魔法の時間

魔法の時間

2006.04.29
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カテゴリ: 短編小説
雨の日は、何かが起こる。

その日も雨が降っていた。

空気の湿った空気が店内を塞いでいた。それは、あたかも人間の心も曇らすように。
鼻腔をつく生臭い土の匂いが、風に吹かれて地上に満ちていた。

カレンダーはくたりと表面がうねり、表面が湿っていた。
掛け時計のちくたくと動く針の音も、物思いにふける老人のため息のように憂鬱に、小さく聞こえた。

雨はいっそう激しくアスファルトを打った。

「え?え?」


・・・いつもの調子だ。

娘は、ふぅとため息をついた。

娘が逃げるように、嫁ぎ先から帰ってきて一年半。
その間、復縁を迫る左官工の元亭主から、この店には毎日何回も電話がかかってくる。
どうとも行かない荒くれ者だ。
小心者で見た目は大人しいが、甲斐性もなく、毎日酒浸りの毎日。事或る事に手を上げる。その素行に嫌気がさし、離縁状を叩きつけたはいいものの、女将も、そして娘も、毎日のこの行為に疲れ果てていた。
もし、娘の父親が達者であれば、あんな男の元に行かなかったであろう。
まだうら若い、しかし周りが徐々に一人身でなくなってゆく年頃に、店の客の紹介で嫁いだはいいものの、、とんだ間違いだったようだ。

自由になりたい。
自由とは何か。
最近、切に願うのだ。

そんなことを、もっと若い十代の頃から考えていたに違いない。しかし、今になってもそれをさまざまと思うのだ。いや、今だから、かもしれない。


「また、あの方ですか?」
娘は母に問うた。
「ええ」
母は、何もなかったかのように棚の菓子が序列を乱した所に手をやった。

白髪が何本か目立つ結った襟足が淡々と言った。その後ろ姿からは、彼女の表情を伺うことはできなかった。
「お父さんが生きていたら、こんなことにはならなかったのに」
沈黙が流れた。

「私も、早く誰か探すわ。他のいい人」
「そうおし」
ちらと振り向いた母は、かすかに笑んでいた。
娘もぎこちなく笑みを返した。

「さて、残りあと少しだね。今日も日が暮れる」
母は奥の作業場に立ち去っていった。

娘は。
娘は、わずかにまだ笑みをたたえたまま、雨足激しいガラス扉の向こうの情景を眺めた。
すると。

すると、
そこに父が立っていた。
白い作業着を着、幼心にわずかに残るその青白い顔。

父さん。

唇がわずかに動いたが、声は出なかった。

じっとこちらを見ていた。

娘は思わずぎゅっと目をつむり、瞬きしてそれを本物か確かめようとした。そして。
目を開くと、もう父の姿は消えていた。

雨の日は、何かが起こる。
それは天の悪戯か、地上の望みの多きところに起こるのか。人の目の錯覚か。


雨は、えんえんと降っていた。






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最終更新日  2006.04.29 19:11:13
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