秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

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2020.02.07
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ツービートをはじめてTVでみたのは花王名人劇場の激突!漫才新幹線と思っていたら、間違いだったことが今回わかりました。

ぼーっと立ってるとばかり思っていたきよしさんが、実は先を観る眼や、マネジメント能力を持っていたことにも驚かされます。

■参考リンク
2021.5.22リンク切れにより差替え。
2023.8.1リンク切れにより差替え。
2026.8.5リンク切れにより差替え。







Wikipedia:ツービート
経歴
コンビ結成

きよしは、以前ストリップの幕間のコントで共演したことがあったたけしに新パートナーの提案を持ちかける。ここで、後のツービートの前身となるコンビが結成されることとなる[3]。たけしの師、深見千三郎は弟子の漫才への転向を認めず、たけしを即刻破門。これにて漫才コンビ結成への障壁が消滅。当初は、きよしがネタを作りボケ、たけしが突っ込むスタイルだったが、コンビは全く評価されない状況が続いた。当時、楽屋内でも師匠と弟子の師弟関係にあたる縦のラインが強い漫才業界の集団で、舞台コント(軽芝居)からの転向組という立場は彼らを浮き上がらせていた。
きよしの「やはり有名な師匠の所に居ないとだめだよ」との発案で松鶴家千代若・千代菊門下に入門し、松鶴家二郎・次郎を名乗って活動を行った。また、きよしがコロムビア・ライトの付き人経験があったことから、空たかし・きよしとして舞台に上がったこともあったが、状況は相変わらずだった(ライトが相方であるコロムビア・トップと絶縁状態にあったため、青空一門ではなく個人の預かりとして芸名が青のない「空」になっている)。芸人社会の顔で人望のあった深見千三郎が一言、「たけしを頼む」と周囲に声をかけたなら事情も変わったとする見方もあるが、深見はたけしを可愛く思いながら、最後まで弟子の漫才転向を醒めた視線で捉えていた。
ツービートに
この八方塞がりの状況で、たけしがきよしに代わって主導権を握ることとなり、コンビ名をツービートと改名[4]。余りの受けなさに舞台で性器を露出したり、客を毒舌でいじるなどの追いつめられて行った行動が徐々にスタイルになり、ツービートの原型となったが、決定的だったのは、大阪の新進漫才師・B&Bの島田洋七との出会いである。後に紳助・竜介も倣う、シンプルで間を減らしたテンポの速い『16ビートの漫才』『客を完全に飲み込み唖然とさせる漫才』を見て衝撃を受ける。ツービートもこれを取り入れ、たけしがひたすら猛烈な勢いでしゃべり倒し、アトランダムにきよしが突っ込む高速漫才へ変貌する。
「山形いじめ」のネタは、B&Bの「広島岡山漫才」を真似たもので、こうして開き直ったたけしは、それまでの下ネタはもちろん、差別用語から、放送禁止用語まで、およそ今までの漫才ではタブー視されていたものをあえて取り入れ評判を呼び、まず同業のプロ仲間から評価を上げていった[5]。
テレビ進出
1970年代後半から状況はさまざまに変化を見せ、立川談志や漫画家の高信太郎らがツービートを評価し出し、所属事務所も太田プロダクションへ移籍し、1975年に東京12チャンネル(現・テレビ東京)の『ライバル大爆笑!』でテレビ初出演。
大阪で興ったB&Bに加え、テレビ『ヤングおー!おー!』に出演していた若手達のコンビ、そしてツービートなど、以前とはスタイルの違う新世代の漫才師を一つのムーブメントとして過去の“漫才”から一線を画する意味で“マンザイ”、“MANZAI”としてフジテレビで『THE MANZAI』(全11回で終了)として番組に構成。
これらのメンバーを中心に、1979年頃より1981年頃にかけて漫才ブームと呼ばれる社会現象になった『THE MANZAI』の出演者は、服装もツナギ(紳助・竜介)やコンビロゴの入ったスウェットシャツ(B&B)、DCブランド(ツービート)、アイビールック(ザ・ぼんち)とバラエティに富み、アイドル性を加味している。ただし、ツービートの2人は他の若手が20代だったのに対して既に30代に突入しており、外見的にも業界用語でいう「汚れ」であって[6]、アイドル人気ということでは一歩遅れを取っていた。
さらに、ツービートはテンポが速いのみならず、“毒舌”と評される「ジジイ」、「ババア」、「ブス」をはじめとした単語を多用し、それまでは穏和で、ある意味媚びたスタンス漫才師が一般的であった背景からコンサバ層(婦人、中高年齢層)には受け容れられず、『THE MANZAI』出演当時も事実、人気は5番目あたり(本人談)に位置し、当時はほぼ完全に若手サラリーマンや大学生と言った、教育レベルが比較的高く、新しい刺激やスタイルに直感的に敏感な世代のみに支持されていた。後にテレビ番組『ダウンタウンDX』でゲスト出演の紳助が「実際はB&Bと紳助・竜介、ツービートだけが新しいもので他は既存のものであった」と語っている。
『THE MANZAI』は当時関西ばかりにタレントが揃い、東京勢が希少であった[7] にもかかわらず、自らの意思で第5回をもって出演を最後にしている。ツービートの漫才が浸透し要望が高まっていた頃にはすでに『THE MANZAI』から姿を消していたのである。漫才の舞台から姿を消すのと同時期にたけしはソロ活動を開始。1981年1月1日からのニッポン放送『ビートたけしのオールナイトニッポン』では深夜放送のヘヴィユーザーである受験生に絶大な支持を受け、勤労層の若者は録音で愉しみ、テープを回し何度もその早口を聞き取ることを喜びとした。


浅草キッドの浅草キッド
抜粋
ビートきよしさんは今までうなずいてばかりいる人という印象しかありませんでしたが、たけしさんに漫才への転向を勧めた、いわば歴史を動かした人と知りびっくり。

Wikipedia:激突!漫才新幹線
抜粋
『激突!漫才新幹線』(げきとつ まんざいしんかんせん)とは、フジテレビ系列の『花王名人劇場』でシリーズ化されていた関西テレビ製作の漫才番組である[1]。
同タイトルで5回放送されたが、ここでは1980年代の漫才ブームを興したことで知られる1980年1月20日の第1回放送について[2]特に記述する。

国立劇場などにて行われた横山やすし・西川きよし、星セント・ルイスといった東西を代表する漫才コンビの競演を放送した。当時若手だったB&Bがもう1組として抜擢されて出演し、B&Bが爆発的人気を得たため、これが漫才ブームを起こすきっかけとなった[3][4][5][6]。
ゴールデンタイムの1時間枠を司会なしで、やすしきよし、星セント・ルイス、B&Bの三組が、おのおの10数分間の持ち時間で漫才のみを行い、舞台袖で他コンビの漫才を見守る様子を中継するなどカメラワークも工夫し、当時としても異例中の異例の番組であった[3][4][7]。
第1回となった1980年1月の放送でB&Bは「もみじまんじゅう」などのお国自慢ネタを披露し、視聴率は関東では15.8%、関西では27.2%を獲得した[8]。『激突!漫才新幹線』は大成功を収め、漫才は高視聴率を稼げるソフトとして一躍脚光を浴びた[4]。各局がこぞってお笑い番組を始め、出演者はアイドル並みの人気を得た[4]。仕掛け人・澤田隆治プロデューサーは「話術だけで、こんなに笑えるモノがある。視聴者がそれに気づいたんやね」と話している[4]。
この放送が漫才ブームと起点となり[8]、視聴率的に苦戦していた『花王名人劇場』も漫才をメインとする番組と路線変更するきっかけとなった[9]。
企画経緯
番組がスタートした当初の『花王名人劇場』は昭和の多彩な名人芸を紹介するコンセプトの番組で、単発ドラマも放送していたが[9]、視聴率的には苦戦しており、打開策として取り上げられたのが漫才だった[8]。そもそもは、あらんどろん、B&B、ツービート、Wヤングの4組の漫才の激突という企画だった[10][11]。1979年10月22日のプログラムに載っている同年12月5日の国立劇場演芸場の公演の予告には、「激突!漫才新幹線」のタイトルと共にあらんどろんら4組の名前が入っていた[10]。
ところが1979年10月25日、Wヤングの中田治雄が熱海で自殺するという事態が起きてこの企画は潰れた[8]。この4組の中で売りものになるのは当時Wヤングだけだった。あとの3組は既にテレビには出てはいたが、とてもゴールデンタイムに登場させる看板ではなく、企画の括りでトライさせてみようという目論見であった。やむなく1979年12月22日、改めて漫才企画としてやすしきよし、セント・ルイスの激突にB&Bを入れた構成で録画し、翌1980年1月20日にテレビ放送された[10]。
時代背景
「漫才は西(関西)の芸」というのが一般の認識で、テレビの世界では漫才は、まだまだ全国区ではなかった[4]。吉本興業の木村政雄は「若者はゴールデンタイムに漫才なんて見たことがなかったと思う」と述べている[4]。当時は上方漫才が活気を失っていた時期でもあった。大阪万博時には観光客で劇場は賑わったが、以降テレビではバラエティ番組が主流となり、漫才師は「漫才」以外で重宝されていた。やすしきよしも主に司会で売っていて[4]、漫才をテレビでやるのも2年ぶりだった[12]。打ち切られるローカル演芸番組も多く、本当に漫才が好きな人だけが松竹の角座や吉本の花月に通っている状況だった[4][13]。さらに野球賭博等で上方のお笑い界がガタガタになっていたところへWヤング中田の自殺が起き、「漫才はもうなくなるのでは」とまで囁かれていた[14]。





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Last updated  2026.08.05 00:36:20


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