ビジネス便利屋兼ライター 永嶋信晴のブログ

ビジネス便利屋兼ライター 永嶋信晴のブログ

PR

×

プロフィール

ビジベン

ビジベン

サイド自由欄


 お仕事のご依頼は

 nagatoraman@nifty.com

「永嶋 信晴」までお気軽にお問い合わせください!

2019年01月09日
XML
カテゴリ: 国内旅行365

遅ればせながら、あけましておめでとうございます。

例年通り、神社と城跡に初詣に行き、いろいろなネタを仕込んできました。

素敵な写真も撮れたので、またブログの中でご紹介したいと思います。

未発表の写真がたまっておりまして、まだ先になりそうですが…。

 さて、今回も、拙著「​ おもしろ歴史ウォーキング 首都圏編 ​」の内容の一部をご紹介されていただきます。





それは、 こちら ​。

本日は、第7章の「歴史好きならイメージを膨らませたくなる巨大古墳と個性的な城跡めぐり」から。

1.無量寿寺は、かつては鎌倉武士の館だった

今回も、埼玉県東松山市のウォーキングを続けます。前回は、古墳や埋蔵文化財センターなど、主に古墳時代の東松山に触れましたが、今回は、戦国時代の視点でも歩いてみようか、と…。 

野本八幡神社から県道を渡ると、草が刈られた敷地の向こうにお寺が見えます。地図で確認すると、これが無量寿寺ですか。



曹洞宗の寺院ですが、ここはかつてこの地方で勢力を誇った野本氏の館だったそうです。お寺の門前の解説板によれば、平安時代、公卿・藤原基経の警護を務めていた片田基親の子基員がこの地に移り住み、野本左衛門と名乗ったことが野本氏の始まりと言われている、とありました。




 野本左衛門は、源頼朝の信頼が厚い武士だったらしい。そういえば、今も鎌倉時代の武士の館の雰囲気が残っているような。






鎌倉時代の武士の館と言うと方形で、周りに土塁を巡らしているイメージがあります。無量寿寺の境内もほぼ方形で、敷地がそっくりお寺になっているのがわかります。

2.鎌倉時代と戦国時代の館の姿をイメージさせる土塁が残る

それでは土塁は?と思って、境内を探すと、本堂の後ろにそれらしい土地の隆起を発見しました。本堂の建物に沿って、土塁が曲がっているように見えるのですが、これは当時のカーブですかね。






かなりの高さですが、残念ながら途中で土塁はなくなっていました。

土塁の外側は、かつて竹藪だったみたい。今は竹や草が切られていて、更地化しつつあるのでしょうか。見晴らしは申し分ないですが、この空き地は今後、どうなるのかなと思いました。






 さきほど見た解説板には、堀の遺構も確認できるそうですが、草が堆積していてよくわかりませぬ。ただ、よく見ると、少し凹みがあるようには見えますね。





ほかに館の痕跡はないだろうかと調査を続けます。すると本堂の横の墓地に、段差を発見。





さきほどの土塁を延長すると直角に交わる位置にあり、これはかつて土塁だったのかもしれませんね。自然地形とすれば、この場所に段差があるのは少し不自然ですし…。

ただ、鎌倉時代の野本館からはかなり改変されているらしい。この土地は、戦国時代、上杉氏と足利氏が抗争を繰り広げたと言われています。解説板にも、二重の堀と土塁が存在したものの、外側の土塁は後世に作られたとありました。

戦国時代に野本氏がここにいたかどうかわからないようですが、かつての武士の館を増強して戦国の荒波を乗り切ろうとしたのかも。

3.武士の館との関連が興味深い将軍塚古墳

鎌倉時代の武士の館の痕跡が残る場所は興味深いですが、見どころはそれだけではありませぬ。無量寿寺の門の前に、巨大な山があるのですよ。しかも、人工の…。





丘ではなく山と言いたくなるこの地形が人工のものとは驚きです。これは、将軍塚古墳。全長が 115 メートルで、後円部の高さ 15 メートル。前方部の高さは 8 メートルもあるのだとか。





前方後円墳として、埼玉県では最大級の大きさだそうですね。発掘調査が行われていないので、築造年代については 4 世紀から 6 世紀前半まで分かれて論争が行われているそうです。

当然、野本館が作られた頃には、この古墳が存在したわけで、館のすぐ近くにこんな大きな古墳があったら落ち着かないのではと思ったりしました。





ただ、お城の天守や櫓には、物見の機能もありますからね。戦国時代には城の一部としてこの古墳が活躍したのだろうと思いました。

こちらの古墳は後円部に社があって登れるのですか。


まず前方部へ上って行くと、日露戦役の忠魂碑が建っていました。ここもかなりの標高があって、古代の人たちの努力に頭が下がります。







 後円部には階段を使って上るのですな。その途中、古墳というより、城の郭のような広場もあって、戦国時代は後円部を城の本丸のように使ったのだろうかと妄想が膨らみました。






 急峻な崖の上に立つのが利仁神社。八王子城の本丸のようなイメージで、下との標高差もかなりありますな。





戦国時代、館を平時の城として使い、有事の際はこちらを詰めの城として考えていたのかもしれませぬ。

このあと、戦国時代の館の面影が残る高済寺・旧高坂館へ向かいます。

ここでは、戦国時代の城塞クラスの巨大な土塁と空堀に鳥肌が立ったのでした。




なぜ、現存する館の跡の規模から不釣り合いな防御施設が作られたのか。素人なりに、城の縄張り(設計図)について考えてみたのですよ。

本の中で、詳しくご紹介しています。

ご興味のある方は、是非、​こちら​をご覧ください。

『 ​ おもしろ歴史ウォーキング 首都圏編 ​ 』





ちなみに、第7章の目次は、以下の通りです。

第7章 歴史好きならイメージを膨らませたくなる巨大古墳と個性的な城跡めぐり 埼玉県東松山市
1.無量寿寺は、かつては鎌倉武士の館だった
 2.鎌倉時代と戦国時代の館の姿をイメージさせる土塁が残る
 3.武士の館との関連が興味深い将軍塚古墳
 4.戦国時代の館の面影が残る高済寺・旧高坂館
 5.戦国時代の城塞クラスの巨大な空堀に驚く
 6.不釣り合いなほどの巨大な土塁と空堀の謎






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2019年01月10日 12時32分57秒
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: