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蟹が食べたい!!と、いうわけで北海道フェアに行ってまいりました。目指すはなぜか横浜・・・テクノタワーホテル・ファミールホテル内のレストランでビュッフェになっていました蟹。蟹。蟹お箸でずっしり重いたらば蟹大きなお皿からはみ出してしまうサイズです。お食事もいただいて。。。デザートにケーキ。横浜はシルク貿易が栄えたことで有名ですがここファミールはシルクケーキを看板にしているとか。浜市金沢区にある横浜金沢ハイテクセンター内のテクノタワーにあり横浜の洋菓子会社ファミール製菓が運営するホテルです。ファミール製菓は絹糸から抽出されるシルクパウダーを洋菓子に使用した「シルクケーキ」で知られ、レストランやカフェの運営も行い、そのホテル部門で、平成6年(1994年)5月に開業しました。JAZZのLiveもやっています^^金沢区は金沢八景で知られる風光明媚な地域で、多くの文人、芸術家や名士が別荘を構えましたが、その景観の多くは戦後の埋立てにより失われてしまいました。ウォーターフロント再開発の中、八景島を中心とする新たな観光開発により従来の自然も活かした美しい景観が誕生、横浜港のマリーナ港区を中心とする新しい観光地域として復活しています。テクノタワーのエントランス横浜市金沢区は横浜市立大学や関東学院大学が立地する文教地域でもあり、起業支援、新産業創造施設である横浜金沢ハイテクセンターへの訪問にも利用されています。またギャラリー等にも利用され、地域のコミュニティ支援もホテル運営により向上しているのだそうです。食後はスパークリングワインとフルーツ、チーズのサービス22階からの夜景
2008/02/28
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北鎌倉駅から歩いてしばらくすると、懐石「口悦」さんがあります。本当に捨てがたいところですが今回のお目当てはビーフシチュー。。。我慢して、とことこ。。。。「去來庵」到着ビーフシチューをブイヨンライスでオーダーするとすぐにサラダが運ばれてきます。畳の和室に上がって木漏れ日を眺め一休み。。。ビーフシチューは完成に1週間かける絶品。 お肉が大きく、沢山です。結構、食べ応えがありました♪お肉は当然、人参も柔らかくお味は最高です^^ 去来庵 (キョライアン) 〒247-0062 神奈川県鎌倉市山ノ内157 TEL:0467-24-9835 交通アクセス JR横須賀線北鎌倉駅より鶴岡八幡宮方面へ徒歩7分 営業期間 営業:11時~15時(土日は~17時)定休日:金休業:定休日が祝日の場合は営業 料金 ビーフシチュー1785円、ビーフセット2625円 駐車場 あり(無料) 3台
2008/02/24
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北鎌倉駅に到着まずはともあれ駅前にある稲荷寿司屋「光泉」さんに飛び込みます^^予約をしていないと買えないいことが多かったのですがこの日は飛び込みで大丈夫でした二人前をオーダーして、しばし店内で待つこと5分出来立ての稲荷寿司を持って北鎌倉から鎌倉まで散策です。お隣には喫茶店「門」店名の由来は夏目漱石の小説「門」から。落ち着いたレトロな店内、グラス等までレトロ♪それでは出発進行♪
2008/02/24
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車を鎌倉郵便局隣に置いて電車で北鎌倉へ。。。強風のため電車のダイヤが乱れています。東京方面は運転再開、ダイヤも通常に復活しました♪北鎌倉から鎌倉までの道を鹿は一日存分に歩きまする♪
2008/02/24
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2008/02/24
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午後から駅伝のある通り…まだ人けはありません。もうすぐ交通規制。今のうちに横浜脱出!
2008/02/23
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突風の横浜あまりの寒さに暖かいアールグイミルク横浜のホテルと言えば。。。ベイシェラトンホテル、「ザヨコ」の通称で人気の「ザ・ホテルヨコハマ」、みなとみらいには帆のイメージのインターコンチネンタルホテル、ランドマークタワーのロイヤルパークホテルニッコー。でも、何といっても歴史という点からは、山下公園前のホテル・ニューグランドです。明治6年(1873年)海岸通20番に開業した時は、今の「人形の家」のあたりにあったそうです。大正12年、あの関東大震災によってその全てがすべてが崩れ去ってしいました。ホテルの経営者は瓦礫の山を前に、ホテル運営の継続を断念せざるを得ませんでした。これを受けた神奈川県や横浜市は、地元の財界からも出資を募って、新しいホテルの建設に着手しました。設計者は渡辺仁。さらには、国立博物館や日比谷の第一生命館などのすぐれた建築物で知られる一方、北品川の原美術館や銀座の時計台銀座和光なども手がけてます。ホテル・ニューグランド 大正15年12月1日開業横浜市は復興計画を立てはじめ、その中に「ホテル建設費」というのが入っていました。当時の輸出産業の生糸に関係していて、生糸は横浜港から独占的に輸出されていたからです。震災の数年前から、神戸で生糸市場の開設運動が起こり、震災で壊滅的な打撃を受けた横浜港に代わり、神戸港でも生糸の輸出ができるようになりました。実際に、神戸港の生糸やその他の貿易量が増えたのに対して、横浜港のはなかなか震災前の水準に戻りません。横浜から商社や外国人が、神戸や東京に引越して行くのを見て、至急、近代的なホテルを建設して再び横浜に貿易業者を誘致しようと、当時の市長や議会は考えたのです。 一方、横浜の財界人が中心になり、新しいホテルの運営の人選をすすめました。このようにして、ホテル・ニューグランドは大正15年12月1日に開業しました。新ホテルの建設と同時に、横浜市はホテルの名称を一般公募しました。結果、採用となったのがこの「ホテル・ニューグランド」だったのです。市民もグランド・ホテルを忘れられなかった表れだとおもいませんか?そして2007年12月1日 80周年を迎えました。ホテル・ニューグランドといえば・・・マッカーサー、石原裕次郎、カクテルの発祥プリンアラモードもナポリタンもここが初めてなんです♪このホテルはマッカーサーが泊まったことでも知られています。マッカーサーがマニラから厚木基地に降りた日、彼の側近が「閣下これからどちらへ」と尋ねると、彼は即座に「ホテルニューグランド」と言い、そのまま車でニューグランドに移動し315号室に入ったそうです。現在は改築され「マッカーサースイート」となっています。当時315号室だったマッカーサースイート「勝利の間」程なく昼食の時間になりホテルと言えども、食糧が豊富にあるわけではなく、用意したメニューは「冷凍のスケソーダラ、サバ、酢をかけたキュウリ」でした。(冷凍クジラのステーキ風という説も)マッカーサーは一口だけで食べるのを止めてしまいました。それを知ったニューグランドの野村会長は日本の食糧難をマッカーサーに直訴したという話もあります。厨房にはほとんど食財が無く、肉食である客人にどうにかしてでも提供をして差し上げる、という努力の甲斐も無かったかのようなエピソードです。その時の記録のある本を読みましたが、野村会長は、横浜市民が今日食べるものすら無い状況を丁寧な言葉で伝えていた記憶があります。一口で食べるのをやめた。。。という話は有名で、豊かなアメリカ人の横柄な印象ですが実はマッカーサーは、この後迅速に母国から日本への食料の供給を図っています。ピクルスの代わりにきゅうりに酢をかけただけのもの、肉に見立てた魚を食し一口で食べるのをやめたのには、一流であるはずのホテルですら、あまりの現状を知った痛みであったのでは。。。と私は勝手に思っています。当時の総料理長入江茂忠が苦心の末生み出したというものが「スパゲティーナポリタン」でした。その他、ヨーロッパで流行していたグラタンソースを組み合わせ、サリー・ワイルが生み出したシュリンプドリアは「ホテルニューグランド」発の名物料理です。マッカーサーはこのホテルに3日泊まったあと、宿舎を根岸の山の上にある元スタンダード石油の支社長、C・マイヤーズ邸を使ったということになっています。12日間の横浜滞在の後、東京の第一生命ビルがGHQの本部になりましたが、そのビルとニューグランドを設計したのは、どちらも渡部仁です。バー「シーガーディアン」 ホテルには著名人も多く宿泊しました。チャップリン、ベーブ・ルースも泊まったそうです。仕事場として使った作家の大佛次郎は、10年ほど鎌倉の自宅からニューグランドに通っていたそうです。仕事に疲れるとホテルの一階のバー「シーガーディアン」でくつろいでいたそうです。このバーから日本をイメージしたオリジナルカクテル「バンブー」が生まれていて、石原裕次郎はここのバーでディオぺぺを愛飲しました。「シーガーディアン」は重厚な雰囲気のなか、濃密な大人の時間が流れていく英国調の正統派バーです。寡黙でいて味わい深いもてなしは、ホテルニューグランドの血統。ホテルニューグランドで生まれ、サボイのカクテルブックにも紹介されている世界的なカクテル「ヨコハマ」。人気の「バンブー」もニューグランド発祥のカクテルです。氷川丸 強風に潮水が霧状に飛散してミストのよう本当に寒かったーーー
2008/02/23
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大池と旧燈明寺三重塔久しぶりの・・・・三渓園黄砂の強風の中、三渓園散歩です。開園100周年の三渓園臨春閣 【重要文化財指定】 1649年(慶安2年)建築もとは、紀州徳川家初代徳川頼宣が夏の別荘として、現在の和歌山県岩出市に建てたものです。 1906年(明治39年)、三溪の手に渡り、1915年(大正4年)から1917年(大正6年)にかけて園内に再建されました。 第一屋、第二屋、第三屋で構成され、襖絵は狩野探幽、狩野安信などによって描かれています。いにしえの梅薫る「三溪園観梅会」開催中(2月10日~3月9日)三溪園の観梅会は明治41年に創設者原三溪が梅林の完成を祝って知人を招いたことにはじまります。第2次大戦中、梅林も大きな被害を受け、観梅会もいつしか行われなくなりましたが、昭和50年に再スタートし現在に至ります。燈明寺三重塔を大池から見上げた絵柄を型押しした餡入り落雁(3種類の味が各3個、計9個入り600円)緑萼梅 中国上海市寄贈 原 三溪(本名富太郎)(1868年(慶応4)-1939年(昭和14))岐阜県厚見群佐波村(現在の岐阜県柳津町)で代々に渡り、庄屋をつとめた青木家の長男として生まれました。幼少の頃から絵、漢学、詩文を学び、1885年(明治18)東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学、政治・法律を学びました。1888年(明治21)に跡見女学校の助教授になり、1892年(明治25)に、教え子であった原善三郎の孫娘、屋寿と結婚し、原家に入籍。原家の家業を継ぐと、個人商社を合名会社へと改組生糸輸出を始めるなどの経営の近代化と国際化に力を入れ、実業家として成功を収めました。実業家以外にも様々な面を持ちあわせた三溪は、住まいを本牧・三之谷へ移すと古建築の移築を開始し、1906年(明治39)三溪園を無料にて開園するほか、近代日本画家の支援・育成を行いました。1923年(大正12)の関東大震災後は、横浜市復興会長に就任し、それまでの美術品収集、作家支援を止め荒廃した横浜の復興に力を注ぎました。三溪自身も書画をたしなみ、その作品の一部は、園内の三溪記念館内に収蔵されています。
2008/02/23
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2008/02/23
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2008/02/23
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いったいどんな味…??? つい買っちゃいました。でも飲む勇気がないバビ。静岡県島田の木村飲料さんの一品です。
2008/02/23
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最近、お蕎麦ばかり食しています♪良質スタンダードな一茶庵や、暖簾分け無しの乱切りで味が濃い田舎蕎麦も好きだけど、今日は、蕎麦の実を最大に研磨した白いお蕎麦、更科でおかめ蕎麦♪♪
2008/02/23
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2008/02/22
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シーボルトは、1796年2月17日、現在のドイツ連邦共和国バイエルン州ヴュルツブルク市の医学者の家に生まれ、ヴュルツブルク大学医学部の時代には、医学ばかりでなく、動、植物学や民族学なども学びました。この広い科学的知識が、のちにシーボルトが日本の調査・研究をするときに大いに役立ち、出島のオランダ商館医として長崎に派遣されます。今日、晴々とした二月の冷たい空気と陽気の中、旧友からの愛でたい報告がありました。彼との同棲を経て、両家への挨拶も済み御成婚です♪お騒がせなようでも、いつも二人一緒だったよね。よかったわ♪やったね!!おめでとう♪♪♪
2008/02/17
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瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ小説「春の雪」松枝候爵家の若君清顕は、幼少時代に綾野伯爵家にあずけられ、伯爵家令嬢、聡子と百人一首で遊ぶ場面があります。恋をつらぬく強い情熱がうたわれているこの歌の、上の句と下の句の札を、それぞれに大事に持つ事で二人は恋の成就を願いました。8年の月日の後、(清顕19歳、聡子21歳)この二つの札は清顕の手により合わさる事になりますが、この世では二度と清顕に逢わないと仏に誓い出家する聡子が、別れの間際に手渡したことによります。この札は合わさったものの句の意味あいとは反し、引き裂かれたまま願いが叶わなかった結末になっています。それ故に、誓った幼少を懐かしみ恋焦がれていく清顕の痛々さが印象的です。「ひきさかれても再び出会うことを、岩にせき止められ分かれた急流がまた一つになりましょう。」
2008/02/14
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