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浅子は1849(嘉永2)年、京都の豪商出水三井家の四女として生まれた。当時は親同士が婚姻先を決めていた時代。浅子も2歳の時両替商の「加島屋」に嫁ぐことが決まっていた。
教育は嫁入りの準備だけであったけれど、 本人は男性的、奮闘的な気質で「女子には学問は無用」と言い聞かされて、逆に女子問題を考える日々であったようだ。やがて「人間というものは男女にかかわらず親や他人の厄介にならぬように必ず独立すべき」という考えに。
17歳で加島屋の次男広岡信五郎に嫁ぐ。時代が大きく動く幕末で「永久に稼業が繁盛するか疑わしい。何か起きれば自分が何とかしなければ」と一人でこっそりと算術、簿記などの勉強を始めるが、夫や加島屋の人々は温かく受け入れた。夫は謡曲や茶道に勤しむ人だった。
大政奉還後、新政府に多額の軍資金を献金したり、徳川幕府からは度重なる御用金の用命を受ける。廃藩置県で大名に貸し付けた900万両(約4、500億円)が回収できなくなる。当時浅子20歳。加島屋の経営に参加し、加島屋を支える。
この時代鉄道の開通により蒸気機関車の燃料として石炭の需要が高まっていた。1884(明治17)年石炭の販売代理権を取得、「広炭商店}を設立。1899(明治32)年には産出量5万トンを超えるほどに成長した。

一方1888(明治21)年に鹿島銀行を設立する。
1896(明治29)年浅子は林業家の 土倉庄三郎 成瀬仁蔵 と出会う。その時寄贈された 「女子教育」 という著書を再三読みその後熱心な後援を約束する。

◆◆成瀬仁蔵 / 中嶌邦/著 / 吉川弘文館  「女子教育」という本は見つかりませんでした。
「女性を救うには女子に高等教育を授けるしかない」という浅子の信念が叶う時が来たのである。

この成瀬仁蔵は1858(安政5)年現在の山口県山口市に生まれる。教育家を志し、キリスト教にも傾倒し、牧師にもなる。新潟で女学校の創立にもかかわる。その後1890(明治23)年女子教育の研究と宗教的転機を求めてアメリカに旅立つ。最初は神学院に入学し翌年クラーク大学に移り女子教育の研究に没頭する。帰国したら女子大学校を起こし、日本全体に感化を及ぼしたい。日本に適する専門学校を描いていたようだ。
この「女子教育」には女子高等教育の方針を
(1)女子を人として:聡明な知力を備えた活人となる為に男女の別に関わりなく人としての教育を授けなければならない。
(2)女子を婦人として:女子の天職を尽くすに足る資格を養う為に、家政学を研究し家政に必要な知識と経験を積まねばならない。
(3)女子を国民として教育すること。:女子も社会の一員で、それに相当する資格を与え、その義務を尽くす。その為には国家教育を授け独自の生活を立て得る素養を積んでおく必要あり。

こうして1897(明治30)年、広岡浅子、成瀬仁蔵、土倉庄三郎が中心になって日本女子大学創立へ動き出したのである。創立委員長には大隈重信、委員には30名(渋沢栄一、三井三郎助他)が、賛助員には100名を超す政・財・教育界の重鎮が名を連ねている。
後は資金面であった。当時経済不況で設立運動は一時停滞。三井財閥、他協力者の下で寄付総額は当時の金額で52万余円になる。そして東京目白台にある三井家の別荘地5500余坪が、校地として提供されたのだった。

著書のペンネームは「九転十起生」であった。
執筆、書画でも才能を発揮し、もっとも好んだモチーフは「不屈、簾直、正直」を象徴する竹であった。

明治大正を駆け抜けた実業家広岡浅子は1919(大正8)年1月14日、眠るように息を引き取った。
享年69歳であった。

人を恐れず天を仰いで 復刊「一週一信」 / 広岡浅子 【単行本】

今回の文章は日本女子大から送られてくる「桜楓新報」という新聞から抜粋、まとめました。





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最終更新日  2016/11/23 06:58:56 PM
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