2001年09月27日
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
私は、キリストをこう捉えています。
 神が、キリストを人間の中に放り出し、その人間の愚行ゆえに十字架にかけられたとき、キリストは、
「神よ。自分が何をしているのか分かっていないのです。許してください。」
といわれたといいます。それは、キリストにとっても苦しくつらい一言でした。なぜなら、その時、「神よ、私を見捨てたのか。」とまで言っているからです。彼は、そのとき、まさに人間だったからです。
 私は、奇跡を示したから神を信じているのではないのです。自分の命を投げ出してまで、人を愛したキリストに憧れる(だからファンなのです)からなのです。
 そのキリストが、愚かな人間のために犠牲になった人を悲しまないわけがありません。だからといって、本人や残された人を神が救うかといったら、それは、その人がキリストと同じように、許すことなくして救われることはないでしょう。報復することで救われることはないはずです。命はもどらないからです。
 キリストが、『目には目を・・』というそれまでの、報復が当然の世の中に、
「味方を愛して何がすばらしいか、そんなことは当たり前だ。敵を愛せ」といわれたのは、平穏な世の中にするためではなく、人間がこれから苦しみの中から本当に愛することの深さを知るまで、救われることがないという宣言をしたのだと思います。
 空想ではありません。マザーテレサのように、神に憧れ、敵すら愛する行為を示した人が現実にいるのです。この愛するということが、どれだけの人に希望を与えているか計り知れません。

 妻を亡くした人が、悲しみから立ち直れずにいたとき、
「あなたが先に逝ったら、残された奥さんが悲しんだでしょう。」と言われて、自分が生き残って良かったのだと思えるようになったという話を聞いたことがあります。
 それは、心のもちようである、といわれればそれまでですが。人には、愛することで自分も人をも救う力が与えられているとは思いませんか。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2001年09月28日 00時26分42秒
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

atomkun2

atomkun2

コメント新着

コメントに書き込みはありません。

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: