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中国残留孤児訴訟敗訴(東京地裁)私は今日の判決には残念と言うよりも呆れました。当時の国策に沿って移民した人たちの子弟が無責任にも棄民された結果 ある意味で必然的に生まれた大地の子の何処に責任があるのでしょうか。反面どうして国に責任が無いのでしょうか。裁判官の良識を疑います。我が一家は事情は違ってはいましたが矢張り一つ運命の歯車が狂っていたら同じ運命を辿っていた可能性があった私には人事とは決して思えません。既に遅きに失してはいますがそれでも尚私は国が責任を感じ彼の人たちに暖かい手を差し伸べて欲しいと熱望します。
2007年01月30日
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ウオアイツオングオ 我愛中国 06.9.30. 私は中国遼寧省丹東生まれの引揚者です。実は十年前に仕事をリタイアーして以来生まれ故郷の丹東にもう一度行ってみたいと思いながらなかなか行くチャンスが無く焦っていました。4年前義兄に岡山市日中友好協会催行の洛陽ツアーに誘われて参加した事が切っ掛けで協会に入会し以後毎年数回訪中するようになりました。そして遂に2年前ネットで知り合った丹東からの岡山大学院の留学生と知り合い彼女が帰省する時連れて行って貰いました。その時は2月の極寒だったので心臓に持病を持つ私は些か腰が引けましたがまたとないチャンスだと思って決心しましたが行って良かったと思いました。 丹東 雪の鴨緑江と断橋そして今年6月引き上げ後60年にして初めて私は先の大戦の敗戦当時住んでいた長春と引き揚げ船に乗船した葫蘆島にも長春会催行ツアーに参加して行って来ました。丹東は幼少だったので殆ど記憶がありませんが生まれた家のあったと辺りへ立つ事が出来ました。これは矢張りネットのメル友になっていたもう一人の丹東からの留学生が父親に頼んで旧満州時代の住所から調べてくれたお蔭でした。一方長春は十歳まで居たのでかなり覚えており住んでいた家や通った小学校などにも行く事が出来ました。葫蘆島では引き揚げ船に乗船するまで待機した収容所に行った時も何となく覚えていたイメージが蘇り感無量になったものでした。運が良かったと言えば其れまでですが丹東に行く事が出来たのはこの二人の中国人留学生のお蔭ですが他にも私は中国での旅行中に多くの親切な中国人に助けられています。特に今年は葫蘆島から日本人が引き揚げた60周年の年に当り訪問した我々に対する葫蘆島市人民政府の厚情と便宜を頂いた事に対しても感謝したいと思います。 孤児になった姉妹の引き揚げ 葫蘆島港岸壁を離れる引き揚げ船 (古い写真は何れもネットから借用) 尚孤児になったこの姉妹は戦後数十年経った今日某新聞社の調査により生存が確認され孫にも恵まれた良きお祖母さんになっているそうです。私は例え両国政府間に多少の不協和音があろうとも我々民間同士は今後ともますます友好関係を維持向上させていきたいと熱望しています。そして私は機会ある毎に中国訪問を続けたいと願っています。(投稿文には写真はありません)
2007年01月30日
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平成18年度行政書士試験合格今日 私の女婿が挑戦していた行政書士の国家試験に合格した知らせが来た。数年前に彼の父親から継いだ自動車のプラスチック部分の部品加工工場が元受会社の合理化のしわ寄せによって次第に経営が苦しくなってきたため資産が負にならないうちに見切りをつけて一念発起行政書士の資格を取るべく廃業に踏み切った。今迄と全く違った分野への挑戦に戸惑いもあっただろうが兎に角頑張った彼は何度か失敗した結果遂に合格した。その間妻である私の娘も勤めに出て夫を支え続けた。私の妻も仕送りをしながら黙って彼らを支援していたので合格通知の喜びは一入であった。然し 弁護士ほどではないにせよ一人前になるには経験をつむ時間が必要であろうから生活が安泰いするにはまだまだ先の事だろうが一先ず安心だ。
2007年01月29日
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清流会ゴルフコンペ「清流会」は私のホームコースの長船CCを本拠とした親睦会でたまたま私は高校の友人の知人に誘われて入会した。昨年あたりから参加回数が減っていたが会費の支払いがあるので時々参加している。そこで今回参加したが半年振りの参加で56名中見事?BB賞であった。スコアーは言わぬが花であろうが推して知るべし。
2007年01月28日
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銀杏会(いちょう会=不二製油OB会)私は不二製油に36年間勤めて定年となりその後1年だけグループ会社に岡山から新幹線通勤をして10年前(平成10年)に毎日が日曜日の年金生活に入ったことは別項の「自分史」に書いています。その後平成14年銀杏会のM会長より後任会長を依頼する手紙を頂きました。実はこの時私は狭心症に罹って入院していた国立病院から退院したばかりでしたので直ぐさまお断りしたのですがM会長他諸先輩から再度要請され止む無く「健康の許す限り」と言う条件の下に受諾し現在に至っています。 銀杏会総会会長挨拶(日航ホテル) 銀杏会幹事会(阪南内事業所内の銀杏会室)という事で本年も恒例の年初の幹事会と不二製油の社長への新年の挨拶の為に24日大阪(阪南)へ出向きました。予定では2期4年間勤め昨年は課題であった銀杏会の運営改革も何とかスタートが切れたこともあって会長を予定通り後継者に託す心算でした。所が2年前から自他共に後任予定者と決まっていた候補者から間際になって就任を辞退されたため急な代替者も見付からず今年も会長を勤める事を余儀なくされた次第です。 銀杏会東京支部会(現、元、前経営幹部たちと)現役で仕事をバリバリやっている人は兎も角リタイアーして10年も経つと頭も疎くなり物忘れもだんだん増してくるので会長職は身に重く失態をせぬうちに身を引くのが肝要と思っています。何とか早いうちに後任者を見つけたいものです。
2007年01月25日
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皆様今晩は 本日午後9時40分 開設以来2千名が’鴨緑江の街丹東生まれのブログ’にお越し頂けました。まだまだ改善&書き増しをしていく心算ですので引き続きご来駕下さい。有難う御座いました。
2007年01月23日
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1.バスの隣席の親切な青年(05.2)私が始めて中国で一人長距離バスに乗って我が出生地丹東から大連へ帰る途中のことである。私は当時殆ど中国語が判らず今何処を走っているかも判らず地図を見ながら不安そうにしていたのが判ったらしく隣席の若者が私が広げていた地図で場所を指差して教えてくれた時は嬉しかった又彼は途中バスがトイレ休憩をした時も身振り手振りで教えてくれた。なお彼は朝鮮族のようであった。何故分ったかは忘れた。尚バスが雪のため1時間ほど遅れた為大連駅に迎えに来て呉れていた老師に連絡する為電話を探したのですが判らず道端でしゃべっていた青年に電子辞書で単語を引き示した所親切に公衆電話屋を教えてくれて大いに助かった。然し電話の掛け方が判らず店の親父に手振りで聞いたのですが顎をしゃくってなにやら云うだけでよく判らず適当にやってみたら通じ終わったら何元か請求された。全て親父のそばにあるPCで管理されているようだった。2.大石橋からの帰路駅で出会った超親切な姑娘(05.2)同じ旅行中のことだったが私は引き揚げ船に乗船した葫蘆島に行く心算でいたところ葫蘆島が軍港故に外国人が一人で行っても港内には入れないと聞いて大石橋に行く事にしたのだが泊めてもらっていた老師が私が中国語をしゃべれないのを心配して行く事に不賛成だったが私は敢て冒険を試みた。大石橋へは其処へ住んでいた友人から若し時間があったら写真を撮ってきて欲しいと頼まれていたものだ。と言う事で一人で大連から片道3時間半の汽車の旅に出かけた。行きの車中でも偶然近くに英語のしゃべれる姑娘が居て大石橋まで中国語の電子辞書と英語で退屈せずに過ごせた。所が帰路の汽車が雪で大幅に延着した為に何回も改札口と時間が変更になったので私は駅の校内放送が判らずパニック寸前になっていたのだがこれまた偶然隣り合わせた姑娘に乗車券を示して此処で良いかどうか手振りで聞いたところ「YOU ARE RIGHT」と返事があったときの嬉しさ。早速何かと会話が出来て良かったのだが其ればかりではなかったのだ。遅れた列車がやっと到着したが超満員で乗るのがやっとと言う有様だった。所が先の方の駅から乗っていた彼女のボーイフレンドが確保していた座席を私に譲るよう彼氏に言って私を座らせて呉れたので大助かりだった。私は御礼をしようとしたのだが彼らは受け取ってくれなかった。其ればかりか彼らは大連の演劇養成学校の生徒というだけで名前すら告げずに大連の1つ手前の金州駅で下車したのだが下車の際隣席の姑娘に大連駅の下車時の混雑の際にリュックから何か抜かれないようにリュックを前に回すよう頼んで下車したらしくその姑娘が大連駅で手振りで教えてくれたのた。実に行き届いた姑であった。3.大連空港の親切な留学生(06.8)昨年の8月私は再び出生地丹東に小何と一緒に訪れたのだが例によって帰路は私一人だった。今度は2度目でもあり夏だったのでバスもほぼ定時に到着し一人で大連駅からタクシーで老師宅まで行ったが乗ったタクシーの運転手が本音は如何か分らないが道を間違えたと行って私が記憶していた道より一寸遠回りをした様だったが大した差額ではなかった。その翌日私は老師のご主人に車で空港へ送って頂いたが空港では一人で搭乗手続をした。この時後ろに並んでいた姑娘に拙い中国語で聞きながら間違う事も無く順調に手続が出来たが矢張り期待以上に親切に教えてくれた。所が帰国後数日してから私はメル友の一人から「大連で中国人の姑娘としゃべりませんでしたか」とメールを貰い吃驚しました。何と彼女は広島大学の留学生でこのメル友の中国語の老師だったのです。尚彼も私と同様旧満州引揚者である。このように私は中国で此れまで何時も一人の時は親切な姑娘に助けられてきた。何処の国にもいろんな人がいて皆が善良で親切な人だけではないだろう。中国とて同じだろうが私は運が良いという事か。非常感謝!
2007年01月22日
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自分史第3部その2『同志社大学の4年間』 下そうこうしているうちにとうとう卒業の時が来ましたが日頃のむちゃくちゃの酬いで同期の半分が正規の卒業が出来ず5月卒業、9月卒業、翌年卒業更には中退まで居ました。かく云う私は辛うじて正規に卒業が出来ましたが一流企業への就職は望むべくも無く父のコネで当時町工場に毛が生えた程度だったF製油にもぐりこむのが精一杯でした。経済学部に入学し専門は何と数理統計学を選考した私は卒論を書いていません。卒論を書かず大学を卒業した学生はそうざらには居ないのではと思っています。勿論数理統計学をマスターした事も無く幸か不幸か実社会で役に立つような場面も全くありませんでした。実は私は3年になってゼミを選ぶ時統計学の先生の研究室を訪ねて「部活が忙しいので卒論を書く暇が無いと思うがどうしても先生のゼミを受けてみたいので何とかお願い出来ないか」と頼んでみたところ頼んだ本人も吃驚のOKが出たのでした。しかし実際の所規則は規則なので卒業間際になって何か形だけでも書いて出してくれと先生に頼まれて?困った私は既に就職が内定していたF製油に行って総務部長に相談した結果当時I商事グループが社内外の文章に採用していた漢字混じりカナ書き方式を「漢字混じりカナ書きに於ける大文字と小文字」と言う小文に書いて提出し師弟共犯の不正卒業?をすることが出来たのでした。内容は殆ど忘れましたが1ツだけ覚えているので紹介しましょう。「美容院」と「病院」をカタカナで書くと「ビヨウイン」であり「ビョウイン」ですが良く見てください。最初のヨが大文字で次のョが小文字なんです。なんてことはありませんが皆さん意識していましたか。日本語に大文字と小文字がある事を。さて兎も角この様にして卒業した者もしなかったものも夫々社会に巣立っていきました。此処でDUHSOB会に触れておきましょう。大学は卒業出来なくてもクラブは皆卒部しました。卒部すれば即OB会のメンバーです。OB会の会長は我々が現役の時は若林先輩でした。勿論戦前の大先輩で京都の四条寺町で本屋をされていていましたが大変熱心な方でいろんな面で支援して頂き亡くなる直前までクラブの催事にはよく顔を出して頂きました。2代目はこれまた当然の事宮崎先輩でしたが郷里が熊本だったので京都の高野君が卒業してからは彼に会長代理を勤めて貰いました。宮崎会長は60歳になったばかりの頃病を得て亡くなり高野君に3代会長を引き継いでもらいました。所で我々同期は卒業後も絆は強く時として暫らく音沙汰が無い時もありましたが直ぐに連絡が取れるようになり今だに前後数年を交えて交流を続けています。卒業後10数年たった頃、即ちDUHS復活20周年を記念して現役とOBとの合同演奏会の話が出たのを機会に再び同期連が顔を会わすようになり私も機会を求めて札幌から東京の立教との交換演奏会や京都の定演に顔を出すようにしました。 復活20周年記念OB合同演奏会に参加 同25周年記念演奏会に参加 私はこの年はるばる札幌から参加し後輩 この年は2日間合宿があって から花束を貰いました 私も舞台に上がって演奏しました という事で20周年、30周年の記念演奏会を宮崎OB会長、高野会長代理の大変な尽力と現役の協力で盛大に行う事だ出来ました。其れは我々の時は思いもしなかった校外で、しかも京都会館という一流の会場での合同演奏会なので我々の感慨もひとしおでした。現役部員も最高60名を超え女子大は無論少数ではあったが他校からも入部希望者があったとも聞く程の人気であったようです。また早稲田大学や関西学院大学のハーモニカクラブとも交換演奏会をするようになっていました。OBとの合同記念演奏会はこの後熊本で実施された復活35周年が最後となりました。91年の秋の事でしたが地元の宮崎先輩が一人で実現されたものでした。実はこの時先輩は肝臓癌に罹っておられこの翌年惜しくも亡くなられました。私はDUSHをこよなく愛された先輩の最後の置き土産だと思っています。 DUHS35周年(91.9.14.熊本)打ち上げ 前列左から3人目が宮崎先輩で後ろが斉藤先輩ですしかしああ無常、この後10年一寸経った頃より次第に部員が減少し部活も侭ならない状況になったと聞き何か支援出来ないかとOB有志が何度か集まって協議をしたものの名案も無くその後も一進一退だった様でしたが近年遂に休部状態になったと聞きました。OBとしては是非とも再興が待たれます。私は定年の翌年でしたか暫らく途絶えていたOB会を岡山からOB会名簿を頼りに各地、各年代の有志に呼びかけ実施しました。99年4月には珍しく雪の降る寒い日でしたが20名を越すOBが遠くは長野からも参加があって盛大に開催する事が出来ました。この時OB会は例え現役のクラブが消えてしまってもせめてOB会だけは今後もずっと続けようとその時集まったOBたちは誓ったのですが皆夫々事情もあるのでしょうか或いは皆にそれだけの熱情が無いのでしょうかこの時以来今日までOB会がありません。 OB会(大阪99.4)同期と1~2年後輩 OBゴルフコンペ(岡山04.5)後列中斉藤先輩実はその前後にも我々同期と前後数期だけで集まってゴルフコンペをやったり食事会をしたり何度か夫人同伴の小旅行もしたした事もありました。その後も宮崎先輩と同期の斉藤先輩からまた同様な集まりを是非やって欲しいと依頼され04年に岡山でゴルフをしまた。その後は暫らく時折手紙や電話で連絡するだけになっています。 同期の小旅行(伊勢志摩92.5) 私と中尾以外は夫婦連れだったなお 08年に珍しく岸本が音頭をとって京都で食事会がありました。但し此れには私は母の七回忌で参加出来ませんでしたが私がDUHSの集いに欠席したのは初めてで非常に残念でした。同期は11名居ましたが卒業時は9名に減り鹿児島に帰郷した一人を除き8名は全員元気に殆どその都度集まっています。
2007年01月22日
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第一回雄神ペタンク交流大会(W) 09.1.21.三徳園で行われた本年初の大会は心配されていた天気は穏やかな好天に恵まれました。ミックスだったので私は久し振りに30会の川上さんと組んで参加し健闘の結果惜しくも準々決勝で優勝したチームと対戦し敗退しました。(雄神は おがみ と読みます)
2007年01月21日
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第3部その2 『同志社大学の4年間』 上 1年生の冬(寧誠館前) 新しい深紅のエールで部員募集(2年生)私の大学4年間は「ハーモニカン・ソサイァティー」(以後DUHSと記す)と麻雀が全てと言っても過言ではありません。私は入学式の後キャンバスの一角で真っ赤なエールを張って部員募集をしていた「ハーモニカン・ソサイァティー」を目にし即入部しました。DUHSは戦前の全盛期には映画に出演した事もあったそうですが戦時中得意だったタンゴの「ラ・クンパルシータ」を演奏して軍部に睨まれて学校当局から休部処分とさ其の儘戦後も我々が入学する前年2年先輩の宮崎誠二郎先輩の力によって復活されるまで同志社大学の学友会文化団体連盟(以後文連と記す)からその名前が消えていました。私は実にタイミングの良い時に入学したわけです。 宮崎誠二郎先輩が創った深紅のエール クラブを復活した故宮崎誠二郎先輩しかし当初は復活直後の事で楽器も揃っていなくて文連にも加盟出来ず従って練習場も無いないない尽くめの苦難の部活でした。部員に4年生は居なくて宮崎先輩他3年生と2年生とで10名弱で我々新入生が10名ほどの総勢20名を若干切れる程しか居ませんでした。2年生になった頃長村と私だけが知っていた麻雀を先ず同期連に教え次いで後輩に無理やり教えて最後には先輩たちを巻き込んで一時はまるで麻雀クラブかと思えるほどでした。当然我々は麻雀をしているかハーモニカを吹いているか、おまけに私はパチンコに夢中でしたから講義に出る暇は全くありませんでした。なお当時パチンコは立って打っていましたから私はすっかり大痔主になってしまい会社を定年退職した後高校同期の奥村君に切ってもらうまで苦しむ事になりました。一方宮崎先輩は其れまでにあらゆる伝を頼りに戦前の先輩(部員)を訪ね歩きOB会を組織し資金や技術援助を求め見事にクラブ復活を成し遂げてくれました。その後立教大学「ハーモニカン・ソサイァティー」と交換演奏会をすることになり当時ハーモニカの大御所だった宮田東峰先生の指揮で2年連続合同演奏会をすることが出来たことは得難い思い出になっています。しかし東京遠征は往復とも夜行の各駅停車でしたが結構込んでいて若いとは言え大変でした。又或る時は沼津でNHKの専属だったプロ歌手との共演や京都の円山野外音楽堂でプロのハーモニカ奏者との共演をした事もありました。 テレビ出演(60年春 毎日テレビ) 立教との交換演奏会(宮田東峰指揮)宮崎先輩が卒業された後私と飯尾の2人が先輩の後を分担し部活をマネージしました。部活の最大で最重要事は定期演奏会でしたが我々が2年の時漸く実現することが出来ました。独自で演奏会をやると言う事は大変な事でした。会場は大学の「栄光館」を確保出来ましたが聴きに来てくれた聴衆を2時間満足させられる演奏が出来るか大問題でした。この時は戦前の大先輩で京都のNHK合唱団の指揮者だった中川先輩や京都消防団音楽隊の指揮者の藤本先輩に技術指導をして頂きました。入場券売りも難事でしたが私は下宿の家族に頼んで何とか割り当て枚数をクリヤー出来ました。今だったらニューミュージックのライブ等があって我々の音楽会の入場券など売れないのでしょうが当時は大学生でも多少は買ってくれていました。もう1ツ我々の最大の思い出はテレビ出演でした。此れは私の後マネージャーをしていた高野君の功績で彼はその前にも大阪朝日放送でサンスターのコマーシャルソングの話を取ってきて録音迄したのですが当時の録音技術ではその頃使用していた複音ハーモニカの音質が適さず採用して貰うまでに行きませんでした。さてこの時のテレビ出演は毎日テレビの「大学歌合戦」と言う30分番組でしたが司会が当時売れっ子の大久保令でゲストがみやこ蝶々、今東光、高島忠雄と言う豪華メンバーで相手は関学のグリークラブでした。演奏曲目は出演が決まってから急遽私の同期の長村が編曲した「カチューシャの歌」でした。学生ですから出演料は無く電車代とスポンサーだった「柳屋」のポマード1ヶだけでした。さてこの辺で合宿の思い出を書きましょう。最初の合宿は我々が1年の時飯尾が宮崎先輩の指示で若狭の高浜に今で言う民宿を探して来ました。この時我々1年が炊事当番を勤めた事が前例となって以後毎年の恒例になりました。この年の出来事は地域の幼稚園訪問演奏で此れもその後の恒例になりました。尚この年は練習の終わった後海水浴場に出かけていましたが丁度来ていた大津の工場の女工さんたちと仲良くなって練習後の楽しみが増えました。2年目は私が同期の岸本を家へ連れて帰り下津井に行き引き受けてくれる民家を探して来ました。この時に騒動が2ツありました。1ツは台風の夜風と浪で荒れている物騒な海岸を通り抜ける肝試しをやったときのことで長村が真裸で海岸に溺死者の如く波打ち際に寝そべって通って行く連中を吃驚させていたのですが1年先輩の衣川さんが恐ろしさの余り震えが止まらなくなって大騒ぎとなり肝試しが中止になった事でした。 勿論彼は時間が経つに従って落ち着き皆ほっとしました。もう1ツは、此れも我々同期の悪戯でしたが後輩の1年生の一人が寝た後彼の一物の裏側を墨で塗ったのですが彼は翌日の入浴まで気が付かず翌日風呂場から大声を上げて飛び出して来たので皆大喜びをしたものでした。 1年の合宿(高浜) 2年の合宿(下津井)3年目は同期の小関が春休みになったばかりの時に急性盲腸炎となり私と長村、中尾の3人で彼を愛知の尾西市まで送っていった際序に知多半島のお寺を借りて帰りました。この年は我々も3年生になっていてクラブの中心でしたから馬鹿げた事も出来ず後輩達は皆大人しくて例年の如き馬鹿騒ぎも無く練習後はソフトボールと麻雀位で平穏な合宿でした。それから最後の年私は就職活動のため親から合宿参加を止められ残念でしたが参加出来ませんでした。 3年の合宿(知多半島) 復活第1回定演(同志社栄光館)我々の頃のクラブ恒例の行事としては新入部員歓迎ピクニックが毎年春に比叡山ピクニックがありま長城で暫しソフトボールをしてからケーブルで下山しました。もう一つは喫茶店を借り切って行うクリスマスパーティーでした。当日は必ずガールフレンドを同伴する事になっていて出来いものは四条河原街辺りでハントしてくるものも居ました。この日のメインイベントは作曲コンクールで演奏は無論部員達の即席で審査員は何人かの先輩でした。私は2位と3位になったことがありました。
2007年01月19日
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私のゴルフ暦ペタンク、ボーリングに触れてゴルフに触れないわけにも行かないだろう。私のゴルフ暦は広島へ赴任した時に始まる。42歳になる一寸前だったからそんなに若くはなかった。広島営業所に着任早々私は所員からゴルフをしない所長が2代続いたのでは困るから是非初めて欲しいと強要され止む無く始めたのが切っ掛けであった。然し父が存命の頃ゴルフは左は不利だから右でしたほうがよいと言われていたので無理に右で始めたのだがそのせいばかりではないにせよ一向に上達せず今日まで遂に年間AV100を割る事は無かった。然し予想に反しすっかりゴルフが好きになり大阪へ帰任後間も無くその頃不二の社員が数人会員だった愛宕原GCの会員権を購入して公私友で年間40回を越すラウンドをしていた。80年代初期の頃である。 愛宕原GCクラブハウス 開場30周年記念 会社の先輩とその後退職の時当時OB会のコンペを愛宕原でしていた関係上世話役から会員権を売らないで欲しいと頼まれ其の儘帰岡したのだがその後の会員権の相場下落したあげく倒産してしまいホトンと全損してしまった。更に帰岡直後義兄に薦められて義兄が理事をしていた長船CCの会員権を購入し何度か一緒にプレーをしたが義兄もだんだんいく回数が減ってくるに加えて私が朝日の同期会のコンペを主体とするようになってからは長船でのプレーは年々減っている。その間矢張り会員権相場の下落から今では好乳児の25%ほどになってしまった。この結果私はゴルフ会員権で1千万ほどの損失を被っている。 長船CCクラブハウス 長船CCコース内の福岡城址肝心のスコアーと戦績であるが上述の如く所謂アベレージゴルファーの域にすら到達できなかった故に戦績と言うものは何も無い。スコアーのベストは愛宕時代が90(パー71)長船では唯一一回89がある(パー70)。 六甲国際CC(50歳代) オリエンタルCC(60歳直前) 近年100を割る事は殆ど無いが時折長船CCのコンペや朝日高校の同期会のコンペにも参加しているがHC30でもパープレーは殆ど無い始末である。従ってあれほど好きだったゴルフも最近段々プレーの回数が減ってしまった。その分ペタンクとボーリングをやっている。 大浅間CC(会社OBのゴルフ仲間) 御津CC(高校同期錬) 何れも2000年代半端
2007年01月17日
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私の中国語のレベルと老師一昨年中国旅行を頻繁にするようになって単に買い物で値切るだけではなく旅行中に接した親切な中国人と少しでも話がしたくなって岡山市日中友好協会の中国語の教室を受講し始めてたのですが間も無く丸2年が経ちます。70年間こき使って少なからず草臥れている我が頭脳ではなかなか進歩しませんが其れでも2年近く経つと簡単な挨拶や自己紹介くらいはしゃべれるようになりました。然しヒヤリングが全く不得手です。最初の老師は瀋陽生まれの岡山大学留学生で卒業後も岡山に残って居た女性でしたした。丁度1年後彼女に赤ちゃんが出来たのでご主人と一緒に大連に帰り子供を生むと言って帰国しました。後任の老師は私が同郷の姑娘を協会に紹介した所OKが出たのは幸でした。彼女は私と同じ丹東生まれで四川大学を卒業して1年間南京の近くの大学で日本語を教えた後岡山大学大学院に留学した姑で現在文学博士を目指している才媛です。然し同級生の殆どが若い女性なので記憶力が全然違い私は皆の足を引っ張っている感じですが止むを得ません。皆さん御勘弁を!
2007年01月16日
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1.満州引き揚げルートを辿る旅「葫蘆島の感激」 06.9.30. 6月8日より3日間遼寧省丹東に生まれた私は60年ぶりに1945年当時住んでいた長春を訪ね元の住居や通っていた小学校等を尋ねることが出来た。2番目の住居(北京大街の父が勤務していた銀行の社宅)と人民大街の元銀行の建物が其の儘残っていたのを発見し感動したが他は皆立派に再開発されていて昔の面影は残っていなかった。11日想い出多き長春を後に我々は早朝列車で引き揚げたルートを辿り錦州へ向かい6時間強を要して錦州南駅に到着した。此処までの車中で一行との話に夢中になっていていろんな意味で想い出多き沿線の風景を殆ど見逃した事が誠に残念であったと後悔している。錦州南駅からは専用バスで葫蘆島に向かい張学良築港記念碑を視察後引き揚げに使われた桟橋の残骸と日本人引き揚げ記念碑及び馬杖房の収容所跡を訪ねた。尚当時使用されたメイン桟橋は港内にある筈だが葫蘆島港が軍港であるため我々は港内に入れず詳細は分らなかった。しかし此処へ来て埠頭の残骸を眺めた時の一行の感慨は当事者しか判らないであろう。 残っていた葫蘆島市馬杖房の引き揚げ船乗船を 日本人引き揚げ記念碑 待った収容所の一棟 暖房用の煙突が見えるが (葫蘆島郊外に在る) 当時は暖房は無く寒かった私は港内の引き揚げ船に乗船した桟橋に立つ望みは実現出来なかったが此処へ来る事が出来ただけでも満足すべきであろうか。尚2年後に張学良築港記念碑の傍に友好記念公園が建設されると聞いた。葫蘆島市人民政府の要人2人にわざわざ案内して頂いたうえに昼食会まで催して頂いた好意に感謝する。興城市の古城を観光中我々は地元マスコミのインタビュウを受けた。翌日は錦州の収容所跡地の中学校や北大営を車内から視察した後錦州市の古塔を観光後市街を散策した。尚錦州南駅で私は短期語学留学中のメル友の三木照男氏が燕山大学同学の日本語の旨い姜彩蓉姑娘を連れて待っていてくれて2日間を共に過せてよかった。またこの夜昨年我的出生地丹東に連れて行ってくれた丹東出身で今も岡山大学大学院の博士課程に留学中の何暁麗の妹、弟と彼の恋人とがホテルで待っていてくれて熱烈歓迎を受け三木氏等と一緒に会食した。この後私は始めて彼らと中国のカラオケに行き錦州の夜を楽しみ翌13日の早朝バスで大連に向かい14日この実り多き想い出の旅を終え帰国の途に付いた。最後に今回の訪問で葫蘆島市人民政府の好意ある配慮と引き揚げ当時こそいろいろあったものの人道的な中国と多くの中国人民のお蔭で100万人を超す日本人が葫蘆島から帰国出来た事を確認し感謝の念を新たにして当稿を終へる。(投稿文の写真は引き揚げ記念碑のみ) 葫蘆島市政府宣伝部との会食 銭部長と馬副部長 我希望再訪葫蘆島以后二年2.大連の日本人向け雑誌「Dalian」にも掲載されました「Dalian」は大連在住の日本長春会会員の一人が編集責任者として発行されている季刊誌で此れは06年の秋号です。 私の葫蘆島訪問記が掲載された大連の日本人向け旬刊誌とそのページ
2007年01月13日
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フェアーレーンの「夢中会」「夢中会」はフェアーレーンの60歳以上のボーリングの親睦会で私は数年前の結成時から参加しているが当初は上位にランクされていて時に総合優勝(総当りのリーグ戦)、時にハイゲーム、時にハイシリーズ(4ゲームトータルスコアー)を取っていた。しかしその後年に何度も中国に行ったり他の所要で休む事が多くなり、その一方若い新人が週に何度も練習して上達しランクは下がる一方だったが今年9日の初打ちで何と4ゲーム中2ゲームが200点UPした。尚ハイシリーズに2点、ハイゲームに4点足らず両方とも逸した事は最近めったに無い事だったので残念だった。尚私のボーリングの戦暦は古く1960年代の後半札幌で始めており3ゲームシリーズで600点超を記録した事もあった。この後20年ほど遠ざかって50歳になってから勤務先の本社の大会でミックスダブルスを2年連覇した。更にこの後定年退職まで又10数年ブランク後岡山で再開して3年前に何と7連続ストライクを記録した。当然スコアーは300にかなり近かった。其れが最近は投げる回数も減り寄る年なみの結果時々200UPすると嬉しくなるざまである。 高校同窓会ボーリング大会(卒業年度別団体優勝) 夢中会総合優勝杯なお数年前から朝日高校同窓会でボーリング大会が行われるようになり私は30会チームの主力となり毎年3位以内を確保して来たが08年大会を盲腸手術で欠場した所何と言っていいか残りのメンバーで思いもかけず優勝し私は複雑な気持ちにならざるを得なかった。
2007年01月10日
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今年のお正月のスケジュール 7日今年の初雪 我が陋屋12月31日の昼前早くも大阪に居る娘夫婦が来訪。 つい1月足らず前私の母の7回忌に帰ってきたばかりだったのが。我が家は50年近く前に両親が建てた今にも倒れそうなぼろ屋の為数年前からお客様は無論のこと子供達も泊まって貰わない事にしているので彼らにも近所のホテルを用意していた。2日帰阪するまで彼らに付き合うのも楽ではなかったが子供の事ゆえ止むを得ない。今年は一昨年から2年連続生まれ故郷の中国の丹東へ一緒に行ってくれている同郷の留学生の小何を呼んで一緒にホテルで夕餐を摂った。彼女はホテルで洋食を食べたのは初めてだと云って喜んでいた。尚毎年2日に一家で来る義兄達が大晦日から神戸に行っていので4日に来た。今年我が家への正月の来客はこの2組のみであった。この後は6日の午後今年は初のペタンクの練習、夜が恒例の高校同期会の新年会、8日は家内の兄義姉等との昼食会、9日は今年初のボーリングの競技会だった。ゴルフは寒いので心臓に良くないなんて横着な事を言っていたがホームコースのコンペである「清流会」から出席して会費を払う様言ってきたので止む無く28日に行って来る事にしよう。ペタンクの初試合は18日の今年が第1回の交流会のミックスであるが何と参加申し込み期限の今日(10日)まだ申込書が手元にあった。とっくに投函していた筈なので慌てて事務局に電話をして受け付けてもらえほっとした。万一駄目だったらパートナーに申し訳が立たない事になっていた。年を感ずること再認識。 尚中国語の初授業は15日である。又24日私がOB会の会長なので大阪に出向き会社の社長に恒例の新年のご挨拶に出向く事になっていある。以上だが此れでも例年に無くお正月としては忙しい月のように思う。
2007年01月10日
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岡山市日中友好協会訪中団に参加して(06.6.4) 洛陽人民政府の歓迎会『連市長歓迎挨拶』 今年は岡山・洛陽友好都市締結二十五周年の年になります。この間両市の間には一時不幸な次期がありましたが幸いにして今年両市の間は再び元の友好な関係に復帰することになり去る四月十四日高谷岡山市長以下百名を超す岡山市民の大訪中団が洛陽を訪問し高谷市長は連洛陽市長他の要人と相次いで会談しました。云うまでもない事だがこの度の関係修復には我が岡山市日中友好協会の片岡会長等の仲介努力が大きく寄与した事は周知の事です。協会入会暦がさほど長くない私がこの度の訪問団に参加出来た事は真に幸運でした。初日の十四日上海浦東空港で市民団の方に一寸したトラブルがあり洛陽到着が大幅に遅れたのにも拘らず市長以下市政府要人は我々の到着を午後の十時までも待っていてくれて盛大な歓迎会を催していただきました。開会にあたって先ず連洛陽市長より『紆余曲折の一時期は終わり両市の関係は元通りとなった』と挨拶があり、次いで高谷岡山市長からは『洛陽市との新たな交流を結べる事は喜びであり今後は更に交流を深めたい』と挨拶がありました。翌日友好協会の一行は世界遺産の『龍門石窟』『白園』(白居易の墓)及び『関林』を参観し、午後洛陽市庁を訪れ幹部の市政府表敬訪問の間団員は市庁舎を参観した。そのあと洛陽市郊外の『窯洞』(黄土地帯の洞窟住居)を見学後市庁跡地にある周時代の六匹車馬坑『天子駕六博物館』を参観し夜は『洛陽市牡丹花会慶典』の音楽ショウを鑑賞しました。三日目は中国最古の仏教寺『白馬寺』を再訪し印楽大和尚自ら御説明を頂き広い寺院内を参観した。また岡山済生会病院と関係が深い『河南科技大学第1付属病院』を訪問し院長自らの案内で院内を見学した後歓迎昼食会をして頂いた。午後は洛陽大学を訪問し学長のご案内で広い学内をバスで見学して回りましたが盛んに拡張工事が行われていました。更にその夜は洛陽市人民代表大会(市議会)主催の夕食会をして頂いた。かくして三日間の洛陽市との友好と観光を終え空路上海へ向かった。四日目の上海では上海に三箇寺しかない仏教寺の古刹『玉仏寺』を参拝し『豫園』を観光した。夕食後大半が『雑技』鑑賞に行ったが私は雑技に行かなかった方々数名と夜の『外灘』及び『南京路』を散策したが十時を過ぎても大変な人出で賑やいていた。以上四泊五日の日程を終え十八日全予定を終えて帰国した。
2007年01月10日
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引き揚げ後60年にして再訪した懐かしき中国東北の諸都市 中国東北丹東は私の出生地、長春は引き揚げるまで住んでいた街、葫蘆島は引き揚げ船乗船港です。そして大連は岡山からは今も東北地区への玄関です。夫々の訪問記は『センチメンタルジャーニー』でご覧下さい 此処では其処に添付していない写真をご覧いただきます。 安東 現丹東市 昔の安東駅 現在の丹東駅 私に安東の些かの記憶があるのは鴨緑江で冬滑ったスケートと近所のお寺(当時の地図で検討をつけると多分「東本願寺」である)の庭で三輪車に乗って遊んだ事くらいだが、惜しむらくは写真が引き揚げの際1枚も持ち帰れなかった。新京特別市 現長春市 戦後数十年残っていた長春の元日本人家屋 新しくなっていた西広場小学校(※) 戦後も使用されていた新京駅 残っていた西広場給水塔1946年の秋10歳で引き揚げたが06年6月60年ぶりに長春を訪れた時吃驚したのは私が住んでいた事があった興銀の寮と通っていた小学校の近くにあった西広場の給水等が其の儘残っていた事である。葫蘆島市当時葫蘆島は私の記憶では都市とは云えない所だったが現在は中国海軍の軍港であり市街も立派な都市として発展していた。 葫蘆島市馬杖房の収容所跡 葫蘆島市街を走る馬車 埠頭で乗船を待つ引き揚げ者の行列(※) 葫蘆島港(※) 大連市 昔も今も中国への玄関 大連市には近年親しくなった中国人のご夫婦の実家があって何度も泊めてもらっています。泊めてもらった時には近所の中山公園にある朝市でひまわりのたねを3Kg買って帰る事にしています。此処は目の前で炒っており中国で屈指に旨い種だと思っています。尚彼らは私の高校の同級生の家に長年下宿していて子育てまでしていた時期があり後日知ったのですが彼らの上の娘は何と私の後輩でした。しかし知り合ったのは同級生からではなくネットで知り合った丹東からの留学生の紹介でした。この経緯は「丹東訪問記」に書いてあります。 外装が改装されている大連駅(※) 水師営出の私 (※)はネットより借用
2007年01月08日
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岡山市・洛陽市友好25周年市民団訪問(06.4.14~18)と洛陽市長答礼来岡(06.7.3~6) 洛陽市市庁舎前の私 白馬寺境内の空海像 洛陽・岡山両市長と私 岡山市長が高谷氏に代わった機会に岡山市・洛陽市友好都市締結25周年でもあるので過る年岡山市が台湾の新竹市との友好都市締結問題で凍結されていた洛陽市との関係を岡山市日中友好協会は岡山私議団共々洛陽市当局に対し改修の申し出をした結果了解を得たのを記念して市長以下市民団の洛陽公式訪問が実現した。岡山市日中友好協会としては当然此れに参加したが同行した協会員は向こうでの公式行事以外は独自に動くこととなった。尚当時洛陽市が硬化したのは、台湾側が中華民国新竹市長と署名した事を抗議して来たが岡山市が善処しなかった事によります今回はペタンク仲間の高見さん夫妻が最初我々に同行すると言っていたが無錫観光がしたいと云って「トップツアー社」の方に回った。岡山市会議員団を併せて合計百二十名を超す大訪問団は4つの旅行者に分かれて出発し上海で合流して特別臨時便で洛陽に直行した。洛陽での3日は先ず洛陽市政府、次いで洛陽科技大学第1付属病院、そして最後に洛陽市人民代表大会主催の3回に渡る歓迎会があった。また観光は例年通り白馬寺、龍門石窟観光以外に今回初めて窯洞(黄土地帯にある地下の横穴式住居)と白園(白居易の墓地)を観光、参観出きた。先ず洛陽市庁見学のあと岡山の済生会病院と縁の深い洛陽科技大学付属病院と洛陽大学を訪問した。洛陽は丁度牡丹祭りの最中で国家中と称されている牡丹園の見事な牡丹を観賞してその夜に音楽ショウを聴きに行ったが中国各地から集まった3万人を超す聴衆のフィーバー振りに圧倒された。 洛陽市全人代主催歓迎宴 洛陽「牡丹園」の珍種 洛陽「龍門石窟」 又帰路例によって上海に1泊した。上海に3ヶ寺しかない仏教寺の1つの玉仏寺を参観した後夜一行の大半が雑技鑑賞に行ったが私は張家港の連中と会う積りでいたところ皆出張中で会えず雑技に行かなかった済生会病院から参加していた一行に頼まれて南京路へ案内して買い物に付き合った。実のところ私自身も始めてだったので案内する柄ではなかったのだが途中道を聞いたお巡りさんやタクシーの運ちゃんに私の中国語が通じたことが嬉しかった。尚最後の歓迎会が始まった直後私とホテルが同室だった則武氏が急性腸梗塞で倒れ救急車で洛陽科技大学第1付属病院に入院するアクシデントがあったが岡山の済生会病院で研修経験のある医者と2人の看護婦に診て貰ったことと比較的軽症だった事は大変幸運だった。この後私は持って行った口琴を吹いて喝采を浴びたが実は往路上海の国内航路の紅橋空港でこの口琴を知らない検査官の為に荷物検査に引っかかり構内放送で呼び出されバッグを開けるよう要請される災難がありました。尚帰路上海の豫園商城の楽器店で口琴を1本50元で売っていたの見付けました。かくして4泊5日の実のあるこの旅行は終わった。この後洛陽市から連市長以下答礼の岡山訪問団が7月3~6日来岡され3,4日連続盛大な歓迎の宴が催された。私は4日プラザホテルで行われた歓迎会に参加した。一行は岡山の経済関係者との懇談や工場の見学をされて無事帰国された。 連洛陽市長と高谷岡山市長 連市長来岡歓迎宴1
2007年01月05日
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仕事始め 今年も早や1月4日の仕事始めです。然し仕事に縁がなくなってからもう満10年になりました。今朝のテレビニュースでは紐育の株価は史上最高値を記録した後11弗高で落ち着きました。一方為替はユーロが史上最高値で米弗も120円に迫っています。現在私は経済云々を論ずる身ではありませんが日本円が安くなる事は海外旅行をする者には歓迎できません。今後の市場動向が気にかかります。
2007年01月04日
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新年 恭喜 大家 幸福 笑口 常開 しんにえん ごんしい たーじゃー しんふう しゃおこう ちゃんくあい新年おめでとう御座います皆さんお幸せに笑う門には福が来る本年岡山は穏やかで暖かい元旦でした きっと好い年になる事でしょう本年も宜しくお引き立てのほど!!
2007年01月03日
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