文豪のつぶやき

2008.07.25
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カテゴリ: 時代小説
篠原は山県に会うと、藩主を人質に差し出すということを申し伝えた。
 そのかわり、と篠原は山県の要求である三田藩の出兵を拒絶した。
 篠原としてもこれがぎりぎりの条件であり、これが不調に終わればついに官軍に叛旗を翻さざるをえない。
 驚いたのは山県である。
(そこまでやるか)
 三田を護るためには藩主まで差し出す。山県は篠原の凄味に肝を冷やした。
 爾来、江戸期を通して藩民のために藩主を犠牲にした例はひとつもない。篠原一人がそれをやってのけた。
 山県は平伏して返事を待っている篠原を前に思案している。
(どうしたものか)

 長岡軍が長岡城に向けて侵攻を開始したという知らせであった。
 河井は八丁沖を渡って富島村に出たという。
(なんという人だ)
 底無し沼の八丁沖を越えてくるとは。
(河井殿は鬼神か)
 篠原はいまさらながら河井の凄さに驚いた。
 しかし、このことが山県の態度を軟化させた。
 この方面の兵はうすい。しかも他の勢力は間延びしたように広がっているため援軍が間に合わない。
 長岡城が長岡軍によって奪回されるのが時間の問題となったいまここで三田藩がつむじを曲げ長岡軍についてしまうと官軍は越後から追い落とされると山県は判断した。
 山県は篠原の条件に応諾すると戦さの指揮をとるためそそくさと部屋を出ていった。

 篠原は関原の官軍本営を出ると、沖見峠を越えて三田藩の領地である刈羽に入った。

 ふと見ると一人の女が農作業をしていた。
(もうとっくに陽も暮れたというのにご苦労なことだ)
 篠原は馬を止めた。
 越後人が働き者だというのは有名であるが、こんな夜まで働いている者はいない。
 女は黙々と田んぼの畦刈りをしている。

 草を刈っているのは白井一馬の姉、お幸であった。
 お幸は篠原に気がつかないのか一心不乱に草を刈っている。
 その姿はかつての上士白井家の貴婦人のそれではなく、ただの中年の小作の農婦であった。
 もし、と声をかけようとした篠原は言葉を呑み込んだ。
(こういう姿を見られることを彼女は望むまい)
 篠原はそっと彼女から離れた。
 胸中苦い思いがある。
(この戦乱が終われば必ず)
 篠原は自らに言い聞かせるように三田陣屋に向かって駆けた。
 篠原が彼女から遠ざかっていった時、一人の武士がお幸に近づいてきた。
 林幸蔵である。
「これはこれは」
 林は声をかけた。
 お幸は顔をあげた。
 林はにやっと笑うと、
「三田藩大身の白井家のお幸様ともあろう方がこんな所で泥遊びでございますか」
 お幸は林を無視して再び草を刈りはじめた。
 林はいきなりほえた。
「この藩賊め、足軽の分際で過ぎた事をするからこういうことになるのだ。ざまあないな」
 林はお幸にぺっと唾を吐きかけた。
 唾はお幸の菅笠にかかり、たらーっと垂れた。
「お前の弟は大罪を犯したのだぞ。恥ずかしくないのか。死ね、死ね、死んでお詫びしろ」
 林がお幸にずかずかと近づき足蹴にしようとした時、
「おい」
 と背後で声をかけた者がいる。
 林はぎょっとして振り向いた。
 竹蔵である。
「なっなんだ。お前は」
「俺か、俺は貧乏竹蔵だよ」
 いうなり、剣を抜いた。
「お前が白井の居候だな。乞食の分際で」
「やめて」
 お幸があわてて竹蔵を止めた。
「お幸さん。こんな野郎生かしておくわけにゃいかねえ」
 林は剣には自信がある。すらりと抜くと、
「乞食を斬るには刀のけがれだが、致し方ない」
 と青眼に構えた。
 お幸は竹蔵をかばうように林のほうを向くと、
「林様、この方は関係ありません。斬るなら私を斬ってください。それにこの人はあなたに歯の立つような相手ではありません。この方は」
 直心陰流の達人で江戸でも十指にはいる剣豪と一馬から聞いている。林程度の田舎剣法などとても相手にならない。
 お幸が喋りおわらぬうちに、竹蔵はお幸を飛び越えた。
 一閃。
 林は一個の肉塊と化していた。
「ああ」
 とお幸は泣き崩れた。
「竹蔵さん。あなたはお役人を斬ってしまったわ。逃げてください」
「お幸さん」
 竹蔵は刀を林の衣服でぬぐうと、
「俺のことは心配しねえでいい。それよりも」
 竹蔵は刀を鞘におさめると、
「これから俺は陣屋にいって白井家の再興を談じ込んでくるよ」
 さらりと云った。
「なっなにを」
 いっているの、とお幸がいった。
 気がふれたとしか思えない。
 竹蔵はたったいま役人を斬ったばかりである。無宿者の竹蔵が陣屋に行けばその場で捕縛され磔、獄門はまちがいないだろう。
「お幸さん、俺あ今度の白井家の取り潰しどうも納得がいかなかったんだ。上士の子弟がお構いなしで、足軽出身の白井家だけが罪を得るなんてよ。それで調べてみたら、こいつがかんでいた」
 竹蔵は転がった林の死体に目をやった。
 竹蔵は林が勘定奉行加藤博信に白井一馬の脱藩について処罰を強く願い出ていた事を調べ上げていた。
「お幸さん」
 竹蔵はお幸の方に向き直ると、
「このうえは邪魔者もいなくなったし、藩主泰範公に会うよ」
「えっ」
 お幸は驚いて座り込んだ。
「こちらの殿様はまんざら知らないわけでもないからさ。ここの本家の米沢家の殿様いるだろう。あの人知っているから。まあ身分は俺より低いけどね」
 そういうと竹蔵はお幸に片目をつぶり、
「まあ、まかしておいてよ。さっ行こう」
 呆然とするお幸の手をとりスタスタと三田陣屋の方に向かって歩きだした。






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最終更新日  2008.07.25 12:44:36
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