アーユルヴェーダ・アロマ・ヨガ

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2006.06.13
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カテゴリ: アーユルヴェーダ
~座禅を前に~

「中庸」



この釈迦のめざした境地こそ、現代にもっともかけていて、人々の空虚感、苦しみ、不安を生み出している要因だと思う。歴史の中では、たいていの場合、人々はそれぞれ役割が明確で、自由になる時間などほとんどなかった。日々繰り返される日常の仕事とそれをきちんとこなしていくこと、これがどれだけ人を癒し満たしていることか。そして、その儀式的ともいえる日常繰り返されるべき仕事を機械がとってかわった今、それでも人がより一層働いたり、寝食を削ってでも費やしている時間は、なんのためなのだろう。


 昨日、普段はとても明るい友人がリストカットをしていたことを告白した。魂から訴えているように切実で、時より押し寄せてく“空虚感”“無力感”から自分を消したくなると教えてくれた。何とかして、自分を受け入れて欲しい、なんとかして自分を理解してくれる人が欲しいと彼女は訴えた。しかし、一方で彼女の話しの中には十分すぎるほど、彼女を愛し、助けたいと思っている人々の話がでてきた。どこまでいけば彼女は満たされるのか?才能、知性、愛情すべてが浪費され空っぽになっていると感じた。他人はどんなに愛をかけても、自分を充電するのは他でもない、自分しかない。これに人々が気がつくにはどうしたらいいのか。携帯の充電は、他の機種の充電器じゃできないことは知っているのに、自分自身の充電方法がわからない。


 インドの瞑想が変化したとも言われる座禅。目を閉じて五感を休め、意識の深いレベルに入っていくことは、自分の本質とつながることだといわれる。そして、宗教によって言い方こそ違えど、その最終的に行き着く先にあるものは、神、宇宙エネルギーといった“全て“だという。

 現代科学で主流となっている量子力学の分野では、この世の中を構成している最小単位はエネルギー、波動であるときく。そして、莫大なエネルギーがまだ動きをもたず不活発にそこに存在するとき、ある段階で必ずゆがみがおき、ビックバンのような大爆発が起きることが近年わかってきたそうだ。つまり、はじまりは1つエネルギーの塊で、それは全てであった。その散り散りにわかれた光のエネルギーが宇宙の大きな流れの中で今日の自分となっている。

この概念を教えてくれた理学博士であり、私の瞑想の師匠でもある方は、瞑想、座禅で深く入り込んだ意識の光は、本来の自分でもある大本の光と融合するのだと言っていた。そしてその最終地点を神とよぶのであれば、瞑想、座禅は究極の神への祈りだといえるのだと。

瞑想を行うようになってから、それが日本の座禅という形でどういう変化を遂げたのか体験したいと思っていた。だから、とても感謝している。今回のテーマは、意識を集中し、浮かんできる想念がひとしきり過ぎた後、何が感じられるのか、それを体験したいと思う。そして、釈迦の境地。ありのまますべてを受け入れ慈しむ「中庸」の境地を少しでもみにつけたいと思う。





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最終更新日  2006.06.19 10:17:14


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