40 四之橋(しのはし)、【 江戸切絵図歩きめぐり 第65回 】を歩き始める。切絵図の四之橋南詰に「狐鰻」とある。ここには鰻の蒲焼の有名店があった。蒲焼屋が店を構える以前は、狐が化けて買いに来るほど美味しいと評判の「狐しるこ」の店があった。しるこ屋が移転した跡地に、狐の名を引き継いで店を出したのが狐鰻だった。明治時代まで営業していたという。「雷神山児童遊園」を訪れる。解説板によると、応徳年間(1084~87年)に疫病流行を鎮めるため雷神を祀った雷(いかずち)神社が建てられ、以来この地は雷神山と呼ばれるようになった。切絵図には「イナリ」とだけ記されている。戦後 祭神は近くの白金氷川神社に合祀され、跡地は児童遊園として生まれ変わった。切絵図に「松平十郎麿」とあるのは、岩見国浜田藩松平家(親藩)の下屋敷。御三家水戸藩の9代藩主徳川斉昭の十男に生まれた十郎麿(幼名)は、弘化4年(1847年)浜田藩の養子になって4代藩主を継ぎ、武聰(たけあきら)と改名した。十郎麿の異母兄の七郎麿(斉昭の七男)は、のちの15代将軍徳川慶喜。現在、浜田藩下屋敷の跡地は聖心女子学院のキャンパスになっている。切絵図に「猩蕎麦」とある。猩は猿に似た想像上の動物だが、ここでは狸を意味する。この地にあった蕎麦屋が狸に化かされて木の葉のお金で蕎麦を食べられたという伝承が、猩蕎麦の名前の由来とされる。店の前を流れる古川に架かる橋は「狸橋」という。蕎麦屋は明治時代初期に廃業したが、福沢諭吉が跡地一帯を購入して別邸を建てた。諭吉が取得した土地の一部には、現在 慶應義塾幼稚舎が建っている。名門幼稚舎が高台にではなく、川沿いの低地に建っているのを不思議に思っていたが、こういう経緯によるものだと知って納得した。08:40 狸橋 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第65回 】はここで終わり。四之橋 → 狸橋 : 4.4 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 230.3 km )
2024.11.13
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2024年11月10日(日)A42番~A45番のカントフレームを製作する。1.5mm 厚と2.0mm 厚のウォールナット板材を貼り合わせて、フレーム厚を3.5mm とする。カントフレームは3分割のダブルフレームなので、フレーム1組(右舷・左舷の2本)あたり12ピース。
2024.11.10
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2024年11月03日(日)快晴文化の日。秋晴れの特異日なので、快晴である。今回歩くのは、嘉永7年(1857年)板「目黒白金図」のうち、現在の港区白金1~2丁目に当たる地区。07:30 清正公前交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第64回 】を歩き始める。切絵図に「高野寺」とある。江戸時代まで高野山には学侶方・行人方・聖方の三派があり、元禄9年(1696年)行人方(寺院の俗務に従事した人々)江戸在番所触頭(ふれがしら、行人方を統轄する役目を担う)の白金高野寺として、浅草から白金台町(現在の港区白金)へ移転してきた。白金高野寺は区画整理のため、1920年に現在の杉並区へ移転した。地価の高い跡地には、濃い緑に囲まれて三菱商事の迎賓施設 白金ゲストハウスが建っている。9年前の2015年に訪れた時は竹中工務店の迎賓施設 白金竹友クラブだった。服部時計店創業者の邸宅「旧服部金太郎邸(ハットリハウス)」を訪れる。切絵図には「上杉弾正少弼(しょうひつ)」とあり、出羽国米沢藩上杉家(外様)の下屋敷だった。初代藩主の上杉景勝は上杉謙信の養子。米沢藩は明治維新まで上杉家が13代続いた。土地と建物は 2014年にシンガポールの不動産会社が購入、2023年 大京に売却された。「建築計画のお知らせ」は出ていない。切絵図に「織田安芸守」とあるのは、大和国芝村藩織田家(外様)の上屋敷。芝村藩織田家は、信長の末弟長益(有楽)の四男長政を藩祖とする。織田家の大名は4家あるが、いずれも小藩だった(大和国芝村藩1万石、丹波国柏原藩2万石、大和国柳本藩1万石、出羽国天童藩2万石)。芝村藩上屋敷の跡地は、宇和島藩主だった伊達侯爵家が 1911年に取得して屋敷を構えた。戦後 東京都の白金職員住宅が建てられたが、2015年に訪れた時は広大な空地になっていた。2028年 この空き地に都立新国際高校が開校する計画で、今年9月から工事が始まっている。「三光坂」を下る。切絵図には「三鈷サカ」とある。坂下の専心寺(切絵図には「センシンジ」とある)にかつてあった三葉の松が、仏具の三鈷に似ていたことから三鈷(さんこ)坂と呼ばれるようになり、それが変化して三光坂になったというのが、坂名の由来として有力という。切絵図にある「立行寺(りゅうぎょうじ)」を訪れる。旗本の大久保忠教(ただたか、通称 彦左衛門尉)が 寛永7年(1630年)麻布市兵衛町(現在の港区六本木)に創建。寛文8年(1668年)火災に遭ったため、現在地へ移転した。別名を大久保寺という。境内に忠教の墓がある。「松秀寺」を訪れる。切絵図には「日限地蔵尊 松秀寺 遊行寺ト云」とある。日限(ひぎり)地蔵尊とは「日を限って祈願すると願いが叶えられる」といわれる地蔵菩薩。秘仏なので非公開らしい。遊行寺とあるのは、時宗(松秀寺は時宗の寺院)の総本山遊行寺(神奈川県藤沢市)のことと考えられる。08:20 四之橋(しのはし) 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第64回 】はここで終わり。清正公前交差点 → 四之橋 : 3.3 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 225.9 km )
2024.11.03
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2024年10月30日(水)A38番~A41番のカントフレームを製作する。1.5mm 厚と2.0mm 厚のウォールナット板材を貼り合わせて、フレーム厚を3.5mm とする。カントフレームは3分割のダブルフレームなので、フレーム1組(右舷・左舷の2本)あたり12ピース。
2024.10.30
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2024年10月23日(水)曇曇り空。予報によると、東京では昼過ぎから雨が降るらしい。今回歩くのは、嘉永7年(1857年)板「目黒白金図」のうち、現在の港区白金台1~3丁目に当たる地区。08:15 日吉坂上 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第63回 】を歩き始める。「八芳園」を訪れる。幕末には薩摩藩島津家(外様)の下屋敷で、切絵図には「松平薩摩守」とある。明治時代に入って実業家渋沢喜作(渋沢栄一の従兄)が跡地を取得して屋敷を構え、大正時代には久原財閥総帥の久原房之介の所有に移り、久原は庭園を整備して都内有数の名園を造った。切絵図にある「瑞聖寺」を訪れる。寛文10年(1670年)の創建にあたり、摂津国麻田藩2代藩主青木重兼(外様)が開基として経済的基盤を提供した。本堂の大雄宝殿は、宝暦7年(1757年)に再建されたもの。「荏原畠山記念館」がある辺りには、豊後国森藩久留島家(外様)の下屋敷があった。切絵図には「久留島信濃守」とある。跡地は明治時代初期に外務卿を務めた寺島宗則伯爵の屋敷を経て、荏原製作所を創業した畠山一清が昭和初期に取得して豪邸を構えた。「二つ引両」は畠山家の家紋。切絵図に「松平八郎麿」とあるのは、武蔵国川越藩松平家(親藩)の下屋敷。御三家水戸藩の9代藩主徳川斉昭の八男に生まれた八郎麿(幼名)は、川越藩の養子になって直候(なおよし)と改名、嘉永7年(1854年)に川越藩6代藩主を継いだ。八郎麿のすぐ上の兄の七郎麿(斉昭の七男)は、後の15代将軍徳川慶喜。川越藩下屋敷と大和国芝村藩織田家(外様)下屋敷(切絵図には「織田豊前守」とある)があった辺りには、明治時代に大久保利和(としなか、大久保利通の長男)侯爵が広大な屋敷を構えた。現在 跡地の一部は、三菱電機が所有する迎賓施設の高輪荘になっている。「覚林寺」を訪れる。切絵図には「清正公(せいしょうこう)覚林寺」とある。江戸時代初期、この地には肥後国熊本藩加藤家(外様)中屋敷があった。覚林寺は寛永8年(1631年)に創建され、熊本藩初代藩主加藤清正を祀っていたため、清正公の通称で親しまれてきた。寛永9年(1632年)駿河大納言事件(3代将軍家光の不興を買い、弟の駿府藩主徳川忠長が自刃した事件)に連座したとされる罪で、熊本藩2代藩主忠広は改易・配流となり、加藤家は断絶した。覚林寺の山門は安政3年(1856年)に、清正公堂の拝殿・幣殿は慶応元年(1865年)に再建されたもの。09:20 清正公前交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第63回 】はここで終わり。日吉坂上 → 清正公前交差点 : 4.7 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 222.6 km )
2024.10.23
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2024年10月20日(日)A34番のスクェアーフレームとA35番~A37番のカントフレームを製作する。1.5mm 厚と2.0mm 厚のウォールナット板材を貼り合わせて、フレーム厚を3.5mm とする。スクェアーフレームは6分割のダブルフレームなので、フレーム1本あたり12ピース。カントフレームは3分割のダブルフレームなので、フレーム1組(右舷・左舷の2本)あたり12ピース。
2024.10.20
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2024年10月13日(日)快晴爽やかな秋晴。今回歩くのは、嘉永7年(1857年)板「目黒白金図」のうち、現在の品川区上大崎1~3丁目と港区白金台4~5丁目に当たる地区。08:10 池田山公園 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第62回 】を歩き始める。上大崎1~3丁目。切絵図に「増上寺下屋敷」と6つの寺名が記されている。寛文元年(1661年)以降、増上寺の子院8ヵ寺が幕府の命により麻布狸穴(現在の港区狸穴町)からこの高台に移転、寺町を形成した。寺院の構成は合併・移転・廃寺によって変わったが、現在でも寺町の9ヵ寺のうち、宝蔵寺を除く8ヵ寺は増上寺の子院である。切絵図に「森伊豆守」とあるのが、播磨国三日月藩森家(外様)上屋敷。三日月藩は15000石の小藩だった。現在、高台にあった跡地は「花房山」と呼ばれる高級住宅街になっている。明治時代の外交官で、のちに枢密顧問官・日本赤十字社社長などを歴任した花房義質(よしもと)子爵が別邸を構えたことに、花房山の地名は由来する。「誕生八幡神社」を訪れる。文明年間(1469~87年)太田道灌が夫人の安産を祈願、筑前国の宇美八幡宮から分霊を勧請して創建したと伝わる。切絵図には「八幡宮 高福寺」とある。高福寺は現在も隣りにある「高福院」のことで、かつては誕生八幡宮の別当寺だった。高福院の本堂は、水野忠邦が千駄ヶ谷穏田の屋敷に建立したお堂を、天保15年(1844年)に拝領移築したものと伝わる。白金台4~5丁目。切絵図に「松平讃岐守」とあるのは、讃岐国高松藩松平家(親藩)の下屋敷。明治維新後、跡地は陸海軍の火薬庫に使用された。大正時代に皇室財産である白金御料地となり、現在は「国立科学博物館附属 自然教育園」として一般公開されている。切絵図に「松平阿波守」とあるのは、阿波国徳島藩蜂須賀家(外様)下屋敷。蜂須賀家は外様大名ながら、初代藩主至鎮(よししげ)が大阪の陣の軍功により将軍家から松平姓を下賜されて以降、代々松平姓を許された。現在、下屋敷跡地は「東京大学医科学研究所」になっている。10:05 日吉坂上、【 江戸切絵図歩きめぐり 第62回 】はここで終わり。池田山公園 → 日吉坂上 : 8.6 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 217.9 km )
2024.10.13
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2024年10月10日(木)A30番~A33番のスクェアーフレームを製作する。1.5mm 厚と2.0mm 厚のウォールナット板材を貼り合わせて、フレーム厚を3.5mm とする。6分割のダブルフレームなので、フレーム1本あたり12ピース。
2024.10.10
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2024年10月03日(木)曇曇り空。明け方まで弱い雨が降っていた。今回歩くのは、文久元年(1861年)板「芝三田二本榎高輪辺絵図」と嘉永7年(1857年)板「目黒白金図」のうち、現在の品川区北品川5~6丁目・東五反田1~5丁目に当たる地区。08:05 御殿山交番前 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第61回 】を歩き始める。北品川5~6丁目。御殿山交番の向かいに「旧・因幡鳥取藩池田家下屋敷跡」解説板がある。それによると、幕末この辺りは鳥取藩下屋敷だった。それ以前は出雲国松江藩松平家(親藩)の下屋敷だったが、周辺の抱地(4230坪)以外の拝領地(14982坪)を幕府に公取され、嘉永6年(1853年)鳥取藩池田家(外様)に与えられた。切絵図を見ると、「松平相模守」とあるのが鳥取藩邸、その北隣りの「松平出羽守」が松江藩邸。かつて松江藩邸だった敷地の大部分が、鳥取藩邸になった。嘉永6年(1853年)の黒船来航を機に、安政元年(1854年)から万延元年(1860年)まで、鳥取藩は江戸湾の警備のため、幕府により御殿山下台場に動員配置され、藩邸はこの台場の付属陣屋になった。東五反田1~5丁目。切絵図に「松平陸奥守」とあるのは、陸奥国仙台藩伊達家(外様)下屋敷。明治維新後、この高台は旧薩摩藩主の島津家が所有し豪邸を構えた。伊達家の屋敷跡地にもかかわらず、この高台が「島津山」と呼ばれるのは、こういう経緯による。現在の島津山は、清泉女子大学と高級住宅街になっている。「雉子(きじ)神社」を訪れる。文明年間(1469~87年)の創建とされる。当初は大鳥明神と称されていたが、3代将軍徳川家光が鷹狩りで当地を訪れた際、白雉子が社地に飛び入ったのを追って社前に参詣したことから、雉子宮に改めたと伝わる。切絵図には「雉子宮 宝等寺」とある。宝等寺は雉子神社の別当寺宝塔寺のこと。切絵図に「松平内蔵頭(くらのかみ)」とあるのは、備前国岡山藩池田家(外様)の下屋敷。明治維新後も池田家がここに本邸を置いていたことから、この高台は「池田山」と呼ばれるようになった。池田山北側に、往時の大名庭園の面影を伝える「池田山公園」がある。池田山も高級住宅街として知られる。切絵図の岡山藩下屋敷の隣地に「三嶋明神」とある。三嶋明神は旧上大崎村の鎮守だったが、1910年 先程訪れた雉子神社に合祀された。09:35 池田山公園 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第61回 】はここで終わり。御殿山交番前 → 池田山公園 : 7.2 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 209.3 km )
2024.10.03
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2024年09月30日(月)A26番~A29番のスクェアーフレームを製作する。1.5mm 厚と2.0mm 厚のウォールナット板材を貼り合わせて、フレーム厚を3.5mm とする。6分割のダブルフレームなので、フレーム1本あたり12ピース。
2024.09.30
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2024年09月23日(月)曇秋分の日。暑さが和らぎ、朝晩に涼しさを感じられる日もある。今回歩くのは、文久元年(1861年)板「芝三田二本榎高輪辺絵図」のうち、現在の品川区南品川1・4丁目と北品川3~4丁目に当たる地区。08:25 京急新馬場駅 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第60回 】を歩き始める。南品川1・4丁目。品川橋の南に「東海道 品川宿 是より南 南品川宿」解説板がある。かつてここに脇本陣があり、百足屋(広瀬)治兵衛がその役を務めていた。天保14年(1843年)に幕府道中奉行が実施した宿駅調査によると、品川宿には北品川宿に本陣が1軒、南品川宿と歩行新宿(かちしんしゅく)に脇本陣が1軒ずつあった。「海蔵寺」を訪れる。この寺では獄死や刑死した罪人・品川宿の飯盛女などの無縁仏を供養してきたため、「品川の投込寺」といわれた。切絵図に「海蔵寺」とある。境内には鈴ヶ森刑場で処刑された罪人の首を葬った首塚があり、この塚にお参りすると頭痛が治るとされ、頭痛塚と呼ばれる。「清光院」を訪れる。この寺は豊前国中津藩奥平家の菩提寺で、土塀に囲まれた墓域に奥平家歴代の墓碑89基が並んでいる。奥平家は徳川家の譜代大名で、美濃国加納藩・下総国古河藩・下野国宇都宮藩・出羽国山形藩などを転封した後、享保2年(1717年)から版籍奉還まで中津藩を治めた。切絵図に「清光院」とある。北品川3~4丁目。「品川神社」を訪れる。文治3年(1187年)源頼朝による創建とされる。北品川の鎮守で「北の天王」と呼ばれた。切絵図には「天王社」とある。境内にある石造鳥居と水盤は、慶安元年(1648年)に3代将軍徳川家光の側近で老中を務めた堀田正盛(下総国佐倉藩初代藩主)が寄進したもの。鳥居に「慶安元年戌子九月吉日」「堀田加賀守紀正盛」と刻まれている。切絵図に「東海寺」の広大な寺域が描かれている。寛永16年(1639年)徳川家光が沢庵和尚を招聘して創建、幕府の厚い庇護を受けた。現在の東海寺は、塔頭(大寺院の敷地内にある小寺院や別坊)のひとつで、切絵図にもある「玄性院」がその名を引き継いだもの。「東海寺大山墓地」には、沢庵・江戸時代中期の国学者賀茂真淵・江戸時代前期の天文暦学者渋川春海らの墓所がある。切絵図に「御殿山 櫻ノ名所ナリ」とある。この丘陵地の名称は、徳川家の別邸品川御殿があったことに由来する。元禄15年(1702年)御殿は火災により焼失、再建されることはなかった。8代将軍徳川吉宗の時代になると桜の植林が進められ、御殿山は花見の名所として賑わった。幕末期 御殿山は台場を築造するための土取場になり、丘陵地の一部が削り取られた。その跡が窪地になって残っている。現在、「御殿山庭園」「権現山公園」に御殿山の名残りを見ることができる。10:00 御殿山交番前 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第60回 】はここで終わり。京急新馬場駅 → 御殿山交番前 : 6.2 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 202.1 km )
2024.09.23
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2024年09月20日(金)A22番~A25番のスクェアーフレームを製作する。1.5mm 厚と2.0mm 厚のウォールナット板材を貼り合わせて、フレーム厚を3.5mm とする。6分割のダブルフレームなので、フレーム1本あたり12ピース。
2024.09.20
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2024年09月15日(日)晴今日も東京は太陽が照り付け、予報によると最高気温が35℃まで上がるらしい。今回歩くのは、文久元年(1861年)板「芝三田二本榎高輪辺絵図」のうち、現在の品川区北品川1~2丁目に当たる地区。08:05 八ツ山橋交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第59回 】を歩き始める。旧東海道を行くと「歩行新宿(かちしんしゅく) 土蔵相模跡」標柱がある。切絵図に「品川歩行新宿」とあるのが東海道。土蔵相模とは旅籠「相模屋」のことで、外装が海鼠(なまこ)壁の土蔵造りだったことから土蔵相模と通称されていた。文久2年(1862年)高杉晋作・伊藤俊輔(博文)ら長州藩士が建設中の英国公使館を焼き打ちした際には、土蔵相模が集合場所になった。台場小学校前に「御殿山下台場(砲台)跡」解説板がある。嘉永6年(1853年)の黒船来航を受けて、幕府は江戸内湾防衛のため11基の台場築造を計画したが、完成したのは5基だった。残りの6基の代わりとして築かれたのがこの台場で、五稜形の砲台は品川の海岸と陸続きだった。御殿山下台場の周辺は埋め立てられたが、五稜形の輪郭は道として残り、今もその位置と形を確認できる。切絵図にはこの台場が「御臺(台)場 松平相模守」と記されている。松平相模守とは因幡国鳥取藩12代藩主池田慶徳(よしのり)(外様)のこと。鳥取藩は安政元年(1854年)から万延元年(1860年)まで、御殿山下台場での警備を担当した。「利田(かがた)神社」を訪れる。寛永3年(1626年)沢庵和尚が弁財天を勧請したのが起源とされる。切絵図には「弁財天」「洲崎」とあり、当時は洲崎弁天と呼ばれた。明治時代の神仏分離政策に伴い、利田神社と改称した。利田神社境内に「鯨塚」がある。寛政10年(1798年)品川沖に迷い込んだところを品川浦の漁師達によって捕獲された鯨の供養碑。体長は16m 余りあったという。鯨は江戸市中の評判となり、11代将軍徳川家斉も浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)まで運ばせて上覧した。「善福寺」を訪れる。永仁2年(1294年)創建。現在の本堂は、安政2年(1855年)の地震で倒壊した後の安政7年(1860年)に再建されたもの。この本堂には伊豆の長八(入江長八)作といわれる龍の鏝絵(こてえ)が、かなり剥落しているものの残っている。切絵図に「善福寺」とある。品海公園に「品川宿」標柱と解説板がある。品川宿は東海道の第一宿で、北品川宿・南品川宿の2宿で構成されていたが、享保7年(1722年)歩行新宿が宿場として認められ、以後3宿で宿場の業務を担った。切絵図には「品川北本宿」「品川南本宿」とある。聖蹟公園に「東海道品川宿本陣跡」解説板と「品川宿本陣跡」標柱がある。江戸時代前期には北品川宿と南品川宿にそれぞれ本陣があったが、中期以降は北品川宿の本陣だけになった。於春稲荷神社に「於春稲荷と旧小泉長屋」解説板があり、切絵図には「北馬場丁 小泉長家ト云」とある。解説板では小泉長屋の由来について、寛延年間(1748~51年)小泉屋金左衛門という者がこの地を買い、貸長屋を建てたと説明している。切絵図に「ヂンヤヨコ丁」とある。該当する場所に「陣屋横町」解説板があり、宝永年間から正徳年間の頃(1704~16年)ここに陣屋敷(代官役所)があったことからとされている、とその由来について説明している。「荏原神社」を訪れる。南品川宿の鎮守で、「南の天王」と呼ばれた(因みに「北の天王」は品川神社)。切絵図には目黒川の南側(南品川)に「天王社」と記されているが、目黒川の流路が変更されたため、現在の荏原神社は北岸(北品川)に鎮座している。09:00 京急新馬場駅 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第59回 】はここで終わり。八ツ山橋交差点 → 京急新馬場駅 : 3.5 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 195.9 km )
2024.09.15
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2024年09月10日(火)A22番フレームより後部 のキールとデッドウッドを製作する。材料はウォールナット板材。キールは6mm 幅 、デッドウッドは2mm 厚 、カントフレーム基準板は1mm 厚で製作する。キールの高さは5mm だが、後日3mm 加えて8mm にする。
2024.09.10
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2024年09月04日(水)曇時々晴今朝の東京の最低気温は23℃ 。久し振りにエアコンなしで眠ることができた。今回歩くのは、文久元年(1861年)板「芝三田二本榎高輪辺絵図」のうち、現在の港区高輪3~4丁目に当たる地区。08:00 高輪2丁目交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第58回 】を歩き始める。「東禅寺」を訪れる。切絵図にも「東禅寺」とある。慶長15年(1610年)溜池(現在の港区赤坂)に創建。寛永13年(1636年)現在地に移転した。安政5年(1858年)に締結された日英修好通商条約により、翌年 最初の英国公使宿館が東禅寺に置かれ、公使オールコックが駐在した。桜田門外の変(安政7年 1860年)の後、攘夷運動の高まりから東禅寺では、文久元年(1861年)水戸藩浪士による英国公使館襲撃(第一次東禅寺事件)、翌年 東禅寺警備の松本藩士による英兵惨殺(第二次東禅寺事件)が起きた。「高野山東京別院」を訪れる。切絵図には「高野寺」とある。慶長年間(1596~1615年)高野山の学侶方の江戸在番所として、浅草(現在の台東区浅草)の日輪寺内に寄留して開創。幕府から現在地を下賜され、延宝元年(1673年)高野山江戸在番所高野寺として建立された。「光福寺」を訪れる。切絵図には「相福寺」とある。当初 相福寺と号して創建されたが、明治13年(1880年)源光寺を合併して光福寺と改められた。「子安栄地蔵尊(通称 ゆうれい地蔵)」が境内にある。塩あみ地蔵や塩かけ地蔵は塩により溶け、幽霊のような姿になるともいわれる。「柘榴坂」を上る。坂の北側のグランドプリンスホテル新高輪などが建つ地区は、かつての薩摩藩島津家(外様)下屋敷。切絵図には「薩摩殿」とある。坂の南側の品川プリンスホテルなどが建つ地区は、かつての筑後国久留米藩有馬家(外様)下屋敷。切絵図には「有馬中務大輔」とある。切絵図の久留米藩下屋敷(有馬中務大輔)の北東角に「高山稲荷」とある。高山稲荷神社は最近まで品川駅の目の前に鎮座していたが、品川駅西口基盤整備事業に伴い、直線距離で約400m 西へ移転する。旧社殿は撤去され、御神体は高輪神社に仮遷座。現在 移転先で新社殿を建設している。嘉永6年(1853年)の黒船来航後、幕府は伊予国今治藩松平家(譜代)下屋敷を召し上げ、武蔵国川越藩松平家(親藩)の陣屋地に当てた。切絵図に「松平大和守」とあるのが川越藩の陣屋地。当地は埋め立てのための土取場になり、川越藩は江戸防衛のため一番台場の警備を担当した。川越藩陣屋地があった場所を陰影起伏図で見ると、土砂が採取された跡の窪地を確認できる。陣屋地前の海岸は埋め立てられ、沖合の台場建設地へ土砂を運ぶための波止場が築造された。その波止場が、切絵図には「御用地」と記されている。八ツ山の高台に三菱グループの迎賓施設「開東閣」がある。かつてここは近江国水口藩加藤家(外様)下屋敷。切絵図には「加藤越中守」とある。明治時代になって伊藤博文がこの地に本邸を置いたが、明治22年(1889年)三菱財閥2代目総帥岩崎弥之助が伊藤から譲り受けた。高輪3~4丁目の丘陵地は「 八ツ山」と呼ばれる。切絵図には「谷ツ山」の地名が記されている。海岸に突き出た岬が8つあったことから八ツ山と呼ばれたともいわれる。09:30 八ツ山橋交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第58回 】はここで終わり。高輪2丁目交差点 → 八ツ山橋交差点 : 6.3 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 192.4 km )
2024.09.04
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2024年09月01日(日)【 H.M.S. PANDORA 船尾構造模型 】の製作を開始する。PANDORA のフルモデルは以前 製作しているが、今回は船尾部分(船体の約30%)の構造模型を、縮尺 1/64 で製作する。図面は " ANATOMY OF THE SHIP " シリーズの " PANDORA " をスキャンして使用する。フレームのデータは横浜帆船模型同好会の " PANDORA 構造模型用フレーム図面集 " を使用する。
2024.09.01
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2024年08月24日(土)曇時々晴今日もウンザリする猛暑。この暑さは10月まで続くのだろう。今回歩くのは、文久元年(1861年)板「芝三田二本榎高輪辺絵図」のうち、現在の港区高輪1~2丁目に当たる地区。08:50 高輪大木戸跡交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第57回 】を歩き始める。東海道の江戸府内への入口の木戸は、元和2年(1616年)札ノ辻(現在の港区芝)に設置されたが、宝永7年(1710年)高輪に移転した。街道の両側に築かれた石垣は、切絵図では「■」で表記されている。現在は東側の石垣だけが残り、「高輪大木戸趾」石標と解説板が設置されている。「車町稲荷神社」を訪れる。切絵図では相当する位置に「稲荷」とあり、近くに「車町」の町名も記されている。増上寺安国殿建立・市ヶ谷見附石垣普請のため、幕府は京都から牛車業者を呼び寄せて資材運搬に当たらせた。工事終了後の寛永16年(1639年)幕府は業者にこの地での定住を認め、牛車による荷物運搬の独占権も与えたため、車町(通称 牛町)と呼ばれるようになった。「泉岳寺」を訪れる。切絵図には「泉岳寺 義士四十七人ハカアリ」とある。慶長17年(1612年)泉岳寺は外桜田(現在の千代田区霞が関)に創建されたが、寛永18年(1641年)大火により焼失。現在地への移転再建に加わった播磨国赤穂藩浅野家(外様)は、泉岳寺が菩提寺になった。泉岳寺には、元禄14年(1701年)に刃傷事件を起こして切腹した浅野内匠頭長矩(ながのり)の墓、元禄16年(1703年)赤穂事件により切腹した大石内蔵助良雄以下四十七士の墓がある。山門は天保3年(1832年)に再建されたもの、中門は天保7年(1836年)に再建されたもの。切絵図に「細川越中守」とあるのは、肥後国熊本藩細川家(外様)中屋敷。赤穂浪士のうち大石内蔵助ら17人はこの屋敷で切腹した。現在 中屋敷の跡地は高輪皇族邸や高松中学校などの敷地になっていて、「大石良雄外十六人忠烈の跡」「旧細川家のシイ」などがある。承教寺の山門脇に「二本榎の碑」がある。高輪の丘陵地にあった2本の榎の大木が、東海道を行き交う旅人にとって良い目印になったことから、この地は二本榎と呼ばれるようになったという。切絵図には「二本榎丁」「承教寺」とある。桂坂の北側に、野村證券高輪研修センターの見事な石垣がある。かつてここには播磨国明石藩松平家(親藩)下屋敷があり、切絵図には「松平兵部大輔(ひょうぶたゆう)」とある。明治時代以降は旧明石藩主松平子爵家の邸宅になった。「高輪神社」を訪れる。江戸時代には聖徳太子を祀る太子堂などがある寺院だったが、明治時代以降 神社になった。切絵図には「来成寺 太子堂 庚申堂」とある。鳥居には寛文7年(1667年)の銘、狛犬の台座には宝永6年(1709年)の銘がある。10:10 高輪2丁目交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第57回 】はここで終わり。高輪大木戸跡交差点 → 高輪2丁目交差点 : 4.6 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 186.1 km )
2024.08.24
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2024年08月14日(水)晴猛烈な暑さ。日陰で何度も休憩を取り、水分を補給する。今回歩くのは、文久元年(1861年)板「芝三田二本榎高輪辺絵図」のうち、現在の港区三田3~5丁目に当たる地区。08:20 三田綱町交番前 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第56回 】を歩き始める。「札の辻」交差点の位置に、切絵図では「元札辻」とある。元和2年(1616年)幕府はここに芝口門を造り、東海道の江戸正面入口としての役割を持たせた。辻名は高札場が設けられたことに由来する。江戸市街の拡大に伴い、宝永7年(1710年)江戸の入口の役割は高輪大木戸(現在の港区高輪)に移転。そのため、元札の辻と呼ばれるようになった。元和9年(1623年)札の辻刑場で50人のキリシタンが火刑により殉教した。東海道沿いの地で処刑が行われたのは、禁教令を徹底させるため、見せしめの意図があったとされる。跡地には「元和キリシタン遺跡」石標がある。「御田(みた)八幡神社」を訪れる。和銅2年(709年)牟佐志国牧岡(現在の港区白金付近)に創建されたといい、寛永5年(1628年)現在地に遷座した。御田の社名が、三田の地名の起源という説もある。切絵図には「三田八幡」とある。御田八幡神社裏の台地上には、上野国沼田藩土岐家(譜代)の下屋敷があった。切絵図には「土岐美濃守」とある。沼田藩下屋敷の北隣には、安政6年(1859年)にフランス公使宿館が置かれた「済海寺」があり、「最初のフランス公使宿館跡」石標が建つ。江戸時代 この辺りの高台は東京湾を一望できる景勝地で、月見の名所「月の岬」としても知られていた。「聖坂」を下る。この道は江戸時代より前に使われていた東海道。商人を兼ねた高野聖が開き、その宿所もあったことに坂名は由来するという。聖坂の途中から「潮見坂」を上る。坂上から芝浦の海が見え、潮の干満を知ることができたことに坂名は由来する。切絵図には「汐見坂」とある。「荻生徂徠の墓」がある「長松寺」を訪れる。徂徠は江戸時代中期の儒学者。5代将軍徳川綱吉や柳沢吉保に重用された。「玉鳳寺」を訪れる。切絵図には「玉凰寺」とある。山門脇のお堂に「御化粧延命地蔵尊(別名 おしろい地蔵)」が祀られている。参拝者が白粉を塗るので、全身真っ白。もとは顔に痣や傷のある人が祈願していたが、今は美顔・美肌祈願が絶えないという。「魚籃寺(ぎょらんじ)」を訪れる。切絵図には「魚籃観音」とある。本尊の魚籃観世音菩薩は、右手に魚籃(魚を入れる籠)を持っているという。境内の「塩地蔵尊」には、願掛けが叶ったお礼に塩を供えることになっている。寺の前の坂道は「魚籃坂」という。「伊皿子(いさらご)坂」を下る。当地に帰化した明国人が、当時の外国人の呼称「エビス」と呼ばれ、これが「インベイス」と訛って伊皿子の字が当てられたなど、坂名の由来には諸説ある。切絵図には「伊皿子臺(台)町」という町名が記されている。09:45 高輪大木戸跡交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第56回 】はここで終わり。三田綱町交番 → 高輪大木戸跡交差点 : 5.0 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 181.5 km )
2024.08.14
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2024年08月06日(火)曇曇り空。湿度が高く、Tシャツはすぐに汗でびっしょり。今回歩くのは、文久元年(1861年)板「芝三田二本榎高輪辺絵図」のうち、現在の港区三田1~2丁目に当たる地区。08:30 三田2丁目交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第55回 】を歩き始める。切絵図に「松平主殿頭(とのものかみ)」とあるのは、肥前国島原藩松平家(譜代)中屋敷。明治4年(1871年)慶應義塾は島原藩中屋敷跡地を貸し下げられ(翌年 払い下げを受けた)、校舎を芝新銭座(現在の港区浜松町)から三田(現在の本部所在地)へ移転した。慶應大学に隣接して「春日神社」がある。天徳2年(958年)藤原正房が武蔵国国司に任国の際、大和国奈良春日神社の御神霊を荏原三田邑(現在の目黒区三田)に勧請。天文年間(1532~55年)現在地に遷座したという。切絵図には「春日社」とある。切絵図の松平主殿頭の北隣りに「松平隠岐守」とあるのは、伊予国松山藩久松家(親藩)中屋敷。元禄15年(1702年)吉良邸討入を遂げた赤穂浪士のうち大石主税等10名が松山藩中屋敷に預けられ、翌年この藩邸で自刃した。藩邸跡地にはイタリア大使館があり、大名庭園が残っている。切絵図に「有馬中務大輔(なかつかさたいふ)」とあるのは、筑後国久留米藩有馬家(外様)上屋敷。文政元年(1818年)邸内に久留米水天宮の分社を建立、月に1回 町人に神社を開放して人気を博した。切絵図には邸地北西角に「⛩ 水天宮」とある。明治維新後に屋敷が移転したため、1872年 水天宮は現在地(中央区日本橋蛎殻町)へ遷座した。「元神明宮(もとしんめいぐう)」を訪れる。社伝によると、寛弘2年(1005年)創建という。江戸時代に幕府から移転を迫られたが、遷座に反対する氏子達が御神体を護り、現在までこの地で祀られ続けている。切絵図には有馬中務大輔の西側に接して「元神明」とある。切絵図に「織田出雲守」「島津淡路守」「松平肥後守」とあるのは、それぞれ 丹波国柏原(かいばら)藩織田家(外様 織田信長の孫である高長の系統の織田家)上屋敷・日向国佐土原(さどわら)藩島津家(外様)上屋敷・陸奥国会津藩松平家(親藩 幕末の藩主は松平容保)下屋敷。現在 綱町三井倶楽部が占める敷地のうち、建物部分(1913年竣工 ジョサイア・コンドル設計)は佐土原上屋敷跡地、庭園部分は会津藩下屋敷跡地にある。切絵図の会津藩下屋敷東側に「綱坂」とあり、平安時代の武将 渡辺綱がこの付近で生まれた(出生地には諸説ある)という伝説に、坂名は由来する。09:30 三田綱町交番前 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第55回 】はここで終わり。三田2丁目交差点 → 三田綱町交番前 : 4.1 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 176.5 km )
2024.08.06
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2024年07月23日(火)快晴先週18日の梅雨明け以降、東京では猛暑の日々が続いている。今回歩くのは、文久元年(1861年)板「芝三田二本榎高輪辺絵図」のうち、現在の港区芝1~5丁目に当たる地区。08:05 JR浜松町駅南口 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第54回 】を歩き始める。「西應寺」の門前に「最初のオランダ公使宿館跡」標柱と解説板がある。安政5年(1858年)に締結された日蘭修好通商条約により、翌年この寺にオランダ公使宿館が設置された。切絵図には「西應寺 田中イナリ」とある。西應寺の山号は田中山といい、境内に田中稲荷の真新しい社がある。切絵図の「松平修理大夫」は、薩摩藩島津家(外様)上屋敷。屋敷跡の一画に「薩摩屋敷跡」標石がある。慶応3年(1867年)江戸市中警備を担っていた庄内藩新徴組らが薩摩側に挑発され、この薩摩藩上屋敷に焼き討ちをかけ、これが戊辰戦争の発端になった。「柳神社」を訪れる。江戸時代後期に旧芝松本町の守護神として創祀されたと伝わる。社殿前に控えているのが狛狐なので、社名に稲荷の文字はないが、稲荷神社である。切絵図上で該当する場所に「稲荷」「松本丁一丁目」とあり、この稲荷が柳神社だろうと推測できる。切絵図の「沙濱(すなはま)」には、江戸時代 魚河岸「雑魚場(ざこば)」があり、落語「芝浜」の舞台にもなった。隣接する「御穂(みほ)鹿嶋神社」は、2005年に御穂神社と鹿嶋神社が合祀してできた神社。切絵図には、文明11年(1479年)創建とされる「御穂明神」と寛永年間(1624~44年)創建とされる「鹿島明神」が、別々の場所に記されている。切絵図に「薩州クラヤシキ」とあるのは、薩摩藩島津家蔵屋敷。慶応4年(1868年)この地で西郷隆盛・勝海舟らが会談を行い、江戸城の無血開城が決定された。屋敷跡地の一画に「江戸開城 西郷南洲 勝海舟 會見之地」碑がある。「水野監物(けんもつ)邸跡」解説板がある場所の周辺は、元禄15年(1702年)に吉良邸討入が起きた当時、三河国岡崎藩水野家(譜代)の屋敷だった。討入に加わった赤穂浪士のうち9人が岡崎藩邸に預けられ、翌年 この藩邸で自刃した。切絵図では岡崎藩邸があったところに「水野和泉守」とあり、これは出羽国山形藩水野家中屋敷。水野忠元を祖とする水野家(忠元流水野家)は、下総国山川藩・駿河国田中藩・三河国吉田藩・三河国岡崎藩(討入時)・肥前国唐津藩・遠江国浜松藩・出羽国山形藩(幕末期)と、領地を転々とした。09:40 三田2丁目交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第54回 】はここで終わり。浜松町駅南口 → 三田2丁目交差点 : 5.4 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 172.4 km )
2024.07.23
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2024年07月13日(土)晴今日の東京は雲の多い晴れ。梅雨はまだ明けていない。今回歩くのは、万延2年(1861年)板「芝口南西久保愛宕下之図」のうち、現在の港区芝公園1~2丁目・芝大門1~2丁目・浜松町1~2丁目・海岸1丁目に当たる地区。08:30 都営地下鉄 芝公園駅 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第53回 】を歩き始める。芝公園1~2丁目。「浅岡飯たきの井」は増上寺子院の良源寺にあった井戸。切絵図に「良源院」とある。仙台藩伊達家の藩主等が増上寺を参詣する時、良源院はその支度所として使われていた。万治3年(1660年)の伊達騒動の際、幼い藩主(後の4代綱村)を毒殺から守るため、浅岡の局(綱村の実母)がこの井戸の水を汲んで調理したと伝わる。「芝大門(しばだいもん)」は増上寺の総門。切絵図には「表門」とある。慶長10年(1605年)増上寺改修の際、徳川家康が江戸城大手門の高麗門を、増上寺の表門として移築させた。焼失・再建を経て、現在の芝大門は 2017年に改修された鉄筋コンクリート製。芝大門1~2丁目・浜松町1~2丁目。切絵図の古川に「金杦(杉)橋」が架かる。かつて古川は金杉川とも呼ばれていた。橋を南北に通っているのが東海道で、日本橋からちょうど1里の距離にある。元禄15年(1702年)赤穂浪士は討入の後、この橋を渡って泉岳寺へ向かったとされる。「芝大神宮」を訪れる。寛弘2年(1005年)伊勢神宮を勧請して飯倉(現在の港区芝公園)に創建されたと伝わる。慶長年間(1596~1615年)増上寺が飯倉へ移転することになったため、神社は現在地へ遷座した。切絵図には「飯倉神明宮」とある。切絵図に「森越中守」とあるのは、播磨国赤穂藩森家(外様)上屋敷。跡地に「赤穂藩森家上屋敷跡出土の石垣石」解説板があり、屋敷と隣地との境堀(切絵図にはない)の護岸に用いられていた石垣を展示している。赤穂藩は元禄14年(1701年)の刃傷事件で浅野家(外様)が改易となり、永井家(譜代)を経て、宝永3年(1706年)から 1871年の廃藩置県まで森家が藩主を務めた。海岸1丁目。切絵図に「江川太郎左エ門」「鉄砲調練場」とある。太郎左衛門は伊豆国韮山代官を務めた江川家の世襲名。天保12年(1841年)36代太郎左衛門英龍(ひでたつ)は高島秋帆に近代砲術を学び、更に改良した西洋砲術の普及に努めた。門下に佐久間象山・桂小五郎などがいる。「旧芝離宮恩賜庭園」を訪れる。延宝6年(1678年)老中の大久保忠朝が4代将軍家綱から拝領した土地に屋敷を構え、楽寿園という庭園を造った。邸地は清水徳川家などの所有を経て、弘化3年(1846年)紀州徳川家が拝領。切絵図の「紀伊殿」がこれになる。有栖川宮家の所有を経た後、宮内省が買い上げ 1872年 芝離宮となった。旧芝離宮恩賜庭園として開園したのは 1924年のこと。旧芝離宮恩賜庭園の南隣りで、建設工事の際に発掘された江戸時代の石垣を移築・展示している。この地は埋立地で、その護岸用に使われていた。切絵図には「松平越前守」とあり、越前国福井藩松平家(親藩)の下屋敷があったところ。09:40 JR浜松町駅南口 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第53回 】はここで終わり。芝公園駅 → 浜松町駅南口 : 5.5 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 167.0 km )
2024.07.13
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2024年07月03日(水)曇梅雨空。高温多湿で不快な暑さ。今回歩くのは、万延2年(1861年)板「芝口南西久保愛宕下之図」のうち、現在の港区芝公園4丁目に当たる地区。09:10 東京タワー前 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第52回 】を歩き始める。「増上寺」を訪れる。明徳4年(1393年)増上寺は武蔵国貝塚(現在の千代田区平河町・麹町)に開山されたと伝わる。天正18年(1590年)の徳川家康江戸入府後、徳川家の菩提寺となる。江戸城拡張に伴い、慶長3年(1598年)現在地へ移転した。切絵図に「御㚑屋(おたまや 㚑=霊)」とあるのが、徳川将軍家の霊廟。ここに6人の将軍(2代秀忠・6代家宣・7代家継・9代家重・12代家慶・14代家茂)のほか、正室・側室などが埋葬された。霊廟は墓所・本殿・拝殿など多くの施設から成り、当時最高の技術が駆使された。1945年の空襲により霊廟の大部分が焼失。霊廟に祀られていた遺体は、1958年 現在の将軍家墓所に改葬された。切絵図に「黒本尊」とあるのは増上寺の秘仏で、年3回行われる祈願会の時だけ御開帳される。切絵図に「山門」とある「三解脱門」は、元和8年(1622年)に再建されたもの。この門をくぐることにより、三毒(貧り・怒り・愚かさの煩悩)から解脱できるとされる。「黒門」は増上寺方丈の表門を移設したもので、慶安年間(1648~52年)3代将軍家光による建立という。「台徳院霊廟惣門」は2代将軍秀忠(台徳院は院号)の霊廟惣門。寛永9年(1632年)に建立された台徳院霊廟の大部分は戦災で焼失したが、惣門は焼け残った。将軍家墓所の入口にある「鋳抜門(いぬきもん)」は、文昭院(6代家宣の院号)霊廟の宝塔前にあった中門を移築したもの。切絵図に「弁天」「宝珠院」とある。かつて増上寺の南西隅に大きな蓮池(弁天池)があり、貞享2年(1685年)その中島に弁天堂が建立され、同時に宝珠院が創建された。戦後 弁天池は埋め立てられて小さい人工池になり、弁財天は宝珠院で祀られている。切絵図に「五重塔」が描かれている。2代将軍秀忠の供養塔として承応年間(1652~55年)に建立された。文化3年(1806年)大火により焼失、文化6年(1809年)再建。1945年 戦災で焼失し、礎石などの遺構は残っていない。「芝東照宮」を訪れる。元和3年(1617年)国家守護のため徳川家康を祭神として「安国殿(家康の戒名に由来)」と称して創建された。神仏分離令により 1873年に東照宮と改称。1945年 社殿は戦災により焼失した。現在の社殿は 1969年に再建されたもの。切絵図では芝東照宮の位置に「飯倉 茅天神」とある。かつて芝東照宮の敷地に茅野天満宮(別名 飯倉茅天神)が鎮座していたが、神仏分離令により幸稲荷神社(港区芝公園3丁目)の境内に遷座合祀された。09:50 都営地下鉄 芝公園駅 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第52回 】はここで終わり。東京タワー前 → 芝公園駅 : 2.9 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 161.5 km )
2024.07.03
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2024年06月22日(土)晴昨日、東京は梅雨入りした。今日は晴れているが、明日から梅雨空が続くようだ。今回歩くのは、万延2年(1861年)板「芝口南西久保愛宕下之図」のうち、現在の港区虎ノ門5丁目・芝公園3丁目に当たる地区。09:20 芝学園下 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第51回 】を歩き始める。虎ノ門5丁目。「西久保八幡神社」を訪れる。寛弘年間(1004~12年)霞ヶ関(現在の千代田区霞ヶ関)付近で創建され、太田道灌が江戸城を築城した際に現在地へ遷座したと伝わる。明治維新による神仏分離までは「八幡山普門院」と称していて、切絵図には「八幡社 普門院」とある。芝公園3丁目。「幸稲荷神社」を訪れる。応永元年(1394年)岸之村(現在の港区芝大門)の鎮守「岸之稲荷」として勧請されたと伝わる。文化8年(1811年)現在地に遷座。切絵図には「光宝寺」の北隣りに「イナリ」とある。光宝寺はかつて幸稲荷神社の別当寺だった。寛永年間(1624~44年)に開かれたという「切通坂」を下る。切絵図には「切通ト云」、坂下に「時ノ鐘」とある。江戸の街には時の鐘が10ヶ所ほど設置されていた。元和5年(1619年)西久保八幡神社境内に鐘が設けられたが、破損したため 延宝2年(1674年)芝切通へ移転してきた。切絵図に「御成門」とある。増上寺の裏門としてつくられ、将軍が参詣する際に利用されたため御成門と呼ばれるようになった。かつては現在の御成門交差点にあったが、1892年に日比谷通りが新設された際 現在地に移設された。切絵図の御成門の西隣りに「方丈」とあるのは、増上寺法主(大僧正)の居所で、大僧正としての公務を行う施設だった本坊。「有章院霊廟二天門」は、8歳で亡くなった7代将軍徳川家継(有章院は院号)の霊廟惣門。享保2年(1717年)8代将軍吉宗により霊廟が建立された。1945年 空襲に遭って霊廟は焼失したが、二天門だけは焼け残った。切絵図にある「金地院」を訪れる。元和5年(1619年)以心崇伝(通称 金地院崇伝)により江戸城北の丸に創建。寛永16年(1639年)現在地へ移転した。崇伝は徳川家康の政治顧問を務め、その権勢から「黒衣の宰相」とも称される。東京タワーはかつての金地院の敷地に建設された。09:15 東京タワー前 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第51回 】はここで終わり。芝学園下 → 東京タワー前 : 3.5 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 158.6 km )
2024.06.22
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2024年06月13日(木)曇昨日の東京都心は今年初の真夏日だったが、今日は曇り空なので涼しい。今回歩くのは、万延2年(1861年)板「芝口南西久保愛宕下之図」のうち、現在の港区虎ノ門3~4丁目・愛宕1~2丁目に当たる地区。09:00 汐見坂 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第50回 】を歩き始める。虎ノ門3~4丁目。切絵図にある急勾配の「江戸見坂」を上る。かつては坂上から江戸の街の大半を眺望できたという。「葺城(ふきしろ)稲荷神社」を訪れる。元禄4年(1691年)岩見国浜田藩松平家(親藩)上屋敷の近くで、町民により稲荷社が発見され鎮守として祀られたとされる。葺城の名称は、氏子が住んでいた旧町名の葺手町(ふきでちょう)と城山町に由来する。切絵図には浜田藩上屋敷が「松平右近将監」、近くに「葺手町」「城山」とある。現在の真新しい社殿は、再開発事業に伴い2020年に遷座してきた。「栄閑院」を訪れる。ここには解体新書の刊行で知られる、杉田玄白の墓がある。栄閑院は「天徳寺」の塔頭(たっちゅう)。塔頭とは、大寺院の敷地内にある小寺院や別坊のこと。天徳寺の広大な境内は切絵図に記されているが、栄閑院の名前は記されていない。愛宕1~2丁目。傾斜40度といわれる86段の「出世の石段」を登り、「愛宕神社」を訪れる。慶長8年(1603年)徳川家康の命により、火除けの神様として創建された。山頂の標高は25.7mだが、江戸の街を見渡せる絶景の地として知られた。安政7年(1860年)桜田門外の変の際には、ここが井伊直弼襲撃に参加する水戸浪士の集合場所になった。「櫻田烈士愛宕山遺蹟碑」がある。「青松寺」を訪れる。文明8年(1476年)太田道灌の命により麹町貝塚(現在の千代田区麹町)に創建。慶長5年(1600年)江戸城拡張に伴い現在地へ移転した。切絵図には広い境内に「青松寺」とある。09:55 芝学園下 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第50回 】はここで終わり。汐見坂 → 芝学園下 : 3.4 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 155.1 km )
2024.06.13
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2024年06月03日(月)曇東京はまだ梅雨入りしていないが、このところ梅雨のような日が続いている。今回歩くのは、万延2年(1861年)板「芝口南西久保愛宕下之図」のうち、現在の港区新橋1~3丁目・西新橋1~3丁目・虎ノ門1~2丁目に当たる地区。08:05 新橋柳通り口 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第49回 】を歩き始める。新橋1~3丁目・西新橋1~3丁目。「烏森神社」を訪れる。社伝によると、天慶3年(940年)藤原秀郷が平将門の乱を平定、戦勝御礼に稲荷神社を創建したのが起源とされる。由緒正しい神社なのだが、鉄筋コンクリートの今風の社殿は、有難味に欠ける。切絵図には「烏森稲荷」とある。虎ノ門1~2丁目。「虎ノ門金刀比羅宮」を訪れる。万治3年(1660年)三田(現在の港区)にあった讃岐国丸亀藩京極家(外様)の上屋敷に、領国から金毘羅大権現を勧請。延宝7年(1679年)上屋敷が虎ノ門へ移転したのに伴い、金刀比羅宮も現在地に遷座した。文化年間(1804~18年)頃から金刀比羅宮は、毎月10日に限り一般に開放され参詣人で賑わったという。銅鳥居は文政4年(1821年)に奉納されたもので、柱の彫刻は四神(青龍・玄武・朱雀・白虎)。切絵図には「京極佐渡守」「コンピラ」とある。切絵図に「仙石次兵衛」とある。元禄年間(1688~1704年)ここに大目付の旗本仙石伯耆守久尚の屋敷があった。吉良邸討入後、赤穂浪士一行は高輪の泉岳寺へ向かったが、幕府に討入を報告させるため、浪士2名を大目付の屋敷に派遣した。切絵図に「松平大和守」とあるのは、武蔵国川越藩松平家(親藩)の上屋敷。明治維新後 政府の接収を経て、大倉財閥創始者の大倉喜八郎が購入して邸宅を構えた。現在はホテルオークラが建っている。切絵図の川越藩邸北東側に「汐見坂」とある。汐見坂の名称は、坂上から江戸湾を見渡せたことに由来する。09:15 汐見坂、【 江戸切絵図歩きめぐり 第49回 】はここで終わり。新橋柳通り口 → 汐見坂 : 5.5 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 151.7 km )
2024.06.03
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2024年05月16日(木)小雨のち晴足の調子が良くないので、計画しているペースで歩けそうにない。予定より1時間早く、04:00 起床。おにぎりとお茶の朝食。05:00 「フジエダオガワホテル」を出発する。曇り空。夜の間に雨が降ったようで、路面が濡れている。05:20 「藤枝宿」。本陣は2軒。路面に「上本陣跡」「下本陣跡」の標識があるだけ。遺構はない。コンビニでパンと飲料を調達する。07:10 「岡部宿」。2015年09月に【 周遊の旅(ルート1)25日目 】を歩いた際、この宿場に立ち寄っている。岡部宿には本陣が2軒あった。内野本陣跡は史跡広場として整備され、表御門と塀が復元されている。史跡広場の隣りは、天保7年(1836年)に建てられた「大旅籠 柏屋(かしばや)」。山内家が旅籠と質屋を営んでいた。現在、歴史資料館として公開されている。峠越えを前にして、細かい雨が降り出す。07:55 東海道は未舗装路に入る。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原攻めの際、大軍を通すために開削された峠越えの道が、近世の東海道になった。08:15 「宇津ノ谷峠」 。現在の東海道では、一番寂しい場所かも知れない。09:40 「丸子(まりこ)宿」。名物とろろ汁の「丁子屋(ちょうじや)」は、慶長元年(1596年)の創業時から、場所を変えることなく営業を続けているという。本陣は1軒。横田本陣跡に石標がある。パンとジュースで昼食休憩。10:40 「安倍川橋」を渡る。橋長 491m 。大井川と同様、幕府により架橋・渡船が禁止され、川越人足による渡河だった。ようやく雨が止む。11:35 「府中宿」。駿府城の城下町として栄えた。現在の静岡市中心街に位置する。「西郷山岡 会見之史跡」碑。慶応4年(1868年)東征軍参謀西郷隆盛と勝海舟の意を受けた幕臣山岡鉄太郎(のちの鉄舟)が当地で会見、江戸無血開城に向けた根回しが行われた。府中宿の本陣は2軒。「上伝馬本陣脇本陣跡」「下伝馬本陣脇本陣跡」に石標がある。曇り空から青空に変わる。足が肉刺だらけで痛いうえに、夏のような日差しに焼かれて体力を奪われる。歩行ペースがどんどん落ちてゆく。14:40 「江尻宿」。現在の静岡市清水区(旧清水市)。本陣は2軒。「寺尾本陣跡」に石標がある。15:00 今回の旅の終点・JR清水駅前に到着する。2泊3日で 108.1km 。かなり悲惨な旅になってしまった。清水駅 15:23 発の電車に乗り、東海道線・横須賀線・総武線を乗り継ぎ、18:55 自宅に帰り着く。運賃 3080円。青木 → 清水駅前 : 35.5 km( 東海道累計 320.4 km ) ( 東日本支線の旅累計 1077.1 km )
2024.05.16
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2024年05月15日(水)晴のち曇04:30 起床。おにぎりとお茶の朝食。「掛川ターミナルホテル」を発つ。掛川駅 05:44 発のJR東海道線に乗り、05:52 袋井駅で下車する。運賃 200円。06:05 「袋井宿」で東海道に復帰する。晴天。今日も暑くなりそう。地図とガイドブックを頼りに歩く。新しく直線的な道路ができることにより、曲がりくねった往時の東海道は各所で分断されている。地図で見ると東海道のラインが判るが、歩いていても街道を感じることはあまりない。08:25 「掛川宿」。沢野屋本陣跡地は「掛川本陣通り」という屋台村になっている。石標や解説板だけの本陣跡が多いが、飲食店街というのは見たことがない。「七曲り」をたどる。解説板には「容易に敵を進入させないための構造だと考えられます」とある。09:20 コンビニで飲料を調達。10:25 「日坂(にっさか)宿」。ここは宿場の雰囲気が感じられる。「扇屋本陣跡」には門だけだが、旅籠屋の「川坂屋」「萬屋」などは建物が残っている。川坂屋は武士や公家が泊まる格式の高い旅籠、萬屋は庶民が泊まる旅籠だった。日坂宿を出るとすぐ、「小夜の中山」が始まる。舗装路だが急登の「沓掛坂」を上る。尾根まで上ると勾配は緩くなり、あちこちに茶畑が広がる。11:00 パンとジュースで昼食休憩。「青木坂」を下り、菊川集落に出る。12:05 「菊川坂石畳」登り口。菊川坂は山石を敷いて復元した611mの坂道で、一部には江戸時代後期の石畳も残っているという。牧の原まで登ると、「金谷坂石畳」を下る。こちらも山石で復元した430mの坂道。だんだん雲が出てきた。13:15 「金谷宿」。東に難所の大井川が控える。増水して川止めになると、旅人は何日も足止めされた。宿場には本陣が3軒、「柏屋本陣(一番本陣)」「佐塚屋本陣(二番本陣)」「山田屋本陣(三番本陣)」。遺構はなく、解説板があるだけ。13:50 「大井川橋」を渡る。橋長 1026m。幕府により大井川での架橋・渡船が禁止されていたため、往時は川越(かわごし)人足による渡河しか方法がなかった。ここまでが遠江国。ここからは駿河国。14:40 「島田宿」。本陣が3軒。「上本陣跡」「中本陣跡」「下本陣跡」に石標がある。遺構はない。足が痛いし重いし。休憩ばかり。スーパーで食料・飲料を調達。17:00 今日の宿「フジエダオガワホテル」に到着する。ベッドに倒れ込むと、しばらく起き上がれない。入浴後、足のメンテナンス。状態は良くない。夕食はサバ押し寿司・油淋鶏・ポテトサラダ。19:45 就寝。「フジエダオガワホテル」、素泊 5000円。袋井 → 青木 : 38.0 km( 東海道累計 284.9 km ) ( 東日本支線の旅累計 1041.6 km )
2024.05.15
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2024年05月14日(火)曇のち晴昨晩 23:55 にバスタ新宿を発った豊鉄バス「ほの国号」は、乗客が6人だけ。おかげで横になって眠ることができる。定刻より早く、05:22 豊橋駅前に到着。運賃 4200円。豊橋駅 05:37 発のJR東海道線に乗り継ぎ、05:58 弁天島駅で下車する。運賃 420円。06:10 「舞坂宿」。昨年11月の【 東日本支線の旅 30日目/東海道 6日目 】の続きを歩き始める。今回は2泊3日で静岡県静岡市の江尻宿まで歩く予定。曇り空。気温は17℃ほど。歩き旅にはちょうどいい。舞坂宿の本陣跡には「宮崎伝左衛門本陣跡」石標があるだけだが、「茗荷屋堀江清兵衛 脇本陣」には、天保9年(1838年)建築の遺構がある。解説板によると、脇本陣の建物は主屋・繋ぎ棟・書院棟で構成されていたが、書院棟だけが残っている。コンビニで飲料を調達する。09:05 「浜松宿」。この宿場には6軒の本陣があったという。「川口本陣跡」と「佐藤本陣跡」の簡素な解説板が見つかる。大きな街では、戦災や都市開発により、往時の遺構を期待するのは難しい。コニビニでおにぎりを調達する。朝食兼昼食。青空が広がりだす。暑くなりそう。10:55 「本坂通(姫街道)安間起点」解説板。姫街道は東海道の脇街道で、浜名湖の北側を通っていた。11:15 新天竜川橋を渡る。国道1号線、橋長 912m。江戸時代、天竜川は渡し船で越えていた。渡船場は上流の池田にあり、旅人は1.4kmほど遠回りする必要があった。13:10 「見付宿」。木製標識に「これより姫街道 三州御油宿まで」とある。「脇本陣 大三河屋門」は薬医門という形式。解説板では「2本の本柱の背後に控え柱を立て、切妻屋根をかけた門」と図解している。本陣跡の木製標識は、邪険に扱われて哀愁さえ漂う。快晴。日差しに焼かれて消耗。日陰に座り込むことが多くなり、歩行ペースがどんどん落ちてしまう。15:10 ようやく今日の終点「袋井宿」に着く。「西本陣跡」「中本陣跡」を示す標柱は、見るからに安普請。「宿場公園」「東本陣公園」が整備されているが、如何せん、往時の遺構がない。袋井駅 15:29 発のJR東海道線に乗り、15:36 掛川駅で下車。運賃 200円。スーパーで食料・飲料を調達。今日の宿「掛川ターミナルホテル」に到着する。靴を脱ぐと、足が肉刺だらけ。入浴後、足のメンテナンスに時間がかかる。夕食は握り寿司・アジ刺身。19:30 就寝。「掛川ターミナルホテル」、素泊 4150円。舞坂 → 袋井 : 34.6 km( 東海道累計 246.9 km ) ( 東日本支線の旅累計 1003.6 km )
2024.05.14
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2024年05月03日(金)快晴快晴。憲法記念日。今回歩くのは、万延2年(1861年)板「芝口南西久保愛宕下之図」のうち、現在の中央区浜離宮庭園と港区東新橋1~2丁目・新橋4~6丁目に当たる地区。08:25 大手門橋前、【 江戸切絵図歩きめぐり 第48回 】を歩き始める。浜離宮庭園。「浜離宮恩賜庭園」がある。承応3年(1654年)甲府藩主徳川綱重がここに邸地を与えられ、「甲府殿浜屋敷」の建設を始めた。綱重の子の綱豊が6代将軍家宣となり、この屋敷は将軍家の別邸「浜御殿」と呼ばれるようになった。切絵図にも「濱御殿」とある。東新橋1~2丁目。切絵図に「松平陸奥守」とあるのは、陸奥国仙台藩伊達家(外様)の上屋敷。「仙台藩上屋敷表門跡」解説板によると、元禄15年(1702年)本所吉良邸討入のあと高輪泉岳寺へ向かう赤穂浪士は、この場所で仙台藩邸から粥のもてなしを受けたという。切絵図の仙台藩邸西側に「日比谷イナリ」とある。徳川家康の入府以前は大塚山(現在の日比谷公園付近)に鎮座していたが、慶長年間(1596~1615年)に芝口(現在の東新橋1丁目、切絵図の位置)へ遷座した。現在は東新橋2丁目に「日比谷神社」として鎮座する。新橋1~6丁目。切絵図に「遠山金四郎」とあるのは、江戸町奉行を務めた旗本遠山景元の子孫の屋敷。金四郎は通称で、遠山家当主が代々世襲した。切絵図に「愛宕ノ下大名小路」とある通り沿いには大名屋敷が並んでいる。「鹽竈(しおがま)神社」を訪れる。もとは仙台藩上屋敷の邸内社だったが、安政3年(1856年)当地にあった仙台藩中屋敷に遷座した。切絵図には中屋敷を示す「■」と「松平陸奥守」が記されている。切絵図に「柳生對馬(つしま)守」とあるのは、大和国柳生藩柳生家(譜代)の上屋敷。柳生家は代々将軍家の剣術指南役を務めた。新橋4丁目交差点近くに「浅野内匠頭終焉之地」碑がある。元禄14年(1701年)刃傷事件を起こした内匠頭は、ここにあった陸奥国一関藩田村家(外様)上屋敷で切腹した。切絵図には「田村右京大夫」とある。09:30 新橋柳通り口 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第48回 】はここで終わり。大手門橋前 → 新橋柳通り口 : 4.9 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 146.2 km )
2024.05.03
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2024年04月23日(火)曇どんより曇り空。今回歩くのは、文久元年(1861年)板「京橋南築地鐵炮洲絵図」のうち、現在の中央区明石町・築地5~7丁目に当たる地区。08:55 入船橋交差点、【 江戸切絵図歩きめぐり 第47回 】を歩き始める。明石町。聖路加国際大学の西側に「浅野内匠頭邸跡」石碑がある。元禄14年(1701年)の刃傷事件により播磨国赤穂藩浅野家(外様)が断絶するまで、この辺りは赤穂藩上屋敷だった。元禄年間(1688~1704年)の絵図には「浅野内匠頭」と記されている。切絵図は幕末のものなので、「水野伊勢守(旗本)」「松平周防守(陸奥国棚倉藩松平家、譜代)」などの屋敷になっている。「蘭学事始の地」碑と「慶応義塾発祥の地」碑を訪れる。当地には豊前国中津藩奥平家(譜代)の中屋敷があった。切絵図には「奥平大膳大夫」とある。中津藩中屋敷では、藩医の前野良沢が杉田玄白らと供にオランダ語の医書を翻訳、安永3年(1774年)解体新書を刊行した。また、安政5年(1858年)中津藩士出身の福沢諭吉が、中屋敷内に蘭学塾(慶応義塾の起源)を開いた。切絵図の築地川河口に「明石橋」が架かっている。隅田川の川風に曝されたことから寒橋(さむさばし)ともいわれた。切絵図には「俗ニサムサバシト云」とある。築地5~7丁目。切絵図の築地川に架かる「数馬橋」の名称は、旗本の堀数馬に由来する。切絵図では橋の北西の離れた場所に「堀数馬」の屋敷が記されているが、かつては橋の北詰(切絵図に「田沼玄蕃頭」とある場所)にあった。築地6丁目交差点に「軍艦操練所跡」解説板がある。安政4年(1857年)幕府は航海術・海上砲術の講習やオランダから輸入した軍艦の運転を練習させる目的で、当地に軍艦教授所(後の軍艦操練所)を創設した。切絵図には「御軍艦操練所」とある。「波除神社」を訪れる。築地の埋立工事が難航していた万治2年(1659年)、海中を漂う御神体が見つかり、現在地に社殿を建てて祀ったところ工事が順調に進んだと伝わる。切絵図では、軍艦操練所の南側に「イナリ」とあるのが波除神社。切絵図に「松平安芸守蔵屋舖(安芸国広島藩浅野家、外様)」「一橋殿(御三卿)」「松平越中守(伊勢国桑名藩松平家、親藩)」「稲葉長門守(山城国淀藩稲葉家、譜代)」「尾張殿蔵屋舖(御三家)」とある一帯が、現在の築地中央市場跡地。淀藩稲葉邸には「江風水月楼」、桑名藩松平邸には「浴恩園」と名付けられた庭園があった。浴恩園は、寛政の改革を断行した老中松平定信の隠棲の地だった。09:40 大手門橋前、【 江戸切絵図歩きめぐり 第47回 】はここで終わり。入船橋交差点 → 大手門橋前 : 3.7 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 141.3 km )
2024.04.23
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2024年04月13日(土)快晴快晴。東京のサクラはすっかり葉桜。今回歩くのは、文久元年(1861年)板「京橋南築地鐵炮洲絵図」のうち、現在の中央区築地1~4丁目に当たる地区。08:35 千代橋、【 江戸切絵図歩きめぐり 第46回 】を歩き始める。中央区役所脇に「土佐藩築地邸跡」解説板がある。文政9年(1826年)土佐藩山内家(外様)がこの辺りの土地を拝領した。切絵図には「松平土佐守」とある。坂本龍馬はこの築地藩邸に寄宿しながら、桶町(現在の中央区八重洲・京橋)にあった千葉定吉道場へ通っていたという。「桂川甫周屋敷跡」解説板。蘭方医の桂川家は代々幕府の奥医師をつとめた。正徳元年(1711年)初代甫筑が当地を拝領、屋敷を構えた。4代甫周は杉田玄白や前野良沢らに蘭学を学び、「解体新書」の翻訳に参加した。切絵図には「桂川甫周」とある。「築地本願寺」を訪れる。切絵図には「西本願寺御門跡(ごもんぜき)」とある。横山町(現在の中央区日本橋横山町・東日本橋)にあった本堂が、明暦3年( 1657年)大火により焼失。幕府から代替地として下付された八丁堀沖の海上を埋め立て、延宝7年(1679年)当地に本堂を再建した。古代インド様式の現本堂は1934年の竣工。切絵図の築地川南支川に「備前橋」が架かっている。「備前橋跡」解説板によると、橋の北西にあった備前国岡山藩池田家(外様)の中屋敷に、橋名は由来する。切絵図に「松平内蔵頭(くらのかみ)」とあるのが岡山藩邸。現在、付近の川跡は公園・駐輪場などになっている。切絵図の築地川に「軽子(かるこ)橋」が架かっている。軽子とは荷物を運ぶ人足のこと。築地川の河岸からの荷揚げ作業に、橋名は由来するという。現在、跡地は公園になっている。09:15 入船橋交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第46回 】はここで終わり。千代橋 → 入船橋交差点 : 3.0 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 137.6 km )
2024.04.13
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2024年04月02日(火)快晴東京では3月29日にサクラの開花の発表があった。満開予想は4月5日とのこと。今回歩くのは、文久元年(1861年)板「京橋南築地鐵炮洲絵図」のうち、現在の中央区銀座5~8丁目に当たる地区。08:15 数寄屋橋交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第45回 】を歩き始める。切絵図に「新シ橋(三原橋)」と「木挽橋(一ノ橋)」が架かっているのが「三十間堀川」。堀割の東側が木挽町で、北から南へ帯状に一丁目から七丁目まであった。五丁目と六丁目(現在の銀座6・7丁目)には山村座・河原崎座・森田座などの芝居小屋が並び、芝居町として知られていた。「森田座跡」解説板によると、万治3年(1660年)森田座は木挽町五丁目に開場した。堺町の中村座・葺屋町(ふきやちょう)の市村座(ともに現在の中央区日本橋人形町)と森田座は、江戸町奉行から興行を許された芝居小屋で、「江戸三座」といわれた。天保の改革に伴う綱紀粛正により、天保13~14年(1842~43年)三座は猿若町(現在の台東区浅草)へ移転させられた。切絵図に「狩野勝川」とある。「狩野画塾跡」解説板によると、幕府の御用絵師を務めた狩野四家のうち、木挽町狩野家が当地に屋敷地を拝領、画塾を開いた。四家(他の三家は鍛冶橋・中橋・浜町)のなかで、木挽町狩野家が最も繫栄したという。木挽町狩野家の画塾の向かいに、嘉永4年(1851年)佐久間象山が私塾を開いた。「佐久間象山塾跡」解説板によると、塾では兵学および砲術を教授し、海防方策の講義などが行われた。嘉永6年(1853年)改正の金吾堂板切絵図には「佐久間修理(しゅり、象山)」の名前が見られる。切絵図に「築地川」と橋が描かれている。橋名が記されていないのが「万年橋」。「二ノ橋」には「采女(うねめ)橋」の別名がある。采女橋解説碑によると、江戸時代前期この辺りに松平采女正(うねめのかみ、伊予国今治藩松平家、譜代)の屋敷があったことに、橋名は由来する。享保9年(1724年)松平采女正の屋敷は大火により焼失、麹町へ移転した。跡地は火除地になり、俗に「采女ヶ原」と呼ばれた。切絵図には「采女ヶ原馬場」とある。馬場ではあるが、周囲には講釈や浄瑠璃の小屋・水茶屋などが軒を並べ、歓楽地として賑わった。切絵図に「金春(こんぱる)屋敷」とある。「金春屋敷跡」解説板によると、金春座は幕府直属の能役者四家(金春・観世・宝生・金剛)のひとつで、寛永4年(1627年)屋敷を拝領したという。寛永9年(1632年)に作成された武州豊嶋郡江戸庄図には「金春七郎」の名前が載っている。切絵図の「汐留川」に「新橋」が架かる。東海道の橋として、慶長9年(1604年)頃に新橋(あたらしばし)が架けられた。「芝口御門跡」解説板によると、宝永7年(1710年)朝鮮通信使の来朝に備えて新橋北詰に枡形門の「芝口御門」が建設され、橋名は「芝口(御門)橋」に改称された。享保9年(1724年)芝口御門は焼失。門は再建されず石垣も撤去され、橋名は芝口橋と通称の新橋が併用された。新橋(しんばし)が正式名称になるのは、明治維新後のこと。09:15 千代(せんだい)橋、【 江戸切絵図歩きめぐり 第45回 】はここで終わり。数寄屋橋交差点 → 千代橋 : 4.6 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 134.6 km )
2024.04.02
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2024年03月22日(金)快晴今日は雲ひとつない快晴だが、予報によると東京では明日からしばらく曇天・雨天が続くらしい。今回歩くのは、文久元年(1861年)板「京橋南築地鐵炮洲絵図」のうち、現在の中央区銀座1~4丁目に当たる地区。08:55 三吉橋、【 江戸切絵図歩きめぐり 第44回 】を歩き始める。切絵図に「白魚屋敷」とあるのは、将軍家に白魚等の小魚を献上する白魚役12人が、享保13年(1728年)に拝領した屋敷地。京橋川に架かる「白魚橋」の名前は、白魚屋敷に由来する。また、付近の掘割の荷揚場は白魚河岸と呼ばれた。「歌舞伎座」が建つ場所は、切絵図には「松平和泉守」とある。これは三河国西尾藩松平家(譜代)の中屋敷。近くの木挽町四・五丁目(現在の中央区銀座5・6丁目)には芝居小屋の山村座・河原崎座・森田座があった。歌舞伎座が現在地に開設されたのは、明治22年(1889年)のこと。寛文3年(1663年)河原崎座は森田座に吸収合併され、正徳4年(1714年)山村座は絵島事件に連座して廃座になった。天保14年(1843年)森田座(森田座は休座中で、実際には河原崎座が引越)は天保の改革に伴い猿若町(現在の台東区浅草)へ移転させられた。切絵図に「三十間堀川」が描かれている。三十間堀川は、三ツ橋の合流地点から汐留川までをつなぐ掘割。慶長17年(1612年)に開削された。堀名の由来は、堀幅が約30間(約55m)あったことによる。戦後の瓦礫処理のため、1949年までに埋め立てられた。切絵図の三十間堀川に「紀伊国橋」が架かっている。橋名の由来は、東詰に紀伊徳川家の蔵屋敷があったことによる。寛永9年(1632年)の江戸絵図では、紀伊国橋の東側に「紀伊大納言様 御蔵屋敷」とある。文政12~13年(1829~30年)蔵屋敷は南小田原町(現在の中央区築地)に移転。銀座中央通りに「銀座発祥の地」碑があり、切絵図には「新両替町」「銀座町トモ云」とある。慶長17年(1612年)幕府は当地に銀座役所を設置。金座があった本両替町(現在の中央区日本橋本石町)に対し、銀座は新両替町と名付けられた。銀座役人の不正事件が多発したため、寛政12年(1800年)役人の粛清と役所の蛎殻町(現在の中央区日本橋人形町)移転が行われた。切絵図に「観世大夫(だゆう)」とある。寛永10年(1633年)能楽の観世座が幕府から拝領した屋敷地。座頭(ざがしら)が代々観世大夫を称した。明治維新で屋敷地を返上するまで230年以上、観世座は当地を本拠地とした。切絵図の比丘尼橋南詰に「西紺屋町」「立賣ト云」とある。立売はこの地区の通称で、店舗を持たない立売商人が集まっていた。09:35 数寄屋橋交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第44回 】はここで終わり。三吉橋 → 数寄屋橋交差点 : 3.8 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 130.0 km )
2024.03.22
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2024年03月13日(水)快晴昨日の雨から一転、今日は快晴。今回歩くのは、文久元年(1861年)板「京橋南築地鐵炮洲絵図」のうち、現在の中央区湊1~3丁目・入船1~3丁目・新富1~2丁目に当たる地区。08:45 佃大橋東詰、【 江戸切絵図歩きめぐり 第43回 】を歩き始める。湊1~3丁目。切絵図に「鉄砲洲川」が描かれている。鉄砲洲川は、築地川(明石堀)と隅田川をつなぐ掘割。開削は寛永年間(1624~44年)とされる。関東大震災で出たガレキを処理するため、1929年に埋め立てられた。現在、跡地は鉄砲洲通りなどになっている。「鐵砲洲稲荷神社」を訪れる。寛永元年(1624年)新京橋(現在の中央区銀座)から切絵図に「稲荷」と記された場所へ遷座。寛政2年(1790年)富士山の溶岩を用いた富士塚が、境内に築造された。明治元年(1868年)政府による土地収用で、神社は現在地(約120m南西)へ遷座。富士塚も移築された。入船1~3丁目、新富1~2丁目。切絵図に「真福寺橋」「白魚橋」「弾正橋」とある。コの字型に架かる3つの橋は江戸の名所で、「三ツ橋」と呼ばれていた。当地には楓川・京橋川・三十間堀川・八丁堀の4つの水路が交差していたが、いずれも埋め立てられ、現在は残っていない。弾正橋に設置されている解説石碑には、三ツ橋を描いた江戸名所図会が嵌め込まれている。また、京橋公園にある「蜊(あさり)河岸」解説板には、三ツ橋と堀割の略図が描かれている。切絵図の真福寺橋の東袂に「大富町」とある。鏡新明智流の桃井春蔵が、ここに剣術道場「士学館」を構えていた。のちに士学館は、北辰一刀流の玄武館・神道無念流の練兵館とともに、幕末江戸三大道場のひとつに数えられた。嘉永6年(1853年)板の切絵図には「桃井春蔵」とある。切絵図に「合引(あいびき)橋」とある。「築地川」に架けられた橋で、大富町と築地をつないでいた。江戸時代の築地川は、本流と支流が潮の干満によりその流れを引き合うため、「合引川」とも呼ばれていた。09:40 三吉橋、【 江戸切絵図歩きめぐり 第43回 】はここで終わり。佃大橋東詰 → 三吉橋 : 3.7 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 126.2 km )
2024.03.13
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2024年03月10日(日)(設計図⑩工程15~16)船名のアルファベットを製作、船尾に取り付ける。材料は0.39mm 厚の航空ベニヤ。船台を製作する。材料は3mm 厚のアカチス板材・2mm 厚のウォールナット材。完成。
2024.03.10
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2024年03月03日(日)快晴快晴。八重洲辺りに警察車両がやたら多いと思ったら、今日は東京マラソンが開催されるようだ。今回歩くのは、文久3年(1863年)板「八町堀霊岸嶋日本橋南之絵図」と文久元年(1861年)板「京橋南築地鐵炮洲絵図」のうち、現在の中央区新川2丁目・佃1丁目に当たる地区。08:20 中央新川二郵便局前、【 江戸切絵図歩きめぐり 第42回 】を歩き始める。新川2丁目。切絵図に「圓覚寺 橋木(本の誤り)イナリ」とある。これは橋本稲荷社とその別当円覚寺のこと。もともと霊巌寺の境内にあったが、明暦の大火(明暦3年 1657年)によって霊巌寺は焼失して深川(現在の江東区白河)に移転。橋本稲荷と円覚寺は当地に残ったが、明治時代 火災に遭って廃寺となり、現在は残っていない。早咲きのサクラが満開。切絵図に「御船手 向井将監(しょうげん)」とある。大坂の陣の際に水軍を率いて淀川河口の防備にあたった向井忠勝は、その功績により幕府の船手頭(幕府の用船の管理、山陽道・西海道の海上巡視などを担う役職)に任ぜられた。向井家は代々将監を名乗り、船手頭を世襲した。中央大橋を渡り、佃1丁目。切絵図に「佃嶋」とある。江戸時代初期、摂津国佃村の漁師たちが鉄砲洲沖の干潟を拝領、埋め立てて漁師町を形成した。「石川嶋」とあるのは、寛永年間(1624~44年)旗本の石川八左衛門が幕府から拝領、屋敷を構えたことに由来する。寛政2年(1790年)火付盗賊改 長谷川平蔵の建言により、石川島に人足寄場(無宿者への授産・更生施設)が設けられた。石川家は屋敷地を幕府へ返却、永田町(現在の千代田区)へ移転した。現在の佃1丁目と2丁目北部が、江戸時代の佃島と石川島に相当する。「佃島渡船場跡」を訪れる。対岸の舩松町(現在の中央区湊)と佃島を結ぶ交通手段として、佃島渡船は正保2年(1645年)に始まった。切絵図には「渡シバ」とある。佃大橋の完成(1964年)によって廃止されるまで、渡船は約320続いた。「住吉神社」を訪れる。正保3年(1646年)に創建された佃島の鎮守。創建以来、佃島の人々・水運関係の人々から篤い信仰を受けている。切絵図には「住吉社」とある。住宅に挟まれて小社「森稲荷神社」がある。江戸時代初期に摂津から移り住み、佃島の名主を世襲した漁師森一族の屋敷神を起源とする。09:05 佃大橋東詰、【 江戸切絵図歩きめぐり 第42回 】はここで終わり。中央新川二郵便局前 → 佃大橋東詰 : 3.0 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 122.5 km )
2024.03.03
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2024年02月29日(木)(設計図⑨工程18~19,設計図⑩工程1~12)旋回砲台柱(Swivel stock)・舵輪(Steerling wheel)・羅針儀箱(Binnacle)・ミズンマスト(Mizzen mast)・ミズントップセイル係柱(Mizzen topsail sheet bitts)・ミズンチャンネル(Mizzen channel)・階段(Companionway)等の艤装を製作、船体に取り付ける。
2024.02.29
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2024年02月24日(土)快晴穏やかな快晴。歩きめぐり日和。今回歩くのは、文久3年(1863年)板「八町堀霊岸嶋日本橋南之絵図」のうち、現在の中央区新川1丁目に当たる地区。08:55 高橋西詰、【 江戸切絵図歩きめぐり 第41回 】を歩き始める。越前堀公園に「霊巌島之碑」がある。寛永元年(1624年)隅田川の中洲芦原を埋め立てた土地に霊巌寺が創建されたことから、当地は霊岸島(霊巌島、現在の新川)と呼ばれるようになった。明暦の大火(明暦3年 1657年)によって霊巌寺は焼失、深川(現在の江東区白河)に移転した。霊岸島の亀島川沿いは、埋め立てが不十分で土地が軟弱なため「蒟蒻島」と俗称された。切絵図には「埋立地 コンニヤク島」とある。越前堀公園内に「越前堀跡」解説板と「越前堀の石垣石」がある。江戸時代、霊岸島には越前国福井藩松平家(親藩)の中屋敷があり、敷地の三方を堀割で囲まれていた。切絵図には「松平越前守」とある。越前堀はすべて埋め立てられ、現在は残っていない。「新川大神宮」を訪れる。代官町(現在の千代田区)にあった伊勢神宮の遥拝所が明暦の大火により焼失したため、万治元年(1658年)霊岸島へ移転してきた。切絵図には「大神宮」とある。霊岸島は水運の便が良いため酒問屋が集まり、その守護神として新川大神宮は崇敬されてきた。「大栄稲荷神社」を訪れる。神社はオフィスビルに囲まれて鎮座する。明和4年(1767年)霊岸島にできた新しい埋立地の鎮守神として、京都伏見稲荷の分霊を勧請して創建されたと伝わる。切絵図には「栄イナリ」とある。切絵図の「永代橋」。創架は元禄11年(1698年)。文化4年(1807年)には深川の富岡八幡宮の祭礼へ向かう群衆の重みで落橋、1400人を超える溺死者を出した。明治30年(1897年)に新設された鋼鉄製の永代橋は、これまでの橋より100mほど下流(南側)に架けられた。新川公園に「新川之跡」碑がある。万治3年(1660年)幕府の御用商人だった河村瑞賢が、亀島川から隅田川まで霊岸島を東西に開削。この水路がのちに新川の通称で呼ばれるようになった。瑞賢の屋敷も新川沿いにあり、跡地には「河村瑞賢屋敷跡」解説板が設置されている。切絵図には、一ノ橋・二ノ橋・三ノ橋の架かる新川が描かれている。水路は昭和20年代に埋め立てられたが、往時の流路は現在も道路の曲線にそのまま残っている。09:35 中央新川二郵便局前、【 江戸切絵図歩きめぐり 第41回 】はここで終わり。高橋西詰 → 中央新川二郵便局前 : 2.6 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 119.5 km )
2024.02.24
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2024年02月20日(火)(設計図⑨工程12~16)ラダー(Rudder 舵)を製作する。材料は1mm 厚・2mm 厚のウォールナット材。ヒンジ(Hinge 蝶番)を製作する。材料は0.3mm 厚の真鍮板。ヒンジと真鍮釘は薬品で黒染めする。スターンポスト側のヒンジを製作する。ピンの材料は直径1mm の真鍮棒。
2024.02.20
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2024年02月13日(火)快晴快晴、微風、歩きめぐり日和。今回歩くのは、文久3年(1863年)板「八町堀霊岸嶋日本橋南之絵図」のうち、現在の中央区八丁堀3~4丁目に当たる地区。09:10 久安橋東詰、【 江戸切絵図歩きめぐり 第40回 】を歩き始める。 切絵図に「礒部(いそべ)大神宮」とある。寛永元年(1624年)志摩国(現在の三重県)の「伊雑宮(いざわのみや)」から日本橋に勧請。伊雑宮は「礒部の宮」「礒部の大神宮」とも呼ばれる。寛永10年(1633年)現在地に遷座。明治時代、「八丁堀天祖神社」と改称した。切絵図に「玉圓寺」とある。江戸時代初期、八丁堀には寺院が多く「八丁堀寺院町」とも呼ばれていた。寛永12年(1635年)江戸城下の拡張計画が実施され、寺院の多くが江戸の中心部から離れた場所へ移転したが、玉圓寺だけは由緒ある寺として八丁堀に残された。明治維新後、玉圓寺は切絵図に記された場所(現在の八丁堀3丁目)から現在地(八丁堀1丁目)へ移転した。京華スクエア前の「八丁堀の与力・同心組屋敷跡」解説板によると、八丁堀寺院町の跡地には町奉行所配下の与力・同心組屋敷が設置されるようになった。与力は徳川家の直臣、同心はその配下の侍衆。切絵図には茅場町から八丁堀の一帯に「御組屋敷」が並んでいる。「亀屋ヤシキ」とあるのは、仕立師 亀屋市郎右衛門の拝領地。切絵図の楓川に「松幡橋」が架かっている。切絵図には橋の東西に「松屋町」と「因幡町」とあり、この両町名から1字ずつ取って橋名が付けられた。楓川は 1960年代に埋め立てられ、跡地には首都高速道路が建設された。切絵図では松幡橋の南に「弾正橋」が架かっている。北八丁堀に旗本島田弾正利正の屋敷があったことから橋名が付けられたという。弾正利正は慶長18年(1613年)から寛永8年(1631年)まで江戸南町奉行を務めた。明暦の大火(明暦3年 1657年)後、島田家の屋敷は湯島へ移転した。桜川公園に「八丁堀(桜川)跡」解説板がある。江戸時代初期、楓川・京橋川の合流地点から東へ、亀島川を経て隅田川に至る通船のための水路として八丁堀は開削された。明治時代、桜川と改称。1960年代に埋め立てられ、現在は桜川公園などになっている。八丁堀跡が亀島川と合流していた地点に「いなりはし」橋標がある。橋の南詰にある鉄砲洲稲荷神社が橋名の由来。切絵図には「稲荷橋」「鉄砲洲浪ヨケイナリ」とある。09:50 高橋西詰、【 江戸切絵図歩きめぐり 第40回 】はここで終わり。久安橋東詰 → 高橋西詰 : 2.4 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 116.9 km )
2024.02.13
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2024年02月10日(土)(設計図⑨工程10~11)ハンギングニー(Hanging knee)を製作する。材料は1mm 厚・1.5mm 厚のウォールナット材。クォーターデッキとハンギングニーを船体に取り付ける。ミズンピンレール(Mizzen pin rail)を製作、右舷・左舷の手摺りに取り付ける。材料は、黒く塗装した1mm 厚 x 5mm 幅のウォールナット材を加工。
2024.02.10
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2024年02月03日(土)快晴今日は節分。二十四節気では明日から春ということになる。今回歩くのは、文久3年(1863年)板「八町堀霊岸嶋日本橋南之絵図」のうち、現在の中央区日本橋茅場町1~3丁目・八丁堀1~2丁目に当たる地区。09:00 鉄鋼会館前 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第39回 】を歩き始める。日本橋茅場町1~3丁目。「日本橋日枝神社」を訪れる。千代田区永田町にある山王日枝神社の境外摂社(摂社とは、本社と末社の間に位する社格)。切絵図には「山王御旅所(おたびしょ)」とある。御旅所は、神社の祭礼で祭神が巡幸する際、仮に御輿を鎮座しておく場所のこと。日本橋日枝神社近くに「其角(きかく)住居跡」碑がある。宝井其角は松尾芭蕉の門弟。蕉門十哲のひとりに数えられる。其角が住んでいた場所について、江戸名所図会に「茅場町薬師堂の辺(あたり)也」とあり、切絵図にはその「薬師堂」が記されている。「純子(じゅんこ)稲荷神社」を訪れる。元文2年(1737年)千代田稲荷神社(中央区日本橋小伝馬町)を勧請、当地の組屋敷に居住していた与力・同心の鎮守として創建されたという。切絵図には亀島川岸に「純子イナリ」とある。八丁堀1~2丁目。切絵図に「卓峯(たくほう)屋敷」とあるのは、幕府の筆師 安藤卓峯の拝領地。「澪杭(みよぐい)屋敷」とあるのは、江戸湾内海標柱請負人の拝領地。澪杭とは、江戸湾に入ってくる諸廻船の水路(澪通り)に建てられた目印の標柱のこと。首都高速道路の上に架かる「久安(きゅうあん)橋」は、明治元年(1868年)に改称されるまで「越中殿橋(または越中橋)」と呼ばれていた。橋の東側に伊勢国桑名藩松平家(松平越中守、親藩)の上屋敷があったことに、橋名は由来する。切絵図には楓川に架かる「越中殿橋」と「松平越中守」の上屋敷が記されている。楓川は 1960年代に埋め立てられ、跡地は首都高速道路になった。09:40 久安橋東詰 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第39回 】はここで終わり。鉄鋼会館前 → 久安橋東詰 : 3.2 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 114.5 km )
2024.02.03
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2024年01月30日(火)(設計図⑧工程19~20,設計図⑨工程1~7)キャッピングレールを製作、ブルワーク上端に取り付ける。材料は、黒く塗装した1mm 厚 x 2mm 幅・3mm 幅・4mm 幅のウォールナット材を加工。レールスタンチョン(手摺支柱)とティンバーヘッドを製作、キャッピングレールとスターンギャラリー上端に取り付ける。材料は、黒く塗装した3mm x 3mm のウォールナット角材と1mm 厚 x 3mm 幅のウォールナット材を加工。手摺を製作、レールスタンチョンに取り付ける。材料は、黒く塗装した1.5mm 厚 x 5mm 幅のウォールナット材を加工。
2024.01.30
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2024年01月23日(火)薄曇所々に青空も見えるが、全体に薄雲の広がる天気。今回歩くのは、文久3年(1863年)板「八町堀霊岸嶋日本橋南之絵図」のうち、現在の中央区日本橋兜町に当たる地区。09:05 日本橋郵便局前 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第38回 】を歩き始める。切絵図に「鎧ノ渡」とある。江戸時代、ここに日本橋川で唯一の渡船場があった。永承年間(1046~53年)奥州平定に向かう源義家が鎧を沈めて海路の安全を龍神に祈願したことから、「鎧が淵」と呼ばれたという。明治5年(1872年)鎧橋が架けられたことにより、渡船は廃止された。切絵図の楓川に「海賊橋」とある。江戸時代初期、橋の北東に御船手頭 向井将監(しょうげん)の屋敷があったことに、橋名は由来する。御船手頭は幕府の海軍で、海賊衆とも呼ばれた。将監の屋敷跡地は、切絵図に「松平和泉守」(三河国西尾藩松平家上屋敷、譜代)とある。明治元年(1868年)海賊橋は海運橋と改称された。「大原稲荷神社」を訪れる。切絵図には楓川岸に「天一位 大原イナリ」とある。当地は日本橋川・楓川の水運の要衝で、海運・芸能の神として信仰されてきた。楓川は 1960年代に埋め立てられ、跡地には首都高速道路が通っている。「鳥居稲荷神社」を訪れる。下野国壬生藩鳥居家(譜代)上屋敷の邸内社を起源とする。享保6年(1721年)大火による類焼で上屋敷は移転。跡地は町屋街となり、移ってきた住民によって神社は維持されてきた。切絵図には「イナリ」とだけある。09:25 鉄鋼会館前 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第38回 】はここで終わり。日本橋郵便局前 → 鉄鋼会館前 : 1.4 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 111.3 km )
2024.01.23
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2024年01月20日(土)(設計図⑧工程19~20)ブルワーク上端の右舷・左舷3ヶ所にずつに、クォーターデッキのガンポート(砲門)を製作する。舷側にドリフトレールを取り付ける。材料は、黒く塗装した1mm 厚 x 2mm 幅のウォールナット材。
2024.01.20
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2024年01月13日(土)晴風がなく陽射しが暖かい。今回歩くのは、文久3年(1863年)板「八町堀霊岸嶋日本橋南之絵図」のうち、現在の中央区日本橋1~2丁目に当たる地区。09:05 日本橋2丁目交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第37回 】を歩き始める。切絵図の「日本橋」には「此橋上ヨリ御城并冨士山見エテ絶景ナリ」とある。「日本橋由来記」碑によると、日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603年)。五街道の起点と定められ、重要な水運だった日本橋川と交差し、江戸経済の中心だった。日本橋の南詰西側には「高札場」があり、幕府が法度・掟書・犯罪人の人相書などを板面に記して民衆に知らしめた。切絵図にも「御高札」とある。南詰東側には晒場(さらしば)があり、心中未遂・女犯僧・主人を殺傷した者などが見せしめに処された。日本橋の東隣に架かるのが「江戸橋」。架橋年代は江戸時代初期とされる。すぐ東脇を楓川が南北に縦貫していた。橋の南詰東側には船宿が集まり、各地への通船拠点として賑わった。切絵図に「木原店(きわらだな)」とある。通1丁目(現在の中央通り)を東に入る小路のことで、地割役(土地の区画・割り振りを担った役人)木原家の屋敷があったことに由来する。木原店には江戸三大呉服店のひとつ、白木屋があった。あとのふたつは、越後屋(現在の三越)と大丸屋(現在の大丸)。切絵図に「新場(しんば)ト云」とある。日本橋の魚河岸から分かれて、延宝2年(1674年)に新しく開設された魚市場。新肴場を縮めて新場と称していた。切絵図に「活鯛(いけだい)屋シキ」とある。江戸城に納める高級魚を扱う役所。捕った魚を大きな生簀で飼い、必要に応じて納入していた。09:30 日本橋郵便局前 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第37回 】はここで終わり。日本橋2丁目交差点 → 日本橋郵便局前 : 1.8 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 109.9 km )
2024.01.13
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