1200字文芸帖(楽天出張所)

1200字文芸帖(楽天出張所)

「210円」 

「210円」 乙音

バスは南へと向かっているようだった。さほど大きくない半島中腹の海岸沿い、夕陽を右手に走っている。今まさに山端に触れようとしている夕陽は名残をすべて焼き付けんばかりに内海を照らし、バスを照らし、窓からのぞく私の顔を照らしていた。
わかったいた。わかっていたけど、気付かない振りをしていた。彼には他に女がいた。それがどこの誰かはわからないけれど、それが浮気ではなく、私に対してが浮気だってことまでわかっていた。それでもわずかな可能性を信じて、私は彼と旅行にきていた。予約していたホテルまで車であと三十分というところで、傲慢な彼が私をみくびって発した明らかな嘘を私は流さずに追及し、思いがけずの反論を受けた彼はいくつかの押し問答のあと、真実を口にした。
「そうだよ。お前のいうとおりだよ。でもお前だってわかってたんじゃねえか。わかっててそうしてたお前だって同罪だろ」
なんたってこんな男をずっと信じてきたのだろうと思うと悲しくなった。悲しくなって口を閉ざすと、車は信号待ちで停車していて、カーコンポから流れていた曲が終わり、曲間の静寂がわずかに訪れた。そのタイミングで私はとっさに車を降りた。ドアを閉じる前、流れ始めた曲に消されないくらい大きな声でさよならを告げて。
 黄昏色に照らされた景色を眺めながら、小銭入れを握り締めていた。その中には二百十円が入っている。バスの料金表は、私の乗ったところから「150」を示している。走り去った彼の車に背をむけてたたどりついたバス停。ふとバッグを持っていないことに気付いた。たまたま持っていた彼の小銭入れだけを、そのまま持ってきてしまったのだ。あんな男に夢中になっていたことといい、潔くさよならを告げた彼の車にバッグを忘れてしまったことといい、大事なことをいつも間違える。そんな自分が嫌になり、小銭入れの中に入っている金額分だけバスを彼の車と逆方向に向かおうと思い立った。意味なんてないかもしれない。だけど私には、いままでなかったそういう行為のようなものが必要な気がしたのだ。そう、ここからまたはじめよう。
 料金表示が「180」にかわる。あとワンメーター。初めてきた土地。ほんの一時間ほど前に通り過ぎただけの街。意味なんてないかもしれない。でも私は、何もないその状況からもう一度はじめる決意をしたのだ。きっとこの突発的な思いつきも、そのためのリセットスイッチのようなものかもしれない。
切り変わった電光表示の料金が「230」と示す。窓の合間にある「とまります」ボタンを押そうと思って、私はハッとした。
(え? 「230」?) 
小銭入れの中身を確認する。百円玉一枚と五十円玉二枚と穴の開いていない銅色硬貨一枚。変えられない事実。
さて、どうしよう……。




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