文の文

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sarisari2060

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2004.03.13
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カテゴリ: 読書感想文
「石ころだって役に立つ」という関川夏央さんの本のなかに「わたしはなぜほんを読むのがやめられないのか」という一文がある。

これはうんうんと頷くことが多い。

「誰もが教養という言葉を軽い赤面なしには口にできなくなった現在では、無教養であることに不安も孤独感も持たないで済むかわりに、「知識人」が昔が少なからず味わい得たはずの少数者の矜持もまたもたないのである。

読書はたんに癖である。ひとにはいいにくい癖である。・・・この世のありとあらゆる面倒から束の間逃避し、いわば我を忘れるために読書をやめられずにいるのは、・・・昔となんらかわらないのである」

癖なのかあ、とちょっと安心したりして・・・。

私は最近、なかなか本を読み進めないでいる。一冊を読み上げるのに相当時間がかかってしまう。読み終わらないままの本も山ほどある。若いときは一日二日で一冊は読んでいたような記憶があったりもするのに、と情けなく思っている。

乱視がひどいところに、老眼が入ってきて、花粉が飛べばかゆくてたまらず、目の環境がよろしくないために読めないという事情もある。

根気もなくなってきている。活字を追い始めるととたんに眠くなってしまうのも原因のひとつだ。



「私は本が好きだった。違う。好きではなかったのによく読んだ。おそらく、読書のなかに我を忘れたかったのだろうと思う」

関川さんのこの言葉にわが身を振り返ってみれば、私もそうだったなと思えてくる。

若い日の私の読書もまた、逃避だったのかもしれない、。

教養だとか実利だとかには、全く縁なく、ものがたりのちからとか効用とかとも関係なく、ただ、自分の屈託から逃れたくて、ひととき別世界に隠れ潜んでいたかったのだ、と。

入院したり、見学したり、ひとりの時間ばかりが多くなってみれば、そんなふうにならざるを得なかった。

決して自分が送ることはないであろう誰かの人生に浸っていた。そのひとになって、そのひとの人生を生きていた。自分ではない自分を生きる、その時間の心地よかったこと。

最近私はそんなふうな時間を持てずにいる。ちっとも我を忘れることができずにいるのはなぜだろう。どうして、本はあのころのように魅力的に映らないのだろう。

それは私がもう人生をこんなに生きてきてしまったからかもしれない。

私の現実は絵空事のようにうまくはいってくれず、逃げようなく屈託は追いついてきて、うへえと頭を抱えながら、うんとこどっこいと踏ん張ったりするわけで、そんなふうな時間の積み重ねのなかで獲得したもののほうが、ずいぶんと自分にはここちよかったりするのかもしれない。

もうひとつは自分が文章の勉強をし始めて、書くひとの立場で眺めてしまうからかもしれない。構成や言葉の選び方につまずいてしまって、読み進めないのかもしれない。

いやそれでも、ああ、くちおしや、その手がありましたか、などといういとまもなく、圧倒的な力でぐいっと持っていかれることもあるのだ。



そう、たまにはそういうこともあるから、きっぱりとあきらめきれず、私の本棚には読み終わらない本の数ばかりが増えていく。嗚呼。





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Last updated  2004.03.14 02:54:09
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