日本の競合各社がまだ進出していないこともあり、米国店は日本にくらべて3,4倍の値段にも関わらず人気店だそうです。くら寿司の珍しい配膳システムや遊び心が米国人に受けたように思います。1960年代の青木廣彰氏の米国でのステーキ店「BENIHANA OF TOKYO」の成功を思い出します。このままの調子を保って世界市場で成功したらよいと思います。
1960年、ローマ五輪の日本レスリングチーム補欠選手。1962年、ニューヨーク市ハーレムで移動アイスクリーム屋を開き、和傘のミニチュアをアイスクリームに添えるアイディアが功を奏し成功を収める[2]。1962年、1963年、1964年のレスリング全米選手権のフリースタイルとグレコローマンスタイルでそれぞれ優勝し、レスリング選手として活躍した。1964年、米国選手として東京オリンピック出場選手に選ばれるがアメリカ合衆国の市民権がなく、結局2回の五輪出場チャンスを逃すこととなる。ニューヨーク市立大学シティカレッジを卒業。 1964年、両親が既に日本橋を本店に銀座などで洋食屋「紅花」を数店舗経営していたため、両親兄弟も伴い家族も渡米し、鉄板焼きレストラン「BENIHANA OF TOKYO」第1号店をニューヨーク・マンハッタン西56丁目に開業[2]。コメディアン的ボードビリアンのステージアクターだった父・青木湯之助(郷宏之)のアイディアでパフォーマンスを取り入れた鉄板焼きをはじめる。珍しさも相まって多数のマスコミに取材され店は繁盛し、ヒルトンホテル会長・バロン・ヒルトンからも出店依頼が来るようになり、後に米国内80店を含む世界110店舗を展開する、一大日本食チェーンとなる「BENIHANA」の礎を築き、実業家としての成功を手にする。