文豪のつぶやき

2005.07.14
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カテゴリ: 新撰組
蛤御門の変の時、新撰組はなにをやっていたのか。
実は何もやっていなかったといっていい。
蛤御門の変は歴史上の大事件であり、その因は昨年の新選組結成以来、尊攘志士を切りまくり、池田屋事件の主役となった新撰組であることは間違いない。
その新撰組は、禁裏御守護総督一橋慶喜の立てた作戦で、蛤御門のはるか南、伏見に向かって行軍した。一橋慶喜は伏見にいる長州藩の筆頭家老福原越後率いる長州軍が最強だと見たのである。(実際は最弱の隊であったが)
伏見に向かう幕軍は先頭が彦根藩、大垣藩で新撰組ははるか後方である。
新撰組は開戦となっても、彦根藩、大垣藩ら先陣の後をついていくしかなく福原越後隊が潰走し、伏見からさらに山崎天王山に逃げていくのを彦根藩、大垣藩の後を追うしかない。
ようやく山崎天王山で追いつき、一番乗りした時には、長州兵はすでに自刃したあとであった。
途中蛤御門に嵯峨天龍寺の長州軍が討ち入ったと聞き、戻るかという話も出たが伏見から蛤御門まで三里(12km)、間に合うものではなかった。
結局新撰組は、一度も刀を抜くこともなく、戦闘の終わった戦場を一回り、伏見を経由して山崎天王山をめぐり京に戻って来たに過ぎない。

蛤御門の変は薩摩藩、会津藩に名を成さしめただけである。
こうして、一週間における京の乱は終わった。
新撰組は、また日常の京都見廻りに戻った。





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最終更新日  2005.07.15 02:05:45
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