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本日は井原市歴史講座「井笠ケエベンをめぐって」を拝聴しました。 場所はアクティブライフ井原 メルヘンホールで行われました。 講師は在間宣久氏(前岡山県立記録資料館館長)でした。 表題を見てこれは井笠軽便鉄道の廃線跡をめぐる話だ。ウォークの参考になると思い込み申込したのだが、実際に聴いているとウォークとは関係ない歴史探索の講演でした。 誰が表題を考えたのか知らないが紛らわしい。めぐってといえば歴史だけでなく実際の現地のことが話に出てくるものと思っていた。まあ歴史資料館の館長さんだったということから納得はできることだった。 資料を読み解くというのは私には興味が薄かった。 井笠軽便鉄道の計画段階の話などは新しい知識で、これは収穫だった。 興味のあることなら質問したのだが、資料読解はねぇ。
2015.03.28
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『井原が生んだ偉人 馬越恭平』目次 第1章 馬越恭平の生涯 第2章 三井の歴史を彩る馬越恭平 1.益田孝との出会い 2.西南戦争で大儲け 3.人材の養成 ~人の三井~ 4.ビール業界へ 5.三井物産創業期の三傑 第3章 東洋のビール王 1.ビール業界 進出 2.大日本麦酒時代 第4章 ふるさと井原と恭平 1.医者の家に生まれる 2.興譲館に通う 3.二度の帰郷 4.恭平と備中館 5.徳太郎と幸次郎 6.井笠軽便鉄道の建設 7.恭平とふるさと 8.稲木川の改修 9.感謝の気持ちをこめて 10.馬越講堂の落成と馬越橋の完成 11.恭平の劇を上演 *エピソード 第5章 馬越恭平ゆかりの人々 恭平と交流のあった政財界の人たち *寄稿文 郷土・井原が生んだ偉人 馬越恭平を探る 渋沢資料館 館長 井上 潤 *馬越恭平年表 *馬越恭平に関する文献・資料 *馬越恭平翁顕彰会について *馬越恭平翁 金婚式寿像 編集を終えて
2015.03.16
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昨日の文化講演会で配布された資料は『井原が生んだ偉人 馬越恭平』という生誕170周年の記念誌だ。 先人顕彰会・井原が発行したA4判、46ページ、フルカラーの冊子だ。 印刷物として馬越恭平翁の顕彰を行うことは有益だと思う。 内容的には伝記的な読み物を期待していたが広く恭平翁のことを知ってもらおうという意図のため小学生向けの教材のような編集になっている。文字が大きいのでお年寄りにも読みやすい。
2015.03.16
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馬越恭平翁生誕170周年記念文化講演会日時:3月 15日 (日)14:30 ~ 17:00場所:アクティブライフ井原 メルヘンホール 内容:「馬越恭平の足跡をたどる」 新作講談「負けず嫌いのキョウサン~ビール人生山あり谷あり」 対談「夢と独創」・講師:宝井琴梅先生(講談師)・端田晶先生(エビスビール記念館館長)・対象:市内外を問わず受講を希望される方・受講料:無料(ただし入場整理券が必要です)・申込:文化財センター(63-3144) またはアクティブライフ井原(63-3347)まで
2015.03.15
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講演会「郷土・井原が生んだ偉人 馬越恭平を探る」に行ってきました。 今まで馬越恭平翁についての講演会にはできるかぎり参加しているが東洋のビール王としての講演の切り口が多かった。ところが今回の話は渋沢栄一のビジネスパートナーとしての経済人としての人物像が話の中心だった。 膨大な渋沢栄一文書(もんじょ)の中に見える馬越恭平の足跡や財界人ネットワークをいかに作り上げたかが垣間見えた気がした。 サッポロビールの前身「大日本麦酒」の社長を務め、「日本のビール王」と呼ばれた井原市出身の実業家・馬越恭平(1844~1933年)の生誕170周年記念講演会は「郷土・井原が生んだ偉人 馬越恭平を探る」―井原の地が結ぶ人間関係に触れながら― 講師、井上潤氏(渋沢栄一記念財団 渋沢史料館 館長)の意図する「〇〇だけじゃない馬越恭平」は新鮮で明治の経済人の近代日本を創り上げた気概が感じられた。 井原市にゆかりの渋沢栄一の話をしているのか馬越恭平の話をしているのかわからない恭平と栄一の親密さがよくわかった。お互いがお互いを認めそれぞれの事業を行いつつも日本の行く末のために働いた結果が500もの会社に関わり600もの社会事業に関わり、あの時代を切り開いたのだ。 このバイタリティーはどこから? これほどおもしろい人物が小説やドラマ化、映画化されないのはどうして? ・・・などと疑問は残った。
2014.11.16
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「郷土・井原が生んだ偉人 馬越恭平を探る」―井原の地が結ぶ人間関係に触れながら― 【講師】井上 潤 先生(渋沢栄一記念財団 渋沢史料館 館長) 【日時】 2014年11月16日(日)13:00~15:00 【場所】井原市芳井生涯学習センター ホール(井原市芳井町吉井4058-1) 【参加費】入場無料 【主催】先人顕彰会・井原 【後援】井原市、井原市教育委員会、井原市観光協会、井原文化協会 【問合せ先】0866-72-0106(片岡)
2014.11.03
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端田 晶さんからラジオ出演の予定のメールが送られてきました。井原市とサッポロビールはまちづくり協定を結んでいます。端田 晶さんから情報発信ですので情報伝播させていただきます。ビールのうんちくでは日本一の端田 晶さんのトークをみんなで楽しみましょう。以下、メールコピーです。ご案内です。端田がラジオNIKKEI第二で五分間×五日間話します。(周波数は3.945MHz、6.115MHz、9.760MHz)テーマは「ビールを知ろう」で、放送日程は以下の通りです。7月28日(月)~8月1日(金)14:40~/22:40~(再放送)http://www.radionikkei.jp/rn2/このアドレスから、radikoにアクセスして放送を聞く事ができます。******************〒150-8522 東京都渋谷区恵比寿4-20-1サッポロビール株式会社 文化広報顧問ヱビスビール記念館館長日本ビール文化研究会 理事顧問端田 晶(はしだ あきら)
2014.07.18
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三光寺から恭平翁の寄進で改修した稲木川や県主(あがたぬし)神社をめぐり馬越恭平翁の生家に到着しました。 サッポロビール(株)の前身、大日本麦酒(株)の社長だった馬越恭平翁の生家で飲むビールはもちろん『ヱビスビール』です。 馬越恭平資料館にて井上木之子公民館長さんの説明を聴く。 資料室内は人人人でごった返す賑わいでした。 早雲の里荏原駅に到着し解散しました。 暑かった~疲れた~良かった~、ホッ!
2013.07.17
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東洋のビール王 馬越恭平生誕の地ウォーク(7/14) 井原線早雲の里荏原駅をスタートして国道486号線を西に進み、青木の交差点を左折して馬越橋を渡る。前々の橋は馬越恭平翁の寄進により架けられた橋で彼の名が付けられている。 しばらく進み学校のプールのところを左折し稲木川を渡ると山裾に海雲山三光寺がある。 ここに東洋のビール王と呼ばれた馬越恭平の墓がある。 明治・大正・昭和の時代、己の才覚を信じ商魂逞しく暴れまわった郷土の先輩、馬越恭平がここに眠る。 日本中のみならず中国や台湾など東アジアにビールを広めた男だ。 恭平翁の商魂、商才にあやかりたく手を合わせる。
2013.07.17
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【 先人顕彰会・井原MEMO 】 馬越恭平翁 没後80年記念講演会 『郷土の偉人 馬越恭平翁に学ぶ』 ・日時:6月16日(日)13:30~15:00 ・場所:井原市芳井生涯学習センター・2F研修センター ・講師:端田 晶 氏 恵比須麦酒記念館6代目館長 ・入場無料 ビールやお酒のうんちくや、馬越恭平翁とサッポロビールの魅力を語っていただきます。 (会員No.150 岡田正樹MEMO)
2013.06.16
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【 先人顕彰会・井原MEMO 】 本日の中国新聞で先人顕彰会・井原の総会と研修会が記事紹介されました。井原出身 東洋のビール王馬越の功績 後世に先人顕彰会没後80年 生誕170年 来年から行事計画http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201205290022.html 顕彰会事業:『阪谷朗慮ゆかりの人々』 ・日時:5月27日(日)15:00~ ・場所:木之子公民館 ・講師:東森 章 馬越恭平翁顕彰会会長 馬越恭平翁の年譜からの人間・馬越恭平の魅力を語っていただきました。 (会員No.150 岡田正樹MEMO)
2012.05.29
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【 先人顕彰会・井原MEMO 】 顕彰会事業:『阪谷朗慮ゆかりの人々』 ・日時:5月27日(日)15:00~ ・場所:木之子公民館 ・講師:東森 章 馬越恭平翁顕彰会会長 馬越恭平翁の年譜からの人間・馬越恭平の魅力を語っていただきました。 馬越恭平トリビア …社長当時の大日本麦酒株式会社の配当300%。 例えば、100万円の株券に対して300万円の配当…凄いですね。 …没後80年(2013年)・生誕170年(2014年)。 …故橋本龍太郎首相が伝記小説を書いていた。同氏著『馬越恭平』 …地元木之子中学校では馬越恭平の劇が上演されたことがある。 「馬越恭平を知っていますか」第1学年 平成22年、同校文化祭にて初演された。 (会員No.150 岡田正樹MEMO)
2012.05.28
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【 先人顕彰会・井原MEMO 】 平成24年度 先人顕彰会・井原 総会 場所:芳井生涯学習センター 日時:午後1時30分~2時30分 新会長に坂川俊夫氏、顧問に神埼宣武氏と山成脩一氏を選び、事業計画と予算を承認して議事は終了。 その他の項目で幹事長の片岡良仁さんから紹介いただき、駅から歩こうと井原歩こう会報配布し井原線まちおこしネットのウォークの紹介をさせていただきました。 本日、私入会しました。井原市内のウォークについてはお互いに協力しあうことでより実りある活動になっていくと確信する。 本日の名刺交換。 ・神埼宣武さん…美星町へのウォークでの民俗学的学術アドバイス。 ・大島千鶴さん…井原市でのウォークでの歴史等学術的アドバイス。
2012.05.27
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井原市とサッポロビールの「まちづくり協定」、井原市民として私たちにできる“ふるさと運動”は何か? まずは、“サッポロビール”を買って消費することだ。 自分で飲むも良し。 人に勧めて飲んでもらうも良し。 この井原市で生まれた日本のビール王、東洋のビール王、馬越恭平翁を日本全国にその名を知らしめることは“まちおこしの王道”だ。 今自分にできることをはじめよう。 “さあ、みんなでサッポロビールを飲もう!” 日ごろお酒を飲まない私ですが、まずは6本、買ってきました。 “さあ、みんなでサッポロビールを飲もう運動”の はじまり はじまり! 本日付の中国新聞 井笠おかやま面で昨日24日に調印された“井原市とサッポロビールの「まちづくり協定」”の記事が大きく紹介されています。 見出し: 1本1円出荷量に応じて寄付 ビールが縁 味な協定 井原市とサッポロ まちづくりに活用 24日、井原市とサッポロビールは「まちづくり協定」の調印式を井原市役所でおこなった。期間は1年間でその後は自動延長となる。 同社の井原市内への出荷量は大びん換算で6千箱(12万本)程度で、現状では20~30万円程度だという。 これから1年間の井原側の取り組みが評価されるものであれば自動延長されてもいいが、横ばいでは寄付を受けるのが恥ずかしい。なんてことにならないように最低でも3~5倍売上増の取り組みをしてほしいですね。 (井原線まちおこしネット情報伝播)井原線沿線物産館『井原線まちおこし横丁』
2012.01.25
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本日付の中国新聞 井笠おかやま面で昨日24日に調印された“井原市とサッポロビールの「まちづくり協定」”の記事が大きく紹介されています。 1本1円出荷量に応じて寄付 ビールが縁 味な協定 井原市とサッポロ まちづくりに活用 24日、井原市とサッポロビールは「まちづくり協定」の調印式を井原市役所でおこなった。期間は1年間でその後は自動延長となる。 同社の井原市内への出荷量は大びん換算で6千箱(12万本)程度で、現状では20~30万円程度だという。 これから1年間の井原側の取り組みが評価されるものであれば自動延長されてもいいが、横ばいでは寄付を受けるのが恥ずかしい。なんてことにならないように最低でも3~5倍売上増の取り組みをしてほしいですね。 (井原線まちおこしネット情報伝播)井原線沿線物産館『井原線まちおこし横丁』
2012.01.25
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1月18日付の山陽新聞 地方経済面でも“井原市とサッポロビールの「まちづくり協定」”の記事が紹介されていました。 ビール1缶、生1リットルごとに1円寄付 24日、まちづくり協定 ゆかりの馬越恭平出身地 唯、1円を寄付するよ。唯、1円寄付ありがとう。だけでなく本当のまちづくりの起爆剤になればいいと思う。 お互いにお金のやり取りではない知恵の縁を結んで欲しい。 馬越恭平という大先輩の冠を使うからには等閑の取り組みでは叱られちゃいますよ。 本当にビール王のプロジェクトを始動させて欲しいですね。 (井原線まちおこしネット情報伝播)井原線沿線物産館『井原線まちおこし横丁』
2012.01.19
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本日の中国新聞 中国総合面で井原市の記事が紹介されました。 ビール飲んでまちづくり 井原市 1本で1円寄付 サッポロが協力 「創業者」の出身地 井原市は17日、サッポロビールとまちづくり協定を結ぶと発表した。 サッポロビールの前身大日本麦酒を設立し東洋のビール王と呼ばれた馬越恭平翁が井原市出身という縁で協定を結ぶこととなった。調印式は1月24日。 井原線まちおこしネットもこれをPRしたいね。 そうなると馬越恭平翁ゆかりのウォークもやらないとね。 (井原線まちおこしネット情報伝播)井原線沿線物産館『井原線まちおこし横丁』
2012.01.18
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今もっとも旬なニュース。 NHKの大河ドラマ「篤姫」のモデルにもなった天璋院篤姫さん(1836-83年)が薩摩から京に上りそして将軍徳川家定に嫁ぐ旅がある。 まさにこの旅の途中岡山県備中国の矢掛宿に宿泊したようなのだ。 1853(嘉永6)年8月から10月の旧矢掛本陣石井家の宿帳に記述が残っていることが発見された。 薩摩藩主を示す中将様が入った「中将様御娘也」や「薩州御姫君様」という記述や女中や警護の武士など本陣に宿泊した人数(52人)や食事の手配などが記されているという。 篤姫さんの状況は陸路か?海路か?分からなかったのがこの資料で旧山陽道を上京していったことがわかったのだ。ということはこの井原市も通ったし井原線沿線を行列揃えてあれわいさのさとやって行っただな。 やかげ文化センター古文書室長の渡邊和夫さんが発見された由。 なかなかに歴史の闇の部分に光が差し込むのは面白い。(井原線まちおこしネット情報伝播) JOIN“♪井原線と備中♪晴れの窓”のブログサイト井原線沿線物産館『井原線まちおこし横丁』
2008.11.10
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☆井原線人物トリビア☆『平櫛田中』 (1872~1979) 日本近代を代表する木彫界の巨匠。 1872(明治5)年1月15日(西暦では1872年2月23日)、後月郡西江原村(現在、岡山県井原市西江原町)にて医者の子として生まれる。本名は平櫛倬太郎。旧姓は田中。 1882(明治15)年に広島県沼隈郡今津村(現・福山市今津町)の平櫛家の養子になったが、旧姓を通称に用いていた。 1893(明治26)年に、大阪の人形師・中谷省古に弟子入りし木彫の修行を行う。 1937(昭和12)年、帝国芸術院会員となる。 1944(昭和19)年、東京藝術大学の教授に招聘され、第二次世界大戦後も教壇に立つ。明治末期から大正初期にかけて東京藝大の基礎となる東京美術学校を創立した岡倉天心に師事した。 代表作は国立劇場にある「鏡獅子」や、「烏有先生(うゆうせんせい)」「転生」「五浦釣人(いづらちょうじん)」など。 1979(昭和54)年、東京都小平市の自宅で逝去。享年108。 広辞苑に載っている実在の人物の中でもっとも長生きをした人物である。 井原市名誉市民(1958年) 福山市名誉市民(1965年) 小平市名誉市民(1972年)。 彼の創作意欲は生涯衰えることがなく満百歳の誕生日を前に、30年分の材料を買い込んだといわれる。「男ざかりは百から百から。わしもこれからこれから」とは本人の弁。(そういえば昨年の田中美術館のカレンダーにも100歳の筆が載っていた) この話を聞いた横溝正史は「田中さんには及びもないが、せめてなりたやクリスティ」と詠んだとのこと、井原線ゆかりの2人の逸話です。(井原線トリビアデータバンク)移住交流サイトJOIN“井原線ウォークと備中の窓”のブログサイト人気blogランキング
2007.12.31
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☆井原線人物トリビア☆『馬越恭平』 (1844~1933) 1844(天保15)年10月12日(西暦では1844年11月21日)、木之子村(現在、岡山県井原市木之子町)にて医者の子として生まれる。 ちなみに、弘化元年生まれとする記述が見られるが弘化元年は12月2日からである。 但し、本人は弘化元年生まれを好んでいたのかもしれない。茶人としても有名でその号を「化生」と称した。これは弘化・元年生・まれにちなんだものといわれています。 1852年、8歳で興譲館で学ぶ。 1856年、大阪に出て頼山陽の弟子後藤松陰の門下を経て、その当時の豪商、鴻池家の丁稚となる。 1873年、上京して井上馨の先収会社に入社。1876年先収社解散後、その鉱山事業を引き継いだ三井物産に入社。三井物産横浜支店長、帝国商業銀行頭取となる。 1892年、破産寸前にあった日本麦酒(エビスビール)の再建をに着手。わが国で初めて銀座にビアホールを開くなど奇抜なアイデア、PRの天才だった。 1896年、日本工業倶楽部会長にも就任。 1898年、岡山県選出の衆議院議員ともなる。 1900年、日本麦酒の経営が多忙となり、三井物産退職し、ビール会社経営に集中する。 1904年、勲四等に叙せられる。 1906年、日本麦酒・札幌麦酒・大阪麦酒の大合同が実現、大日本麦酒(株)が誕生、新社長となる。 その後、馬越時代の大日本麦酒は発展を続け、市場シェアは79%に達し、馬越は「日本のビール王」といわれるまでになりました。 彼はふるさと木之子村のためには財を惜しむことなく尽くしています。地元の小学校の講堂の寄付や橋の建設、さらには地域の繊維業発展のために導入されたばかりの鉄道の建設を行い、井笠鉄道(株)の初代社長になってふるさとの発展を支えていました。(井原線トリビアデータバンク)移住交流サイトJOIN“井原線ウォークと備中の窓”のブログサイト人気blogランキング
2007.12.30
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☆井原線人物トリビア☆『菅茶山』 (1748~1827) 菅茶山は江戸時代の儒学者であり漢詩人。 1748(延享5)年2月2日~1827(文政10)年8月13日、80歳。 川北村(現在の福山市神辺町川北の七日市上)で東本陣役を勤めたこともあり、造り酒屋と農業を営んでいた菅波樗平(すがなみ・ちょへい)と、井原市七日市出身の半(はん)との間に長男として生まれました。 本名は菅波晋帥(すがなみときのり)、当時の儒学者は名字を一字にするものが多く彼もこれに倣い父の菅波の一字をとって中国読みで菅、茶山は町の北の茶臼山からとったとのことです。 19歳の時に京に上り朱子学を学び、郷里神辺に戻り私塾「黄葉夕陽村舎」を開く。これがのちに廉塾と呼ばれるようになりました。 廉塾には全国各地から門人が集まりました。主な門人には、日本外史の著者、頼山陽や北条霞亭などがいました。 山陽道を行き来する文人墨客の多くが廉塾を訪ねたということで居ながらにして日本諸国の情勢が神辺の地に集まっていたようです。 星になった菅茶山。香西洋樹と古川麒一郎が東京天文台木曽観測所で発見した小惑星に、江戸時代にあって星にも造詣が深かった茶山に因んで“ 菅茶山(かんさざん、6846 Kansazan)”と命名されました。 (井原線トリビアデータバンク)移住交流サイトJOIN“井原線ウォークと備中の窓”のブログサイト人気blogランキング
2007.12.29
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☆井原線人物トリビア☆『雪舟』 (1420~1506) 室町後期の画僧。日本の水墨画を一変させ現在の絵画の世界に最も影響を与えた人物ですね。水墨画家・禅僧で、画聖とも称えられる。 1420年(応永27年)備中国赤浜(現在の岡山県総社市)に生まれる。生家は小田氏という武家とされている。諱(いみな)は、等楊(とうよう)もしくは拙宗(せっしゅう)と号した。 現在、生誕地は岡山インター近くの田んぼの中に石碑が建つのみである。 幼い頃近くの宝福寺に入る。ここで有名な“涙でねずみの絵を描いた逸話”が伝えられている。但しこの話は後世の記述によるものです。がそれほどまでに画才は認められていたのでしょうね。10歳頃京都の相国寺に移り、春林周藤に師事、禅の修行を積むとともに、天章周文に絵を学んでいる。 1454年(応永28年)ごろ周防国に移り、守護大名大内氏の庇護を受け、画室雲谷庵(山口県山口市)を構える。 1468年(応仁2年)に遣明使船で明へ渡航。約2年間中国で本格的な水墨画を学ぶ。帰国後も大内氏の庇護を受けつつ、創作意欲は晩年まで衰えることなく、岐阜の正法寺、清水の清見寺や九州大分などへも足をのばすとともに、82歳の頃には天橋立を巡り、その風景を写生しています。 雪舟終焉の地については山口市の雲谷庵、益田市の大喜庵、岡山県芳井町の重玄寺など諸説がありはっきりしませんが、永正3年(1506)87年間の生涯を静かに終えました。 雪舟さんが晩年まで精力的に創作活動をしていた結果かもしれませんね。 個人的にも岡山県井原市芳井町の重玄寺終焉の地説を支持したいですね。87歳ですからすでに生まれ故郷の赤浜には頼る人もなし。されどふるさとに近い備中に帰り、創作しながら余生を過ごしたのではないかと思います。(井原線トリビアデータバンク)移住交流サイトJOIN“井原線ウォークと備中の窓”のブログサイト人気blogランキング
2007.12.28
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☆井原線人物トリビア☆『那須与一』 (1169~1189) 元暦2年(1185年)、あの有名な源平盛衰記の屋島の合戦で平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とすなど功績を挙げ、源頼朝より丹波・信濃など五カ国に荘園を賜った(丹後国五賀荘・若狭国東宮荘・武蔵国太田荘・信濃国角豆荘・備中国後月郡荏原荘)平安末期から鎌倉初期の武将ですね。 このとき賜った備中国後月郡荏原荘が現在の岡山県井原市一帯である。この時荘園の管理の為、那須一族がこの地に移り住んだようである。 生年・没年とも詳しくはわからないが、屋島の合戦(1185年)から推察してゆくと1169年に生まれただろうとされる。 父は那須資隆(太郎)。妻は新田義重の娘。一般的には本名は那須宗隆、これは初名であり、当主に就任後は父と同名の資隆と名乗ったと伝えられる。 与一は十一男ながら那須氏の家督を継ぎ那須氏二代当主とされる。これは源平合戦の折に兄達のほとんどが平家に味方した為である。 死去は文治5年(1189年)或いは建久元年(1190年)とされている。 結構若くして亡くなったようですね。でも平安から鎌倉期への動乱の時代に弓の名手としてその豪腕で、那須一族に各地の所領を勝ち取り残したことは凄いですね。(井原線トリビアデータバンク)移住交流サイトJOIN“井原線ウォークと備中の窓”のブログサイト人気blogランキング
2007.12.27
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☆井原線人物トリビア☆『吉備真備』 (695~775) 奈良時代の政治家であり学者。父は下道朝臣(しもつみちのあそん)圀勝(くにかつ)といい吉備の豪族の名家、母は渡来系の氏族とみられる楊貴(八木)氏の出身です。 23歳、養老1(717)年の遣唐留学生として阿倍仲麻呂らと入唐、 41歳、天平7(735)年帰国して『唐礼』130巻などの書物や日時計・楽器などを献上した。 帰国後は聖武天皇に重用され橘諸兄のブレーンとして政権の中枢で活躍した。 その後、孝謙天皇の時代には大納言藤原仲麻呂にうとまれ、筑前守として九州へ左遷され、仲麻呂全盛期は真備不遇期と言える。この間、2回目の入唐をしている。そして中国や朝鮮の政情が緊張した時代を迎え、彼の中国での兵学が活かされることになり、仲麻呂(恵美押勝)の乱の鎮圧に貢献した。 称徳天皇の時代になると、正3位にのぼり、中納言から大納言、そして従2位 右大臣にまでのぼりつめた。 77歳、宝亀2(771)年右大臣を辞し、下道氏のふるさと吉備の小田川河畔で余生を過ごし4年後、81歳で没している。 これほど波乱に満ちた人生、才能もさることながら運も度胸も凄い人物です。 彼の逸話に囲碁の話があるが、武人の嗜みだったのでしょうが、達人の域にあったようです。玄宗皇帝の前で囲碁試合をしたことも、そして一石を飲み込む暴挙で勝利したと伝えられています。(井原線トリビアデータバンク)移住交流サイトJOIN“井原線ウォークと備中の窓”のブログサイト人気blogランキング
2007.12.25
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☆井原線人物トリビア☆『北條早雲』 (1432~1519) 小田原評定として語り継がれる後北條五代の小田原城を築いた人物です。五代の祖が通称、北條早雲です。但し彼自身北條早雲と名乗ったことはない。 彼の名は伊勢新九郎盛時、永享4年(1432年)生まれる。 父は備中国高越山城主伊勢盛定、母は伊勢貞国の女。 備中伊勢氏は室町幕府の政所執事を世襲した名族京都伊勢氏から分かれたもので、新九郎は京都伊勢氏の一族伊勢貞道の養子に迎えられている。 37歳、新九郎、妹に従行して駿河今川家に赴く 51歳、室町幕府の申次衆になり京都で活躍している。 55歳、妹の申し出により駿河の今川家に紛争を収める。 長男、氏綱生まれる。 56歳、駿東郡興国寺城の城将となる。 ここから国盗り物語が始まる。 まさに、下克上の成功者として戦国大名の魁として 伊豆・相模の2国の戦国大名となり 88歳、永正16年(1519年)伊豆韮山城で没す。 北条姓を名乗ったのは2代氏綱からである。(井原線トリビアデータバンク)移住交流サイトJOIN“井原線ウォークと備中の窓”のブログサイト人気blogランキング
2007.12.24
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