秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

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2023.04.10
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岐阜県高山市にある荘川桜のお話です。

水力発電のダム建設の為、村とともに沈む予定だった戦国時代に植えられた高さ20m、幹回り6m、重さ40トンの桜が、多くの人の努力と工夫により、距離600m、高さ50mの移送を経て、不可能と言われた移植を成功させるまでのお話です。

脚色の無いシンプルなストーリーだからこそ見ごたえがあります。見逃せない作品だと思います。

偶然ですが、今年荘川桜は4/11に咲きました。今年は無理ですが、いつか訪れてみたいです。

霞が関の飯野ビルディングの近くに荘川桜二世が咲いているとのこと。バイオ医療で、人間も挿し木みたいに手軽に増えると人口問題も解決していいんですが。












■参考リンク
2023 荘川桜開花情報
令和5年4月11日(火)午後3時
開花しました。わずか6時間ですが。今週末頃までには見ごろとなるでしょう。今年の開花日は過去最速です。

LINEショッピング:NHKプロジェクトX 挑戦者たち 桜ロード 巨木輸送作戦
■説明:『プロジェクトX 挑戦者たち 桜ロード 巨木輸送作戦』 昭和35年、奥飛騨山中で敢行された移植工事。村人の思いを背負い、1本の桜の大木を守り抜いた男たちの奇跡の物語。岐阜県高山市荘川村、御母衣ダム湖岸に立つ桜の古木がある。荘川桜。高さ約20m、幹まわり約6m、樹齢450年。春になると満開の花をつけるこの荘川桜を見に、毎年多くの観光客が訪れる。昭和27年、戦後の経済復興を支える電源供給のため、御母衣ダム建設が決定。水没予定地区の荘川村周辺には1200人以上の住民が生活していた。そして、村の菩堤寺の境内には1本の桜の古木がある。村のシンボルであり、村人たちの心の拠り所だった。この樹をなんとか残せないか。電源開発の初代総裁 高碕達之助は、桜研究の権威 笹部新太郎に打診する。しかし、桜は外傷に弱く、枝1本折れただけで枯れてし....

移植の事情 (御母衣ダムの建設)

荘川桜物語:電源開発

岐阜県高山市荘川町。ここに、二本の老いた桜が生きている。
樹高、約二十メートル
幹周、約六メートル。
樹齢、四百五十余年。
四方を山に囲まれた御母衣湖畔にたたずむこの桜には、
奇跡のものがたりがある。
御母衣ダム建設にともない、
光輪寺と照蓮寺が、湖底に沈むことになった
そこで春になると村人の眼を楽しませていたのが、
二本の老桜であった。
美しい桜が水没することを憂えた男が一人、

そのひたむきな思いに
「桜男」と呼ばれた人物が共鳴した。
世界の植樹史上、いまだかつて例のない巨桜の大移植。
多くの人々の気持ちが、奇跡を生んだ。
この「荘川桜」の運命が語るもの

そして、自然をいとおしむ人間の真心。
桜は現在もいにしえと変わらず壮大に、
咲き誇っている。
以下略

【荘川桜がここに咲く】 湖底に沈むところだった 荘川桜 - 岸泰正(キシヤスマサ) | 選挙ドットコム

<ウォッチひだ> 移植62年の「荘川桜」、命存続へ試行錯誤2022年11月17日 05時05分 (11月17日 05時06分更新)
高山市荘川町のシンボルとなっている「荘川桜」は、一九六〇年に近郊の御母衣ダムの建設のために移植されて以来、同ダムを運営する電源開発(Jパワー)の支援のもと、保全活動が続けられてきた。国道156号の沿道にたたずむヒガンザクラの巨木二本は、樹齢五百年を超える。だが、移植から六十二年がたつ今、老樹は細菌や鳥の被害に蝕(むしば)まれ、存続の危機を迎えている。...
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いまも岐阜県高山市荘川町(旧荘川村)中野の国道156号沿いにある御母衣ダム湖岸に佇む「荘川桜」。その2本の桜の樹齢は、既に500年を超えているといいます。しかしこの老樹も、かつてはダム建設のため、湖底に水没する運命にありました。
そこに立ち上がったのが、工事を推進する電源開発株式会社の初代総裁・高碕達之助。高碕はその巨樹を前に、「なんとかしてこの桜を救いたい」という思いに駆り立てられたのです。困難を極めた移植作業は、果たしてどのようにして行われたのでしょうか。
ダム建設に翻弄される地元住民たち
敗戦直後、満身創痍の祖国を再建すべく懸命の努力が続いていました。ようやく目処が立った昭和27年、政府は広範囲に及ぶ電力供給を可能とすることが、さらなる復興のはずみになると考え、電源開発株式会社を創設して水力発電のためのダム設計にとりかかったのです。これが佐久間ダムと御母衣(みぼろ)ダムの建設でした。
電源開発の初代総裁には高碕達之助が就任しました。高碕は東洋製罐株式会社の創設者であり、戦前は請われて満州重工業開発株式会社総裁として手腕を振るった実業界の傑物です。
御母衣ダム建設の一件が政府によって公表されたのが同年10月18日、この寝耳に水の報道を知ったダム建設予定地区に決まった岐阜県大野郡荘川(しようかわ)村は騒然となりました。ダムの底に水没することになるわけですから当然です。翌28年1月には地元民によって「御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会」が結成され、以後7年間にわたって激しい闘争が繰り広げられることになります。
しかし、地元民は大局的立場からダム建設を受け入れることになり、昭和34年11月に死守会は解散を迎えます。
ところが地元民は、その辛い式典の席に憎んでも憎みきれないはずの高碕を招待したのです。なにゆえ死守会は高碕を招いたのでしょうか。
じつは高碕は、地元民との交渉に際してみずから膝を交え対話に努めた稀有な総裁でした。書面でのやりとりも肉筆で書き送ったといいます。故郷が水没する地元民の嘆きを痛いほど感じていたからにほかなりません。
以下略





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Last updated  2023.04.13 22:56:28
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