つなげ“希”動力-袖番号96、伊東勉のページ楽天版(更新停止。書庫ログ)

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2015年03月07日
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カテゴリ: 私の事、色々と
 12年に8人(高田市議及川一郎、大農同期村上敦史、同古澤輝子、大農先輩熊谷永一、大農後輩上舘洋文、高田ク金野潤也、ローソン気仙町店清水昌広、美香兄妹・敬称略)の追悼記事を書きましたが、以降続編を書く機会を作れないできました。今日は高校の野球部関係で知り合った3人についてお話しします。

 気仙地区の中学出身91年入学生で高校野球に飛び込んだ同期生は約100人。今日に至るまでに2人なくなっていますが、その内の一人は「3・11」に。高田町出身、大船渡高に在籍していた及川充君でした。
 充君は外野手でもありましたが、同時にスコアラーでも。当時は甲子園で女子マネをベンチに入れることができず、県大会レベルでもそうは多くなかった気がします。なのでベンチにスコアラー兼任で選手を一人入れるチームも。充君と話する機会できたのはそこからだった気が。後に大高の充君、船工のT君に「(大農の私と合わせて)スコアラートリオだな」なんて各々に話していたのを覚えています。
 万年補欠の伊東に、成長期が遅れたT君は試合出場に恵まれませんでしたが、充君は一時期名門校大高の背番号9を背負います。しかし最後の夏はレギュラー奪えずスコアラーに。その後高校野球を終えてからは没交渉になってしまい、風の噂で高田の実家を継ぎ、道の駅高田松原でも店出して頑張っていた様子を聞いていましたが、なかなかそこに通うこともできずにいました(なにぶん貧乏人にはしんどい)。

 大震災後はじめて大船渡に入った3泊4日間。その最後の日に寄った知人からひとつの知らせがありました。
 「明日、充の火葬が遠野であるってよ…」
 充君は残念ながら、津波の犠牲になっていました。自らも消防団でもあり、更に客逃がさにゃという責任、持ったんだろな…。聞けば家族も多数犠牲になってしまったと。家業は高田駅前の食堂。高校時代、盛駅で馬鹿話することもあった充君との大人になってから再会はなりませんでした。あれから4年、高校野球経験者の夭逝はありません。土産話は沢山持っていきます。そちらから高田を、野球仲間を見守ってください。

 大船渡農高野球部関連では88年~07年入学生約200人の内では3人が犠牲に。その内の一人・上舘洋文君に関しては12年に記述。今回は残る2人について記します。
 陸前高田で被災した小淵圭也君は95年入学。小柄ながら機敏な動きで入学早々レギュラーに。野球部未経験者も多い大農野球部で、中学からの経験を持つ小淵君の経験は貴重なものでしたが、強気のプレーがややもするとマイナスにも作用し、3年次の夏の大会では途中からの出場に。それでも三年間やりきった経験を元に社会に巣立ちました。

 「高田に戻ってきていたのか…」
 それより、後に岩手日報「忘れない」で記述されていた彼の記述は少なかったな、と。そっちの方がある意味でショックでした。社会に出てから、どう生きてきたんだ―それを知ることなく彼はいなくなってしまいました。同期の中にはふるさとを離れざるを得ない人も。それでもまだ生を得ているだけマシなのでしょうか。どう成長し、生きてきたのかを語り合いたかった。そういう意味で残念です。

 最後に。88年以降入学の大農野球部員でもう一人の“犠牲者”、出羽友和君を紹介しますが、彼は正確には「行方不明者」。もうじき4年になろうとしていますが、残念ながらまだ帰ってきていません。弟さんには会う機会あるので時々聞いていますが…。
 友和君は私と入れ替わりに大農に入学。存続すら危ぶまれた大農野球部最悪の状況下、更にエースが肩痛を起こしてしまいました。そのときマウンドを預かったのは友和君。夏の大会はそのまま彼がエースナンバーをつけることになりました。そして、迎えたはじめての夏。
 練習試合で幾度も20点、30点近くの大差をつけられて負け続け、火がついた大農ナイン。実力は相手(水沢一)が上でしたが、途中までは競った戦いを演じていました。しかし、投手経験の少なさがひとつの事態を起こします。

 四人の審判が揃って「ボーク!」

 …これが4回。高校野球は分かりませんが、プロ野球では一試合4ボークが最多。
 当時の大農野球部の顧問は野球に精通している方でなく、指導が届きませんでした。その結果の4ボーク。辛い役目押っつけてしまったな思いました。しかし、長身に恵まれた彼はその後も大農のマウンドを守り、野球センスに優れた後輩も入ってくる中、背番号1は守り抜き、上舘君と共にチームを支え、後輩たちの礎となりました。その後、地元に就職した友和君。約10歳年の離れた弟さんとは一緒に野球をやっていることもあり、縁を感じたものでした。

 3・11後1ヶ月。喧騒に包まれていた大船渡市役所にも足を運んでいた私は、そこで幾人も行方不明者の存在を知ることになります。よりによって大農の後輩の2人も―上舘、友和両君とも―。上舘君はその後間もなく帰ってきましたが、友和君は…まだです。

 今日紹介した三人は、野球が紡いだ付き合いです。各々に人生あった所を、こういう形で止められて…近日中には4年になります。充君、小淵君。俺はまだ野球続けているぞ。友和君、早く帰ってこいよ。いずれそっち行ったら、また野球やろうな。それまでは頑張って生きるわ。
 同じ白球握った者として恥じないように生き抜いて参ります。三人とも、どっかで見守ってけでな。それを締めとして、この項を終わります。





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最終更新日  2016年02月27日 21時54分04秒
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