文の文

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sarisari2060

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2004.01.13
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カテゴリ: エッセイ
年賀状の整理をしていて、ゆりこさんの筆跡に目がとまった。

二十六年前、結婚して一ヶ月後に岐阜から東京・文京区のアパートに移り住んだ。
その井沢荘の大家さんがゆりこさんだ。
何枚目の年賀状になるだろう。あいかわらずの達筆だ。

「遠い昔のこと お忘れなく うれしく存じます
わたしも90歳になりました。
しあわせにお過ごしください」とある。

昼前、しっかりした日差しがガラス窓からさしこんでいたので
本駒込五丁目のゆりこさんの家へいこうとおもいたった。

会えなかったらそこいらをぶらぶらとあるくことにしよう。

山手線の駒込駅から六義園まえを通って
富士神社入り口から5-6へむかう。
見慣れない町並みが続き、なんとも冷たい風が吹く。
26年もたっているのだから変わらないわけがない。

井沢荘があったところは、狭い駐車場になっており
ジープと白いセダンが窮屈そうに並んでいた。
その隣にゆりこさんの家がある。こんなおうちだったろうか。
どうもうまくおもいだせないのだが、小さな庭に生える常緑樹はなんとなく覚えている。

夏の午後、その庭に面した窓をあけて、すいかをたべていると
「あら、おいしおいし、してるのね」という声が降ってきた。

ちょっとこまって「あっ」と声をあげると
今度は「ふふふふふ」という静かな笑い声がまいおりてきたのだった。

毎月家賃をも持ってたずねたちいさな引き戸がまだあった。
ふるびた表札に墨でかかれた「井沢」という文字が消えかかっていた。
インターホンで話すとゆりこさんは

風邪をひいてぐあいがわるく
ずっと臥せっているとのことだった。

「だって、わたしはもう90ですもの」
と言い切った声は思いのほか大きかった。
ささやくように話すひとだったのだが
耳が遠くなったのかもしれない。

「これで最後になるかもしれませんが
おたずねくださってうれしかったわ」
といわれると今日たずねたことの意味が
ずしりと重たく感じられてくるのだった。

「暖かくなったら、また来ますから」というと
「ええ、お約束はできませんけど、お会いしたいわ」
という答えがかえってきた。

むかいに目をやるとちいさな八百屋さんがみえる。
引越してきたばかりのころは
ぽんぽんと飛び交う東京弁になじめなくて
なかなか大根が買えず、ずっとそこに立ち尽くしていた。
そうか、こんなにちいさな間口だったのか。

その店は小柄なおばさんがてきぱきと仕切っていた。
慣れてくると言葉をかけてくれる。
ゆりこさんのこともいろいろきいた。

「ここいらの地主さんの娘さんでねえ、
若いときはもうきれいだったのよ。
結婚のお相手もきまってたんだけどね。
えらい将校さんだったそうよ。
でも、胸、やられてね。かわいそうだったわ。
おにいさんもおなじ病気でなくなってたからね。
なおってもずっとひとりでおかあさんの面倒みてるのよ」

「ひとりぐらしですから、どうなるかわかりませんが
春までにはなんとかなるとおもいますよ。
また、たずねてくださいね」
「はい」と答えながらインターホンにむかって頭をさげていた。





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Last updated  2004.01.17 02:18:36
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