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2018.02.06
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カテゴリ: 探訪 [再録]
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​

東山トレイルを昔、何度か歩いた折に、その傍をいつも素通りしていた場所があります。そこを訪れてまとめていたものを再録し、ご紹介します。  (再録理由は付記にて)

東山トレイルは、稲荷山を起点 に、東山の泉涌寺の門前を経由し、今熊野観音寺に向かう 「鳥居橋」の少し手前が分岐路 になっています。 東山トレイルのルートは下り坂の道 になります。 その道が「鳥戸野陵」の傍を通るのです。
このルートをしばらく歩くと、冒頭の景色、京都市内を眺められる所に出ます。
このすぐ近く、道の東側に石段があり

「鳥戸野 (とりべの) 陵参道」 という道標が立っています。
東山トレイルを歩く目的で何度もこの前の道を歩いていますが、この道標をみても通過していました。御陵があるという認識だけでそれ以上考えたことはありません。

予備知識なしでしたので、ここでは後日の記録の整理を兼ねたまとめのご紹介です。

石段を登った後、参道の先に御陵の柵が見えます。


手前に、この御陵に埋葬されている人々についての説明板が設置されています。

 御陵の正面                   
この鳥戸野陵は、泉涌寺の北方向で、泉山( せんざん =月輪山)の一支峰上にあります
鳥部山(阿弥陀ヶ峰)の南 になり、かつては藤原氏出身の后妃を火葬し 南鳥部野

この御陵の前で説明板を読んで初めて、この鳥戸野陵が 「一條天皇皇后定子」の陵墓 があるところだと知った次第です。「定子」という名前を見て、清少納言のことを思い出しました。 定子-香爐峯の雪-清少納言-御簾を上げる、というあのエピソードです 。昔習った記憶です。手許の本を改めて調べて見ると 『枕草子』の第284段にこのエピソードが記されていました (資料1)
一方、一條天皇-中宮彰子-紫式部をも連想します。

さて、この御陵についてみると、 この墓域に1陵6火葬塚が散在している 定子だけがこの中では土葬 ということになります。 (資料2,3)

ここで興味深いのは人間関係の構図です。
藤原兼家には、道隆・道長・超子 (ちょうし) ・詮子 (せんし) という子供がいました。
道隆の子供が伊周 (これちか) と定子 (ていし) です。
道長の子供の一人が彰子 (しょうし/あきこ) です。

詮子は円融天皇の女御で、詮子の産んだ皇子が一条天皇となります。道隆の女・定子が女御として一条天皇の許に正暦元年(990)に入内し、女御となり、後中宮になります。一方、道長の女・彰子が長保元年(999)11月1日に一条天皇の中宮として入内します。父親の道長は、『御堂関白日記』 (倉本一宏訳、講談社学術文庫) に、「酉剋に、彰子が入内した。公卿や殿上人が、多く参った。・・・・」と記しています。
そのため、定子は皇后に押し上げられるということになります。これが、 一帝一代二后の形 を開いたことになります。
また、醍醐天皇皇后穏子の父は関白太上大臣藤原基経、母は人康親王の王女です。
ここだけを見ても 藤原一族の濃密な宮中での関わり方 が見えて来ます。

余談ですが、定子は1000年に急逝し、紫式部は彰子の入内後、道長に請われて寛弘2年(1005)もしくは寛弘3年に彰子に仕え始めています。つまり、 清少納言と紫式部が宮中内で同時期に活動したことはなさそうです (資料5)

                     これは参道を下る方向を眺めた景色

参道から真っ直ぐ前方の風景を眺めると、その先には京都タワーが見えます。

                                                                                         坂道を振りかえて眺めた景色

鳥戸野陵の傍の道を北に進むと、比較的大きな道路に出ます。東山トレイルのルートではここで右折するのですが、 東大路通に出るのがこの時の目標でしたので、左折し西方向をめざします
この辺りの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。



左折すると、少し先に見えたのが、 「剣神社」 です。ここは初めてなので境内に立ち寄ってみました。

社殿

神社前の案内板によれば、 祭神は四座(イザナギノミコト、イザナミノミコト、ニニギノミコト、白山姫命) です。
中世には泉涌寺の管理するところで、泉涌寺の守り神だったとか。天明・天保の二度の火災で社記を失い、 創建由緒は今では不明 です。 現在は今熊野一帯の産土神として崇敬されています 通称は「剣 (つるぎ) さん」として親しまれているようです。 (資料6)




本殿・向拝の木鼻はごくシンプルな形状ですが、 蟇股 の部分は見事な透かし彫りの彫刻が施され装飾性が格段に高まっています。蟇股のフレーム部分がありません。誰を、あるいは何を表象しているのでしょう・・・。

このまとめを載せたとき、右手に持つ軍配からの発想で感想を記していたのですが、コメントをいただきました。それで改めてこの蟇股について知りたくて再訪して確認してみたいと思ううちに時間が経ってしまいました。昨年(2017)に剣神社を再訪し、社務所で尋ねてみました。
あらためて別の角度から改めて眺めると、この人物は翁と思える風貌でした。

再々訪のおりに、教えていただいたことは、正確なことは解らないが一説の伝えがあるということでした。それは、はるか昔、飛魚(/太刀魚)に導かれて神がこの地にやってこられたという縁起を表したものではないかという伝えです。そう言われると、波濤の間に立ち前方を眺めている姿に思えます。一種の降臨伝承のようです。

「子供の守護神」と案内板に記されています 子供の疳の虫封じ祈願 で知られているようです。お札に飛魚(/太刀魚)の絵馬を奉納するならわしです。 (資料2,6) 「疳 (かん) の虫」とは、「(1)疳、つまり、ひきつけをおこす原因と考えられた虫 (2)疳の俗称。ひきつけ」 (『日本語大辞典』講談社) のことです。

手許の本は、「太刀魚」で説明し、「 (つるぎ) を太刀ともいうところから太刀魚としたものか、一説に祭神の使者飛魚だともいう (資料2) と脚注を付しています。太刀魚とみるのは少数意見のようで、ネット検索情報では多くのサイトが 「飛魚」で説明 されています。

再々訪したときに、この絵馬を購入しました。ご紹介します。
絵馬の絵は一枚ずつ手描きされているという話を伺いました。丁寧かつ素朴でいいなと感じた次第です。

この絵馬に願い事を記して奉納したら、願かけの最中には、飛魚を断つのだということを説明されているサイトもあります。
この飛魚を断つという話 は神社でもお聞きしました。つまり、 願い毎が叶うまで飛魚を食しない。願い事が叶うと再度御礼に神社にお参りする。そういう慣わしもあるというお話でした。


手水舎の水盤には、 「剱大明神」 と刻されています。

尚、江戸時代に出版された 『雍州府志』 という書は、「新熊野社」の次に、 「剣(ツルギノ)宮」 という項目をたてて、一行の説明を付しています。原文は漢文ですので、読み下し文にしてみますと、 「新熊野の南に在り、伝えて言う、天の叢雲の剣を祭る所なり」 という説明です。 (資料7)
この「剣宮」が現在の「剣神社」だとすると、「剣」という社名の通り「天叢雲」と称された剣を祭っていたことにルーツがあることになります。そういう信仰が存在したということでしょうか。


瑞垣の中にある「撫で石」と呼ばれるご神石 。この神石を撫でた手で自分の体に障りのある箇所を撫でると霊験があると言い伝えらているそうです。お寺に安置された「びんずるさん」と同じような働きなのでしょうか。 隕石という伝承があるようです

境内には、境内社が2つあります。

一つは 「朝日神明宮」 、もう一つ(上掲写真の左側)ありますが、こちらには 八幡社・稲荷社・春日社 が祀られているそうです。

一隅にこの句碑が建立されています。
     珊瑚樹の 朱寶かがやき 神の留守  涼袋

「神の留守」 は初冬の季語、旧暦十月が神無月と称されたことから来ているようです。
「神無月」 自体も季語です。「神無月は、神々が出雲の国に旅立たれるので、神社はどこも神が留守であるという意味である。たまたま木々も落葉し、草も枯れる季節であり、境内も荒寥として神の留守という感じが深い」 (資料8) と歳時記では説明されています。

涼袋とは、建部綾足 たけべあやたり 1719~1774)という江戸時代中期の国学者で俳人・画家だそうです。俳号が涼袋。尚、本姓は喜多村、名は久域 (ひさむら) だとか。 (資料9) 調べてみて、初めて知った人物ですが、次の句を詠んでいるそうです。 (資料10)
     うぐひすや土のこぼるる岸に啼く
     涼しさや舳(とも)へながるる山の数
     唇で冊子かへすや冬ごもり
     村々は茶色に霞む小春かな

『近世畸人伝』に「建凌岱(武部凌岱)」という人物名で記載されています 。この書によると、京都の知恩院門前に住んでいた時期があるようです。 (資料11)
ひょっとしたら、剣神社を訪れているかも知れないと想像するとおもしろい。
また、建部綾足(涼袋)は宝暦13年、賀茂真淵に入門し国学を学び、その影響もあってか、45歳のとき5・7・7の三句からなる片歌(古詩体)を復活、唱道して 「片歌道守」 の称号を賀茂真淵から得たともいいます。 (資料7) しかし、片歌が普及するには至りませんでした。

調べてみると、知らない世界に導かれ、楽しいものです。 
こんなことも見つけました。 この剣神社では、2月11日に「つるぎ御弓始祭」という行事が行われている そうです。​ 行者橋 渡さんのブログを、こちらからご覧いただくと詳しく書かれています ​。末尾に絵馬の写真も。 (”インターネットに出てこない「御弓始」@剣神社」”の記事)
ほかにもいくつかブログ記事を発見。補遺でご紹介します。


末社に近い方にある朱色の鳥居を通り抜けて境内を後にしました。
この時は、ここから、道沿いに歩いて、東大路通に出て、妙法院に向かいました。

ご一読ありがとうございます。

参照資料
1) 『新版 枕草子 下巻』 石田穣二訳注 角川文庫
2) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂
3) ​ 藤原定子 ​ :「コトバンク」
4) ​ 藤原彰子 ​ :「コトバンク」
5) ​ 紫式部 ​  :ウィキペディア
6) ​ 剣神社(剣さん) ​  :「京都観光Navi」
7) ​ 雍州府志 二 ​ <<古典籍閲覧ポータルデータベース>> :「立命館大学図書館」
   『雍州府志』の第二分冊・神社門の21ページ目です。
8) 『改訂版 ホトトギス 新歳時記』 稲畑汀子編 三省堂 p723
9) ​ 建部綾足 ​ :「コトバンク」
10) ​ 古典俳句抄(敏光抄出) ​ トップページ
   ​ 古典・詩歌鑑賞(ときどき京都のことも)より
   ​ 小春 ​ :「季語めぐり ~俳句歳時記~
11) ​ 建凌岱(武部凌岱) ​ 近世畸人伝 :「日文研データベース」

【 付記 】 
「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。
ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。
再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。
少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。

補遺
鳥辺山 ​ 東山三十六峰 :「Toshiさんのホームページ」
阿弥陀ヶ峰 ​ 東山三十六峰 :「Toshiさんのホームページ」
泉山 ​ 東山三十六峰 :「Toshiさんのホームページ」
タチウオ ​  :ウィキペディア
トビウオ ​  :ウィキペディア
雍州府志 ​  :ウィキペディア
神の留守 1 ​ :「歳時記」
神の留守 ​  :「きごさい歳時記」
剣神社 お弓始め祭と厄除け火焚き祭 ​ :「京都の旅・四季の写真集」
剣神社の御弓始祭・厄除火焚祭にお出かけ<2013.2.11> ​ :「みせばんパンダのお散歩日記」

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​

こちらもご覧いただけるとうれしいです。
スポット探訪 [再録] 京都・東山   妙法院





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Last updated  2018.02.06 16:03:30
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Re:スポット探訪 [再録] 京都・東山 鳥戸野陵・剣神社(02/06)  
Jobim さん
京都の東山も、このあたりになると知らないところがいっぱいあります

一度ゆっくり訪ねてみたいです
雑踏をのがれて、静かな京都の一面を見てみたいと思います
外国人に会わない京都を

ここで書いていただいた情報を参考にさせていただきます (2018.02.09 19:21:32)

Re:スポット探訪 [再録] 京都・東山 鳥戸野陵・剣神社(02/06)  
Jobim さん:
東山三十六峰沿いの寺社は、私も未訪のところはたくさんあります。
未公開のお寺もけっこう多いので少しずつ探訪を続けたいと思います。

外国人に会わない京都、と言うことになればけっこう難しくなってきているかもしれません。しかし、日本人すらそれほど訪れない寺社スポットはまだまだあることでしょう。

例えば、三十三間堂は大勢の人々が訪れても、南大門や築地塀まで足を延ばす人はほとんど見かけません。

今熊野辺りでは、新熊野神社、今熊野観音寺もわりと静かですね。
阿弥陀ヶ峰山上の豊国廟や麓の新日吉神社あたりもいいかも。

先日、京博に行った続きに、東福寺の北にある「万寿寺」を拝見したくて行ってみたら、一般拝観は受けつけていないという掲示が門前に出ていました。ちょっと残念でした。

(2018.02.10 16:38:50)

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