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「ヘルメス、かっこよかったねえ。」と言ったのは、唯物論者の中国人女性だ。「『かっこいいっていうのは、愛と勇気に生きること』ってサトル君が言ってましたねえ」って言ったら、「影響されちゃってえ」ってからかわれた。「でも、少年にとって、志を持つって、大事なことじゃありませんか。若い頃に持った志以上に、大人になってなることはないことを思えば…」って言ったら、今度は同意してくれた。歴史は一つではない。時の輪は無数にある。人は過去を一つと思い、未来を一つと思う。それは、北は一つ、南は一つというのと同じ。ある宇宙にとっては可能性に過ぎなかったものが、別の宇宙にとっては現実性になる。人は、経線を横切るように、違う時間軸に生きることもあるだろう。そうなれば、タイムマシンで30世紀に帰っていくアリサのように、多くの人々と違う過去の記憶を持つことになるだろう。よって、神話の過去も、語る人の心(「蔵識」)がたどってきた軌跡にとって真実なのであれば、それはある時の輪の中で現実に起こったことなのだろうと思う。さすれば、『太陽の法』『黄金の法』で語られる過去や未来が、時の大河の中で、過去起こらなかったこと、未来の時間でも起こらなかったことだとは、誰が言えよう。南北を結ぶ無数の磁力線のように、宇宙はたくさんあって、同時進行しているのだ。さて、今回の映画で、4300年前の英雄ヘルメスの持つ魔法の杖「ケリューケイオンの杖」によって、タイムマシンが制御されるという驚くべきシーンがある。また、黄金の光によってイエスや天台智顗の時代に押し出されるシーンがある。さらには、制御を失ったタイムマシンがサトルのヘルメスへの祈りによって、目的のヘルメスの時代に到達するシーンがある。何故か。サトルとアリサが、根本仏から流れ出てくる黄金の時間の大河を見ながら語る次の言葉に答えがある。「時間とは、僕たちが輝きを増してゆくための愛の大河だったんだ。」「私たちの時間の旅は、この大きな愛に導かれていたのね。」そう、タイムマシンが、ストーリーに都合よく、偶然故障したのではない。マホメットや神道の神々が、釈尊や過去仏ヘルメスなどの仏の指導を受けたと大川隆法著作集では語られていないためか、神道やイスラム教世界に二人が導かれることもない。起こる事件が偶然なのではなく、二人の思いつきも気まぐれなのではなく、すべてが彼らの主である仏の愛に導かれての旅だったらしい。それにしても将来、スフィンクスの鼻を落としたのはタイムマシンであると信じて異説を認めない「信者」は、この映画を機に出てくるだろうか? 将来はわからないが、そんな愚かな原理主義から程遠いことが、現在の幸福の科学の美点であることも追記する。
2003年10月26日
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受験しなかった理由は、これまで勉強したくなくて、していない自分は、落ちるのがわかっていたから。来年の模試と思って受けても良かったのだが、自分の中の、何かが違う。中小企業診断士になりたい自分がいない。そんなことのために生まれてきたのではない気がする。勉強そのものはきらいではないが、競争試験がどこかいや。歌手の鈴木重子さんの気持ちがわかる。(中井貴恵さんによるインタビュー記事 http://home1.infonia.ne.jp/~sigeko-s/shigeko5.html 参照)自分も、本当は、鈴木重子さんみたいな子。(男だけど。)ただ、自分が楽しくて、人も喜んでくれるのも嬉しくて、仕事をしたい人。どんな仕事かといえば、やっぱり歌うのは好き。勉強して、歌うこと。そして、詩のような哲学書を書くこと。そんなことぐらいしか、できないんじゃないかしら。(やば。女になってる。)なんか、いやなことはしないで、自分の深いところから快いことをしていれば、何も心配がないような気がする。
2003年10月05日
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自分をどこまでも信じて見守っている、主と、エル・カンターレ系霊団の守護指導霊たちの臨在を感じる。私は、周りの人たちの話には耳を傾けても、左右されてはいけない。ほとんどの人の意見は、私への否定だからである。自分はそんなに間違っているのか?そうではない。私は余裕があるように見えるのだ。私を揺さぶって、私から何かを引き出したいのだ。政治家や宗教家が、その善し悪しに関らず批判されるのと同じことだ。相手の批判に乗らないと、「エル・カンターレがすべてと思っている」だとか、ステレオタイプの批判をしてくる人もいる。ところで、『精神世界の鉄人』こと、トーマイタルさんがソウルメイトの女性と出会ったストーリーは、素敵だった。http://www.tomaatlas.com/lib120.htm http://www.tomaatlas.com/lib121.htm http://www.tomaatlas.com/lib122.htm 初対面からたった2時間の出会いで、プロポーズし、ハグして別れる。女性の側も、びっくりしただろうけど、夢みたいに幸せだったろうな。自分もやがて、自分が心から幸せにしたい人と、ハグできる気がする。来世になるかも知れないけれど。それも、全託と自己信頼。これは、心から三宝帰依していることの幸せである。自分が神様と直接話すのは大変だが、弟子になれるのはありがたいことだと思う。師のいない時代に何度生まれ変わっても、全然成長しない自分だったことを覚えているからである。
2003年10月04日
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さっき(28日午前二時ごろ)夢を見た。映画を見る夢だ。映画『黄金の法』の主題歌を掛けっぱなしにして寝ていたが、『黄金の法』の実際のストーリーとは関係ない。でも、夢では、映画『黄金の法』の内容だと思って見ている。 夢の映画のストーリーの最初の10分ぐらいは覚えていない。そこから40分目ぐらいまでは、人間と世界の本質を例で解き明かすシーンだ。私たちは、水の中のワンタンの皮のような袋に入って暴れている「空気」だ。バタバタして、事故で皮の口が上に開いてしまうことがあると、私たちは泡になって水の上に出てしまう。すなわち、あっけなく死んでしまうことが、ストーリーで語られる。死者の残された体は、水の中のワンタン皮のような半透明の人がたに見える。 水中の皮袋の時間方向の変化を、空間化してみる。すなわち、第4次元を加える。すると、一人の人(夢の映画の中では男性、あるいは私)が、二つの皮袋から生まれてくる様子が示される。 皮袋の断面は、人がたをした、伸縮自在の閉曲線だ。断面に着目すると、2つの閉曲線が重なり、お互い長くなりながら、真ん中にもう一つの人がたを描き始める。やがて真ん中の人がたは閉じると共に、3つの人がたに分離する。まるで、多様体理論(スメールやモースなどの)の証明の、アニメ化されたデモのようだ。 なお、分離するとき、空気の量は一人分増える。しかし、その分エアバッグのように瞬時に膨らむわけではなく、約20年かかって膜を押し広げるのだが。水中の皮袋の中の空気とはいえ、覗き込んで、時間を、その皮袋の誕生時点にさかのぼると、陽光輝く、水の上に出てしまう。皮袋の中に押し込められていると思うかもしれないが、いつも外とはつながって居るのだ。時間は幻想だからである。 やがて時間が過ぎて片親が死んだりすると、水の中のワンタンのような半透明の人がたが子孫(あるいは私)につながっているのが見える。 あ、自分も子孫を残したくなった。 -------------------------------------------------------そこからは、物語。 物語の主人公(あるいは私)は、日本人の両親が残した洋風のお屋敷に居る。父は母と別れたのち、金髪女性と結ばれる。その女性が息子(私の異母弟)と共に屋敷に訪ねてくる。弟は17歳、私は24歳。皮袋の膜理論でいえば、異母弟のみならず、血のつながらない金髪女性も、自分の延長である。時間を自分という皮袋の誕生時点に遡り、父という皮袋として時間をくだり、異母弟を生んだ時点に到れば、自分がその金髪女性に連続に変化するからである。もちろん、皮袋が人間の本質ではない。その中で、あるいは外で、光る空気のような存在が我々の本質だ。 3人で和食を食べに行き、女性が、たらこのような形でイクラのような大きさの粒がつまっている魚卵を注文している。この、袋状のものが、物語の後半に向けての展開につながるのだが、最後まで見なかった。 夢と知りつつ映画を最後まで見る代わりに、目を覚ました。
2003年09月27日
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父も、肺に転移した癌で、鼻から血を噴き出して死にました。しかし、共産党員で唯物論者だった父は、あの世で数年間、自分は死の淵から奇跡的に助かったと思っていたようです。そこは病院のような場所で、何年も孤独に、死の恐怖におびえて過ごしていました。人間は、死んでも死なないからこそ、どう生きるかが大事です。死後、優しく生きた人は優しい人たちのところへ、人を踏みつけにする生き方をどんな理由であれ正当化してきた人たちは、そういう人たちの中へ行きます。「自分の意識が、自分の周囲と自分との存在様式を規定する」のがあの世です。ゲーテの『ファウスト』での悪魔メフィストは、光は物質でさえぎられると言う。すなわち、意識は物質に規定されると主張する。確かにこの世では、どんな善人も、どんな悪人も、その思いの結果が周りにストレートに出てこない。みな、物質的諸条件に縛られて生きているように見える。でも、だからこそ、善き思いが重要になる。私が夢で亡父と会ったときには、多少なりともそういう話をします。自分も大いなる光の一部であることに、父も気づくように。そして明るく善い人々の住む世界に迎えられるように。 青木さん、あなたは死んだんですよ。死んでも人は生きているんですよ。宗教ではなく唯物論こそ、人がこの世のどろどろした現実を言い訳に、善き生き方をすることから逃げさせるアヘンであったことに、気づいてくださいね。唯物的な人間が指導者になった国こそ収容所国家となったという「現実」も見据えて、理由を考えてくださいね。
2003年09月06日
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人事部が個人の内面まで支配しようとするような会社の候補者には、投票する気になるものではない。市議会議員候補者のS氏は、個人としては善人だと思うが、所詮全体主義体制の忠犬ではないか。おのずと尊敬を呼び起こすほどの、立派な人では決してない。心をなくし、理念をなくし、わが身が可愛いだけの人間からの忠誠心を期待して、何の会社か。上の人間に忠誠心さえあれば、オウムみたいに幹部にするのか。市の公園に銅像が建つほど、戦前は教科書に載るほど、社祖は立派な人である。そう、個人として、そして会社として、徳を積むことである。投票を半ば強迫してまで当選させ、市議会で発言権を維持しようとは会社の志も落ちたものである。
2003年07月06日
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同じ職場のFさんに、今日の午前中に職制会から電話がかかってきた。会社出身の市会議員であるS氏への不在者投票の依頼である。しかも、投票日まで指定されている。FさんはS氏と知己であり、もとより投票日に投票するつもりである。それなのになぜ不在者投票しなければならないのかと、電話で怒鳴るFさんである。「北鮮みたいなことをするな!」「自分は会社とは仕事だけの付き合いだ、職制会にはお金を払っている関係であって、指示される筋合いではない。」「他の職制は黙ってやっているのか?」と、周囲に余り人がいないのをよいことに大声でしゃべっている。「ここは民主主義国じゃないのか?」と。電話の相手によれば、まあ、他の職制は黙って従っているらしい。長いものに巻かれることができるから、この会社で管理職になれるのだろうが。不在者投票を指示される理由は、投票日ごとに投票数が判明するので、投票したかどうかが管理しやすいためらしい、とFさんはいう。古い会社で人事がみんな生え抜きばかりだからこういうことが起こる、とFさんはいう。じゃあ、電話の相手の職制会とは、人事だったんですか?Fさんはまもなく定年だから、人事相手に好きなことが言えるのでしょう。そのうち、トヨタから来た人が人事にも入るようになったら、こんなことは起こらなくなるだろうとFさんは言うが、それはどうかなあ。いずれ、私に話しかけるFさんには、もし私が同意するような意見を述べると、あとで、きっと私がFさん自身以上に過激な意見の持ち主とされて、Fさんに吹聴されるだろうことは、経験上身に沁みてわかっているので、あいまいにニコニコと聞いている。Fさんは、それからすぐ選挙事務所に向かい、穏やかな顔で帰ってきたから、それで正解だったと思う。以上、すべて、勤務時間中である。今日も穏やかな、選挙日和である。__________________________________________________Do You Yahoo!?Yahoo! BB is Broadband by Yahoo!http://bb.yahoo.co.jp/
2003年07月02日
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上司にじょうずに言うことで、会社の能力開発部門が行なう『日中異文化コミュニケーション』の教育を、この日、受けることができた。結果、現代中国に関しては、どんな分野でも、知っているか、少なくとも、よく知っている専門家をよく知っているであろう、すごい先生の話が聞けた。麗澤大学中国語学科教授の三瀦(みつま)正道先生である。私たち日本人は、中国や中国人について、本当に何も知らないに等しいことがよくわかった。お話は、「中国人と日本人は同質ではなく、物の感じ方も大変異質だ。異質だけど分かり合える。普遍的価値観は一緒だ。しかし、実際にビジネスを進めるためにはこういうことに気をつけなければならない。…」といった内容であった。失礼だが、ミツマ先生は、宇宙人とでも、真善美等の価値を求める普遍的理性をベースにコミュニケーションを取れてしまうのではないかと感じる。----なお、18時からは会社が支援する自己啓発の中国語受講。30代後半に入った中国人女性の先生が、しばしば講義中に私に好意を表す。顔は一見きつそうなツクリだが、話すと、とてもいい人である。でも、交際を始めるのは、10月までの受講期間中はまずいだろうな。
2003年06月04日
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結局、模試を仕上げるには程遠かった。いつものように、心が逃避しがちだったせいもあるが、困った。まあ、通信教育と思って、ゆっくり今週末までに仕上げる。しかし、思うのは、診断士の2次試験は、力技で仕上げるものではないということ。構造を描ければ、そのどの部分が問われているのか、各設問を当てはめることができる。ということで、市販テキストを何冊か座右において、図を描いては設問を当てはめてみている。
2003年06月03日
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今日は出勤。昼前に、金曜日の私の迅速な仕事に対する感謝のメールが届いていた。返事を出すが、相手からの感謝の引用つきで上司にBCCで転送し、仕事のアリバイとする。午後は、お仕事で、自社から近くに出向している50代の女性へのアンチウィルスソフトの設定や、メール受信の不具合解消などをしてあげる。たいしたことはやっていないのだが、私の仕事は、相変わらず評判がいい。私は、世のため人のためにお役に立てるのが嬉しいのだが、定年間近の同僚の男性から、欲で動いている世間からずれているから、私が出世できないのだと言われる。私が出世の目標を持たないからだめなのだそうだ。確かに、出世したらもっと人様のお役に立てて嬉しいだろう。が、まったく出世できず、仕事がろくに無くて干されている今でも、たまには人様のお役に立てる機会があり、嬉しい。---帰ってからは、7ヶ月目の甥(わが妹の子)を老母が預かってきており、あやす。甥は、お風呂に入ったあと、離乳食のつぶしたかぼちゃを母に食べさせられながらも、やはり泣き止まない。それではのどが渇いているのかと、哺乳瓶を買いにお使いに行ったりもする私。また、母が冷蔵庫の野菜室が閉まらないというので、パッキンをはずして野菜室全体の掃除をする。---妹一家とは戦争中。妹の夫はインド人で、昨年三帰したが、まだ反省がまったくできない。ようやく仕事が見つかったのはいいが、一人だけ飲みに遊びに行く。子供を叩く。嘘をついては言い訳する。妹も、夫をかばう。自分が選んだ男だからか。妹一家の2歳の長男は、元はとてもいい子だったが、最近だいぶグレて、大人の顔色をズルそうにうかがう子になって来ている。妹一家の二人の孫が可愛そうな母は、幸福の科学国際局の人たちと相談。悪霊は撃退すべし。---明日はまた年休を取る。診断士のMMCの通信の二次模試を仕上げるのだああ。
2003年06月02日
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今日は、風の強い、でも晴れて気持ちのいい日。でも、眠い。この眠さは、なんだろう。夢で、久しぶりに、かつて居た、東北大学の松風寮らしき建物が出てくる。自分は、また大学3年生に編入する。夢では30代前半になっている。専攻は数学。数学科の学生を繰り返す夢を、卒業以来、何度見たことか。数学を学ぶためにもう一度大学を受験する夢も、何度見たことか。自分は、大学数学という形而上の学問に出会ったお陰で、知の本質を徹底的に考える機会を得た。他方、肝心の数学そのものの面白さは、知らないで卒業してしまった。最近思う。すべての知識は、いったいどんな手続きを経て得られたものなのかを。他方、思う。手続きを経て得られたもののみが、明らかな知識ではないと。知識と手続きについては、ゲーデルの不完全性定理の比喩で考えてもらってよい。手続きに重きを置いて知識を定義したように見えるのが、カントやヴィトゲンシュタインである。最近、診断士の勉強をしているが、2次試験は、問題文に与えられた与件に、ある種のフレームワークを当てはめて、解答を導き出す。すなわち、自分が、解答を導き出す手続きそのものになるのだが、そのことには、大きな違和感を覚える。なぜなら、私は、対象に参入したいのだ。対象と一つになり、対象が語る言葉となりたいのだ。モノは、在るだけである。人は、モノに口を与える。人は、モノが、その実体は法則であることを明らかにする。モノを対象化し、モノの揚棄を促す。人は、創造主の子だからこそ、モノを扱える。子供が人形を扱えるように。でも、子供が大人を目指すように、人は神を目指す。子供には大人は何でもでき、何でも知っているように見える。子供は大人を真似、大人のように語ろうとする。私も、創造主のようになりたい。全てを創造し、全てを愛したい。すると、創造主は、対象の創造破壊の手続きそのものである自己を反省するはずだ。手続きの反省からMathematicsが生まれるはずだ。私は、創造主の一部として世界を反省したいのだ。今、この宇宙に居て、生活のために奮闘している自分は、いったい何だというのか?本来の使命を果たしていないからこそ、何度も数学科に編入する夢を見るのだろう。地上生活が退屈なら、もし使命を果たせないというなら、死ぬ代わりに良く眠ることから始めよう。胡蝶の夢のように、パラレルワールドに自由に生きよう。
2003年06月01日
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初参加の情報処理技術者の塾で、彼女に出会う。メールのアドレスを聞かれる。打ち上げの飲み会にも行く。その会場までは、彼女の車に誘われるがまま乗せられる。二人きりになったので、他の塾参加者から見れば、怪しかったはず。車の中では、私が生まれてくる前に持った決意の話、そして、あの世の黄金の太陽エル・カンターレの話をする。今は、あの黄金の太陽のようになりたいと思っているという話をする。二次会のカラオケもご一緒する。久保田利伸を歌う。声がまあ出た。ふだんカラオケに行かないのがもったいないと言われる程度の声は出たらしい。別れ際、自分は、多くの人の幸せのために、できる限りのことをしたいと思っているという話をする。帰ったら、Nさんからのメール。「こんばんは Nです、きょうは楽しかったです、(…私…)さんと知り合いになれてうれしいです、あなたの話は共感をうけます、そしてそばにいるとなんとなく安らげます。なんか不思議なかたですね。であえてよかった気がします」ありがとう。私も、いろいろな打算は忘れて、あなたとは、誠実にお付き合いすることにします。
2003年05月11日
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今日は、会社で診断士のお勉強など。また、日常的な雑用は就業時間内に済ませることにはすっかり慣れてしまった。仕事がないのだから、仕方がない。そもそも、私が所属するワーキンググループのミッションが、昨年度も今年度も部の方針に記載されていないので、積極的に動く意味がない。他部署から来た人に聞いても、わが部は、何もわからない人が上にいる点、相当ひどいらしい。上は威張っている。そして、上の人の発表をシーンとみんな静まり返って聞いていて、質問が出ない方針の会議を、明日もやる。トヨタは「なぜ」を5回繰り返すと世間で言われているが、うちの部署で、公然と「なぜ」を言う人はいない。公然と上に質問を投げて、得はしないらしいのが、見ていてわかるからである。そう、私を見ていれば。素直に仕事の意味を質問するような人間に、成果を上げてもらっては困るらしい。困ったものだ。北朝鮮みたいなこの会社に、早く自由と公正が訪れてほしい。アメリカ軍はまだか。
2003年05月07日
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今日から出勤日。これからなすべきことを振り返る。英語や情報処理技術者の勉強もするが、やはり、診断士2次試験に重点を置くことに決め、本を買い込む。会社では、仕事がない。仕事がない場合は、勉強していて良いかと上司に問うが、回答はなかった。まあ、机上に教科書などを広げて勉強する。勤務時間中に本を広げているのだから、後輩たちのモラールを下げないために、せめて姿勢を正して座ろう。私は、いまさら必死に上司にゴマをすっても、出世することもない。上司にゴマをすらずに正論を言う、人をいじめない、都合の悪いことが起きても人のせいにしない、そういう振る舞いで得てきた信用が、ゴマをすり始めれば、かえって落ちるというものだ。ただ、やがて、今、勉強したことが、多くの人たちの救済に役立っていく日が来ることを願う。多くの人々の笑顔を迎えたときには、黙って勉強させてくれた会社に感謝することだろう。そう思って、悪口を言いそうになるのをぐっとこらえる。
2003年05月06日
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幸福の科学名古屋記念館の落慶式のボランティアを行なう。大川隆法総裁の商社勤務時代の寮を改装した建物である。この建物で、霊言集がまとめられていたと思うと身が引き締まる思いがする。建物1Fは名古屋東支部。その礼拝室の黄金のエル・カンターレ像に深々と頭を下げる。礼拝する自分は、あたかも菩薩の立像になったかのように感じる。映画『黄金の法』が10月に始まる。明るい未来のために、我もまた、あの黄金の太陽の下へ。
2003年05月05日
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4日は、寝ていた。そして自分を振り返っていた。会社とは、あわない。「悪の枢軸」諸国ほどではないが、それでもかなりの縦社会である。会社には、鬱になって長期休業する人も何パーセントかいるし、なかには自殺する人もいる。人が死んでも、会社は変わるものではない。都合の悪い情報は、責められない限り、みんな考えたくないから。まともな人は少ない。少ないが、居ないわけでない。しかし、力があるわけでもない。何も彼らの力を借りたいということではなく、ただ、彼らもまた、その善が報われればと願う。本当に大事なこと、私がなすべきことも、ただ、ひたむきに善を志向すること。多くの人々の幸福のために生きること。これが、道だから。だから嘆くな。たとえ、自分に何の力が与えられなくても。今はただ、主の分身として、一隅を照らして歩むのみ。人はカルトと思うのか知れないが、ほかに人々を救う手はあるのか。何も、宗教団体のために生きているわけではないのだ、私は。
2003年05月04日
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母が、総本山正心館礼拝室で、大川隆法総裁のお話をじかに聞いてきた。そして、きらきらした顔で帰ってきた。しかし残念だったというのは、席が後ろのほうに指定され、顔は見えなかったことだという。説法は、終わると身体がぽかぽか温かくなったという。お話は、とても穏やかで優しかったとのことだが。生きて仏に見える奇跡は、三千年に一度咲く優曇華の花にまみえるがごとく、大海に浮かぶ浮木の穴に盲亀が首を挿すがごとく、有り難いことである。母がそういう機会を得ることができたことは、息子として生まれ育てられた者として、最大の誇りである。これからも精進し、やがては観音様のようになってほしい。母が、今回、礼拝室に入れたのは、ご本尊をお受けしたからである。そのきっかけは、先月の母の夢にある。身長2メートルぐらいの白く輝く人が出てきて、反省を迫ったという。母は、今まで、何も悪いことをしないできたと人には言うが、何も悪いことを思わないで生きてきたのかと、忘れていたような出来事を出してきたようである。心清く生きてきたと主張しても、死ねば、いずれは「照魔の鏡」に、その生涯の思いと言葉と行いを映し出される。母は、自分を本当に変えたかったのだと思う。母が、父の死後にこつこつ貯めた蓄えをくずして、お受けしたご本尊。ご本尊からの主の御光は、私も、ありがたく、共に暮らす家族として頂きたいと思う。
2003年05月03日
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今日は、日帰りで職場の友人たちと、初めて上高地に行く。寒くもなく、風もなく、快晴であった。まだ、焼岳や穂高連峰の映像が、まぶたに焼き付いている。上高地温泉ホテルの露天風呂の桶に浸かり、紫外線よけに唐傘をさしながら、地声でOmbra mai fuを歌う。2000年末に刈○総○病院の麻酔科にのどをつぶされて以来、声が汚く太くなってしまったが、以前は、カウンターテナーで歌っていたものだ。Slavaぐらいなら、自分も出たから。自分も歌手になりたいと思っていたころがあるが、実際プロ歌手になっていたら、刈総にはいくら損害賠償を、と思うぐらい悔しかったが、世の人々に愛を伝える方法は、のど以外にも他にあるから、与えられている限りの機会を生かし、愛に生きよう。…と思いつつ、今日もいつのまにか発声練習している。綾戸智絵さんじゃないけど、やっぱり自分は歌手なのかな。声が出なくても、歌手として生きるしかないのかな。
2003年05月02日
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GWは10連休。とはいえ、昨日までは、英文手紙の通信教育をやっていて、4日つぶれた。今日、ようやく、部屋の掃除に取り掛かる。封も切らずに埋もれていた日経ビジネスが何冊か出てきて、連載の宮本武蔵を読んでしまう。宮本武蔵も、『独行道』のなかで、「仏神」という言葉を使っている。「仏神は貴し、仏神をたのまず」この号は、前に読んだのに、気がつかなかった。ああ、でも、こんなことやっていては、掃除が終わらない。自分の生活もマネージできない自分は、マネジメント向きではないのか。テクノロジストとしては、成果は上げられるのだが。掃除の神様!仏様!
2003年05月01日
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はじめてなので、てすと!
2003年04月30日
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