秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

PR

Calendar

Favorite Blog

コレ、いいかも☆ natsu。さん
ハワイアン生活  … hayatoman20さん
NO COLOR NO LIFE! N… color&designさん
芦田晋作の三文レビ… 芦田晋作の三文レビューさん

Freepage List

2023.03.18
XML
プロジェクトXはオートバイ、自動車の回に印象的な作品が多いですが、このプリンス自動車工業の日本グランプリでのポルシェとの闘いの回はその中でも傑出しています。モータースポーツに疎い私でも楽しめるおすすめの作品です。

旧中島飛行機でゼロ戦のエンジン「栄」の主任設計者だった中川良一氏を擁する富士精密工業にエンジン開発をもちかけた、旧立川飛行機出身者が創業した、電気自動車を作っていたたま自動車が、合併してできたのが、プリンス自動車工業です。戦後まもない時期に電気自動車を作っていたのがおもしろいです。

第1回日本グランプリでポルシェに敗れたスカイラインGTのプリンスが、第3回でR380を開発して、車両の性能ではポルシェを下回ると言われていましたが、ゼロ戦でのノウハウやチームワークでどう戦ったかが興味深いです。第3回後、日産自動車にプリンスは吸収合併されましたが、あの高い技術が独自に残っていたらどんな会社になっていたんでしょうか。

よくスカイラインで名前をお聞きしていた桜井真一郎氏がどういう方か分かったのも収穫でした。昔職場にスカイラインファンがいましたが、なるほどこの車には夢中になる伝説があったのだと思いました。ケンとメリーのスカイラインのCMがなつかしいです。

船橋にサーキット場があったとWikipediaで知りびっくりびっくり













■参考リンク
NHK プロジェクトX :ラストファイト 名車よ永遠なれ 注)プリンス自動車工業
プリンス自動車が並みいる強豪を抑え、最後の意地を見せた伝説のレースを描く。
プリンス自動車は、戦後に解体された航空機会社を前身とし、多くの航空技術者を擁することから、高い技術力と自由な社風を特色としていた自動車メーカーだった。

Wikipedia:プリンス自動車工業

第二次世界大戦後、航空機製造を禁じられた立川飛行機出身の、外山保、田中次郎ら技術者により、1947年に「東京電気自動車」の社名で発足。電気自動車製造からスタートしたメーカーであるが、1951年以降はガソリン自動車開発に転身した。経営および資本面ではタイヤメーカーのブリヂストンとその創業者である石橋正二郎が大きな役割を担っており、旧、中島飛行機系の企業である「富士精密工業」との協業、合併をも経るなど、企業としての成立過程および社名の変遷は複雑である。
元航空技術者を多く擁する技術開発重視の社風により、早くから先進技術を導入し、1960年代にはモータースポーツ界でも大いに活躍したが、1966年8月1日をもって日産自動車と合併した(日産自動車による実質的な吸収合併)。
合併するまでは、東京証券取引所に上場していた[1]。

Wikipedia:1966年日本グランプリ (4輪)
1966年日本グランプリは、1966年5月3日に富士スピードウェイにて決勝レースが行われた。正式名称は「第3回日本グランプリ自動車レース大会」。
概要
3回目となる日本GPは本来ならば1965年5月に開催される予定だった。主催者の日本自動車連盟(JAF)はF2/F3レースをメインイベントとする方向で準備していたが、1964年10月に突然開催中止を発表した。「グランプリの開催は時期尚早であり、国内自動車クラブの育成が先決である」との理由だったが、JAFと鈴鹿サーキットの交渉が金額面で決裂したためとも報じられた[1][2]。中止となった日本GPの代替イベントとして、1965年7月に船橋サーキットで全日本自動車クラブ選手権(通称「船橋CCC」)が開催された。
1966年に日本GPが再開されることになり、鈴鹿サーキットに代わって新設の富士スピードウェイが開催地となった。車種・排気量ごとに細かく分けていたレース方式を廃止して、60周(360km)のメインレースに一本化し、今回から正式にグランプリ賞典を懸けることになった。高性能スポーツカーとプロトタイプレーシングカーが出場し、レースの途中には燃料補給のためのピットインも必要となった。また、サポートイベントとして特殊ツーリングカーレースとGTカーレース、エキシビジョンとしてフォーミュラカーレースも行われた。
第2回大会で盛り上がった自動車メーカー対決は仕切り直しとなり、別分野へ転向したりワークスチームを解散したメーカーもあった[3]。プリンスは国産初のプロトタイプレーサーR380を4台投入。トヨタはヤマハと共同開発した2000GTのプロトタイプをレース仕様に改造。ダイハツはコンパーノ・ベルリーナベースのP-3でクラス優勝を狙った。日産は前哨戦の全日本クラブマンレースに続き、6気筒DOHCエンジンを搭載するフェアレディS[4]で参戦した。
外国車に乗るプライベーター勢の中では、滝進太郎のポルシェ・906と酒井正のシェルビー・デイトナが注目された。第2回大会のGTクラスでポルシェ・904にプリンス・スカイラインGTが敗れたことからR380が誕生したという経緯があり、ポルシェ対プリンスの再対決に関心が集まった。
展開
第3回日本GPの首位争いを再現するプリンス・R380とポルシェ・906。2003年9月15日、改修前の富士スピードウェイ・フィナーレにて。

5月3日の決勝日は好天に恵まれたが、午前の特殊ツーリングカーレース中、永井賢一のベレットGTが強風に煽られて30度バンクからコースアウトし、富士スピードウェイ開業初の死亡事故となった。30度バンクのスピード制限や追い越し禁止が討議され、GPレースは予定より1時間遅れて午後2時35分にスタートとなった。
スタートはグリッド2列目から生沢徹(プリンス)がトップに立ち、砂子義一(プリンス)、田村三夫(トヨタ)、滝進太郎(ポルシェ)、横山達(プリンス)と続いた。砂子は2周目に生沢を抜いてトップに立ち、生沢の後方には滝と酒井正(シェルビー)が浮上した。マシンの不調でペースが上がらない生沢は数周にわたり滝をブロックし、チームメイトの砂子を逃がす役割を務めた。
滝は6周目に生沢をかわすと砂子を追い上げ、25周目にトップに立った。8秒ほどリードして31周目にピットインしたが、給油作業のロスタイムが勝敗に影響した。滝のチームはポリタンクから給油したため50秒以上要したのに対し、37周目にピットインした砂子はプリンス陣営が準備した重力式給油装置[5]の効果で15秒たらずで作業終了。ピットワークでトップを奪い返してコースに復帰した。
レース終盤には2位を行くマシンの脱落が相次いだ。43周目、再度トップを追走していた滝が最終コーナーで路面のオイルに乗りクラッシュ。車体前部を壊してピットに戻りリタイアした。生沢は46周目にギアトラブルでストップ。最終コーナーからピットまでマシンを押して戻る生沢に対して、健闘を讃える拍手とブロック走行を非難する罵声が浴びせられた。同ラップには酒井のマシンにもエンジントラブルが発生した。
追う者が消えた砂子は独走状態で60周を走破して優勝した。3周遅れでチームメイトの大石秀夫が2位となり、プリンスワークスは1、2、4位(横山)という好成績を収めた。3位は無給油作戦を実行した細谷四方洋(トヨタ)。予選ポールポジションの北野(日産)はエンジントラブルでリタイアした。


Wikipedia:船橋サーキット
船橋サーキット(ふなばし- )は、かつて千葉県船橋市若松町(現・浜町)に存在したサーキットである。
概要
1960年代半ば、船橋ヘルスセンターを経営していた朝日土地興業株式会社が目新しいレジャー施設を模索していたが、事実上の運営者であった丹澤章浩[1]にマキノ正美らが敷地内へサーキットを建設する案を持ちかけ、ほぼ同時期に計画されていた伊豆韮山サーキット[2]建設調査のため来日していた元F1ドライバーのピエロ・タルッフィに設計を依頼したところ快諾。資本金2億円で株式会社船橋サーキットが設立され建設を開始し、多摩川スピードウェイ、鈴鹿サーキットに次ぐ日本で3場目のサーキットとして1965年7月1日に開設された。
月に1〜3回ほどサーキットコースでのレースを開催し[3]、コース内ではジムカーナを頻繁[4]に行なっていた。またレーシングクラブ向けのライセンス講習会や、レンタカーによる体験走行もおこない、日本におけるレース人口の拡大に貢献した。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2023.03.19 23:08:45
[TVラジオ番組 television & radio programs] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: