ココロの森

ココロの森

2006.05.11
XML
池澤氏の作品の中では、初期のころのものということもあってか 割合軽めの印象。

12の短編からなるオムニバス形式の物語。
ターリクというひとりの青年を主人公に、どの物語もリンクしている。





<あらすじ>

中東のとある国で、
祖国の革命のためにスナイパーとして大仕事をやってのけたターリクは
対立する組織の襲撃から逃れるため、日本に密入国する。
大使館に行けば 彼のために用意された偽のパスポートが手に入るはずだが、
大使館への道も、言葉も、ここがどこかもわからない。


戦場とは対極の街、東京でも身を潜めて過ごすターリク。
だが ひとの縁の妙によって、次第に言葉も覚え、
知人に頼りながらも 普通に生活できるようになっていく。

そして彼は狙撃手ではなく、
もうひとつの、本当の天職を知る。
それは 戦場では思いも及ばなかったもの、
『歌』だった。






-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-




 大波の中に身を隠してでも、その声を避けたいと思うものがいる。
 人のいない世界から聞こえてくる声に陶酔するものと、
 その声の聞こえないところまでひたすら走る者とがいる。
 そういうサウンドを聞くのに、人のほとんどいない島は恰好の場所だった。
 ここでなくては、この声の本当の姿はわからなかったかもしれない。









 「おはよう」という声はフェイスプレートでくぐもって聞こえただろう。

 「え?あれ?アナさん?」

 「そうよ、ほら、わたし」と言って、ヘルメットを脱ぐ。

 「あれに乗ってきたの?」

 「そう。乗らない?遠くへ行くの」

 「ぼく、乗れない」

 「後ろに乗っていれば大丈夫。車よりずっとおもしろいから」

      (中略)

 「ほかのひと、ぼくだとわからない?」

 「そうね、顔が全然見えないから。嫌なの?」

 「いや、わからないの、いい。誰でもないみたい」

      (中略)

 「私なんか、髪も短いし体も骨ばっているから、
  これをかぶって走っていると、誰も女だと思わない。それがいいの。
  自分でないのって、いいものだわ」

 「誰でもない。自分でない」
  ターリクは少しはしゃいでそう言った。実感がこもっていた。

 「さあ、きちんとまたがって、わたしにしっかりつかまるのよ。
  足はそこに乗せる。曲がるときは一緒に身体を傾ける。
  動きに逆らっちゃ駄目。走っている時は喋らない。
  それだけ。行くわよ」

 「どこへ?」

 「奥多摩」











 「東京に来ても、ぼくはずっとおびえていた。
  今も逃げている。隠れている。
  本当はもどりたい。ベイルートに帰りたい。
  また、仲間と一緒になりたい。戦いたい。
  だけど、それができない。ここで隠れている。それだけ。
  ターリクは苦しい」

 「でも、あなたには歌があるわ」

 「そうじゃない。ぼくの歌じゃない。歌うのはぼくじゃない。
  死んだ強い兵士。死んだ子どもや女や老人。みんなぼくの口で歌う。
  ぼくは声を貸しているだけ。それでも、伝えられない。
  言えないこと、たくさんある」

 二人の周囲にはもう誰もいなかった。みんな帰ってしまったのか。
 事故を見て、走る気をなくしたのか。

 「ぼくに歌はない」
  とターリクは山から吹き下ろす風の中でかすれた声で言った。

 「今、時が、ぼくに歌わせる。今、ぼくの歌の時。
  また、いつか、ぼくの戦いの時が来る。
  いつか、また、アナさんの時、来る。
  その時、誰かが、みんなが、アナさんの口で話す。
  でも、さっきヘリコプターで運ばれたあの子、あの子の時はもうない。
  死んだぼくの友だちたくさん、その友だちの時はない」











 みんなが立って騒いでいる中で、ふと彼は椅子に坐り込み、
 いよいよ感情を空白にし、自分というものをただ音楽を入れるだけの器にしてみた。
 それは大変に心地よいことだった。
 今はもう考えなくていい。今はただ聴いていれば、
 あの歌声とギターやベースやドラム、周囲の叫喚、床から舞い上がる埃の匂い、
 熱い空気、会場を切り裂く光の刃や溢れるような光の洪水などを、
 ただ感覚で受け止めていればいい。
 大丈夫、今はおまえはものを考えなくていい。それは歌がやる。
 そんなことはぼくたちの音楽に任せて、ただ聴いていればいいんだ。

 そういうことがようやくわかって、彼はまた立ち上がり、
 その後の時間をひたすら身を任せることで過ごした。
 ゆらゆらと音のうねりに合わせて身を揺すった。
 延々と限りなく続くようにも感じられたのに、
 気がついたらコンサートは終わりかけていた。
 拍手がいつまでも続き、二回のアンコールのたびに聴衆はまた熱狂し、
 そうして、最後に、静かに、コンサートは終わってしまった。
 人々はまだ熱い身体のままで、ゆっくりと会場の出口に向かった。

 「ねえ、よかったでしょ?」彼の横で誰かが言った。
 見ると、レコード屋のあの子だった。

 「うん」と彼はそれだけ答えた。

 「そう、そうなの。こういう時って、あんまり口をききたくない気分なのよね」

 「うん。きみも一人で来たの?」

 「連れがね、来られなくなってしまったの。ま、いいんだけど」

     (中略)

  秋も終わりの空気が冷たくて心地よかった。

 「ねえ、どうせ同じ方向でしょ。一緒に帰ろう」










            ~ 池澤夏樹 『バビロンに行きて歌え』より ~



-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-



ただ 生きることに懸命なターリクが
自然と彼に必要な縁を引き寄せていく。


ラストは飛行機での凱旋。



やや 出来すぎな感はあるが
私が以前、音響の仕事をしていたこともあって気持ちが重なり、
読後感が清々しい一冊だった。



尚、タイトルは旧約聖書「詩篇」から。





     われらそのあたりの柳にわが琴をかけたり

     そはわれらを虜にせしものわれらに歌をもとめたり

     われらをくるしむ者われらにおのれを歓ばせんとして

     シオンのうた一つうたへといへり

     われら外邦(とつくに)にありていかでヱホバの歌をうたはんや







お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2006.05.11 15:43:30
コメント(18) | コメントを書く
[読書のココロ(小説)] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

プロフィール

*藤紫*

*藤紫*

カレンダー

キーワードサーチ

▼キーワード検索

コメント新着

向日葵@ Re:霊媒体質(08/05) 霊媒体質について、感じることを書いてみ…
向日葵@ Re:ものごとは心に導かれる(03/25) もう十年以上も前に、藤紫さんのこの記事…
せーちゃん@ Re:『4 of Us』(04/06) こんばんは。 ずいぶんと昔の記事に返信申…
http://buycialisky.com/@ Re:ビビる(05/25) 20mg cialischeap cialis softtabscialis …
http://buycialisky.com/@ Re:若葉の頃(04/19) cialis en andere medicijnendiferencias …
http://buycialisky.com/@ Re:新月に願いを 51(02/13) cialis soft from canadageneric viagra l…
http://buycialisky.com/@ Re:『クローバー』島本理生(10/15) mechanism of action of the drugs viagra…
http://cialisbuys.com/@ Re:ビビる(05/25) cialis generika rezeptfrei bestellencia…
http://viagrayosale.com/@ Re:若葉の頃(04/19) viagra causa aneurisma <a href=&quo…
http://viagraessale.com/@ Re:新月に願いを 51(02/13) viagra and excessive alcohol <a hre…

バックナンバー

2026.08
2026.07
2026.06
2026.05
2026.04
2026.03
2026.02
2026.01
2025.12
2025.11

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: