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朝、ちょっとここでは書けないような夢を見ていた。非常にリアルで感覚すら覚えるような夢だった。時計を見ると時間は6時。ちょっと早いが2度寝は避けたかったので起きる事にした。テレビをニュースに合わせ、PCを立ち上げる。煙草を灰にしながらPCが立ち上がるまで、ぼーっとニュースを見ていた。ニュースは土曜日に起きた地震関連を中心に報じている。PCが立ち上がったので、適当に自分の管轄サイトを眺める。ふいに、下の子の声が届いた。どうやら起きたらしい。しきりに「じゅちゅじゅちゅ」と言って妻にごろごろとしていた。観念したのか妻は起きて、下の子のコップに林檎ジュースを入れた。下の子は満足そうにそれを飲み干した。下の子は最近、コップを使って飲むことを覚えた。まだおぼつかない様子だったが日に日に上手に飲めるようになっているように感じた。トリプタノール25m×2、レキソタン2m、スルピリド100mを服用する。薬は飲んだが、金曜日の飲みすぎのダメージがまだ残っているようで、下腹部が鈍い痛さに包まれている。やれやれ。。セレキノンを2錠飲み込んだ。上の子も起きてきたので、簡単な朝食をとり、みな家を出る準備をした。準備も終わったので、ちょっと早いが皆で家を出ることにした。駅まで歩いている間、頭の中は金曜日の記憶を呼び出そうとしている。なんだか酷く憂鬱な気分になったが、とりあえず会社に行こう、と思い返しゆっくりと駅へと歩みを進めた。駅に着いたと同時に列車がホームに滑り込んできた。今日は久しぶりに電車内特有の雰囲気に酷い嫌気を覚えた。会社に到着。とりあえず、今日やるべきこと、やりたいことを本当に小さな単位で書き出す。コアタイムが過ぎたので、担当人事の方に思い切って電話をしてみた。用件は金曜日の上司の発言に対する愚痴。電話をすると担当の人事の方にすんなり繋がった。「どうしたんですか?」と聞かれたので、僕は金曜日にちょっと気にかかる言葉を受けてしまった事など、胸の奥に詰まっているものをゆっくりと吐き出していった。担当人事の方は僕の状態、病気について大変よく理解されている方なので安心して全てを吐き出した。「それはちょっと酷いですね。私のほうからそれとなく伝えますから」という言葉を頂いた。そして、僕がこうして電話が出来るようになっていることを喜んでいた。だいぶ楽になった。電話を切ってから、僕は前の上司とメッセンジャーにて会話をした。前の上司も僕の状況、病気について理解がある方なので、とりあえず全て話してみた。すると、とても良いアドバイスを頂いた。午前中はこのようなやり取りで終了した。トリプタノール25m×2、レキソタン2m、スルピリド100mを服用する。昼食は妻と一緒にラーメンでした。。。午後、案の定強い眠気に襲われた。もっていかれないようにと、只管気をはったが駄目だった。気付いた時には14時を回っていた。身体が非常に重かったので、外に出て簡単にストレッチをし、身体を解した。その後、いろいろと貯まっている小さな用件をちゃくちゃくとこなした。今日はこれまでにしようと思った時には調度勤務時間7時間をむかえていた。歩いて二子玉川に向かう。行き交う車、そして爆音を轟かせているバイクの音をバックミュージックに足取り軽く歩いていく。30分後、玉川高島屋についた。お目当ては花束。今日は僕達夫婦の結婚記念日なのである。妻が家に帰った後にふらっと花束抱えて帰宅したかったので、高島屋内をゆっくりと散策した。帰宅予定時間前30分になったので、高島屋内のフラワーショップに出向き、¥3,000ほどの花束を作ってもらうことにした。メインとする花を選び後はお店の方にお任せした。30分後に取りにくる旨を伝え、また高島屋内の散策をした。ユナイテッドアローズにて、スカルがプリントされているTシャツがあったので手にとってみた。ふーん、といった感じで眺めていたのだが、そのTシャツの下に別のTシャツがあることに気付いた。!!!!かっこいい。死神が中指を立てているプリントが前面、後面の両面に大胆にプリントされているTシャツ。即座に買いました。来る30日に、シルバーアクセ界の悪魔こと高蝶さんのイベントに参加するつもりなので、その時は死神Tシャツを着ていこうと会計しながらほくそえんだ。花束を受け取る時間になったので、フラワーショップに向かった。作られた花束は僕が予想していたよりも綺麗に出来上がっていた。店員さんにお礼を言い、シャンパンを買って家へと向かった。二子橋を渡りきったあたりで、妻から電話が入った。どうやら帰宅しても僕が家にいなかったので心配したらしい。そして、とりあえず今日は乾杯したいからビールと缶チューハイを買ってきたと知らされた。僕は何食わぬ返事をし、もうすぐ戻ることを伝えた。家に到着。結構いろんな荷物をもちながらずっと歩いてきたので、全身びっしょりと汗をかいていた。そのままリビングに向かい、ただいま、と皆に告げる。妻は換気扇の下で煙草を灰にしていたが、僕が肩にしょってる花束を見て、一気に顔がほころんでいった。とても嬉しかったのか、子供達に「パパ、お花買ってきてくれたよ」と興奮気味に話している。僕は「無事今年も今日を迎えることが出来ました。本当に迷惑ばかりかけているけど、とりあえずまた1年宜しくね」と言い、花束を妻に渡した。そして、皆で食事をし、その後、シャンパンを開け乾杯した。子供達は林檎ジュースで乾杯。僕は徐に立ち上がり、自室からGIGORのリングを持ってきた。それを妻に差し出す。気に入ってくれるか不安だったが、とても気に入ってくれた。安心感と満足感に包まれていく。(僕は前日の買い物の時に妻にキャサリンハムネットのビジネスバッグを頂きました)僕は久しぶりに心地よい酔いを感じながら、シャンパンを空っぽにした。就寝しようと寝室に入る。布団に横になり、今日一日の事を思い返す。なんとなく充実した一日になったような気がした。明日は台風。きっとなんとかなるさ。大丈夫。大丈夫。
2005.07.25
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今日は本社で僕が所属している部隊のキックオフがある。普段の通常の定例ミーティングには参加はしていなかったが、キックオフぐらいは出席しようと思い本社へと向かった。本社に着いてから、僕は緊張をほぐす為に喫煙所にて煙草を数本灰にした。さて、そろそろ行こうか、と思い喫煙所をあとにしようとした際、後ろから「blues!」と呼ぶ声が。。。誰だ?と思い後ろを振り返ると、前の上司だった。前の上司はラインから外れ、今は僕達と同じ土俵にて仕事をすることになった。とは言っても、やはりラインを任されていただけあって、与えられる仕事はほぼラインマネージャがするような管理ベースの仕事のようだが。。僕はこのとき、度の入っていないサングラスをしていたので視界が悪く、彼に気付かないでいた。サングラスを外し、仕事用の眼鏡にかけかえ、あらためて前の上司を見た。彼は僕が本社まで足を運ぶ事が出来たという事実をとても喜んでいるようだった。彼と一緒に所属部隊が待機しているルームに向かった。ルームに入って僕は少し下っ腹に力を入れ、「お疲れ様です!」と声を絞り出した。新しい上司も僕が本社まで来た事に喜びを感じてくれていたのか、満面の笑みで出迎えてくれた。さっそく場所をミーティングスペースに移してキックオフが始まった。うーん、やっぱりまだ僕はこの部隊で同僚と同じような仕事は出来ないな、と感じた。まあ、焦らず今のポジションで出来る仕事を探すなり作るなりしようと言い聞かせながら、上司の話に耳を傾けた。キックオフも無事終了。この後は用賀にてチーム飲み会がある。僕はみなさんとは少し送れて飲み会会場に着いた。会場に入ると、女性のKさんが「bluesさん、ようこそ」と人なつこい笑顔で迎えてくれた。とりあえず乾杯しようということで、上司の音頭のもと乾杯した。ビールを1,2杯飲んだ頃だろうか。。僕は上司と少し話をしていた。僕は今の状況で受け入れてくれた事、こうやって話をしてくれることがとても嬉しいというような内容の話をしたが、その思いは一転する事となる。上司から「気の持ちようでだよ。なんとかなるって」、「楽しい環境で仕事を楽しくやれば大丈夫だよ」という言葉を頂いた。後者は、うん!うん!と首を思いっきり縦に振りたくなるような言葉だったが、前者の言葉に僕は不安を覚えた。このHPのTOPにでも記載している通り、鬱病とは西洋医学では脳内の感情を制御している物質の享受に問題があり発生するもので、気の持ちようでなんとかなるという代物ではないのである。気の持ちようでなんとかなるのであれば、薬なんて存在するはずも無く、また鬱病が社会的問題とされることもない。しかし、実際には今は会社がしっかりしたメンタルケアの実施をしなければいけないほど鬱病とは深刻な問題となっている。それを理解されていないように感じて落ちました。でも分るんです。悪意は全然無く、善意で言ってくれている事も。でも、微妙なニュアンスの違いが社会という場に溶け込むことに影響を及ぼします。以前の2度の復職で、その当時の上司達には漸く鬱病とは、鬱病患者との接し方などの理解が得られたのに、またスタートに戻ったような気分になった。それで、僕は煽るようにアルコールを体内に流し込み、血流にのせ、酔い、という状態に逃げ出した。帰り、前の上司(本社の喫煙所にてごいっしょになった方)が僕をタクシー乗り場まで送ってくれた。そして、相当心配してくれていたのか、家まで送っていく、と言ってくれた。僕はその気持ちだけで十分嬉しかった。前の上司に「大丈夫です」と思いっきり笑顔を見せ、タクシーに乗り込んだ。ここから記憶が飛んでいく。鬱病。。。本当にやっかいな病気です。特に仕事の場面などでは、やれないのとやる気が無いという微妙な違いを上司を含め同僚が理解してくれないと居たたまれない気持ちに侵食される。これから、またこの認識をあわせていかなくてはいかないのか。。と思うと酷く面倒だ。僕はどうすればいいのでしょう?悲しいです。悲しいです。辛く、そしてあたりが暗いです。また闇に身を投じてしまいそうです。痛いです。苦しいです。こわれた僕の脳の再構築は難しい。光を下さい。光を。。。
2005.07.22
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帰京するにあたって、青森からではなく父が単身赴任している八戸から帰ればいいのでは?という提案を父から受けた。妻と話し合い当日あまりばたばたとしたくないので前日に八戸に行く事を決めた。早速、八戸へと父の運転で移動。僕は疲れていたのか、何時の間にか闇に支配されていた。暗闇から脱出した時は既に八戸近辺を走行していた。僕は寝ぼけ眼を何度もこすり、眠気を逃がそうと試みた。父に「あとどのくらいでつく?ここはどこ?」と尋ねると「もうすぐ着くぞ」と気分の良い調子で返答が帰ってきた。後部座席を見ると、上の子はおばあちゃんに、下の子は妻の膝に座りながら微弱な寝息を立てていた。八戸到着。荷物を抱えて八戸の父の住む県営住宅に入った。なんだか懐かしさを覚えた。僕は鬱病で休職していた時、この家で大半の時間を過ごした。すごく昔のようでもあり、とても最近の事のようでもある不思議な感覚が身体を包んだ。荷物を客間に運び込み、僕たちは一息ついた。その後、父と母が買出しに出るというので上の子を引き連れて一緒について行った。家の近所にある大きなスーパー。ここも懐かしい気分にさせてくれた。ビールとつまみになるような食材を買い、家へと戻った。残念なのは妻が食べたがっていたイカ焼きがなかった事。夕食には僕の弟夫婦も一緒にする事になっていた。弟達が到着する間に、僕はシルバーアクセの本を読み、子供たちは、はしゃいだ声で家のいろいろな部屋をまるでおいかっけこでもしているかのようにバタバタと走っていた。ここは4階。下の住人に迷惑だと思い上の子を呼び寄せて、走り回らないように注意した。しかし。。。数分もしないうちに、また、下の子と追いかけっこ状態。ぷっつんしそうなのを抑えて、再度注意した。。。。また走ってるじゃん!!!僕は上の子を呼び、読んでいた本で軽く頭を叩いた。そして、理解出来ないだろうけど下の子にも僕は怒っているんだよ、といった気持ちをこめて「だめ!」と一喝。漸く静かになった。父は弟達の到着が遅い事に苛立ちを隠せないでいた。僕はそんな父を諭し、煙草を数本灰にした。弟達がやってきた。弟達には僕の下の子の1歳したの子供がいる。つまりは、僕の子供達にとっては従兄弟。上の子は会うのを楽しみにしていたようで、なんども話し掛けて反応を見ていた。下の子は自分と同じくらいの女の子に興味を抱いたのかじっと見つめていた。皆そろったところで会食を楽しんだ。こうして親子、そして孫を含め父のファミリー全員がそろって食事をするのは初めてのことだった。僕はこの時間をもてた事、そして皆と同じ空気、空間、時間を共有できた事に嬉しさを感じた。食後、皆で外に出て花火をした。その後、家に戻り少し話をした後、弟達と再会の約束をして別れた。疲れたせいか、皆、後片付けをした後すぐに眠りについた。朝、僕は5:00に目を覚ました。昨日はほとんどアルコールを入れなかったためか、頭はすっきりと冴えていた。とりあえずリビングへ行き、煙草を何本か灰にした。「まあ、こんなものさ」何故かこんなセリフを吐いていた。まだ眠っている上の子を抱きかかえ、父母が寝ている寝室に連れて行き、父と母の間に上の子を寝かせつけた。父は薄目を空け、僕を見るとにこりと笑った。皆が起きてくるまでまだ時間があったので、コーヒーを飲み、また煙草を灰にする作業に励んだ。トリプタノール25m×2、レキソタン5m、スルピリド100mを服用する。皆が起きてきたので、朝食を取る事にした。簡単な朝食。昔、母が作ってくれていたおかず。鬱が酷い時にここで食べていた時には、そんな些細な事にさえ気付かなかった。ゆっくりとかみ締め感謝の気持ちをこめて食べ尽くした。食後、強い眠気とダルさに襲われた。僕はそのまま眠りについていた。気がつくと10:30。”。。荷物をまとめなきゃ。。”重たい身体を起こし客間へ向かった。荷物は整理されていた。妻に聞くと母と一緒に荷造りをしてしまったらしい。11:00。そろそろ駅に行く時間となった。父の家から駅までは大人の足で、だいたい歩いて5分ほどの距離。上の子はおじいちゃんとおばあちゃんの手を握り足取り軽く歩いていく。下の子は自分で歩いたり、妻に抱っこされたりを繰り返しながら、ゆっくりと駅を目指していた。駅に到着。駅弁を選び、ホームに足を運んだ。僕達が乗る列車は既にホームに入ってきていた。父と母はホームまで見送ってくれた。荷物を棚にあげ、上の子をつれてデッキへ向かった。上の子に「おじいちゃんとおばあちゃんに又来るね!っていいな」と伝えると震えるような声で僕の言葉をそのまま発していた。見てみると上の子は泣いていた。そんな上の子の姿を見た父は「運動会。見に行けたら行くからね。」と告げる。上の子は泣きじゃくりながら「うん。まってるね。。。」と返す。列車が発車するまで上の子は泣きながら、おじいちゃんとおばあちゃんと会話をした。。。。プシュー。。。列車のドアが閉まる。上の子が「あ、あ。。。」と閉まるドアに向かって声をあげた。ふと窓から父を見るとハンカチが握られていた。上の子は盛岡に着くまでの30分間、ひたすら泣いていた。よっぽど好きなんだろうな、と思いながら、上の子に方をまわした。無事に自宅に到着。到着した事を告げるために母の携帯を鳴らした。すると母から意外な事を聞いた。「お父さん、泣いてたよ。上を向いて。母さん、お父さんが泣くのを初めて見たよ」父も悲しかったんだ。強い父という印象が強いのでびっくりしたが、あの時握られていたハンカチは紛れも無く悲しみを吸い取る為のものだったのだ。切なく、胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを我慢しながら母と会話をし、そして受話器を置いた。人と人との巡りあわせ。とりわけ自分の子供、そして孫の存在は大きく、運命的なものであろう。父と息子が流した涙は、この奇跡的なめぐり合わせがもたらす最高に綺麗で切ない雫であろう。僕もいずれは孫を持ち、同じような気持ちを味わうのかな?と感じ、夜空に瞬く星に向かって手を伸ばし「神よ。。。」と意味も無く呟いた。
2005.07.18
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7月16日から実家の青森に帰省した。上の子は前々からこの日を待ちわびていたようで、とても嬉しそうにしていた。下の子は何のことかさっぱりわからないといったきょとんとした目で僕や妻をみていた。二子新地から電車に乗る。土曜日ということもあって、それほど混雑はしていなかった。僕は優先席が設けてある付近のドアから電車に乗った。妻も下の子を抱きかかえて僕についてくる。上の子は僕の左手をしっかりと握ってニコニコしていた。。。。。優先席。。。おいおい、ここに子供を抱きかかえたか弱い女性が立っているじゃないか。なんで君たちはいつも寝たふりをして席を大変な方たちに譲らないんだ?僕は心の奥底からこみ上げてくる激情を抑えることが出来なかった。一番若いにいちゃんの前にしゃがみこみ「もしもーし」と声をかけたが知らん顔。それを見た妻は僕を必死になって止めた。「blues、いいから、私は大丈夫だから。。。」うーん、妻が大丈夫でもこの若いにいちゃんの頭は大丈夫じゃない。修正してやりたい。。。苛苛が血流に乗り、全身を駆け巡る。上の子が心配そうに握りこまれた僕の右こぶしを凝視していた。はいはい。わかりました。我慢します。うつ病が酷かったときは、きっと修正していたでしょう。これも少しは回復してきた証拠なのかな?と思った。でも、僕は悔しさが腐食しないタイプなのでこのまま電車を降りると心にシコリが残ってしまう。はぁ、どうしたものか。。。とりあえず、ひたすらめんちきっとこ。東京駅に着き、ビールを一缶空け、電車の到着を待った。上の子はとてもはしゃいでいる。下の子は初めて見る新幹線を見て「ぶーぶ」と連呼していた。「新幹線だよ」と教えると、可愛らしい声で「ちんかんちぇん、ちんかんちぇん」と言っていた。新幹線に乗り込み、指定された座席について一息ついた。ここまでの道程で少々疲れたのか、お腹が減ってきた。妻にそのことを告げると「わたしも」と言うので、ちょっと早いが駅弁を食べることにした。食後、トリプタノール25m×2、レキソタン2m、スルピリド100mを服用する。食事が終わると薬のせいもあって眠気が襲ってきた。今日は眠気を我慢しなくていいので、そのまま眠りについた。目を覚ますと仙台駅に電車が停車していた。結構寝たな、と思いながら家族の様子を伺う。全員まだ闇の世界を旅していた。僕はおもむろにバッグを空け、中から聖銀辞典というシルバーアクセの本をとりだした。おもわず口元がほころぶ。この本は7/15に発売されたのだが、帰省のとき、電車の中で読もうと楽しみを取っておいたのだ。ああ、いいなやっぱり。ぺらぺらめくったり、じっくり眺めたりしているうちに八戸に到着。皆を起こして青森行きの特急列車に乗り換えた。ここからはこ一時間ほど揺られることになる。青森に到着。ホームに降りると「blues!」という声が後ろから飛んできた。ん?と首を後ろに向けると、父と母が満面の笑みで出迎えてくれた。上の子はおばあちゃんの方に駆け寄り、嬉しそうに抱きついた。下の子は父の「おじいちゃんだよ」という呼びかけに、きょとんとした顔をしていた。父の車に乗り込み家へと向かった。実家に到着。ああ、やっぱ実家はいいですね。落ち着きます。そして、高校までのことが思い出されます。荷物をとりあえず玄関に放り込み夕飯を食べに出かけた。夕食は上の子の提案で”焼肉”となった。大人数での焼肉。最高にいいですね。雰囲気だけでご飯がすすみました。上の子も久しぶりの焼肉にとても喜び、いつもよりも沢山食べていた。家に戻り、父と飲みなおした。父がほろ酔い気分で語りだした。「お前に隠していたことがある」母がやめておきなさい、と父に忠告していたが、そこまでしゃべられると気になって仕方がないので、父に話を進める様に促した。すると、「実は、俺、心臓の手術をしたんだ。動脈がどうも上手く機能していなかったようで、もう少しで狭心症になるところだった。幸い、メインの動脈のほかに小さな動脈があり、そこが運良くも機能していたお陰で重大な状態にならなかった。今は元気そのものだ」と。。。僕は急な告白に戸惑ったが、とにかく結果的に手術は成功して、そして前よりも元気な父が今目の前にいることに深い感謝の念がこみ上げて来た。父の手をとり、「よかった。孫たちの嫁さんを見るまでは元気でいてくれ」と伝えた。酔いのせいで、口が軽くなっていたのだろう。父はさらに何かを言おうとした。それを母がまた制した。僕はまた父に話すように促した。「T先生が無くなったんだよ。自殺。車の中で一酸化中毒死。。。」突然のことに言葉を失った。Tさんとは、僕が小中学生のときにアイスホッケーのコーチだった方で、青森のアイスホッケーの立ち上げに大きく貢献した方だった。とても明るくていつも笑顔を絶やさない人だった。僕には彼の笑顔しか印象にない。母は「bluesが今大事な時期だから話さないでおこうと思ったのに、父さんったら。。。blues大丈夫?」と心配そうだった。僕は「大丈夫、でも意外な人が意外な死に方を選んでびっくりしている」と告げた。父の心臓手術の成功、そして相反して恩師の自殺。対局しすぎてどう反応して、どういう顔をしていれば良いのか分からなかった。自殺する前に恩師に言いたかった。「死ぬのはいつでもできます。だから今日は生きてみましょう」と
2005.07.16
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久しぶりに、いつものような日記を書いてみようと思う。朝、目が覚めると時間は6時過ぎだった。まだ起きるには早い時間ではあったが2度眠はしたくないので、そのまま起きてPCの電源を入れた。マシンが立ち上がるまでコーヒーを入れ、煙草を1本灰にした。徐にPCに向かい、とりあえずオークションサイトを眺めた。ああ、一個落札できていた。昨日、干支にまつわる梵字が描かれているオニキスブレスを発見した。といっても僕の干支ではなく友の干支なのだが。早速取引相手にメールし、女性用に直して欲しい旨連絡した。その後、天気予報を確認しシルバーアクセのサイトを一通り見て、妻達が起きてくるのを待った。時刻は7時をまわりかけていたが、誰も起きてくる気配は無い。仕方無しに寝室にいき、手を軽く叩いて起床を促した。下の子は既に起きていたようで、ブロックで遊んでいた。妻と上の子は眠たげな瞳で僕を見つめた。僕はもう一度、朝が来た事を告げ、食事をしようと促した。トリプタノール25m×2、レキソタン2m×2、スルピリド100m を服用する。子供達と菓子パンを食べ、なんとなくテレビを見た。橋本氏死去。。。それだけが印象に残った。朝食後、歯を磨き、洗顔し、髭をそり、ローションを塗って顔を整える。最近はまっているのが 資生堂 MEN のスキンケアグッズ。僕の友人が資生堂系列のAYURAに勤めていて、社員価格で帰るよと伝えられたのが使用するキッカケだった。学生時代はローションと乳液を使用していたが、社会人に入って彼は全然ケアする事は無かった。ここ最近、自分の肌の衰えと言うか張りの無さと言うか。。。気になって仕方なかった。それで使うようになった。いいですよ。資生堂 MEN のスキンケアは。準備が完了した頃には妻も化粧を終えて、いつでも出勤できる状態で待っていてくれた。今日はごみの日。ごみは僕の当番となっていた。ごみ袋の口を結び、家を出る。子供達が妻の自転車に乗り込み、歩く僕を追い抜いていく。「rion バイバイ。shion いっぱい遊んでおいで」と僕は伝えた。駅につく。僕が乗り込む時間は結構混雑する時間帯なのだが、電車内特有の匂いや人々が発する熱にだいぶ慣れて来たな、と感じた。会社に到着。ああ、みんないない。というのも、僕の所属する部隊が用賀から本社へと移動になったのである。しかし僕には本社に毎日通勤する事がイメージに沸かなかったし、何より僕の主治医は用賀にいるので、新しいラインマネージャに相談し、一人用賀に残してもらった。うーん、なんとなく開放感も感じるのだが、淋しさと不安が募ってきた。席につき、ウーロン茶を飲みながらメールのチェックをする。その途中に僕の座席の電話がなった。出てみると上司からで「ミーティングするからbluesさんはテレカン形式でお願い」ということだった。1時間ほどみなの言葉に耳を傾けた。。。。やっぱりテレカンよりは顔を見てミーティングしたい。。。欲求は強まるが、今の僕はまだ復職リハビリ中の身。一気に行動範囲を広げたり、仕事を増やす事はしないように自分自身に言い聞かせた。ミーティングも無事終了したので、再度メールの確認をした。確認し終えた時にはお昼ちょっと前だった。その空いた時間に楽天のこのHPのチェックをした。ん!?USにいる友人の書き込みがあった。僕は即座に友人にメールを送った。「見てくれていてありがとう」素直な気持ちでメールした。昼食。昨日は妻と一緒に食事をしなかったので今日はラーメンかな?と思っていたら案の定、妻はラーメン屋に行きたいと申し出た。まあ、いいでしょう。僕も嫌いではないし。トリプタノール25m×2、レキソタン2m×2、スルピリド100mを服用する。午後、強烈な眠気に襲われる。その眠気は僕の意識を一気に闇にもっていくような強力な力があった。ここ最近、午後はいつもこの強烈な眠気に襲われる。一度襲われると、一気にもっていかれ、1時間ほど眠りについてしまう。今日も時計を確認すると2時半だった。ああ、またか。。。。ま、仕方ないな。薬まだ強いし。。。寝起きのボケた頭を再構築するために、コーヒーを買いに会社を出て、喫煙所でコーヒー片手に煙草を数本灰にした。なんとなく頭がスッキリしてきたので自席にもどることにした。今与えられている簡単な仕事をサッと片付けて、空いた時間にネット上を旅した。帰宅時間になったので上司に帰宅する旨メールし、歩いて帰ることにした。(最近は雨が降らない限り、帰りは歩くようにしている。だいたい40分ほどのウォーキングである)二子橋を鼻歌交じりに歩く。風が吹き抜ける。心地良い涼感を感じ、そして軽く両手を開いて風を出来る限り全身で感じる様にしてみた。帰宅後、腕立て、ダンベルあげ、腹筋等しながら妻達が帰ってくるのを待った。最近、毎日身体を苛めている。身体のラインが崩れるのが嫌だから。。。もう32になるし、いまから気をつけておかないと、という強迫観念も後押ししているのだが。ほどなく妻達が帰ってきた。みなで夕食をとり、そして僕は下の子が眠るまで一緒に遊んだ。下の子が眠りについた後は上の子が奏でるピアノの音色をバックに本を読んだ。=======ここまで書いてみて気がついたのだが、以前の僕が感じていた、孤独感、疎外感などあまり感じる事無く一日を過ごしているな、とあらためて感じる。はっきり言って会社には申し訳ないぐらいの仕事しかしていないのだが、ここで焦っては駄目だと言い聞かせている。きっと今回こそは脱出出来そうだ。さらば、タナトスコンプレックスよ。。。
2005.07.12
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僕は約2年半前に重度の鬱病と診断された。それまでの僕の人生は、なんとなくではあるが挫折をほとんど味わう事なく生きてきた。しかし、どれも酷く中途半端な生き方をしていたように今では思う。大学はアイスホッケーが強い国公立大に入学したくて、高校時代は必死に勉強した。いざ、大学に入り、部に入部したら、そこには納得の出来ない秩序が形成されていて僕のアイスホッケーに対するスタンスを曲げざるを得なかった。はっきり言って年功序列型の体育会系にありがちな体制がそこにはあり、僕はその世界に身を投じた事に些かの不安を覚えた。歳が経つにつれ、プレイヤーとしての限界を感じていた僕はコーチングで生活出来ないかと模索し始めた。しかし、当時のアイスホッケー界ではそれは無理のある事だった。そして僕はアイスホッケーからすっぱり足を洗った。大学院を卒業した後、僕は希望していた会社へ入社していた。新人研修を終え、自分が希望する部署に問題なく配属され、その部隊での仕事を始めた。仕事は僕の性格、性質に合っていた。新人の中では一番できるという自負もあった。僕は部署内で様様な製品に関わるようになっていた。そして、うちの部署内でもっともスキルを要する部隊に配属されていた。そこでは2年半ほど頑張った。その後、あるチームのリーダーに赴任した。ある日、僕はどうしようもなく現実から逃げたいという衝動に駆られた。そして僕は急行列車に飛び込もうとしていた。幸い周りの人々が僕の異変に気付き羽交い絞めにしてくれたので、命を消す事はなかった。この衝動は無意識のうちに発生していた。自分の心の叫びが初めて聞こえた僕はかかりつけの心療内科に駆け込んだ。診断の結果は「重度の鬱病」。主治医に今すぐにでも会社を休職して、入院なりした方がいいと言われた。会社を休む事に非常に抵抗があったが、医師の言うとおりに従った。最初の休職期間中は何をしていいのかわからずに毎日を送っていた。ただただ時間だけが無情にも過ぎていくばかりだった。3ヶ月後、精神的に少し安定が見えてきたので、主治医と話をし、復職する事にした。復職後、復職前と変わらない仕事をこなして行った。質量ともにまったく以前と同じハードな仕事量。そして3ヶ月の月日が経った。僕は会社で倒れた。パニック発作を発病させていた。すぐさま主治医のところに連れて行かれ、診断を受けた。自分ではあまり無理していたわけではなかったが、心が精神が悲鳴をあげていた様だ。そして又しても休職をするよう診断が下された。この2度目の休職は5ヶ月に及んだ。その間、僕は2ヶ月ほど実家に戻っていた。何をしていたのかは、はっきり言ってほとんど覚えていない。ただ、起きて薬を飲み、食欲を満たし、そして眠る、といったサイクルを何度も繰り返していた。この2度めの休職の間に、僕の父母と僕の嫁さんの間に角質が出来ていった様だ。何をする事も無く過ごしてきたが、薬のお蔭なのか精神的闇から少しずつ脱出していた。休職して5ヶ月が経った時に主治医の方から復職をすることを提案された。僕は復職する事が酷く怖かった。しかし、何もせずに時間の流れを見つめている事はもっと苦痛だった。そこで僕は決断した。「復職しよう」と・・・この時の復職の際には、事前に僕の上司と主治医との間で、どのように復帰していけば良いか、どのようなことをしてはいけないのか等を話し合ってからの復職となった。上司も人事の方でも僕の身体の事を考慮して受け入れる体制を整えてくれた。約7ヶ月。順調に仕事をこなし、そして僕は新しい部隊に配属する事を希望した。新しい部隊では、やることなすこと全てが初めてのことだったが、どうせ始めから上手くはいくはずがない、と自分に言い聞かせ、ゆっくりと自分のペースで仕事をした。ある日、新しい仕事をやることになった。仕事の内容はだいたい把握していたが、詳細まではわからなかった。その仕事の詳細を先輩に聞いていたら胸が詰まる感じがした。次の日、僕は闇の中にまた身を投じていた。そして3度目の休職をすることとなった。この休職は6ヶ月間にも及んだ。毎度の事であるが、何をしていたのかほとんど記憶が無い。すっかりタナトスコンプレックスに冒された僕の精神構造は、なかなか再構成されることがなかった。正直、ここで精神が上向かないのなら、もう人生捨ててもいい、というところまで落ちていた。しかし、それは出来なかった。shionとrion、そして妻を置いていく事はどうしても出来なかった。「今日は死ぬのはやめよう。死ぬ事はいつでも出来る。だから今日はやめよう」毎日そう思いながら過ごした。この期間、夜に時々二子玉川のスナックに週に一度のペースで通っていた。まあ、昔からの行きつけの飲み屋だ。その飲み屋の娘に、歌声がGacktに似ていると言われた。彼女はGacktのファンクラブにも入っている、根っからのGacktファン。その彼女が言うのだから少しは似ているのかな?と思い彼のCDを一枚買ってみた。心打たれるものがあった。そして僕は彼に興味を持つようになった。そして彼が身に付けているものに興味が湧いた。もともとシルバーアクセが好きな僕は彼が付けているアクセに強く惹かれた。彼のお蔭で、”何かに強い興味をもつ”という感覚が蘇った。鬱病にはこうした感覚が回復するためには重要な事である。彼自身、そして彼の歌。彼が身に付けているもの。とにかく気になってしかたなかった。そして僕の興味はシルバーアクセに落ち着いた。この興味のお蔭で、僕は様様な方と出会えた。特にGacktプロデュースの DARTS を創造する人達。彼らに会って、そして彼らの作品に触れ、お守りのように身に付ける事で幸せと安堵を感じた。昨日もとても貴重な時間を過ごす事が出来た。彼らの感性に触れ、そこから創造される作品を見つめ、身につけることが今の僕にはとても幸せなことだ。彼らは”タナトスコンプレックス”をどのように表現するだろうか?というのが今気になる事である。もし、時間と懐が許すのなら、カスタムメイド、僕だけのアクセを作ってもらえたらなー、と思う。なんて図々しいか。とにかく、僕が言いたいのは、Gackt へ、そして彼の個性を引き立てている創造者達へとても感謝しているということだ。僕は本当に闇をみた。そして今はシルバーの輝きに魅了され、上を向いて歩いている。闇からの脱出に万歳。封印されよ、タナトスコンプレックス。==================================================# なお今回の DARTS 第5段で僕は以下のものを注文しました。# http://www.tsutaya.co.jp/sp/gackt/index2.html## ・DARTS of GIGOR sleek flow (for myself)# ・DARTS of GIGOR aile (for my wife)# ・DARTS of GIGOR aile (for myself)# ・DARTS of deaf breed DREAM × 2 (for my wife)# ・DARTS of TAUJAN Geburah (for myself)
2005.07.10
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土曜日、今日は大学時代のOB会(体育会系アイスホッケー部)がある。体調もまずまずなので出席する事にした。開始時刻は、11:45分で、場所は裏原宿。家を出て順調にJR原宿駅にたどり着いた。それにしても休日の原宿は、凄まじい混み様であった。ほとんどが学生という若い人々で埋め尽くされている。酸素が足りない。。そんな息苦しさを感じながら、竹下通りを明治通りに向けてぬけていく。途中、セブンイレブンが見えたので、そこでミネラルウォーターを買い、少し早いが薬を飲む事にした。トリプタノール25m×2、レキソタン2m×2、スルピリド100m を服用する。キャッチの黒人が僕の方を見ていたので、思いっきり睨み返してやった。「俺はあんたに声掛けられたくないんだよ」心の中で独白し、残ったミネラルウォーターを一気に飲みほし、また明治通りへと歩き出した。やっとの思いで明治通りに到着した。雑踏から解放され、空の青さを実感し、少しだけ心地よい開放感に浸っていた。裏原宿に入り、目的の中華料理屋までゆっくりと歩みを進める。すれ違い様に制服をきた、未成年らしき少年に思いっきりメンチをきり、「歩き煙草なんてダセー事するなよ」と言葉を吐き捨てる。少年はばつが悪いようにその場をスタスタと立ち退いた。まったく。。。ちなみに僕は歩き煙草が嫌いである。特に女性の歩き煙草は見ていて吐き気がするほど嫌いだ。はっきりいって格好悪い。話が脱線したのでもとにもどす。目的の中華料理屋についた。現役達が僕を迎えてくれた。その中の一人が僕の顔を覚えていたようで、申し訳なさそうに口を開いた。「今日、OBはbluesさんをいれて5人程度しか来ないんです。。すいません。」うーん、折角懐かしい顔に会えると思っていたので拍子抜けしたが、まあ、飯だと思って中に入った。広広とした空間に、まだスーツが似合わない現役部員達がひしめいていた。僕は会場のど真ん中の席に着いた。煙草を数本灰にして、OB会が始まるのをまった。2本ほど煙草を灰にしたころ、漸くOB会が始まった。僕の隣りには、現役の主将とマネージャーが座っていた。マネージャーに「お洒落ですね」と言われ、少し照れながら「じゃらじゃら、ちゃらちゃら、しているだけ・・・」と答える。現役の主将が僕の開いているジョッキにビールを何度も継ぎ足してくれた。4,5杯飲んだ時に、僕は明らかに違う身体の異変を感じ取った。急激な眠気に襲われたのである。たかだかビールくらいで・・・そして、気がついたときには終演をむかえていた。3期のOBの方が僕をお茶でも飲もうかと誘ってきたが、この身体で先輩の話をしっかり聞く自身がなかったので断った。それ以降、記憶が断片化している。A Little villeage と beams に寄ったような感覚が残っているが、何をどう見たのか全然はっきりしなかった。どうやって渋谷まで戻ったのかするわからない。気がついたときには、田園都市線に乗り込んでいた。電車に乗って安心したのか、僕は更に酷い睡魔に襲われた。気がついたときには終点の中央林間の3つ手前の駅に着いていた。やばい、かなり寝てしまった。焦って電車を降りたが、そこは渋谷方面のホームだった。?????????頭の中が一瞬パニックを起こす。冷静になるように自分に言い聞かせ、今の状況を分析してみた。渋谷方面のホーム。。。ん!?ということは一度中央林間まで行って、戻って来たと言うことになる。自分の状態に呆然とした。まだ揺れ動く頭をなんとか固定し、ホームで電車を待った。乗った列車は各駅停車。途中の長津田で急行に乗り換えた。そして再び酷い眠気に襲われた。必死に耐えたが、一瞬のうちに精神構造が停止した。気がつくと二子玉川の駅を出る所だった。げげ・・・2度も乗り過ごしてしまった。どうなっているんだ?僕の身体は。。。しかも、乗っていた列車が急行だったのが災いし、かなり渋谷よりの三軒茶屋まで運ばれた。これにはすっかりまいってしまった。時計を見ると、渋谷を出たであろう時間から1時間程度たっている。三軒茶屋で降り、二子玉川行きの列車の到着を待った。ほどなく列車が来た。今度は眠らないように立つ事にした。それでも強烈な眠気が襲ってくる。何とか耐えて、二子新地駅にたどり着いた。駅に着いてすぐに自宅に電話した。今日は遅くなるかもしれないと言ってあったので。。。帰り道、ふらふらする頭をなんとか上げ、家へと向かう。そして、今日のこの電車事件について、僕なりに考えてみた。原因は一つしか考えられなかった。・・・薬・・・・・そう、薬を飲んであまり時間が経っていないところにアルコールが入ったせいだ。今は朝昼の2回の服用なので、夜に飲みに行っても、それほど眠気を感じることも無いし、記憶障害を起こす事も無い。しかし、休職中の朝昼晩の3回服用していた事を思い返すと、飲みに行ったときは、大概記憶をなくしている。やはり、薬とアルコールの併用は危険だと再認識した。みなさんも気をつけましょう。
2005.07.02
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