12月30日
あわただしい引越しも無事に終わり、やれやれと息をついたのは12月30日の午後だった。
「あらやだ、私、お正月のしたくを全然してなかったわ!」
高山利子はあわてて食材の買出しに出て行き、新居には高山と僕だけが残った。
静まり返った家の中で、僕たちは無言のままそれぞれの思いに浸っていた。
静かだ。
窓の外には僕たちの目の高さを、JAL便が無音のまま滑空している。
西日に輝く宍道湖の水面はきらきらと目を射す。
C値0.18cm2/m2
の室内は夕日の熱量だけで25℃を保っている。日が沈めば当然室温も下がるから、全くの無暖房で暮らすのは無理かもしれないが、全館暖房に費やす熱量は通常の住宅の1/10程度になるだろう。
換気装置の給気口から噴出されている空気の温度は21℃である。
外気温を計るために窓ガラスの外に貼り付けた温度計は-1℃を示している。
-1℃の外気は、地中熱の回収分で13℃上昇し更に排気との熱交換で9℃上昇した事になる。室温を23℃に維持するための熱量さえ確保すれば氷点下の外気は20℃以上になって給気されるのだ。昼間は太陽光によって、夜間は照明器具と冷蔵庫、テレビ、人体、調理の熱などによって暖房は補填される。これだけで20℃を下回ることはないはずだ。問題は就寝時の排熱不足である。暖房をせずに全ての照明器具を消灯して就寝してしまえば室温は徐々に下がっていき明け方には14℃付近まで下がるだろう。住宅を構成しているあらゆる建材の蓄熱が14℃まで失われたのだと考える必要がある。朝になってあわてて暖房を開始してもすぐには暖かくならない。放熱してしまった建材たちが吸熱して表面温度を20℃以上に再上昇するまでは体感気温は上昇しないのである。
暖房にはコツがある。それは自動車の運転にとてもよく似ている。
室温を23℃まで暖房で上昇させても就寝時に暖房機のスイッチを切れば、室温は下がる。高速道路で車を時速80kmで走らせているときに急にアクセルから足を離してしまい、時速50kmまで落とし、あらためてアクセルを踏み込み再加速するのと同じだ。加速と減速を繰り返しながら目的地へ到着するよりも80kmを維持し続けるほうがはるかに少ない燃料消費で済む。
暖房行為には太陽熱という強い見方もいる。晴れてさえいれば室温は楽々25℃を上回る、そのためにしなければならないのはカーテンを開いておくという事だけだ。
高山邸では就寝時の暖房は一台のエアコンでする事になる。オール電化契約をしたおかげで夜間の暖房は電力が一番安い。蓄熱型暖房機の1/14の電力で家全体に蓄熱させる事が出来る。いや、既に昼間の太陽光で蓄熱した熱量をエアコンで維持するというべきか。勿論、これだけ効率の良い暖房が出来るのは、暖房機の性能が良いからではなく、住宅の断熱が優れているからに他ならない。どんなに優れた省エネ暖房機でもエネルギーを消費してしまう。エネルギー消費を減らす事が出来るのは断熱と気密という、住宅の基本性能だけなのだ。そして、コストをかけずに利用可能なエネルギーは、太陽光と地中熱、そして大気中の水蒸気であろう。
高山利子が食材を仕入れて、戻ってきた。真新しいキッチンの使い勝手がとても良いと、いそいそと夕食の支度に取り掛かった。
夕食が終わっても、キッチンはフル稼働で正月を迎えるためのおせち料理を生産し続けている。おかげで室内は暖房をしなくても暖かい状態を保っている。
「シード、この家はいったいどうなっているんだ。外気温がマイナス2℃だというのに暖房せずに23℃を維持している。まったく訳がわからん?」
高山は嬉しそうに腕組をして首をひねっている。
「照明や調理や僕たちが暖房しているのさ。熱は逃がさなければいつまでもそこに有る。」
僕たちは、既にわかりきっている事を言い合い、心の奥からこみ上げてくる喜びを分かち合っていた。キッチンで忙しそうに働いている高山利子もにこにことこちらを見ている。
ああ、明日はこの家を去るのだ。いつ戻ってくる事が出来るのかはわからないが、いつまでも流浪の旅を続けるわけにも行かない。僕は自分の節目を見極める時期がやって来たのだと感じていた。
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