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「稲荷神社」ときくと、お狐様を奉っているなんてばからしい?と思っていた。中学生の時、寮でにわかに「こっくりさん」が流行っていた。「○○まで、おいなりさんを持ってこい」という言葉が出て怖くなった、と言う話を聞いたことがある。狐を奉るのはどうか、だいたい人間が動物を拝むのは・・?と思っていた。稲荷神社はもともと秦氏と関連があり狐と関係づけているのは空海の時代あたりであるとのことがわかる。ご神体は私も勘違いしていたように「狐」ではなく「3柱」である。http://www.ffortune.net/spirit/zinzya/miya/inari.htm私が読んだ本によると「三柱」は実はユダヤの「三位一体の神を表している」という。秦氏が信じていたのは聖書の「父・子・聖霊」の神、三つにして一つなる神らしい。神社は全国に8万社あるというがその3分の1は稲荷神社で32000社もある。しかも今も増え続けているとのこと。確かにデパートにあるのを見かけることもある。なぜそんなに人気があるのか?それは稲荷神社が「商売繁盛」の神であり「御利益」があるからと思われる。さきほどの本には稲荷神社の「いなり」をローマ字にすると「INaRi」となる。このうち「INRI」と言う言葉はイエス様の十字架上にかけてあった板に書かれていた文字の「ナザレ人イエス、ユダヤ人の王」(ラテン語)の略語「INRI」に他ならないという。もしそうであるなら稲荷神社はもともと「イエス・キリスト」を奉っていた事になる。キリスト教の豆知識「INRI」 興味深い事に稲荷神社の鳥居は紅い。これは聖書を知っているひとにはわかりやすい。奴隷になっていたイスラエル人がエジプトを脱出するときに家の鴨居に小羊の血を塗った「過ぎ越し」にそっくりであるし、「過ぎ越し」とは「イエス・キリストの十字架の犠牲による救い」を表しているのだから。ちかくには笠間稲荷もあることだしちょっと研究してみたい。神社について考えると日本人の信仰のルーツが見えてくるのかもしれない。
2006年03月09日
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今日はジュース発送日。200箱の段ボールを造り梱包。どうにか午前中に終了した。無事間違いなく届いて、そして喜ばれると嬉しい。「あぁ終わったぁ」と解放感に浸ろうとしていると誰かの「玄米餅の注文取らなきゃね!」。そう、もう次の仕事の計画を立てる時期に来ていたのだ。「おいおい。本業はどうするの?」って感じだが、今日は昼寝して夕方からお風呂の予定。「自分にご褒美」簡単にご褒美してしまう方だが、まぁいいだろう!今日の所は。いつもの温泉に入るが、今日はまるで晩秋のような感じで露天風呂は寒い。本格的な温泉シーズンである。風呂をあがるとテレビで「世界の中心で愛を叫ぶ」が始まった。ドラマ版も良かったが、映画もいいなぁ。こっちがオリジナルだから当然か。人の死と心の問題。先立つものと残される者。もし自分がそれぞれの立場だったらどんな言葉を態度を残すのだろう?「愛するとは」、「生きるとは」を考えさせられた。
2005年09月29日
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「暗闇から始まる」・・・今回は私の担当。正月にふさわしいメッセージをと言う事で用意してみました。子供のお話まだ留大橋が出来る前、木で出来た橋を渡って教会に通っていました。木の橋は雨になると滑りやすかったことを覚えています。さて橋につながる道は狭く特に堤防の上では車がすれ違えないので、普通は速く頂上にたどりついた車が優先されます。でもある時ちょうどどっちも同じくらいで頂上にさしかかりました。はたしてどうしたらいいだろう?と思った瞬間向こうの車のおじさんが「グウ」にしたその手を振っています。なんだ怒っているのか?でも顔は怒っていません。わかりました!じゃんけんだったのです。「じゃんけんぽん!」わたしの勝ちでした。おじさんは首を傾げながらバックしてくれました。どんな時にもゆとりをもっているって楽しい事なんだなぁと思いました。ゆとりがないと怒りたくなってしまうものです。このおじさんのようにゆとりをもっていたいものですね!さて、初日の出を見に出かけられた方はいらっしゃいますか?多くの方が初日の出を見にまた拝みに出かけていきます。何故でしょう?一年の始めのけじめとしてという気持ちがあるのかもしれません。でもきっと「今年こそは良い年にしよう!今年も良い年にするぞ!」という願いを込めて行くのかもしれないですね。植物が光に向かう習性を持っているように人も本来光を求めるものなのではないでしょうか?さて、聖書の創世記1:2,3には天地創造の第1日目が「光」出会った事がわかります。しかも神の言葉によって光が出来たと言っています。「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は『光あれ』と言われた。すると光があった」(創世記1:2,3)この聖句から思うのは「闇」の存在と「言葉」の有用性です。まず「闇」についてですが、ここで言う事の闇がどんなものであったのかはわかりません。が一説には「真っ暗闇」であったと言われています。レインボークラブで目隠しをして木を当てるゲームをしたことがあります。手を引いてくれる子供達に「もっとゆっくり歩いて!」と言いながら恐る恐る歩いたのを思い出します。言葉には力があります。例話→内原の田んぼの中に大型のジャスコが出来ました。そこで昼食に和食の店に入り「梅と高菜のじゃーじゃー焼き」というものを食べました。おっきな紀州梅と練り梅をご飯に混ぜながら焼くと「プーン」と梅の香りが漂ってきて・・・とお話ししているとお腹がぐうっとなったのではないですか?また口の中に唾液が広がられた方もいると思います。食べたわけではないのに見てもいないのに「言葉」が体に影響を与えるのです。さてわたしたちの暗闇は何でしょうか?経済的な不安、健康問題、子育て、人間関係、あるいはより個人的な問題であるかもしれません。人類に罪が入ってから全ての悪が始まりました。いろんな悩み苦しみという「暗闇」が始まったのです。今の時代は本当に愛が冷えた時代であると思います。昨年の暮れにかけて起こった痛ましい事件がそれを表しています。いわば暗闇の時代と言っても良いと思います。暗闇をうち破るのは光です。光とはどこからくるのでしょうか?さてみなさんは盲導犬を知っていますね。では「介護犬」というのを聞いた事がありますか?人の心を和ませ癒してくれる「犬」のことです。ある牧師さんがこう言っています。「人のことを思いばかる介護犬の条件は、すんなり平和に育った犬ではなく、捨てられた犬とか過去に痛みのある犬がいいのだそうです。」暗闇をもったからこそ過去に傷を持っているからこそ人を癒す事が出来るというのです。イエス様もそうではないでしょうか?十字架の身代わりも確かに救いではありますがそれと同時に傷を負った方だから人間の痛みを苦しみを孤独を癒す事がおできになるのです 。神様の業は「何の不足も感じない人」には必要ありません。しかし足りなさやむなしさや悲しみを持っている者にこそ「神の業」は、表されるのです。「私の力は弱いところに完全に表れる」と聖書にあるではありませんか?私達がその傷をイエス様の傷によって癒されたのなら、私達も回りの傷ついている人を癒すためにその傷が与えられたのだと考えられないでしょうか?神様はこの時代を生きる私達に「光を掲げなさい」と言われます。私達が光を輝かすためには、個人的に神様から光をいただかなくてはなりません。元旦礼拝のメッセージでF牧師が「察する」ことの大切さを話されていましたが、察するとは「思いはかる」ことです。つまり関心を払うということです。神様が私達にどれだけの関心を払って下さったかを天国で知る事でしょう。神様は滅びる魂のためにも驚くべき愛をもって行動されていた事を知ります。K牧師はそのことをわかりやすく説明されています。「聖書の髪の毛一本までも数えられている」の意味は神様が正確に本数を知っておられると言うことを意味しているのではありません。(10万本以上あるそうですが)年とともに危険が増えていきます。髪を洗うときも抜け毛が心配になるものです。それでも1日に何百本も抜けたらわかりますが1本抜けたのに気づく人はいないでしょう。でも神様は自分でも気がつかない髪の毛1本が抜けたのさえ気づくほどにあなたのことを思いはかってくださっているというのです。つまりあなたが何故今むなしい気持ちであるのか、何故苦しくなっているのか、あるいは何故赦せないのか「知っている」と言われるのです。私を愛してくださる神様はこんなに私のことを思いはかってくださるかたなのです。みなさんはそう思われませんか?昨年、食品部のジュース作りをしているときにブドウを最後に絞る機械が動かなくなってしまいました。そこでこの機械をよく知っているTさんに尋ねると、すぐに「モーターのあつくなっている場所に濡れないようにゆっくり水をかけて冷やしてごらん」とアドバイスをしてくれました。その通りにするとすぐに直って作業を続けることができました。Tさんは工場の機械のことを熟知していてどういう構造になっているのか、どこが弱くて調子の悪いときにはどうすれば良いのかを知っているのです。神様も私たちを熟知しておられる故にあなたの暗闇に光を与える事がおできになるのです。「そのように霊的暗黒の夜に、神は「光あれ」と仰せになる。神の民には、「起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから」と言われる。見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる」イザヤ書60:1.2神様の光はひとそれぞれ違うかもしれません。私にとっては「神様がいる。」「その神様は愛である。」という確信です。そして私をすごーっく愛していてくださる神様がいるという思いからは、ゆとりが生まれます。また感謝が生まれるのです。主のわざは くらやみからはじまる たとえ今くらいよるの さなかにいてもよろこびおどる 朝をむかえる なにが悲しいのか なにが苦しいのかすべてのことを 主は知っておられ わたしをみちびいてくれる主のわざは くらやみからはじまる たとえ今なみだの谷を 歩いていても感謝に満ちた あさをむかえる どんなかなしみでも どんなくるしみでも主がこの腕を ささえておられる つまずいても たおれはしない olive「暗闇から始まる」より太陽が昇る事によって暗闇が一掃されるように、あなたの人生にどんな暗闇があっても神様は「大丈夫!」と言われます。この一年、イエス様の御手から出る光(神の愛)の中を歩みながら、共に夢を希望を語り合っていきたいと思います。
2006年01月07日
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長い休みも終わって娘が広島へ帰っていった。3学期も頑張れよ!学校が楽しいのがわかるのが嬉しい!午後は息子とサッカー&野球の練習をしてみた。休みで体が鈍っていたので思いっきりバットを振るのが気持ちいい!そして今日はT君の成人式。「T君、成人式おめでとう!」Hさんも成人式の着物のフォトメールを送ってくれた。おめでたい一日だった。
2006年01月09日
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