書評日記  パペッティア通信

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Apr 14, 2007
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カテゴリ: 歴史
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▼   台頭著しい中国の影に隠れてしまいがちな、南アジアの経済発展。 最近、南アジアは、ようやく脚光を浴びはじめたものの、複雑怪奇な政治情勢は、あまり知られていません。 知識不足を埋めるためにも、適切な入門書が望まれる所。 そういう人たちのためには、明石書店が刊行している 『○○を知るための△△章』シリーズ が大変有効なのですが、今回は、王制が打倒されたばかりのネパール近現代史の本を紹介しましょう。


▼    ネパールといえば、何といっても、ネパール共産党毛沢東主義派によるゲリラ闘争 が有名です。 問題解決能力のない政党政治家。 暴力革命を夢見るマオイスト。 「 ビシュヌ神の生まれ変わり」として、絶対権力で統治を試みる国王権力 。  この「3すくみ」は、ネパールには永遠に民主主義が根付かない、と思わせていました。 そこに、前2者に民衆までも合流して、すさまじい政治の地殻変動「民主化運動」の勃発。 そもそも、今どき、どうして毛沢東主義派が?  世界が抱くであろう疑問は、この書で完全に解き明かされていて、たいへん面白い。


▼   要約すると、以下のとおりです。


▼   1990年、民主化運動によって、1960年から続いていたパンチャーヤト制度(国王直接統治)が廃止された。 ところが、ネパール国民会議派のコイララ派とバッタライ派の対立で、政治が機能しなかった。 つい最近まで、国王クーデターによる、独裁政治が続いていたネパール。


▼   1949年、インド・カルカッタで結成されたネパール共産党は、ヒンズー教徒が8割を占めながら、非常に大きな政治的勢力を持ち続けていたという。 それも、分裂を繰り返しながら。  ネパールの共産党系勢力の幅の広さは、過激武装闘争派から、王室側近の共産主義者まで あるという。 そんな共産党系の政党は、10を数えたが、民主化運動の時、大同団結する。 穏健派のネパール統一共産党。 そして、過激派のネパール共産党エカタ・ケンドラ。 エカタ・ケンドラは、議会政治を認めていないが、IRAにとってのシン・フェイン党のような表組織、「統一人民戦線ネパール」を結成。 過激派は、「議会の悪事を暴露するため」総選挙に参加していたらしい。 1990年代半ば、議会政治が麻痺したとき、武装闘争を始めたのが、エカタ・ケンドラから分離して結成された、毛沢東主義派。  1996年、ヒンズー差別廃止、土地改革、インドからの影響排除(言語、政治)、世俗国家化、軍・警察の文民統制を要求。  容れられない場合、武装闘争を通告した。 当然政府は無視。 1996年2月13日、人民闘争開始。 このブログ読者も、驚くことであろう。  毛沢東主義派は、極めて新しい政治勢力


▼   当初、ロルパ郡という中央に常々反発していたモンゴル系住民のすむ地域を越えられなかった毛沢東主義派。 ところが、2001年、ナラヤンヒティ王宮における、ビレンドラ国王を含む国王一家全員をディペンドラ皇太子が射殺する事件を契機として、勢力を急激に拡大し始めた。 犯人は、直後に即位したギャネンドラ国王ではないか? 仏像や麻薬の密輸、交通事故。 日頃の悪事にもかかわらず、国王の絶対権力におびえ、口をとざすひとびと。 そこに毛沢東主義派はぶちあげた。 「 インド拡大主義者とアメリカ帝国主義者が、ネパールを従属国にすべく、ギャネンドラを手先として、毛沢東主義派弾圧に熱心ではなく中国にも接近していたビレンドラ国王を排除したのだ 」と。


▼   さて、本書によれば、ネパール近現代史は、陰謀の歴史であるという。 カトマンズでは、日本並みの暮らしをする人々が出現しているというのに、全75郡中15郡では、車が通れる道すらない、絶望的な経済格差が存在するネパール。 13世紀には、温暖な上に、「インド~中国ルート」の要衝、カトマンズ盆地にヒンズー王朝が成立。 ヒンズー化が始まる。 18世紀には、ブリティヒ・ナラヤン・シャハ王によって、ネパール領域内がほぼ統一。 東インド会社と取引して領域を保全するとともに、19世紀からはラナ家が世襲首相としてネパール政治を牛耳り、1951年までラナ家支配が続いたという。 ラナ家打倒のため、ネパール会議派はインド領内を利用して、武装闘争を行ない、国王はインドに逃亡。 インドが仲介する形で、国王帰還するも、独裁政権化。 一時、民主的社会主義を掲げるネパール会議派は、議会の多数を掌握して、土地改革に着手するも、1960年、マヘンドラ国王によるクーデター。 会議派の半数が国王に寝返ってしまう。   


▼    ネパール会議派を掣肘するため、国王が採った政策こそ、「コミュニスト厚遇政策」 であったという。インドを掣肘するためには、ヒンズー教の盟主として「ヒンズー王国」をなのり、同時に「中国」にも接近する。 中国に接近するためには、共産党勢力の拡大を奨励する ……  「コミュニスト」「ヒンズー」「中国」の三点セットこそ、ネパール専制王制の基盤 。 1972年、ビレンドラ国王即位後も変わらない。 1990年の民主化後も、ビレンドラ国王は、執拗に民主化の骨抜きを図った。 憲法には、「ヒンズー教国教」「国王の非常時大権」が ……… これらこそ、「民主化」後のネパールにおいて、女性・少数民族・カースト差別が続き、2002年10月~2006年4月には、ギャネンドラ国王による独裁政治を産み落とした原因である、という。 メディア規制、電話線切断、移動の自由の剥奪。 釈放命令を受けた被告が、裁判所を出た所で、警察に再逮捕される事態が続発。 国王政権に協力していた会議派とネパール統一共産党が離脱。 2005年8月27日、ネパール統一共産党が「立憲君主制支持」から「民主共和制」へ転換。 同年8月31日、ネパール会議派も「立憲君主制支持」に関する綱領を破棄。 主要7政党による、「王制廃止」「共和制」をもとめる政治運動が開始される。 


(その<2>はこちらになる予定。  応援をお願いします。長すぎて1日では終わらなかった)


評価: ★★★★
価格: ¥ 1,218 (税込)

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Last updated  Jul 12, 2007 04:59:39 PM
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Re:★ ヒマラヤの毛沢東主義派ゲリラ闘争 小倉 清子 『ネパール王制解体』NHKブックス (新刊)(04/14)  
南日本 さん
いまどき毛沢東主義のグループがあるんですね。

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