暁太郎の日記随想

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暁1929

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コースケ@ お、俺のおtmtmがぁ――!! もう、もう……なんも出まへぇーん!(TT…
ゆう@ とうとう出ちゃったね うわさは本当だったよ。 http://himitsu.…
kissakem @ 6カ国協議延期と核保有宣言 暁さんのご意見に同感です。相手のあるこ…
中澤 照道@ Re:14日の日記(01/14) 相撲がお好きなようですね、私も相撲は大…

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2006/03/02
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カテゴリ: カテゴリ未分類
●『冬ソナ』から青春の回想 [2005年06月16日(木)]

 鶏が先か、卵が先か、早く目覚めるから早く寝る。NHKで《冬のソナタ》が放映されていることを知っていたが、早寝早起きの私には時間的に鑑賞する機会がなかった。

 ところが新聞の広告に出ているし《韓流》なんてことばも生まれ、来日したTVや冬ソナツアーにコマーシャルにも出てくるし、私はソール生まれだから、尚更興味が湧いてきた折、友人がCDを貸してくれた。

 ラブストーリーで三つ巴の恋に、意表をつくどんでん返しが織り込まれ、7枚のCDを興味を募られながら、一気に見てしまった。そこで頭に浮かんだのが、千 昌夫の《星影のワルツ》である。雪の降る場面が多かったためか、それからそれえと青春の回想が蘇って来た。

 友人の彼とは、新任当時から一緒に勤務して親しかったが、幾年か阪神間に転勤して、また同じ市で出会うことが出来た。雪国育ちで、高校当時は国体にも出たスキーの名手で、誘われるままに彼の実家の志賀高原に出かける。

 予告はなかったが、彼が宝塚で一緒に勤務していたのか、女性が一人同乗してくる。3人旅は楽しかったし、南国育ちの私は、雪景色も素敵だったし、スキーも彼女と共に教えてもらい上達する。

 夜はコタツを囲んで、久しぶりの息子の帰省に、母親の心づくしのご馳走に舌鼓を打ち、酒も存分に飲み、彼は自慢の民謡を歌い、雪の降る外の景色は、我々を暖かく包んでくれた。

 私は彼と同じ部屋でやすんだが、夜中に目覚めると彼の姿はなかったが、朝は同じ部屋で目覚めた。彼女は結婚するらしい。好きであった彼に最後の出会いを求めたのであろう。

 スキーの後は温泉で疲れを癒し、近くのスナックに行く。彼は当時流行っていた《星影のワルツ》を幾度も歌った。♪“別れることは辛いけど、仕方がないんで君のため 別れに星影のワルツを歌おう 今でも好きだ死ぬほどに・・♪さよならなんてどうしても 言えないだろうな 泣くだろうな 別れに星影のワルツを歌おう”♪ 一緒に座っている彼女の目に光るものを見た。



 退職した後、全く疎遠になっているが、冬のソナタのストーリーから雪・スキー・星影のワルツ・親しかった友人と宝塚の彼女・・・など、 をたわいもない思い出が蘇ってくるのである。


極楽トンボの日記随想

●幼い私と大相撲
 私は旧朝鮮の京城三坂通りの朝鮮銀行の社宅で生まれたと戸籍に記載されている。兄は東京生まれだから、親父が日本銀行に勤めていた頃であろうか。

 私が4・5歳ごろには父は、日銀から鮮銀に移って元山の支店長時代で、住宅は高台にあり、急な石段を登った正面にあった。他に社宅が幾軒かあったように記憶している。

 元山は、戦後在日韓国人やその日本人妻が理想郷の北朝鮮を目指して帰国した場所でもあり、戦前は、日本と朝鮮の移出入が盛んな貿易港として栄えた場所でもあった故か、本州との経済を司っていた様で、支店長宅は敷地も広く桜の頃は各界人を集めて、雪洞を灯し園遊会が催された。

 大相撲が元山に来るというので、その一部が我が家に宿泊することになり、母が女中を督励して布団を作っていたことを思い出す。なんでも背が高いので敷布団も通常のものでは間に合わなかったのであろう。離れに行ってはいけないと言われながら、絵本で見たちょん髷を結った浴衣姿の力士姿が怪物のように大きいのに驚いた印象がある。私の初めての力士との出会いであった。

 父は時の鮮銀 総裁松原純一氏の寵愛を受けたのか、僅かな期間で京城の本店に戻った。私は、社宅に近い三坂尋常小学校の1年に入学、4年まで通った。兄は近くの龍山中学校に通っていたが、銀行の貸し桟敷があって、幾度か父と相撲を観戦したことがある。

 小学校の体操の時間は、印象として相撲ばかりしていたようで、大相撲の京城場所で、首投げの上手な力士がいたのか、私の取り口は、首を抱えて足をかける技が得意であった。

 その頃は、玉錦の全盛の時であったと思うし、男女川(みなのがわ)双葉山が台頭した時代で、家に帰って友達とバッチンをして、ひっくり返して取り合ったが、その絵柄は力士か、乃木大将の様な軍人であったように思う。



 当時の遊びはパッチンか、画用紙を二つ折りにして力士の型紙を作り、机の引き出しの裏に墨で円を書き、トントンと板を叩いて取り組んだ力士のどちらが倒れるか、勝負をして遊んだ。四股名も金剛山だとか、漢江なんて付けた様に思う。
 たわいもない話だが、相撲協会に巡業の記録が残っていれば、昭和の一桁時代の巡業先に必ず元山や新京場所があるはず、年代も確り確認できるのだが、PCではどこを探してもないのは残念である。





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Last updated  2006/03/02 11:27:31 AM
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とうとう出ちゃったね  
ゆう さん


(2006/03/04 03:36:13 AM)

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