ココロの森

ココロの森

2006.05.14
XML
現代社会の豊かさに警鐘を鳴らすような物語。



<あらすじ>
地方新聞の記者である主人公は
夜の海を航海中の漁船から波の写真を撮ろうとして過って転落、
誰も彼が海に落ちたと気付かぬまま、彼は漂流する。

数日かけて奇跡的に流れ着いた環礁には、
いくつかの島があった。
かつて 人が暮らしたと思われるこの島には

彼はこの無人島の中で暮らすうちに
少しずつ、自分が変わっていくのを感じる・・・




-*--*--*--*--*--*--*--*--*--*-



 海はうねりはあったがおだやかで、時おり目を開けると、
 漆黒の空全体に飾られた壮麗な無数の星が整然と、静かに、輝いていた。
 すべての星は彼から等しい距離にあって、
 彼に向かって光を送っているように思われた。
 その無関心のメッセージは彼を陶然とさせた。
 彼は自分のいる状況については何ひとつ考えず、
 考えるということは一切せずに、ただ感じとり、
 享受するだけに時を過ごした。
 そしてまた眠った。
 そのようにして、夜の最も深いところを越えて運ばれていった。






 彼は目を覚ました。
 どう目をこらしても周囲のものの形は皆目わからなかった。
 少し手足を動かしてみる。手のひらが砂に触れた。
 ただ目を覚ましただけではないというどこかおかしな感じが、
 彼の意識の中にたゆたっていた。
 しばらくの間その感じを彼は無視していた。
 一瞬、自分が本当に目を覚ましたのか否かわからなくなった。
 そして急に恐怖感が具体化し、
 周囲の暗い空間になにかたくさんのものがひしめいて、
 じっと自分を見つめているのを感じとった。
 たくさんではなく一対の目かもしれないし、
 まったく目のようなものではないかもしれないが、
 いずれにしても自分に注目している何かを闇が宿していることだけはわかった。
 害を加えようというのではない。
 精霊は彼を見まもるだけだった。






「…(前略)
 それからだいぶたってからだが、他の島なら人がいるかもしれないと考えて、
 この島に渡ってきた。
 そしてマイロンの家を見つけた。
 家には誰も住んでいなかったが、食料や道具がたくさんあった。
 やれやれ助かったと安心してこの家に住めばよかったんだが、
 なぜかぼくはそうしなかった。ここのところは一番説明しにくい」

 彼はちょっと口を閉じて考えた。
 「この島の反対側にかつてたくさんの人が住んでいた部落の跡がある」
 と彼は続けた。

「ぼくはその小屋の一つを修理して住むことにした。
 この家の道具をいくつか借りた。
 この環礁に漂着した時、ぼくは生存の梯子の一番下まで落ちて、
 かろうじてその最下段にぶらさがっていたわけだ。
 そこからぼくは一段ずつゆっくり登った。
 その生存ごっこがおもしろくなったのかもしれない」

      (中略)

「マイロンが来たとき、ぼくは真の脱走兵になった。
 それまでは道に迷って原隊を見失っただけだった。
 だがそこで、マイロンの乗ってきたボートを見ながら姿を現さなかったところで、
 ぼくは速やかに原隊に復帰するという兵士の義務を放棄した。
 原隊とは何か。
 それは日本であり、ぼくの住んだ町であり、
 所属した会社であると同時に、工業化された大きな社会だった。

 ここでぼくがやってきたのは、なるべく自分の手で採ったものを食べ、
 自分の手をかけた家に住むという、それだけのことだ。
 それもあちこちに抜け道があって、
 ぼくはよくこの家に来て食事をしたし、道具類も借りた。
 単に長いボーイスカウトごっこだったのかもしれない。
 別に確たる目的もなく、誰のためでもなく、
 自分の気まぐれからぼくはこんな暮らしをしてみただけなのだから。

 ぼくは何をしたのか。
 ぼくは、たまたまこの島に来たがゆえに、この島の自然に取りこまれ、
 自然の魔術によって以前とはまったく別の生活をする別の人間になった。
 この島の規模の経済を体験した。
 本性は変わっていないのだろうが、別の精神を得たような気がたしかにする。

 ヤシというのはぼくの本名ではない。
 しかし、ここでは、マイロンだけが顔を合わせる相手なら、
 本名など使わなくても困ることはない。
 つまり、ここではぼくはヤシなのだ。
 それにヤシというのは日本語では椰子のことだから、
 それによって救われた男にはふさわしい。
 椰子はぼくのトーテムになった。

 ここの生活は面白かったし、ぼくも今この島に愛着を感じている。
 ここで暮らすのは、まるで地上を離れて高い空の上で、
 成層圏で暮らすようなものだった。
 暑い、さわやかな、成層圏だ。
 しかし、いいことばかりではない。
 一人で暮らすことを試みるうちに、
 ぼくの精神そのものが、ある意味で孤島化していった。
 ぼくはマイロンがいたにもかかわらず、自分の心の一部を閉ざしていたようだ。
 こうしてみんなの前で自分について話すのをあれほどためらったのは、
 その孤立の一部のあらわれだろう。
 ぼくの辿った道程は誰にも理解されないだろうという
 経験主義的独善をぼくはまだ脱していない。
 そして、ぼくの孤島化の危機がぼくに対するマイロンの関心を喚起し、
 彼の言によれば彼自身を精神的孤島から救い出したという。
 そうだとすれば、ぼくたちは互いに孤島を交換したわけだ。
 おかしな偶然だとぼくは思う」





               ~ 池澤夏樹 『夏の朝の成層圏』より ~



-*--*--*--*--*--*--*--*--*--*-



身の丈にあった暮らしと 
自然や人間との関わりの大切さ。

豊かになりすぎて麻痺してしまった現代に、
かつて誰もが持っていた、大切な「なにか」を訴えかけてくる。



池澤夏樹氏、39才のデビュー作。

すごい。







お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2006.05.14 14:40:07
コメント(6) | コメントを書く
[読書のココロ(小説)] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

プロフィール

*藤紫*

*藤紫*

カレンダー

キーワードサーチ

▼キーワード検索

コメント新着

向日葵@ Re:霊媒体質(08/05) 霊媒体質について、感じることを書いてみ…
向日葵@ Re:ものごとは心に導かれる(03/25) もう十年以上も前に、藤紫さんのこの記事…
せーちゃん@ Re:『4 of Us』(04/06) こんばんは。 ずいぶんと昔の記事に返信申…
http://buycialisky.com/@ Re:ビビる(05/25) 20mg cialischeap cialis softtabscialis …
http://buycialisky.com/@ Re:若葉の頃(04/19) cialis en andere medicijnendiferencias …
http://buycialisky.com/@ Re:新月に願いを 51(02/13) cialis soft from canadageneric viagra l…
http://buycialisky.com/@ Re:『クローバー』島本理生(10/15) mechanism of action of the drugs viagra…
http://cialisbuys.com/@ Re:ビビる(05/25) cialis generika rezeptfrei bestellencia…
http://viagrayosale.com/@ Re:若葉の頃(04/19) viagra causa aneurisma <a href=&quo…
http://viagraessale.com/@ Re:新月に願いを 51(02/13) viagra and excessive alcohol <a hre…

バックナンバー

2026.08
2026.07
2026.06
2026.05
2026.04
2026.03
2026.02
2026.01
2025.12
2025.11

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: