秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

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2024.09.07
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1970年、小学校5年の頃からやっていたクイズ番組です。「文学歴史の50」とか「ノンセクション」とかのジャンルがなつかしいです。

しかし、10代の頃はこれでもかというくらいよくクイズ番組を観ていました。記憶にも結構残っています。今はどんなクイズ番組が流行っているのでしょうか。





この番組の下地になった米国の本家ジェパディーはまだ続く息の長い番組となっているようです。

■参考リンク
Wikipedia:クイズグランプリ
放送概要
司会:小泉博
アシスタント:菊地洋子、岩崎美智子、岡まゆみ、山口麻紀、清水洋子、真保富美子 ほか
出題ナレーター:丘かおる、山内槙子 ほか

オープニングテーマ音楽:不明 → 細野晴臣(「北京ダック」のアレンジ。1975年10月頃[いつ?] - 最終回)
放送時間
月曜 - 土曜 19:30 - 19:45 (1970年3月30日 - 1974年9月28日)
月曜 - 金曜 19:30 - 19:45 (1974年9月30日 - 1980年12月26日)
基本ルール
番組自体はアメリカのクイズ番組『ジェパディ!』を下地にしている[1]。

毎日、5人から6人程度の解答者が出演してジャンル別(「スポーツ」「芸能・音楽」「文学・歴史」「社会」「科学」、そして「スペシャル」問題(=上記5項目以外から日替わり。初期は「ノンセクション」だった))の6つの項目のうち1つを選び、10点から50点のカードのうち最も点数の低い問題が出される。例えば、スポーツの10点の問題が残っている状態ではスポーツの20点から50点の問題は選べない。そのジャンルの10点の問題が出題された次以降に20点の問題が選べるようになり、以下同様に順番に選択できるようになる。問題の指定は「文学・歴史の10」などと言って行う。原則として、点数が低めの問題では一般常識に近いレベルの問題が出題されやすいが、点数が高めの問題では深い知識が問われる問題が出題されやすかった。最初の問題だけは司会者が選び(通常はスペシャルの10)、以降は原則として正解した解答者が問題を選べる。誰も押さなかった問題の次の問題は、その前の問題の正解者の画面に向かって右隣の解答者(一番右の解答者の次は一番左の解答者)が選ぶ。誤答が出て正解者がいない場合は誤答をした解答者の右隣の解答者が選ぶ。問題は全て早押し形式で、正解すればその表示得点が加算される。不正解ならばその点数が減点される(0点以下はマイナスが付いて表示される)。また、早押しは先着2名まで有効で、一番早く押した解答者が不正解ならば二番目に押した解答者に解答権が回る。問題のカードにはチャンスカードが2枚隠されており、これは引いた解答者だけに解答権がある(引くとチャイムが鳴る)。チャンスカードの問題では、解答者は自分の持っている得点のうち10点単位で点数を賭ける。ただし、得点が50点以下の場合50点まで賭けられる。正解すれば賭け点が得点として加算、誤答した場合は賭け点分減点される。全ての問題を消化した時点でクイズは終了。最高得点者一人がチャンピオンとなり、ファンファーレが鳴り、解答席の周りの逆U字ランプが点灯して、チャンピオン大会への出場権が与えられる。また解答者全員に10点につき1000円の賞金が与えられる。

Wikipedia:小泉博
小泉 博(こいずみ ひろし[出典 1]、(1926年[4][7]〈大正15年〉8月12日[1][6] - 2015年〈平成27年〉5月31日[出典 2])は、日本の俳優、司会者。本名は小泉 汪(読み同じ)。神奈川県[出典 3]鎌倉市[1][5]出身。身長173センチメートル、体重72キログラム、血液型はA型。趣味はゴルフ。
『ゴジラの逆襲』(1955年)
来歴
政治家の小泉策太郎の八男として生まれる。兄に日本画家の小泉淳作がいる[10]。

NHK入局後、昭和25年(1950年)ごろに大分放送局に配属される[11][7]。同年9月、休暇で上京した際にNHK内で放送劇をやっていたこともあり、興味本位の軽い気持ちで1951年公開の藤本眞澄が代表を務める藤本プロの『えり子とともに』のフレッシュマン募集に応募し、3人の合格者の一人に選ばれる[6]。これを受けNHKを退職し、同映画に出演する[5][6]。その後、東宝に復帰した藤本から誘われて、東宝ニューフェイス第3期生に応募し、合格[出典 4]。同期には山本廉、岡田茉莉子がいた。1951年6月、東宝に入社して、翌1952年1月、『青春会議』で主演スターとして売り出される[出典 5]。
都会的な明るい持ち味の二枚目ぶりが人気を呼び[出典 6]、特に1956年から1960年にかけての江利チエミ主演の『サザエさん』シリーズでのマスオ役が当たり役となった[出典 7]。
初期の東宝特撮映画では、誠実な科学者役として欠かせない存在だった[3]。しかし、小泉自身は怪獣映画を特別に意識することはなく、演技は他の作品と同じであったと述べている[5]。
1961年以降は次第にテレビへと活躍の場を移し、1970年には『クイズ・グランプリ』の司会を務め、アナウンサー経験者とあって、巧みな話術を生かした名司会ぶりで人気を博す[出典 8]。
レストラン「チェック」を経営し、1990年代後半からはフランキー堺の後押しなどもあって日本俳優連合での取りまとめ役に従事、『徹子の部屋』では「そっちが忙しすぎて、俳優の仕事があまりできないんですよ」とコメントしていた[出典無効]。

2015年5月31日午前2時20分、間質性肺炎のため死去した[14][7]。88歳没。





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Last updated  2024.09.10 21:40:25


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