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背もそんなにすらっとしているわけでもなし、猫背だし。
でも、歌声は魅力的ですよね。
ダイアナロスの歌声、でもちょっと猫背だよねぇ
先日「dream girls」という映画を見ました。sのなかでは、この「DIANAROSS&supreams」がモデル
となったモータウンレコードの内幕が画かれているのですが、最初はダイアナロスはリードボーカルじゃなかったのですね。
最初はもっと個性的でパンチの効いた方がリードボーカルをつとめていました。
でも、レコード会社の意向で個性的でないほうがいいという理由でダイアナロスになったとか。。。
ダイアナロス(wikipediaより)
ミシガン州デトロイト出身。ハイスクール時代の1959年に女性4人組のコーラス・グループ、プリメッツを結成。
プリメッツは1961年にモータウンと契約、3人組となってザ・シュープリームスとしてデビューする。
ダイアナはシュープリームスのリードシンガーとして『ストップ・イン・ザ・ネーム・オブ・ラブ』、
『恋はあせらず(You Can't Hurry Love)』、『キープ・ミー・ハンギン・オン』など数々のヒット曲を放ち、
トップスターの仲間入りを果たす。ほとんどのヒット曲はモータウンの看板作曲家チームの
ホーランド=ドジャー=ホーランドの作品である。もともとダイアナ一人が目立っていたシュープリームスだったが、
1967年にはメンバーチェンジを機にダイアナ・ロス&ザ・シュープリームスと正式にグループ名が変わった。
シュープリームスの人気が一段落した1970年にダイアナはグループを脱退。ソロ歌手として活動を始める。
ソロ転向後も同年リリースの『エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ』を皮切りに、
『タッチ・ミー・イン・ザ・モーニング』、『マホガニーのテーマ(Theme From 'Mahogany'(Do You Know Where You're Going To))』
(日本ではネスカフェのCM曲としても有名)などの全米1位ヒットを放ち、スーパースターとしての地位を確立した。
私の大好きなモータウン・サウンドが栄光に輝いていた1950年代後半から60年代でした。
モータウンサウンドの主役は数多くの人気アーティストたちと有名な社長「ベリー・ゴーディー」その人でした。
しかし、その栄光の影には数多くの裏方達の活躍がありました。
その中でも一つを取り上げるとするならば、文句なしにモータウン最高の作曲家チーム、
H-D-Hと言うことになるでしょう。
H-D-Hとは、ホランド・ドジャー・ホランドの略で、エディー・ホランドとブライアン・ホランドのホランド兄弟と
ラモン・ドジャーという3人のメンバーからなる作曲家チームのことだそうです。
彼ら3人は音楽学校を出たわけではなく、専門的な音楽的知識が豊富だったわけではありません。
彼らが得意だったのは、若者の心をつかむちょっとしたフレーズや踊りたくさせるような洒落たリズムを
見つけだすことでした。
彼らはアイデアを持ち込むと、モータウンが誇る最高級のミュージシャンたち
(その中心が「ファンク・ブラザース」と呼ばれたモータウンのハウス・バンドです!
実は、彼らこそモータウンのヒットを支えた屋台骨だったと言われています)に、それをいろいろなパターンで演奏させ、
そこから曲を完成させるという方法をとっていました。
ジャズが大好きなピアニストのアール・ヴァン・ダイク、数々の斬新なリズムを生みだしたベーシストの
ジェームス・ジェマーソン、そして、モータウン・サウンド独特の軽快なリズムを生みだしたドラマーの
ベニー・ベンジャミン、「マイ・ガール」のあの有名なリフを生み出したロバート・ホワイトらを中心とする
ファンク・ブラザースと呼ばれたメンバーが、H-D-Hの持ち込んだ曲のアイデアを具体化し、味付けをすることで、
1日に3曲というハイ・ペースで次々にヒット曲が完成させられていったのです。彼ら、ファンク・ブラザースは、
ヒット曲製造工場の生産ラインにおいて、最も熟練した作業員であり、彼らの優れた手作業抜きに、
あれだけの数のヒット曲は生みだし得なかったのです。
しかし、そうして働き続けた彼らに対する報酬は、ほんのわずかだけだったと言うのですから、
実にかわいそうな話です。(このファンク・ブラザースについては、ドキュメンタリー映画の傑作
永遠のモータウン」を是非是非ご覧下さい!)
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