さしあたって ただの日記 \(●×●)\

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2011年06月01日
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カテゴリ: 勉強と思い込み


その時私は小学2年生、やっと逆上がりができるようになった頃です。
原子力どころか原爆の意味さえ、知りませんでした。
3年生になり、夏休みの登校日8月6日に集合した体育館は
前年とは違い、たくさんのパネルや模造紙が壁を占拠してました。

着物の柄を写し取った肌、人影だけのコンクリート、火傷治療中の被爆者の姿、
キノコ雲、焦土と化した街、爆弾の構造、そして、様々な詩、
原爆を許すまじの歌...
原爆が怖い、放射能が怖いと思いました。


幸いにもそこをつなげる想像力は十分身につけていましたから、
あのときの戦慄ははっきりと覚えています。

それらが原爆教育と呼ばれる類のものであったことを
認識できたのは大人になってからでした。

何とは無しに知人に話したときに
それらがすべての地区・学校で行われていたわけではない事実を知りました。
皆、同じように学習していると思い込んでいたから、
それはそれでショックでした。

その時の校長先生は伊藤かつみ先生です。
なぜ、校長先生の名前まではっきりと覚えているかというと、
赴任してこられた直後、たまたまバスの中で会ったとき、


   なんしい、ウチの名前をしっちょるんかなぁ

と思って、その手を見ると、
大きな集合写真が目に止まりました。
校長先生ってこうやって皆の名前を覚えているんだと知りました。

もし、あのとき、原子力発電所のことを知っていたら、

それぐらいに放射能を憎いと思いました、許せないと思いました。

しかし、残念ながら、原発のことは知りませんでした。
テレビ欄しか興味のない田舎の子です。
九州からすると東北で起こってることなどもう外国の話に近く、
話題にすることもありませんでしたから。

あの3月11日、区域外通学していた長男の卒業式の帰りに起こった地震。
幸いにも我が家は実害がなく、家族は全員無事だったけれども、
やはり、福島原発の存在は当初から意識しておりました。

停電が収まり、ネットがつながるようになると
もう24時間フルでつけっぱなし。
繰り返す余震の中で緊張感は継続していました。

そして、あの14日の 緊急脱出 。

次の日には三男が本当に楽しみにしていた卒園式を反故にし、
次男の小学校にはいつまでと決めることなく緊急避難するとだけ伝え、
一方的な不条理を子どもたちに押し付けてしまいました。

こんな不条理体験をさせたからこそ、
何が起こっているのか、何が危険なのかをきちんと説明する必要がありました。

   ほうしゃのうがあるからね

一時期、この言葉はキーでした。
雪が降り積もるとき、雪で遊びたがる子どもを
明るい陽射しの中、春を探しに行きたがる子どもを
家の中に閉じ込めるために呪文のように繰り返しました。

我が家では毎年一度だけ開く本があります。


ヒロシマ1.jpg


今、現在、子供たちは子供たちなりに
この状況を理解しているはずです。



子どもに余計な不安を与えたくないと
目隠しさせることはできません。
もちろん、原爆と原発は同一ではありませんが、
放射能とは何であるかを考える素地として
あったことは寧ろ良かったと思っています。









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最終更新日  2011年06月02日 00時25分44秒 コメント(2) | コメントを書く
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