ビジネス便利屋兼ライター 永嶋信晴のブログ

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2008年11月16日
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 オイラが最近はまっているのが、筋トレ。

 この前、何気にテレビを見ていたら、中高年でも安全に、短時間でも効果のあがる筋トレの仕方をやっていたのですよ。

 その方法は、腹筋、スクワット、腕立て伏せの3種類のみ。

 しかも、やるのはそれぞれ、たったの10回だけ。テレビではそれを一日2セットやるとさらに効果的と言っていました。

 えっ?たったそれだけで効果あるの?

 若いころは筋肉ヲタクで、ブルワーカーはもちろん6キロのダンベル、エキスパンダーなどエクササイズ用具は今でも家にあるオイラ。

 それを全部やったら1時間はかかるし、疲れるし、面倒くさいし、でここ何年間かはご無沙汰でした。

 でもテレビで見た、この方法を実践している人たちは、高齢者でも信じられないくらい身体レベルの高い人が多い。



 ただ、やり方にちょっとしたコツがあるみたい。

 それは、腹筋にしても、スクワットにしても、腕立てにしても、通常よりゆっくりやること。

 腹筋や腕立ては、腰に負担がかからない配慮はしてありましたが、基本的にはスローにやるということさえクリアすればいろいろ応用できそうですね。

 オイラはとりあえずその3種類だけやってみました。トータルでも一日10分くらいでできます。

 それを実践して10日くらい経った頃、なんとなく効果が実感できるようになったのですよ。

 ダイエットして体が軽くなったところに筋トレを行ったので、車で言うと車体を軽量化してエンジンのパワーを増した感覚と言いますか。

 街を普通に歩いていても、体に余力があるから、何の脈絡もなく駈けだしたり、階段を3段抜かしで駆けあがりたいという衝動にかられる。

 何をするにしても体を動かすことに関しては、余裕をもってできるというメリットはありますね。

 ダイエットして少々困ったのは、満員電車の中。

 なぜか、気がつくといつもオイラの隣に、身長180センチで体重が120キロは超えていると思われるメタボおやじが立っているんですよ。

 太っていた頃は、電車が揺れてそのおやじが倒れ掛かってきても、怒涛のがぶり寄りで押し返すこともできた。



 ただ、最近はおかげさまで筋トレの成果からスピードとパワーがつきました。

 体勢を低くしてメタボおやじの前みつをとり、一気に寄り切ろうという作戦をたてております。

 今度、ホームで千代の富士みたいな足を高く上げる四股を踏んでから、満員電車に乗りこもうか、と…。

 そのメタボおやじも、曙みたいにのっそり電車に乗り込んできたりして。




 江戸時代の城の東正横綱といえば、江戸城だと思いますが、戦国時代の城の横綱もまた関東にあるのですね~。

 それは小田原城。

 ご存知、後北条氏の本城として、当時関東の中心であった大城郭です。

 名将武田信玄や上杉謙信も落とすことができず、豊臣秀吉が全国から集めた20万の兵力に包囲されながらも100日間持ちこたえたのですよ。

 子供の頃から城ヲタクだったオイラ。当然、小田原城は何度も行っているのですが、いつも見ていたのは江戸時代の小田原城なのでした。

 新幹線に乗っていて車窓から見える天守閣は、昭和35年に鉄筋コンクリートで外観復元されたもの。宝永3年(1706)に作られた天守閣の設計図や模型を参考に再建されたのですな。

 天守閣は立派ですが、豊臣秀吉の大軍を迎え撃ったにしては、正直言って小さな城だなという印象でした。江戸時代は10万石クラスの譜代大名が城主だったのですね。

 ところがその後、いろいろ本を読んでいて、現在の本丸には北条氏の居館はあったものの、戦国時代の本丸は別な場所にあったことを知りました。

 それは、東海道線と新幹線の線路を越えたもっと標高の高い場所。現在城山公園や県立小田原高校になっている辺りが、北条氏時代の本丸だとか。

 そう聞くと、行かないわけにはまいりませぬ。

 江戸時代の小田原も、東海道の要衝として繁栄していましたが、史上小田原がもっとも脚光を浴びていたのは北条氏の時代だったのではないか。

 小田原征伐の当時、もし新聞があったら全国紙でも連日一面トップで掲載されたでしょうからね。

 北条氏の時代の本丸を知らなくては、城ヲタクのもぐりと言われても仕方ないっす。

 … ということで、名誉挽回のために小田原へやってきました。

 いつもは繁華街の東口へ出て、城址公園へ向かうのですが、今回は西口からスタートです。

 駅前には、北条早雲の銅像が…。

北条早雲の銅像



 望遠で撮ったので不鮮明ですけど、馬に乗った早雲と走る鹿のコラボレーションですか。

 馬と鹿…とだからどうというのではなく、これは早雲が小田原城を攻略した故事によるものでしょうね。

 当時の小田原城主は大森藤頼。

 伊豆にいた早雲は、「伊豆で鹿狩りをしていたら鹿が箱根の山に逃げてしまった。そこで鹿を追い返すために勢子を小田原領内に入れ、伊豆へ鹿を追いやりたい」という手紙を藤頼の元に届ける。

 藤頼はこれを許して、早雲は勢子を入れた。が、しかし、これは勢子に扮した早雲の兵で、裏山から一気に小田原城を攻め落とし、相模の国攻略の第一歩としたのでした。

 現在の小田原城を眺めていると、東海道新幹線などで分断されて単独の丘の上に建っている城のように見える。でも、それより高く、鹿が逃げ込むのには絶好の裏山があるのですね。

 それはともかく、北条早雲の像が小田原駅の西口にあるのが興味深い。

 東口が江戸時代の小田原、西口は北条氏時代の小田原と、棲み分けができているのだろうかと思ったりして。

 北条早雲は司馬遼太郎の「箱根の坂」を読んで共感を覚えた武将です。中年になってから一念発起して京都から駿河の国へ。

 今だったら、東京から地方へIターンして新たな働き口を見つけて働くといった印象でしょうか。

 京都にいた頃は、鞍を作っていた職人のような描かれ方をしていたのが記憶に残っています。

 確か、50代半ばで興国寺城の主となり、60歳過ぎてから伊豆の国を取り、88歳まで長生きしたのでしたね。彼の生涯を眺めると、中高年も夢さえ捨てなければまたまだやれるのではないかと希望がわいてきます。

 そんなことを考えつつ、お寺が左右に並ぶ舗装道路を通って城山公園へ向かいました。

 道路は広くて立派なのですが、さすが城山というだけあって勾配がきつい。

 やがて右手に、陸上競技場のグランドが見えてきました。行った日は、中学生の競技会が開かれていて、場内アナウンスがひっきりなしに聞こえます。

御前曲輪の跡


 このグランドの広大なスペースが御前曲輪の跡なんですと。

 小さな城だったら城全体がすっぽり入るスペースが、数ある曲輪の一部ですから城の規模がわかりますね。

 眺望がよくて土地の起伏はわかるのですが、城の規模が大きすぎて縄張りが推理できませぬ。

 いつもは、ガイドブックのコースを無視して城跡を縦横無尽に歩き回るのですが、迷子になりそうなのでコースに従うことにしました。

 公園の林の中を歩いてゆくと、巨大な空堀が目の前に現れます。

小峰の大堀切


 これが、小峰の大堀切。

 小田原城の西の守りを固めるために、豊臣秀吉の小田原征伐に備えるために作られたらしい。

 堀の幅は、約20から30メートル。深さは土塁の頂上から12メートルあまりもあって、斜面は50度という急勾配なのだとか。

 空堀としては全国的にも最大規模のものですか。

 正直言って、これくらいの大きさの空堀は何度か目にしたことがありますけど、驚くべきはその総延長。なんと9キロメートルにも及ぶそうなんですよ。

 小田原城が戦国時代末期、その威容を天下に響かせたもっとも大きな理由が、総構の巨大さでした。

 城下町を包囲する外郭の周囲は五里と言うから、約二十キロにも及んだらしい。戦国時代のドラマを見ていて、北条氏が登場するシーンには必ずと言っていいほどこのフレーズが飛び出します。

小峰の大堀切、上から


 それにしても、これだけの空堀がよく現代まで残りましたな。

 中途半端な規模ではないから、城跡にそれほど関心がなかった時代の人も手を付けられなかったのかも。

 当時の北条方の人たちは、日本全国を敵にまわして戦うことを想定して巨大な空堀を作ったのですね。死ぬか生きるか、必死の思いだったのでしょう。

 彼らの心中をイメージしていたら、腕にでっかい蚊が数匹も止まっていました。ちなみに行った日は初秋でしたので念のため。

 血を吸われるか、吸われないか、必死の思いで腕をバチバチ叩きながら空堀をあとにします。

 しばらく歩くと、大久保神社。

大久保神社


 ここは江戸時代の小田原藩主大久保氏を祭った神社ですな。城下町より、北条氏の本丸のすぐそばにあるというのは何か意味でもあるだろうかと考えました。

 それにしても、このあたりからの眺望は素晴らしい。小田原の市内はもちろん、伊豆や真鶴半島。そして小田原征伐で、豊臣秀吉が陣を張った石垣山城まで見通すことができまする。

戦国小田原城からの眺望


 このあたりから、一夜にして城ができたと北条方は大騒ぎしたのですな。

 急な坂道をくだり、小田原の市街地へと向かいます。

 その途中にあるのが、伝肇寺(でんじょうじ)。

伝肇寺


 ここは詩人の北原白秋が34歳のとき、小笠原からこちらの境内に居を構えて移り住んだそうななんですよ。

 その家が屋根も壁も茅葺の南方的な庵室だったらしい。

 その姿が木菟(みみずく)に似ていたので、白秋自ら「木菟の家」と呼んだとのこと。

 小田原はともかく、北原白秋が小笠原の父島に一時住んでいたというのは驚きましたね。

 なんでも奥さんが肺結核になったから空気のいいところで静養したそうなのですが。

 境内には、白秋にちなんだみみずく幼稚園がありました。

 国道1号まで降り、次に向かったのは、鎌倉時代末期の石碑のある居神神社。

居神神社


 解説板には、小田原の後北条氏に討たれた三浦荒次郎平義意(よしおき)の霊もお祭りしてあると書かれていました。

 これからいよいよ、江戸時代の小田原の城下町を歩くのですが、それはまた次回。





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最終更新日  2008年11月16日 12時41分22秒 コメント(10) | コメントを書く


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