1

不名誉な都市伝説 仙台「美人いない」本当?(河北新報)河北新報のお膝元である仙台が「日本三大ブスの産地」と言われる不名誉を考察している興味深い記事。もちろんこの手の称号が「都市伝説」であることは、実際に仙台の街を歩く女性たちを見れば分かること。しかしこうした風評がどうして定着したのだろうか。この件について学術的に研究している研究者がいるそうだ。東北大大学院文学研究科の大村哲夫助教(臨床死生学・宗教心理学)がその人で、仙台がブスの産地とされる根拠を作家坂口安吾の発言をルーツとする説を挙げている。坂口が取材で仙台を訪れた際に新聞社の取材に「仙台の町は今後きれいに発展するだろうが、美人がいないのが残念」と語ったことが風評に発展したと分析。「取材前日に坂口が接待を受けた仙台の飲み屋に、好みの女性がいなかったせいではないか」というのが大村氏の推測だ。さらに大村氏は、江戸時代に当地を治めた伊達家に武家文化が色濃く、女性も家の格式で格好や振る舞い、話し方が決まってろい個性が生まれにくく、武家以外の人間には気位が高く見られがちだったという「性格説」にも触れている。その他色々調べてみると、庶民の間でよく言われている説としては、「仙台藩主伊達政宗が参勤交代の際に美女ばかり江戸に連れて行ってしまった」「3代綱宗に見初められて囲われるのを拒み、殺害された吉原の高尾大夫の呪い」「殿様が参勤交代の際に芸者通いをしていたことからそうからかわれた」「東北中から嫁に行けない容姿の女性が(都会である)仙台に集まる」などいずれも風評の域を出ないようなものが多い。同じく「三大ブス」の不名誉を着せられているのが水戸と名古屋だが、言われる理由は仙台とよく似ている。水戸は「佐竹公が秋田にお国替えになった際に美人を秋田に連れて行った」とか、水戸や名古屋は御三家だったので「美人はみんな江戸に連れて行かれた」といったもの。また、仙台でも理由のひとつとして挙げられている「殿様が参勤交代の際に江戸で遊びまくった」という説は水戸や名古屋でも聞かれるので、かつての殿様の振る舞いが時代を越えて地域に不名誉な風評をもたらしているといえるのかもしれない。もうひとつ興味深い説は、いわゆる美人の代表例として挙げられる「秋田美人」「新潟美人」「京美人」「博多美人」がいずれも日本海側であることと関連付けているもの(秋田については日照時間や湿度という理由を挙げている例が見られるが)。そういえば仙台・水戸・名古屋は太平洋側ではある。前述のようにこうした風評は江戸時代に起因するものが多く、現在ほど他地域との行き来がない故に地域性に関連した噂話が広がったともいえる。と同時に、一度定着した風評が、飛行機や新幹線の発達で人が自由に行き来できる現代になってもまだ残っているあたり、定説を覆すことの難しさを感じる。
2016.06.20
閲覧総数 98769
2

30日午前、長野県松本市で震度5強の地震があり、その後も震度4の余震があった。長野県には大規模断層の「糸魚川-静岡構造線断層帯」が走り、この断層帯が震源となった場合、マグニチュード(M)8級の地震が懸念される。今回の地震で断層帯の活動が活発化すれば危険性は高まるが、中部地方の研究者らは「今回とどう関係し、影響がどうなるのか分からない」と口をそろえる。信州大の塚原弘昭名誉教授(地震学)は「松本でM5以上の地震は30年以上なかったと記憶している。東日本大震災が断層を刺激し、活性化させたとみるのが妥当だ」と説明する。さらに「大きな地震が起きる場合、事前に地震が増える可能性が高い。東日本大震災も前日までに地震が起きていた」と指摘。今回が前兆現象となることを心配する。名古屋大減災連携研究センターの山岡耕春教授も「東日本大震災が誘発した地震であることは間違いない」と話す。震災によって地盤が東へ移動。関東地方や中部地方で断層への圧力のかかり方が変わり、松本市周辺の断層も活動的になっていると分析する。今回の地震で、断層の力のひずみが解消され地震は終息するのか、逆にM8級の地震につながるのか。山岡教授は「どちらの可能性もあり、現段階で正確な予測は難しい」とみる。信州大工学部の泉谷恭男教授(同)は「国は、糸魚川-静岡構造線断層帯に含まれる牛伏寺断層などの大地震発生確率を予測しているが、私見では予測、予知は難しい。東北もいきなり大地震が来た。いつ地震が起きるかを気にする前に、防災の見直しを進めるべきだ」と注意を喚起している。(中日新聞より)--------------------言わずと知れたフォッサマグナ上に位置する松本市。この地溝帯は構造線に囲まれた断層の宝庫ともいえる場所。ちょうど先月地震調査委員会が牛伏寺断層の危険性を指摘したばかりのタイミングであり、今回も地震の一報を聞いた時にはこの断層かと思った。今回の地震は牛伏寺断層からやや西側。震源が浅くかなり局地的な揺れになったのが特徴といえるだろう。牛伏寺断層そのものが動いた場合はもっと大きな規模になるはずで、その点では不幸中の幸いといえるが、記事にもあるように今後に予断を許さないことは確かだ。国土地理院が公開している東日本大震災の際の地殻変動ベクトルを見ると、本震・余効変動も含めた移動ベクトルはフォッサマグナを境に東と西では大きく異なっている。このあたりが、日本を大きく分けるフォッサマグナの所以かもしれない。しかし、今回の地震は大震災が誘発したものであることはほぼ間違いなく、糸魚川静岡構造線や中央構造線に何らかの影響を与えることは否めないだろう。今回の地震が予兆なのか、それともこのまま終息するのか、現段階では予想もつかないが、当面は警戒を続けることが必要。。いざという時への備えを、家庭・職場、そして地域として考えるべきだ。日本は間違いなく地震の活動期に入っている。自分の住む土地のリスクを知ること。東日本大震災の教訓を活かすことができれば、被害は軽減できると信じたい。
2011.07.02
閲覧総数 1675
3

9月5日は慶長伏見地震が発生した日(1596年)。慶長伏見地震は伏見付近にある有馬-高槻断層帯と六甲・淡路島断層帯が震源となった直下型地震で、マグニチュード(M)は7.5程度と推定されている。京都や堺での被害が大きかったことが伝えられているものの、揺れは(被害も)関西の広範囲におよんでいる。そう考えると慶長「伏見」地震という命名は不思議でもある。歴史地震は元号名で命名されるケースがほとんどだが、中世以降は地震名に地名が入ることも珍しくなくなった。しかし大概は「江戸」「鎌倉」といった都のあった都市名か「出羽」「遠江」などの国名がつけられる。これに対して慶長「伏見」地震というのはかなりピンポイントな命名といっていい。これはこの地震の特殊性(というよりこの地震が記憶される際の特殊性)が関係している。おりしも天下を司っていたのは豊臣秀吉であり、その秀吉の居城として建てれらた伏見城が完成直後にこの地震に襲われた。天守閣が大破し、城内だけでも多くの死者(300人とも600人以上ともいわれる)が出ており、そのほとんどが圧死であったとされる。時の政権が伏見にあったことがこの地震名に反映されており、またこの地震にまつわる記録や逸話も多くの場合伏見城や秀吉に絡むものであることから(謹慎中だった加藤清正がいの一番に伏見城に駆けつけて秀吉に謹慎を解かれた「地震加藤」は有名)、慶長伏見地震の記憶自体が秀吉とリンクしているのが興味深い。秀吉は1586年の天正地震(いずれ触れようと思うが、歴史的にも被害が大きい地震だった)も経験しており、築城にあたっては、「なまつ大事」(鯰〈なまず〉、つまり地震のこと)との指示している。実際に戦国時代後半は非常に大きな地震が多い時期でもあった。この伏見地震の直前にも9月1日に慶長伊予地震、9月4日に慶長豊後地震が発生(いずれもM7以上と推定される)しており、秀吉ならずとも地震を意識せざるを得ない時代でもあったのかもしれない。秀吉はこの後倒壊した指月伏見城から木幡山伏見城(現在の伏見城がある場所)へと伏見城を移転させる。木幡山は地震の直後に秀吉らが避難した場所だが、指月伏見城に比べると地盤は強固なのでやはり地震を意識してのことだと考えられる(ただし現在推定されている指月伏見城跡地は台地上(下位面)であり、必ずしも地盤が悪いとはいえない。築城にあたり大規模な盛土がされたか、場所そのものがもっと低地であった可能性も否定できない)。また、地震後に秀吉が大坂で政務を執ったことを事実上の「首都機能分散」であったとする考え方もある。この説も各地で大地震が頻発していたことを考えればそれなりに説得力はあるように思う。<伏見城付近の地形(地理院地図)赤丸は宇治川から直接城内に船を入れるためにつくった濠跡とされる>当時の秀吉は長男の逝去という不幸や、朝鮮出兵(文禄の役)の不調や秀次事件、利休事件など失政も多かった時期で、この地震は大きな痛手となった。豊臣政権の凋落を象徴する意味での慶長「伏見」地震という解釈もできる。地震被害の話に戻ると、この地震による被害は京都でも西側や南側に集中している。緩扇状地で比較的地盤が安定している上京や東山での被害は少なく、沖積低地で湿地も多かった西部・東部で被害が大きかったのは土地条件の違いが如実に表れている。嵯峨野では天龍寺や仁尊院、大覚寺といった寺院が倒壊(ただし天龍寺や仁尊院は厳密には台地上に立地しており土地条件との関係を考えるには検証が必要)、山崎や八幡での被害も大きかった。南部では東寺が倒壊し、方広寺では大仏が倒壊した。大阪でも低地の多くの建物が倒壊したが、上町台地に建つ大阪城に被害はなかった。その後1662年の寛文地震や1830年の文政京都地震なども発生しているが、なぜか関西には大きな地震がないという不思議な神話が生まれた。そして1995年にあたかも不意討ちであったかのような阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)が発生する。兵庫県南部地震は慶長伏見地震の際の六甲-淡路島断層帯における滑り残しが原因とする説も発表されている。人は忘れる生き物であり、地震や洪水という自然現象が「災害」と化すのはこうした人の習性も関与しているのかも知れない。
2014.09.06
閲覧総数 29600
4

80年前の今日にあたる昭和9年(1934年)9月21日、高知県の室戸岬付近に上陸した室戸台風は上陸時の中心気圧が911.6hPaと観測史上最低を記録(正式統計以前の参考記録ながら現在も破られていない)、勢力を保ったまま北東へ進み大阪付近に再上陸し、日本列島を縦断した。大阪では最大瞬間風速60m/sを記録した他高潮に襲われるなど近畿地方を中心に大きな被害をもたらした。死者2,702人、行方不明者334人、住宅損壊92,740戸、浸水家屋401,157戸(いずれも理科年表より)。後の1945年枕崎台風、1959年伊勢湾台風とともに昭和の三大台風とされる。高潮による甚大な被害室戸台風で最も被害が大きかったのは大阪府で、死者・行方不明者は1,888人を数え全国の6割を占める。被害をもたらした一つの要因は高潮だ。午前8時頃には大阪港で4mを越える高潮となり、多くの桟橋が流失した。わずか10分間で潮位が2m上昇したとされ、高潮は防潮堤を越え、海水は流木などの漂流物とともに市街地に流れ込んだ。高潮による犠牲者は1,000人を越えた。また、西淀川区の湾岸にあったハンセン氏病外島保養院が倒壊・流失、入院患者597人中関係者も含めて187人が犠牲になった。その浸水深は3m仁達したとされる。保養院は湾に面しており、堤防がなければ平時でも満潮時には浸水する低地に立地していた。大阪湾岸地域は工場の集中的立地による地下水汲み上げを原因とする地盤沈下が問題になっていたことも特筆される。<室戸台風で築港大桟橋南横手に打ち上げられた瑞穂丸(大阪市HPより)><室戸台風の高潮浸水範囲(防災科学技術研究所HPより)><室戸台風の高潮浸水地域、地盤高および浸水深(室戸台風大阪での暴風・高潮の被害,長尾武,京都歴史災害研究,2010)>暴風による木造校舎の倒壊瞬間最大風速60m/sという暴風による被害も大きかった。台風の大阪再上陸が午前8時頃と学校の始業時間と重なったことが悲劇を呼んだ。当時主流だった木造校舎の多くが暴風により倒壊したのだ。大阪市内で全半壊・大破した校舎は小学校244校と実業補習学校2校のうち180校仁及び、児童や職員、迎えに来た保護者に多数の犠牲者を出した。京都でも多くの学校で大阪同様の犠牲が出た。また京都の淳和校(現:西院小学校)や大阪の鯰江第二小学校では教員が身を投げ出して生徒を助けて殉職した例もあった。さらに京都では上賀茂神社・下賀茂神社の国宝建築物や伏見稲荷大社の大鳥居など21棟が倒壊した他、知恩院・西本願寺・建仁寺方丈・醍醐三宝院純浄庵など多くの寺社で全半壊の被害が出た。木造校舎倒壊の要因としては、建物の柱に筋交いが施されていないなどの構造上の問題や、そもそも風対策が軽視されていたことなどが挙げらている。れる。<五重塔が全壊した大阪・四天王寺(wikipediaより)>瀬田川鉄橋急行列車脱線転覆事故室戸台風は鉄道事故ももたらしている。東海道本線の草津駅~石山駅間(現在では瀬田駅 - 石山駅間)にある瀬田川橋梁で、徐行運転していた下り急行列車が強風により脱線、11両中9両の客車が転覆し、11名が死亡、202名が負傷する事故があった。橋梁上での強風による客車の脱線は1986年余部鉄橋列車転落事故と同様だが、この瀬田川橋梁事故では脱線車両が複線の上り線側の線路に倒れて寄りかかったため橋梁からの転落という最悪の事態は免れている。ただし暴風警報(気象告知板)が通過各駅に掲示されていた点や、草津駅で臨時停車して受けた警告を考慮せず列車を運行していことで過失として乗務員が起訴されている。またこの事故を機に風速計の設置や、防風設備の研究が進められたことは特筆できる。この事故の直前に東海道本線摂津富田駅付近で列車が脱線転覆し25名が死傷、野洲駅~守山駅間の野洲川橋梁で貨物列車が転落、水没しており、国鉄の強風への対策不足が露呈した結果でもあった。さらに同日午前には、大阪電気軌道奈良線(現近鉄奈良線)も大阪府布施町(現東大阪市)で電車が脱線転覆している。<瀬田川鉄橋急行列車脱線転覆事故(滋賀県HPより)>防災への取組の本格化この災害は国内で防災意識が高まるひとつのきっかけにもなった。日本学術振興会の内部組織として1937年に「災害科学研究所」が設立された。同研究所は、室戸台風の被害状況を教訓に、学校などの公共建築物の耐風基準の引き上げ、審査制度の設置、臨海部や工業地帯に自然災害に強い地盤を作るための規制などについて提言した。気象台では、それまで台風時の風速10m/s以上の風について一律暴風警報としていたが、室戸台風を機に暴風発生のおそれがある場合は「気象警報」、重大な災害が発生するおそれがある場合は「暴風警報」をそれぞれ別個に発表するよう変更した。いわば警報の階層化のさきがけともいえる。戦前の日本においてこうした防災対策が進められるきっかけになったのがまぎれもなく室戸台風だった。
2014.09.21
閲覧総数 3063
5

ミッドウェー諸島近海を進んできたハリケーンが、東経180度を超えたことで、台風第13号になりました。名前はアメリカ気象局がつけた「ジェヌヴィーヴ」のままです。ミッドウェー諸島近海を西よりに進んできたハリケーンが、東経180度を超えたことで、7日15時に、台風第13号になりました。ハリケーンと台風は、現象は同じものですが、発生した地域などで、区分けされています。同じ北太平洋で発生しても、東経180度を境に、アメリカ大陸側では「ハリケーン」ですが、日本側では「台風」と呼ばれます。「ハリケーン」として発生しても、東経180度を超えて、西へ進んでくると、今回のように「台風」と呼び方が変わるのです。台風13号は、7日15時現在、「非常に強い」勢力で太平洋上の日本からかなり離れた所を、進んでいます。上記の地図でも、10日15時の予報円が、やっと見えてくるくらいです。当面は、台風13号よりも、日本に近づいている台風11号の動きに注意が必要です。(tenki.jpより)------------------------------ハリケーンは東経180度を越えると台風になる、という話。アメリカからの帰化台風であることはもちろん、日付変更瀬院をまたいでやってくるというのも興味深い。こういうパターンは珍しいかと思ったけど、調べると2006年のハリケーン・イオケ(後の平成18年台風第12号)や2002年のハリケーン・エーレ(Ele、後の平成14年台風第17号)とハリケーン・フーコ(Huko、後の平成14年台風第24号)など時々見られるようだ。中でも平成18年台風第12号は南鳥島を直撃、地上の施設や観測機器が破壊され、復旧まで相当日数を要する被害が出た(島にいた各官庁の要員は戦後初めて事前に硫黄島に避難したため無事だった)。東経180度で台風とハリケーンが分かれるのと同じように、インド洋やオーストラリア近海で発生するとサイクロンとなる。まあ出自はどうあれ、台風が接近すれば雨風が強まることになるので要注意。記事にもあるように、まずは今11号をしっかり警戒する時だろう。
2014.08.08
閲覧総数 369
6

わが家の海抜を知って防災対策に役立ててもらおうと、静岡市は2月から、市内平野部の地盤の高さが分かる「海抜(地盤高)情報提供システム」の運用を市ホームページで開始する。2500分の1から2万分の1までの4種類の地図上に、中山間地を除く市内約3万カ所の海抜を表示する。市が所有する街区基準点と国土地理院のデータを活用した。地図は海抜5メートル未満と5?10メートル、10?25メートル、25?50メートル、50メートル以上の5段階に色分けし、拡大すると具体的な高さが表示される。住所や主要公共施設名などを入力しても、その場所の海抜が分かる。東日本大震災を受けて市は、沿岸部を中心とした約3千カ所に海抜表示板を設置。市民から海抜を知りたいという要望も多いため、簡易的に把握できるシステムを構築した。防災対策課は「家庭で津波発生時の避難経路を考える時に参考になる。防災訓練などに役立ててほしい」と呼び掛けている。(アットエスより)--------------------昨年の東日本大震災を受けて、各地で標高マップの作成が盛んになっている。これはやはり津波への警戒感は全国で高まっていることの現れだろう。いわゆるハザードマップは想定される津波の高さをパラメータとして与えてシミュレーションによって浸水想定区域を設定している。これは主として県などで行う仕事で、自治体ではその結果を地図に反映するというのがこれまでのフローだった。しかし昨年の津波を目の当たりにして、どこの県も想定を見直さざるを得なくなっている。その結果が示されるまでにはそれなりの時間がかかるのだが、住民の危機感の高まりはそれを待ってはくれない(実際のところ、地震や津波だって待ってはくれない)。そこで各自治体が独自に浸水想定ではなく、標高を示したマップを作成しているというわけだ。標高表示はシミュレーション結果とは異なり、高い低いがすべてを決めるため指標として分かりやすいというメリットはある。ただし、色分け表示をすることで、「この色なら我が家は安全」という曲解があることはこれまでのハザードマップ(浸水想定をはずれていれば「安全」という曲解が蔓延した)が示すとおりだ。このあたりはそれなりの啓発が必要だ。そして標高が有効なのは津波だけではない。大雨による河川氾濫など、いわゆる洪水も「高い場所へ逃げる」ということは変わらない。ただし、注意しなければならないのは「標高が高ければ安全」とは必ずしもならないこと。一般的に高い所では洪水の被害はないと思われがちだが、それは「相対的な高さ」を意味しており、標高のことではない。例え標高が100mあろうと、その場所が周りより低ければそこに水は流れてくる。この場合大事なのは標高値でなく「地形」ということになる。標高が高くても谷底であれば洪水のリスクは常にある。「高い所へ逃げる」というのは必ずしも標高のことではない。今いる場所よりも高い所、その考え方がむしろ重要になるのだ。ちなみに新潟市が公開している標高マップは地形がよく分かる仕様になっている。標高を知るより地形を知って欲しい。一歩前へ進む静岡の取り組みは評価しつつも、本当のところはそう思ってしまう。
2012.01.12
閲覧総数 1355
7

4月の赴任後、和歌山市内の地図を眺めていると、地名に「町」と「丁」が混在していることに驚いた。藩政時代に町人の居住地だった場所を「町」、武士の居住地を「丁」で示しており、全国的にも珍しいという1962年の住居表示に関する法律の施行で、全国的に多くの歴史的な地名が姿を消した。前任の盛岡市も例外ではなかった。「馬町」「呉服町」など城下町由来の地名は、「南大通」など何の変哲もないものに取って代わられた。金沢市では99年以降、地域コミュニティーの再興につなげようと、旧町名が一部復活した。地名にはその街の歴史や文化を巡る物語があるのだ。合理性だけで失われてはならない。目に映るわけではないが、そういった視点で「遺産」を探すのも面白い。(毎日jpより)--------------------地名には合理性と浪漫が同居している。本来場所を表すことが必要であるためにつけられたのが地名で、その意味では合理性が高い。しかし、年月を経ることでその地名に様々な付加価値が加わる。これは地名の浪漫と言っていいだろう。地名を変更する際など、識者が反対することが多いが、これは歴史の中でその地名が積み重ねた付加情報を放棄することになるからだ。それでも地名の変更は後を絶たない。また、かつては重要であった小字名が現在行政的にはほとんど意味を持たなくなっているため、地図から消えるケースが多い。これについても、その小字名が持つ付加情報をわざわざ放棄するようなもの、という声は多い。その情報を上手く整理して使えば、実は合理的ともいえるのだが。記事にあるような古い地名が残っているのを見つけて、思わず嬉しくなる人は決して少なくないと思うが。
2010.05.09
閲覧総数 2796
8

長野県と岐阜県の境にそびえる御嶽山(3067m)が今日9月27日11時53分頃噴火した。紅葉時期の週末でもあり多くの登山者が山に入っており、山頂にもかなりの人がいた模様で、不意討ちの噴火に巻き込まれた人も多い。山小屋に避難した人も多いが、現時点で山頂付近の外に取り残されている人がいるのかどうかは分からないという状況。これだけの登山者が噴火に巻き込まれる例は日本では稀だが、近年にいくつかの例がある。1974年新潟焼山噴火今から40年前にあたる1974年(昭和49年)7月28日午前2時50分頃、新潟県の糸魚川市と妙高市にまたがる焼山(2400m)が噴火、溶岩ドームの西北西および北北東斜面に小火口群が形成された。水蒸気爆発により半径800mの範囲に噴石が落下、登山者(高山植物調査のためキャンプをしていた千葉大生)3人が死亡した。北側(糸魚川市)の早川流域で土石流が発生した他、火山灰は上越市や妙高市に積もり、100km以上離れた福島県まで到達している。焼山は約3000年前に誕生した国内でも比較的若い火山で、歴史時代以降では平安・鎌倉時代に2回、さらに1361年と1773年の計4回、マグマ噴火を起こしているが、火砕流が発生するような噴火は1773年が最後。1974年は水蒸気噴火でそれに比べれは規模は小さいが、登山者は噴石の直撃を受けて亡くなっている。噴火後は入山規制が行われて1981年にいったん登山解禁となったものの、1987年に再度登山禁止となり、その後2006年にようやく入山規制が解除された。<上:1974年新潟焼山火山の噴火による降灰の分布、下:1974年8月の焼山山頂付近(いずれも消防防災博物館HPより)>1979年阿蘇山噴火1979年9月6日、阿蘇山が噴火し、大量の噴石が観光客に降り注ぎ、死者3人、負傷者16人を出している。阿蘇山は観光客でも火口見物ができる人気スポットである。この年の6月から活動が活発化して火口1km以内への立ち入りを禁止する規制が行われていた。危険な状況になればさらに厳しい全面登山禁止の規制へ移行することになっているものの、観光業への配慮からなかなか実現しなかった。爆発的噴火の起きる10日前から、火山性微動がほとんど記録されなくなっていた。阿蘇山は、火山性微動が弱まると、やがて大きな噴火に繋がる性質があり、微動が弱まった状況は噴火の前兆であったと考えられる。当日、1km以内立ち入り禁止規制に従い火口西へ上るロープウェーは運休しており、登山道も通行止めとなっていた。しかし、東側から火口へ上るロープウェーは普通に運行されていた。このため、交通アクセスが悪いにも関わらずロープウェーの火口東駅から展望台のある楢尾岳の間にいた観光客が噴石の直撃を受けたのだ。当時NHK解説委員であった伊藤和明氏が調べたところ、気象庁が作成した地図ではロープウェー火口東駅も立ち入り禁止区域に入っていたが、地元の阿蘇火山防災会議協議会が作成した地図では駅は規制円の外側になっていたのだという。これは観光業へ配慮した結果だったのではないかと考えられている。地元にとって火山は重要な観光資源であり、それを生業としている観光業者にとって規制は生活を直撃する。一方で自然は容赦しない。噴火というごく普通の火山の(つまり地球の)営みが災害になるかならないかは人次第であることを示した事例といえる。なお、阿蘇山の噴火による人的被害は戦後だけでも上記の他1953年(噴石等で観光客死者6名、負傷者90余名)、1958年(噴石等で死者12名、負傷者28名)のケースが記録されている。<阿蘇山とロープウェーの位置関係(地理院地図より)>
2014.09.28
閲覧総数 10394
9

1945年1月13日午前3時38分、三河湾内を震源とするM6.8の三河地震が発生した。死者2,306人、全壊家屋16,408戸(いずれも愛知県防災会議地震部会「昭和20 年1 月13 日三河地震の震害と震度分布」より)、先般紹介した昭和東南海地震からわずか1ヶ月後、立て続けに発生した地震は先の地震で大きな被害を受けていた地域を再び襲う結果になった。この地震も昭和東南海地震と同様に戦時統制下で発生したため被害状況が国民に知らされることはなく、またきちんとした調査もできず、近年まで不明点が多い地震だった。逆断層の上盤側に被害が集中物資の不足や本土空襲など戦局が悪化する中、前年12月7日の昭和東南海地震で大きな被害を受けていた三河地域を再び強い揺れが襲った。実は地震の2日前から形原町(現蒲郡市)で連続的に有感地震が発生しており、ドンドンという音を伴っていたため多くの人は戦時中でもあり大砲の音と勘違いしていたとされるが、これが前震であった可能性が高い。地震は1月13日の未明、多くの人が寝静まっている時間帯に発生した。直下型地震の大きな上下動に人々は飛び起きて外へ飛び出した。地震は三ヶ根山の山麓部を東側の南北方向から北側の東西方向に迂回する形で続く深溝断層で発生、地質時代からの活断層であり、この地震で南西側の三ヶ根山を含む地塊が新たに地震断層として地表に現出しており、現在国の文化財として登録されている。地表の最大落差2m、最大の横ずれ1m余に達するところもある。<三河地震により地表に現出した地震断層(文化財ナビ愛知より)><三河地震の地震断層(地理院地図より)。主として上盤側(図では西側)に被害が集中した>逆断層による地震であり、被害は主として上盤側に集中し、下盤側ではほとんど被害なない場所もあった。形原町や幸田町、福地村、西尾町、三和村、横須賀村などではほとんどの家屋が倒壊、平坂町(現西尾市)では堤防が4m沈下したことで79haの水田が海水に没した他、矢作古川周辺では液状化現象も見られた。また小規模ながら三河湾で津波も確認されている。多くの余震と発光現象この地震では余震も多く(余震の数は近年最多とされる新潟中越地震をしのぎ、3日後にはM6.4の最大余震があった)、本震で倒壊を免れた家屋が余震で倒壊した例も見られた。地震時には発光現象が見られたとされる。多くの人が余震の前後に空が明るくなって白く光った事を目撃しており、当時は戦時下にあり灯火管制が敷かれていたことから人工の灯りである可能性は低いとされる。局地的ながらも甚大な被害をもたらした三河地震は戦時下の厳しい報道管制のため、その全容はほとんど報じられず、昭和東南海地震同様に「伏せられた地震」となった。朝日新聞は発生翌日最終面片隅に「東海地方に地震 被害、最小限度に防止」。比較的厚めに報道した地元の中部日本新聞も「再度の震災も何ぞ、試練に固む特攻魂」と戦意高揚を煽り、被害については軽微なものと伝え、事実とは明らかに違う報道をしていた。さらに戦後の混乱で、被害調査もおざなりとなり、近年まで長い間謎に包まれた地震となっていた。戦時下という特殊な事情があったとはいえ、教訓や経験値を後に生かせなかったことがその後に影響を与えなかったとはいいきれない。災害の多い我が国では、一つ一つの災害をきちんと検証することで防災につなげていくことの重要性は認識しておきたい。
2014.09.23
閲覧総数 7135
10

2004年のスマトラ島沖地震のとき、10歳のイギリス人少女が、津波被害のあったタイのビーチホテルに家族と滞在していました。彼女はその2週間前に、学校の地理の授業で習った「津波の前兆」を覚えており、そのことが彼女を含めた数百人の命を救ったのです。少女の名前はティリー・スミスさんと言います。当時10歳だった彼女は、家族と一緒にタイのプーケットにいました。ティリーさんは2週間前に、小学校の地理の授業で「津波の前兆である、潮が海岸線から引いていき、白い泡が立つ現象」を覚えていました。その知識を両親に訴えると、両親は周りの人々やホテルのスタッフに伝え、それによって津波が来る前に避難することができたのです。彼女のおかげで被害のなかった数少ないビーチのひとつとなりました。その後、何百人を救った行動が称えられ、表彰を受けています。海外掲示板でも感心の声が上がっていました。・彼女は『泡が出てるの、水の泡よ』と何度も繰り返し言い続けたと、父親のコリン・スミス氏は語っている。・両親は最初、彼女のことを無視していた。しかし彼女はしつこく「津波が来る、聞いてちょうだい」と両親に訴え続けた。・ようやく父親のコリン・スミス氏を説き伏せることができた。父親はホテルに向かうことにし、ホテルの警備員に近づきこう伝えた。「ええと、ちょっと頭がおかしいと思われるかもしれないが、娘が絶対に津波が来ると言い張るんだ」・幸運にも警備の人も彼とその娘の言うことを信じ、ビーチにいる人々に警告を発し始めた。・スミス家が泊まっていたホテルにケガ人は出たが、死者は出なかった。・その津波で25万人ほど亡くなり、タイでは1万人が犠牲になった。津波の怖さは、われわれ日本人も痛切に学びましたが、いかに風化させず伝えていくことが重要かを実証しています。(Livedoorニュース)------------------------------率先避難の成功例。学校の授業で習ったことを覚えていただけでなく、きちんと実践している点が素晴らしい。(イギリスの小学校の地理でこういうことを教えていることも驚きだが)もっとも、こうした成功例を教訓として伝えていくにはそれなりの注意も必要になる。多くの失敗事例には必然があるのに対して、成功事例には幸運な偶然を伴っているケースが多い。その場合、次の機会にそのまま実践しても上手くいくとは限らない。このケースでは前兆があったことで、彼女がそれに気づき多くの人が助かっている。しかし、津波の前兆は必ずしもあるとは限らないことは注意しなければならない。例えば『引き波』は津波の前兆現象として良く知られており、度々津波の被害に遭っている三陸地方でも多くの人が「津波が来る際には引き波がある」と伝わっていた。しかしそれは誤信だった。東日本大震災の際に1600人の犠牲を出した大槌町ではそれが原因で多くの人が逃げ遅れた。もちろん前兆があれば直ちに避難すべきだ。しかし前兆がないから安心というのは間違った考え方であり、津波の可能性が少しでもあるのなら空振りを恐れずより高台へと避難することが重要だ。災害の教訓を後世に伝えていくことは非常に重要なことだ。その一方で、経験主義に陥り過ぎてもいけないことは各地で起きている災害の多様性を見れば理解しやすい。その意味では記事に登場する少女が評価されるべき点は、前兆を捉えたこと以上に率先避難を実践したことにあると考えるべきだ。教訓の伝え方、という意味で教訓になる事例かも知れない。
2015.10.13
閲覧総数 9243
11

防災週間過去の災害記事第8回(そろそろ最終回にしなければいけませんね)は「島原大変肥後迷惑」を。「島原大変肥後迷惑」はユニークな名称とは裏腹の日本最大の火山災害だ。この災害は火山災害でありながらも、地震、土砂災害、津波と多くの要素が重なった最悪の災害となる。おりしも島原藩は藩主松倉重政の悪政や寛永14年(1637年)の島原の乱で領内が荒廃、ようやく復興を遂げた矢先に訪れた災難だった。そしてまさかの甚大な被害を被った対岸の肥後にとっては、想定外の大災害であった。普賢岳噴火と四月朔地震島原半島の中央にそびえる雲仙岳では寛政3年(1791年)秋頃から地震が頻発、火山活動が始まっていた。翌寛政4年(1792年)正月18日には普賢岳が噴火し、2月には溶岩流の噴出もあった。「三月朔の地震」では島原で震度5~6の揺れがあり、地割れや湧水の発生が見られた。さらにその後も震度4~5程度の地震が何度か続いていた。現代であれば、この段階で避難勧告等があってしかるべき状況だろう。火山活動が始まった頃には、噴煙を見物する者が集まり、中には宴会を催す集団もあったというが、3月に入り地震が頻発したことで島原の町から避難する人々も多くなる。しかしやがて小康状態になったことで人々は徐々に町に戻りつつあった。そんな折、4月1日、「島原四月朔地震」が発生する。20時頃、震度6の揺れが島原を襲った。そして雲仙岳の東側、島原の町のすぐ裏にそびえる眉山(普賢岳の手前にある山の意である「前山」から転じた山名)が轟音とともに大きく崩れ落ちた。岩屑なだれと大津波崩れた山は岩屑雪崩となって島原の町を直撃した。崩れた土砂は3億4000万m3に及び、人も家も田畑も飲み込みながら有明海へと流れ込んだ。流れ込んだ土砂が大津波を発生させる。津波の高さは10mとされ、島原ばかりでなく、有明海の対岸である肥後や天草をも襲った。さらに肥後の海岸で反射した津波は島原を再び返り被害を拡大させた。津波の遡上高は肥後側で15~20とされ、三角町大田尾では22.5mに達した。島原半島側では布津大崎鼻で57m以上との記録もある。この災害による死者は島原側で5000人、肥後側で1万人といわれ、日本最悪の火山災害である。この時有明海に流れ込んだ土砂は島原の沖で九十九島を作りだした。これは流れ山と呼ばれる、山体崩壊により形成される火山地形となる。なお、三月朔地震の直後に眉山の直下で、南北720m、東西1080m、滑落崖90mという「楠平の地すべり」の発生と地下水位の上昇があったことが分かっており、山体崩壊の前兆現象として避難行動をとっていれば犠牲は少なかったのではないかといわれている。もっとも、その場合でも対岸の肥後では、まさか大津波が押し寄せることなどは夢にも思わなかっただろう。外海でなくとも津波が襲う可能性があるということ。この時代ばかりでなく、現代でもなかなか想定されにくいリスクかもしれない。<眉山の崩壊跡と九十九島(地理院地図より)。山体崩壊と土砂が流れた跡が九十九島や島原市街にかけて見てとれる><津波は島原から対岸の肥後に達し、反射して再び島原を襲った(地理院地図より)>眉山崩壊メカニズムの謎眉山が崩壊した原因については、これまでも様々な議論がされているが、今もって定かではない。一つは火山爆裂説である。根拠は眉山自体も雲仙岳に所属する火山であり、古記録に爆発を示唆する火気・噴煙・硫黄の匂いや微弱地震などの記載があること、あるいは馬蹄型崩壊跡と前面の流れ山の存在が、火山爆裂特有の地形であるとするものだ。一方現在最も有力とされているのが地震崩壊説だ。これは眉山そのものが局部的に砂状に砕かれ、また地下水を多く含んで崩れやすいこと、古記録にある崩壊時の地響きが爆発音にしては小さいこと、そして火山噴火であれば地震→小爆発→爆発→溶岩流出という一般的なプロセスに矛盾があるとするものだ。この他普賢岳の噴火活動の影響により眉山山体内で熱水が増大し、地すべりを誘発したという説や、普賢岳へのマグマの上昇で熱水圧が高まり岩盤郷土が低下した上、浅い直下型地震が引き起こされたとする説もあり、メカニズムは完全に解明されていない。土砂災害による津波の例島原大変肥後迷惑は日本の災害史上でも稀なケースではあるが、土砂災害による津波の発生そのものは決して起こり得ないことではない。最も有名な事例は1963年にイタリア北東部のバイオントダムで発生した津波だろう。深く狭隘な谷に建設されたダムで262mという堤高は当時世界一であった。このダムの上流で大規模な地すべりが起こり、それにより発生した津波はダム下流の集落を襲い、2000名の犠牲者を出す惨事となった。なお、国内でも平成23年(2011年)7月19日、台風6号の影響で高知県の平鍋ダム上流で土石流が発生し、その衝撃によりダム湖で5m以上の津波が発生、ダム堤を乗り越える事態が発生した。堤上部にあった電気制御設備が損傷したが、幸いにも人的被害はなかった。また、現段階での津波の到達高度の世界最高記録は1958年のアラスカ南端のリツヤ湾における520mというとてつもない数字だが、これは氷河地形であるフィヨルド特有の急峻な斜面が地震により崩壊し、9000万トンにものぼる岩石が一気に湾内に落ちたことで発生した津波が対岸に達した際に記録されたものであり、通常の津波と異なり湾外へ出ると消滅している。このような被害の例は決して偶然ではない。火山災害は山体崩壊を伴うことがしばしばある。こうした事例が過去にあったことは知っておいた方がいい。あとで「想定外」なんてことにならないためにも。※この記事は2012年に書いた文章を一部改編したものです。
2014.09.08
閲覧総数 25486
12

4月4日にオープンしたバスタ新宿。これまでバス会社ごとにあちこち散らばっていた高速バス乗り場を新宿新南口の駅の上に集めた一大バスターミナル。新南口は甲州街道に面した駅の改札は2階になっており(線路が地上でその上階に改札がある)、駅の東よりにバス・タクシーの出入口がある。改札階の上(3階)はタクシー乗り場と高速バスの降車場になっている。甲州街道側から2箇所、サザンテラス側からもエスカレーターが設置されている。このフロアにはツーリスト・インフォメーション・センターもある。通常の観光デスクに比べて開放的な印象。なお、高速バスはここで降車扱いをした後は一旦バスタから外へ出て営業所等で整備・清掃をした後にバスタへ戻ってきて乗り場へ向かう模様(降車扱い後に乗り場のフロアへは上がれない構造になっているため)。タクシーは乗車も降車もこのフロアになる。甲州街道がタクシーの乗降で渋滞するような問題はなくなるが、利用者にしてみると今までのように降りてすぐ改札というわけにはいかないので時間の見積には注意が必要。4階は高速バス乗り場のフロアになる。ロビーは券売機とカウンターが並んでいてその前が待合室という構造。案内カウンターもある。平日昼間ながら人は多かった。乗り場はバス会社や方面別に4つのエリアに分かれている。かなりバスの駐車・走行スペースをぐるっと一回り取り巻く形で通路があり、各辺ごとに乗り場エリアがあるイメージ。通路は正直狭い印象で、繁忙期や混雑する時間帯などさばけるのかどうかは気になるところ。待合室も含めて導線はよくないように感じた。また、これまではバス会社ごとに場所こそ離散していたものの、乗り場そのものはシンプルだったので迷うことはなかったが、バスタはそれらが1箇所に入っているため、乗車するバスの乗り場が分かりにくいという面もある。実際に利用者から「分かりにくい」という声も出ていた。慣れもあるかもしれないが、案内には一工夫必要かもしれない。6階・7階には屋上ガーデンがあり、バス乗り場を見降ろすことができる。テラスレストランなどもある。ターミナルとしての賑わいや、旅立ちの期待感や旅情みたいなムードはこれまでのバラバラの乗り場ではなかった部分。空港のロビーやかつての鉄道の始発駅(上野など)を彷彿とさせる一方、売店やレストランが側にないのはちょっと残念。最後に古い乗り場はどうなっただろうと思って見に行った。サザンテラスの紀伊国屋から代々木方向へ行ったところにあったJRバスの乗り場。そして西口のヨドバシカメラの前にあった京王バスの乗り場。まさにつわものどもが夢の跡という感が。ただし、バスタに向かう前に西口で降車扱いするバスもあるようだ。また西口には臨時便用の乗り場の残っていた。このあたりはかなり分かりにくいのできちんと案内がされないとトラブルになりそう。施設としてのバスタ新宿はかなり立派で、鉄道(主としてJRだが)とのアクセスも向上しており、全体として便利になったことは間違いない。その一方でターミナルとして大きいが故の分かりにくさも出現している。JR以外の、例えば地下鉄や京王・小田急から適切な誘導ができるのか、最適経路やサインの整備も必要だろう。そして自分のバスがどの乗り場から出るのかを上手く案内できるか。掲示されているデジタルの案内板は便利だが、音声アナウンスは同じ時間帯に複数のバスが出るケースが多いのでなかなか伝わり切らない部分もある。このあたりはスマートフォンアプリなどで補えないものだろうか。バスの乗車チケットや時刻表など総合案内と連動すればなおいいと思うのだが。
2016.04.05
閲覧総数 867
13

25日、メリリャ自治都市とモロッコ北部の都市アルホセイマでマグニチュード6.3の地震が発生した。europa pressによると、人的被害はないとのことだが、建物の被害があり、学校が休校になるなどの影響が出ているようだ。スペインでもアンダルシア地方を中心に揺れが観測され、問合せが相次いだという。地震多発国である日本から見ると、ヨーロッパは地震災害が少ないような印象を持つ人は多いだろう。実際、イギリスやフランスから来日している人が(日本人の基準で考えれば)さほど大きくないような地震でも驚いたり怖がったりしている例は時折目にする。しかしヨーロッパ全体として地震が少ないかといえば必ずしもそうではない。特に南欧ではこれまでかなりの頻度で地震災害が発生している。直近では2009年にイタリアで発生したラクイラ地震が知られている。この地震は群発地震であり、中でも4月6日に発生したM5.8(Mw6.3)の地震により308人の死者を出した被害そのものはもとより、地震の危険度を判定する国の委員会が地震発生前の3月31日に、大地震の兆候がないと発表したことで被害が拡大につながったとして裁判になり、一審では委員会メンバー7人(行政官2人、学者5人)に実刑判決が出たことでも記憶に新しい。イタリアやギリシャなど地中海近辺で地震が多いのは、ユーラシアプレートとアフリカプレートの境界部分にあたり断層が多いという点で日本と類似しているが、専門家によると地質構造が日本以上に複雑で、単純なプレートの沈み込みなどでは説明できないのだという。スペインやポルトガルも同様に頻繁に地震が発生している国だが、スペイン国土地理院(IGN)のデータをもとに、スペイン領土及びイベリア半島で発生した地震をプロットした地図が公開されている。これによると1373年から公式に観測された地震は10万件以上を数えるという。この地域を襲った地震災害の中で最も有名なのは1755年のリスボン大震災だ。ポルトガル沖の太平洋で発生したこの地震はMw8.5程度と推定される大きなもので、津波による死者1万人を含め6万2000人が犠牲になったとされる(理科年表)。なお、リスボンを襲った津波の波高は、6~15mと推定されている。(東日本大震災の際に、ヨーロッパではこのリスボン大震災が引き合いに出されることが多かったらしい)大陸貿易で隆盛を極めていたポルトガルがこの地震を機に衰退したとする見方があることや、当時のヨーロッパの思想家に大きな衝撃を与えたことで、その後の社会の宗教感や哲学へ決定的な影響をもたらした点で、歴史的にも大きな意味を持つ。また、ドイツの哲学者イマヌエル・カントがこの地震をきっかけに、地震を自然現象として捉えてメカニズムの解明を試みるなど地理学に傾倒していった点でも大きなエポックであり、地震学の黎明としての意味も大きい。なお、リスボン地震は1531年にも3万人の死者を出したものがあり、繰り返し発生していることも分かっている。このようにヨーロッパでは決して地震がないわけではない。もちろん、ヨーロッパ全体としてみれば頻度が高いとはいえないかもしれないが、少なくとも南欧においては「地震が少ない」というのはあまりあてはまらない説と認識しておいた方がいい。
2016.01.26
閲覧総数 10450
14

千波湖は現在の4.88倍だった 幕末の測量図もとに新説(東京新聞)水戸駅の南に広がる千波湖が、幕末には現在の4.88倍の面積あったことが分かった。茨城大学の小野寺淳教授(歴史地理学)の研究結果によるもので、これまでは現在の3.8倍と紹介されていたが、実測を基にした「千湖分間全図」(せんこぶんげんぜんず:1855年)が見つかり、現在の地図と照らし合わせることで判明した。千波湖は元来今の中心市街地がある台地を挟み、北側を流れる那珂川の氾濫などによって生成された浅い沼と考えられてきた。江戸時代初期に水戸藩が城下町を建設した際に、城を守る堀として位置づけられたことで整備が進んだとされている。その時代から少しずつ湖岸が干拓されていたが、大正時代に水質が悪化したことから水戸駅南側で大規模な干拓を実施、太平洋戦争からの復興後には現在の33万2000m2の広さになったという。これまで新旧の千波湖の広さを比較する史料として参照されてきたのは「水府志料」(すいふしりょう:1807年)という文献だが、水府志料には測量図がなく、面積として現在の約3.84倍に相当する38万6364坪(127万5000m2)という記述があるのみ。これを小野寺教授は根拠が分からない点から疑問視しているという。千湖分間全図は水戸市の千波湖土地改良区が所有していたものを、保存・活用のため2014年に市立博物館に寄託したもの。小野寺教授は千湖分間全図がつくられた目的は不明としながらも、当時としてかなり正確な測量図であり、信頼性は水府志料より高いと分析しており、これ以上の史料があるとは考えにくいことから、現在と幕末の比較は4.88倍が定着することになると見ている。明治の時点の千波湖については迅速測図や旧版地図で分かるが、幕末(あるいはそれ以前)との比較は史料が頼り。そんな中で測量図が出てきたのは大きい。土地条件図では明治期の千波湖の跡が埋土地で、その周辺は盛土地が広がっている。千湖分間全図からは、この盛土地の部分の一部にも千波湖が広がっていたのではないかと推測できる。埋土地が現在は普通に市街地になっているのも気になるところ。そこにいる人々が土地の性質や履歴をきちんと把握しての上でなら問題ないのだが。<千波湖周辺:明治36年測量の旧版地形図(左)と現在の地理院地図(今昔マップより)><千波湖周辺:土地条件図(地理院地図より)>
2016.08.26
閲覧総数 2333
15

1888年(明治21年)7月15日、会津磐梯山が噴火し、水蒸気爆発による山体崩壊が北面で周囲の地形を一変させ、死者477人という大きな被害になった。近代国家としての体裁を整えつつあった明治政府が初めて直面する大規模な自然災害だった。予兆から噴火、そして山体崩壊噴火の1週間ほど前から磐梯山周辺では鳴動と遠雷音が発生し始めた。磐梯山にはいくつかの当時場では、鳴動や発煙を受けて当時客が避難するなどの騒ぎになっている。住民も不安を感じたものの、こうした現象が噴火の前兆であることは分からなかった。磐梯山が活火山であるという科学的認識もなかった時代の話であることを考えれば仕方のないことかもしれない。現在であればこうした現象を捉えれば噴火の前兆として避難等の措置がとられるだろう。しかし当時は科学的知見もそれに見合う観測体制もない。その後も鳴動は続いていた。7月15日7時30分頃、鳴動と共に強い縦揺れの地震活動が活発化した。地震は断続的に発生、その揺れも徐々に大きくなっていくと、7時45分にとうとう噴火した。噴火は小磐梯(現存しない)山頂部で、噴煙は上空1300mに達して東南東方向へ流れて広範囲に降灰をもたらした(降灰は太平洋岸のいわきでも観測されている)。噴火地点に近い山麓では火山弾が降り注ぎ、直接肌に触れると火傷をおう熱をもった火山灰も降り、死傷者が発生したことが記録されている。大きな爆発が15回から20回くらい引き続いて起こり、最後の爆発が北に横向きに抜けたことが目撃されている。この最後の爆発が小磐梯山と北面の斜面を崩壊させ、山津波状の岩屑なだれとなって北麓へと流れ下っていった。北麓にあった5村11集落はすべて埋没して477名の犠牲を出した。爆風、ブラスト、水蒸気爆発サージを伴った疾風は木々をなぎ倒し、家屋を破壊した。<白木城小学校舎暴風ノ為ニ破潰ノ図(福島県立図書館デジタルライブラリーより)>また、北麓を流れていた長瀬川水系は多くの場所で山体崩壊による土砂等で河道閉塞を起こし、桧原湖、小野川湖、秋元湖といった堰止湖を生んだ。河道閉塞で不安定になった長瀬川ではその後融雪時等に繰り返し洪水や土石流を発生させて下流を襲うことになった。この状態は大正時代に3湖で築堤工事が実施されるまで続いた。一連の噴火はその日の夕刻には治まっている。20日にも小規模な地震が記録されているが、噴火そのものはわずか1日で終息したことになる。現在、裏磐梯から磐梯山を望むと、山体がえぐれたような形になっているが、その部分が当時の噴火による崩壊部にあたる。<磐梯山北面の山体崩壊の跡と堰き止めにより形成された湖沼群(地理院地図より)>近代国家として初めて直面した大規模災害への対応この噴火は明治維新を経た近代国家としての日本が直面する初めての大規模自然災害であり、その対応においても様々な試みがされている。その一つが科学的な調査だった。現地入りしたのは帝国大学理科大学教授関谷清景、農商務省地質局の和田維四郎と大塚専一、内務省地理局技師の和田雄治ら。また、工科大学の外国人教師ウィリアム・バートンも写真技師として同行したことで、磐梯山噴火は初めて写真に記録される災害となった。当時黎明期にあった新聞メディアも積極的に報道し、災害現象の科学的解明に対する興味が社会全体に広がった。噴火による被災者には凶作のための農民救済制度であった備荒儲蓄金が支給されたが、これは充分なものではなかった。これを天皇からの恩賜金と国民からの義援金が補うことになる。義援金は新聞などのメディアによる社会事業活動のさきがけで、54新聞社の約6万人から、総額約3万8千円が集まった(現在での約15億円に相当する)。災害の応急対策に適応しきれない場合の恩賜金、義援金の意義を示した事例といえる。まだ統一規格の地図がない時代ながら、噴火後に農商務省地質局により「磐梯山之図」という詳細図が作成された点も特筆される。結果的に1888年磐梯山噴火は我が国における大規模自然災害に対して近代科学のメスが入った最初の災害であり、官民あげて復旧にとりくんだ最初の災害でもあった。政府や社会の対応は当時の状況としては評価されるべき水準であり、その後の災害対応のあり方への前例となっている。
2014.09.24
閲覧総数 36012
16

<日本には6852もの島がある!>旅先として人気のある日本のリゾート地とえいば、沖縄。一度は訪れてみたい土地の一つですよね。そんな沖縄は、363もの島々から構成されていると知っていましたか?日本全国にはたくさんの島があります。平成22年の国勢調査による日本の有人島数は418島あり、それに無人島も加えると、昭和62年の海上保安庁の発表では、日本の構成島数は6852島という多さです。日本の決して広くはない国土に、これだけの島があるとは驚きですよね。なお、「島」の定義は、日本の法律によると「自然に形成された陸地で、潮が満ちていても水面上にあるもの」だとされています。そんな島国日本において、一番たくさんの島があるのは長崎県です。壱岐(いき)、対馬(つしま)、五島列島など、その数なんと、971島。日本の島の約7分の1が集まっていることになります。今回は2つのユニークな島をご紹介します。<たたみ6畳の広さで285億円かかった島がある!?>日本最南端の島として知られる沖ノ鳥島は、「最南端」という言葉から九州や沖縄を連想する人もいるかもしれませんが、こちらは東京都小笠原に属する無人島です。この島は、大きさがたたみ6畳ほどしかなく、満潮時には小さな岩が頭を出すだけで、ほとんどが海に隠れてしまう形状になっているため、みなさんが思い浮かべる「島」とはちょっと離れた見た目かもしれません。その形状ゆえに、常に波にさらされ、岩が徐々に削られていき、水没の危機に瀕(ひん)したことがあります。水没を防ぐために、1987年に補強工事が行われたときは、285億円もの費用がかかったそうです。たたみ1枚におきかえると47億5000万円という、何だかリッチな島ですね。そこまでして水没を防いで意味があるの?と思う人もいるかもしれませんが、この島は最南端であることがポイント。この島を守ることで、日本の領海の範囲を守ることにもなるのです。また、「ワイルドな孤島」として有名なのが、沖縄の大東諸島です。南大東島、北大東島に合わせて約2000人が暮らしていますが、いずれの島も、ぐるっと断崖絶壁に囲まれているため、船をつけることができません。そのため、住民が船で島外へ移動するのに「檻」を使っています。人もヤギも荷物もみんな檻の中にいれ、クレーンで吊るし上げて船へ移すのです。実際に行けば、クレーン移動が体験できるかもしれませんね。<人間と地形の関係を研究するのが「自然地理学」>このように、日本にはさまざまな島があり、その地形によって一風変わった島があることが分かりますね。他にも変わった地形の島はいろいろあるので、島に興味を持った人は、自分が住んでいる地域の島を調べてみてください。このような日本の国土の地形については、「地理学」の中の一分野である「自然地理学」で学ぶことができます。「自然地理学」は、地形だけでなく、気候、植物の生育や水の循環などを研究する学問です。「自然地理学」を体験するという意味でも、6852にものぼる日本の島の中から、自分の好みの島を見つけ、実際に訪れてみるのもきっといい勉強になるはずですよ。(マイナビ進学U17より)------------------------------マイナビの高校生向けサイトの記事だけど取り上げてみた。近年は地理教育が軽視されていることもあって、高校生で地理に興味を持つ学生も少ないのかも知れない。こういう記事を取り上げてくれるのはいいがアプローチは何となくテレビの旅バラエティー風。でもこれだけだと「ふーん」で終わってしまいそうな気もしないでもない。残念なのは、記事の中身と連動する具体的な写真(九十九島のイメージ写真はあるが)や地図がないこと。テキストだけでは地理的なイメージは浮かばないのではないかな。沖ノ鳥島も大東諸島も位置や写真を見せればもっと深い理解がされるのではと思う。また最後の小見出しの人間と地形の関係を研究するのが「自然地理学」とうのはちょっと違う。人間との関係を知るならむしろ人文地理学だ。この書きぶりだとたぶん本文書いた人と小見出しつけた人違うと思うけど。島の研究は自然地理学的なアプローチでも人文地理学的なアプローチでも面白いが、独自の文化や生活スタイルを生みやすいという側面があることから人文地理学のフィールドになるケースが多いように思える。自分は山村地理をやっていたのだが、山村と島は似ている部分が多いと当時の教官が言っていたのを覚えているし、卒論では島を勧められた。でも自分はやはり山村で島ではなかった。船酔いがひどい、というのが主な理由だが…
2015.07.11
閲覧総数 283
17

仙台市北部を流れ、宮城野区蒲生で仙台湾に注ぐ七北田川はかつて、洪水を繰り返した暴れ川だった。下流域の両岸には、洪水時に土砂が堆積した自然堤防が形成されている。周りより湿気が少なくぬかるみにくいので、古くから街道が通り、集落が形成された。宮城野区岩切の余目地区は自然堤防の上にできた集落だ。今は民家やアパートが立ち並ぶ住宅地だが、昭和初めの地図を見ると、民家は20軒ほど。周囲には水田が広がり、畑は河川敷や水田の中に点在していた。この辺りは勾配が極めて緩やかな地形の上、河川に近いため地下水位が高い。保水力があるので稲作に向いている半面、野菜は根腐れしやすい。地中へと成長する根菜類の栽培は困難だ。茎部分に光が当たらないよう、成長に合わせて土寄せして軟白化させるネギの栽培も難しい。ネギは湿気に弱いが、土寄せした跡の溝には水が染み出す。こんな環境を逆手に取って生み出されたのが、曲がりネギの「余目ネギ」だった。1メートルほどに育ったネギを8月ごろいったん引き抜き、浅い畝に寝かせて土をかぶせる。「やとい」と呼ばれる作業だ。ネギは太陽に向かって曲がりながら育つ。弧を描いた白い部分は軟らかく、甘みが増す。宮城県仙台農業改良普及センターの伊藤嘉彦さん(52)は「昨年機械で測定したところ、余目ネギは一般に売られている立ちネギ(真っすぐなネギ)より糖度が高く、軟らかいことが分かりました」と教えてくれた。県内で栽培された曲がりネギは「仙台曲がりねぎ」という名前で販売されるが、本来の余目ネギとはちょっぴり違う。「余目地区の農家が、姿形がいいネギの選抜を繰り返し、えり抜かれたネギから取った種で栽培してきたのが、余目ネギなんです」と伊藤さん。スーパーなどでは、病害虫に強いF1(一代雑種)の曲がりネギが主に販売されている。余目ネギは曲がった部分の外側の皮にしわが寄っているのに対し、F1は皮がパリッと張っているので見分けがつくという。余目ネギの栽培方法を編み出したのは、余目地区の永野一(はじめ)さん(1889~1960年)だった。稲刈りが終わった秋から冬にかけて収穫できる野菜があれば、農家の暮らしが潤う。農業に関する本を熟読して試行錯誤を繰り返し、明治末期に栽培方法を確立。味の良さが評判になり、周りの農家へと広まった。永野家に嫁いで40年という永野あや子さん(63)は「夫は勤め人なので、やといなどの農作業は私が担当していました。昔はどの家でも余目ネギを栽培していて、市場でいくらで売れたかが地区の話題でした」と懐かしがる。余目地区はほぼ全域が市街化区域で土地の固定資産税が高い。畑作では税金を賄い切れず、アパート経営に切り替える農家が多いのが現実だ。永野家も10年ほど前に自家用を除き、ネギ栽培をやめた。今も自家採種して栽培している関内清一さん(67)は、寂しげな表情を浮かべる。「ネギは種を植えてから収穫するまで1年ほどかかります。病害虫に弱くて安定した収量を見込めない余目ネギを作付けする農家は、もう数えるほどしか残っていません」関内さんが余目ネギ栽培を続けるのは、「先輩たちが作り続けてきた種を絶やしてはいけない」という強い思いがあるからだ。「味は天下一品。焼いて食べると最高だ」と手塩にかけたネギに目を細める。岩切小では、地元発祥の伝統野菜を授業の題材に取り入れている。問題解決をテーマにした3年の「総合的な学習の時間」では、余目ネギが主役。「なぜ曲がっているのか」という観点から調べ、曲げることによって岩切ではネギ栽培が可能になった上、うま味が増したことを一年を通じて学ぶ。授業担当の佐藤慶一教諭は「曲がりネギが岩切発祥と知った途端、子どもたちの興味関心が一気に高まります」と表情を緩める。校庭の畑に4月、地元農家が自家採種して育てた余目ネギの苗500本を移植。8月にやといをして、10月に収穫した。「随分曲がったよ」「太くなった」。子どもたちは歓声を上げながらネギを引き抜いた。地下水位が高いという地形上のデメリットを逆手に取って生まれた曲がりネギ。先人の知恵と努力は教育の場にも息づいている。(河北新報より)------------------------------これはなかなか良質な記事。七北田川の氾濫原、自然堤防上の集落、地下水位の高い後背湿地、根菜類の栽培は困難な場所での湿気に弱いネギの栽培、「やとい」による余目ネギの強み、二毛作、市街化区域での兼業農家、地域学習、などなど学ぶべき要素が散りばめられている。ちなみに今昔マップで明治45年の地図と現在の地図を比べると↓それにしても不利な条件を克服する知恵は素晴らしいもの。伝統野菜の「弧を描いた白い部分は軟らかく甘みが増す」が本当に自然条件に根ざしていて、かつ作物の良さを引き出していることもあらためて認識できる。我が家の近所も二毛作でネギを作っている農家が多い。そしてお祭りなどでは直火で焼いたネギを振舞うのだが、その旨さときたら。伝統野菜の栽培が続いていけばいいのだけど。
2014.12.02
閲覧総数 1017
18

地球の表面、30年前より陸地が増えた(NIKKEI STYLE)40年以上にわたるランドサットの衛星画像とグーグルアースエンジンを使って、地球のどこが水に覆われ、どこが乾いた陸地になったのかを示した地図の記事。オランダの独立研究機関である「デルタレス」のゲナディ・ドンチス氏が主導する研究チームがこの地図を「アクア・モニター」として公開している。地球温暖化が叫ばれる中、氷床の融解により水没する陸地が増えていると思いがちだが、実は陸地が30年前よりもわずかに増えていることが分かったというもの。端的にいえば、温暖化による氷床の融解VS砂漠化という構図でどちらも進んでいるということなのだろう。もちろん陸地の増加には海面の埋立などの人工的要因もあるので単純に比較はできない。画像を見る限りでは撮影した時季やコンディションの影響もありそう。例えば大河の河川敷などは大きく経年変化しているが、大陸の大河、例えばシベリアの河川や南米のアマゾン川などは撮影時の水量に大きく左右されるのではないか。広大な水田地帯があったとすれば、水が張られている時季であれば水部と認識されてしまうこともあるだろう。日本を見ると、東日本大震災で水没した地域があるのが生々しい。もっとも、多少の誤差はあったとしても、こうしたモニタリングを続けていくことでわかることもある。有意義な成果であることは間違いない。
2016.09.27
閲覧総数 169
19

日本の最北端である北方領土・択捉島のカモイワッカ岬が、国土地理院の従来の地形図に示された位置から南西方向へ100〜150メートルに位置することが、国土地理院による人工衛星の画像解析で分かった。同院は新たに同島の縮尺2万5000分の1の地形図を作製した。北方領土はロシアに実効支配されているため現地調査できない。これまでは、同院の前身である旧陸軍参謀本部陸地測量部が1922年に作製した5万分の1の地形図を基に、カモイワッカ岬は北緯45度33分28秒、東経148度45分14秒とされていた。ところが、宇宙航空研究開発機構(JAXA)の陸域観測技術衛星「だいち」が撮影した画像データなどを解析したところ、同岬は北緯45度33分26秒、東経148度45分08秒と判明した。緯度で南へ2秒、経度で西へ6秒のずれがある。緯度1秒の差は約30メートルとされ、日本の最北端は南へ数十メートルずれる。これにより、日本の排他的経済水域(EEZ)もほんの少し縮む可能性がある。択捉島の最高峰も、これまでは標高1587メートルの散布山(ちりっぷやま)とされていたが、南西部にある1629メートルの西単冠山(にしひとかっぷやま)と判明。散布山は5メートル低い1582メートルに、逆に西単冠山は63メートル高く修正された。同院基本図情報部は「地殻変動ではなく、精度の差によるもの。衛星画像は3方向から立体的に高い解像度で捉えており、より正確な地形図を作ることができた」としている。(毎日新聞より)------------------------------タイトルには「地形図間違い」とあるが、実際のところは測量方法や精度の違いに起因するものであり「間違い」というのは適切ではない。カモイワッカ岬は島の北東部に位置している小さな岬。この地図は修正済みのもので、赤丸が以前の図でのカモイワッカ岬のおおよその位置。ちなみに標高が修正された散布山と西単冠山の図は以下のとおり。それにしても現地調査ができない中でこれだけの測量ができることに「だいち」の凄さがある。地上基準点を置かずに、軌道情報等から得られたRPCモデルから画像と地上の座h等を結び付けており、その精度は地上基準点を使用した様々な検証により確認されている。既に役目を終えた「だいち」だが、今になって地図衛星としての底力を見せつけられたような気がする。
2014.08.14
閲覧総数 1097
20

東日本大震災での津波被害者の遺族が「適切に避難させなかった」として自治体や職場に損害賠償を求めた二つの訴訟で、最高裁はいずれも遺族側の上告を退ける決定を出した。17日付。「津波は予測不可能だった」として、遺族の請求を棄却した一、二審判決が確定した。津波被害者が起こした訴訟が、最高裁で確定するのは初めて。決定があったのは、七十七銀行女川支店(宮城県女川町)で犠牲になった従業員3人の遺族が銀行に約2億3千万円の賠償を求めた訴訟と、宮城県山元町立東保育所で亡くなった園児の遺族が、町に約3152万円の賠償を求めた訴訟。同銀行を訴えた訴訟では、昨年4月に二審・仙台高裁が「銀行側は、支店の屋根を越えるほどの津波を予見できなかった」と判断。町立保育所を訴えた訴訟でも、同高裁が昨年3月の二審判決で、「海岸から1・5キロの保育所に津波が到達するとは予見できなかった」と判断した。震災犠牲者の遺族が勤務先や自治体などの管理者の責任を問う訴訟は、各地で起きている。園児5人が犠牲になった私立日和幼稚園(宮城県石巻市)の訴訟では、一審・仙台地裁が「巨大津波の危険性は十分に予見できた」として園側の過失を認め、二審で和解が成立した。児童ら84人が犠牲になった市立大川小学校の被害で2014年3月に遺族が県や市を提訴するなど、複数の訴訟が係争中だ。(朝日新聞より)------------------------------遺族が納得できないのは分かるが、客観的に見て妥当な判決だと思う。三陸たびガイドの取材をしていた頃、まだ女川の街には横倒しになったビル(女川サプリメントと江島共済会館)が残っていて、震災の象徴として訪れる人も多かった。そのすぐ前で、七十七銀行女川支店での犠牲者の遺族の方々が原因を検証するための署名を集めていた。石巻市での大川小学校のケースでも同様だが、将来に向けて確かな教訓を残すためには、なるべく詳細な検証がされることが望ましい。その上で、明暗を分けた判断を事例としてきちんと残すことは震災を経験した世代の責任でもあろう。その一方で、大切な身内を亡くした遺族にとっては、こうした検証が責任究明の場になりがちでもある。これも感情的には仕方がないことだろう。しかし責任の追及と事実の検証は本質的には違うものだ。女川のケースは高さ10mのビルの屋上に避難した従業員らが犠牲になったものだが、当時の感覚としてはそれで十分だったろう。実際に大津波警報は当初6mと伝えられた。しかし大津波を飲みこむほどの高さだった。遺族は裏手に丘があるのになぜそこに避難させなかったのか、人命よりも経済合理性を優先させた点で企業を訴えている。実際に津波はその裏手の丘をも浸水させるほどの高さだった。この七十七銀行のケースや、山元町立東保育所のケース、そして判決は出ていないが大川小学校のケースなど、津波による被害を予見できなかったことは事実だろう。我々も今でこそ津波は何十メートルにもなることを知っているが、あの津波を目の当たりにするまでは過去の大津波の話を聞いていながらも現実のものとして解釈できていなかった。だからこそ、可能であれば感情を一旦除外して事実究明に尽くし、次の世代へきちんとアーカイブして欲しい。それしできることなら、この件で被災者の中に被告や「悪者」をつくらないでもらいたいのだが。(その代わり事実究明に非協力的な態度もとらないで欲しい)日和山幼稚園の件も含めて、関係者はその時点では何の悪意もなく、良かれと思ってやったことが悪い結果を真似ていたのだろう。その責を誰かが追うのは無理がある。なぜならばこれはそれまでの日本の防災そのものの失敗が招いた結果なのだから。
2016.02.19
閲覧総数 1330
21

静岡市の観光業者らでつくる団体「しずおか体験教育旅行」が、マリンスポーツなどで夏場に多くの観光客が訪れる同市清水区三保地域の「津波避難マップ」を作製した。チラシやポスターとして同地区の宿泊・観光施設などに置き、津波発生時の観光客の避難に役立てる。同団体は学校の校外学習や遠足を誘致するため、カヌー乗船や地引き網漁などの体験プログラムを企画している。東日本大震災後に津波への警戒が高まる中、観光客に安心して静岡に来てもらおうと、避難マップの作製を決めた。マップは清水区三保・折戸両地区にある21カ所のビルの場所を紹介。市指定の津波避難ビルや広域避難所のほか、避難所に指定されていない3階建てほどの建物も掲載し「強い揺れを感じたら一番近い建物に避難」と呼び掛けている。同団体事務局は、避難マップのチラシ1000枚とポスター50部を作製。三保地域の旅館やホテル、海の家などに置いたほか、地元自治会にも配布を進めている。担当者は「非常時の、観光客の避難に役立てば」と話している。(中日新聞より)--------------------津波の際の避難の重要性については東日本大震災を目の当たりにしたこともあってか、全国的に認識されるようになった。今後はハード・ソフト両面での対策が進められることになるだろう。特にハザードマップの見直しや防災教育の推進、あるいは地域の自主防災などソフト面の充実は急務だ。もうひとつの隠れた問題が、外来者の避難についてだろう。ハザードマップは住民全体に配られるが、外来者については現地の土地勘がないであろうことも考え合わせれば、常に無防備な状態にあると考えられる。特に観光客が多い地域では深刻な問題となる。今回の三保の津波避難地図は観光客を対象にしているという意味では、この問題に一歩踏み込んでいるといえるだろう。実際の観光客に対する避難方法や避難場所の周知は、こうしたマップと併せて、防災無線の利用や、地域の自主防災への取り込みなど多角的に考えていくことが必要になるだろう。海辺の観光地は全国にたくさんある。今一度この問題を認識して、ソフト面の整備を急がなければならない。
2011.07.08
閲覧総数 792
22

昭和36年(1961年)6月23日から降り始めた雨は、熱帯低気圧の北上に伴う梅雨前線の活発化で激しさを増し、近畿・中部地方を中心に各地で大雨となって。積算雨量は三重県尾鷲市で1061.9mmを記録した他、伊那地方でも400~600mmに達し、天竜川の氾濫により飯田盆地の大半が浸水した。また、山間部では土砂災害が相次ぎ、中でも大鹿村では大西山が山体崩壊を起こして集落を飲み込み、42名の犠牲を出す惨事になった。集落を飲み込んだ大西山崩壊大鹿村の西側にそびえる大西山(1741m)。その麓には春になると3000本の美しい桜を咲かせる大西公園があり、その一角に鎮座する大西観音は三六災害の犠牲者の慰霊と村の復興を願って建立されたものだ。昭和36年(1961年)6月29日午前9時10分頃、この大西山の山腹が崩れ落ちた。崩壊規模は高さ450m、幅300mに及び、320万m3(東京ドーム2.5杯分)という大量の土砂が小渋川を越え、時速60kmのスピードで下市場、文満の両集落を襲った。死者42人、破壊家屋39戸、埋没した水田約30余町歩。一瞬の出来事だった。大鹿村は日本有数の大断層系である中央構造線が国道152号線に沿うような形で南北に縦断している。中央構造線の両側では大きく地質が異なる。東側は地滑り地帯であるため、山間部ながら平坦地が点在し、集落や耕作地が発達している。一方西側は平坦地の少ない急峻な山地になっており、崩壊地も多くあまり人の住める場所はない。崩壊した大西山は構造線の西側に位置している。現在でも村のあちらこちらで砂防工事や災害復旧工事が絶えないことから分かるように、中央構造線の破砕帯に位置する大鹿村は常に土砂災害に悩まされる宿命にある。三六災害では大西山崩壊以外でも土石流に襲われた北川集落が全戸(被災当時38戸)離村を余儀なくされるなど、被害は全村に広がった他、周辺自治体にも波及した。中川村四徳集落では鉄砲水と土砂崩れで集落が壊滅、また松川町生田でも河道閉塞と土石流で多くの犠牲を出している。大鹿村は筆者にとっては学生時代に学んだ山村地理学のフィールドだった。江戸時代は幕府の天領であり、秋葉街道が走る要衝であったが、昭和以降は過疎化が進み、主だった産業がないことから災害復旧工事が村民の大きな収入源となっているという理不尽な山村の現実(災害があることで仕事が発生する)を目の当たりにしたこてショックを受けたことを覚えている。(現在はその当時栽培に着手していたブルーベリーが村の名産になっている)当時どこの集落でヒアリングしても必ず三六災害の話になった。「山が崩れた」という事実は村の歴史を語る上で欠かすことのできない甚大な災害であり、50年が過ぎた現在でも、村民はこの仁のことを決して忘れていない。 <大西山崩壊当時の写真(国土交通省中部地方整備局天竜川上流河川事務所HPより)><大西山の崩壊跡(地理院地図)>※この記事は2011年に執筆した文章を一部改編したものです。
2014.09.11
閲覧総数 4523
23

関東・東北豪雨から10日で1か月が経ちました。この豪雨では、茨城県常総市の鬼怒川が決壊するなど各地に大きな被害をもたらしました。爪痕は今も残り、今も400人以上が避難生活を送っています。今回の水害は東京都にとっても決して他人事ではありません。特に海抜ゼロメートル地帯を抱える江戸川区は、水害は深刻な問題として受け止められています。東京都江戸川区は区域の7割以上が「海抜ゼロメートル」になっています。また、東京湾に面し、周囲を荒川・江戸川に囲まれているので、水害や洪水による被害とは常に隣り合わせです。江戸川や荒川は、上流に広大な流域を持っているので、水量も莫大になります。そうした地理的条件から、江戸川区は東京都内でも水害対策にもっとも力を入れている自治体と言えます。「江戸川区の場合、洪水や高潮対策として東京都や国土交通省などとも連携して堤防・防潮堤を建設して、水害対策を強化してきました。しかし、江戸川区がいくら水害対策を講じても、茨城県や埼玉県、千葉県といった江戸川・荒川の上流で豪雨が発生すると、それらが流れ込んできます。そうなると、どんなに万全な水害対策をしていても防げない事態もあり得ます。そうしたことから、江戸川区ではハードインフラの整備と同時に防災訓練を頻繁に実施したり、避難時のシミュレーションを綿密におこなったりといったソフト面での対策を強化しています」(江戸川区役所危機管理室防災危機管理課)江戸川区の小中学校の校舎は、浸水深の目安が一目でわかるように色分けされています。また、駅前や庁舎といった公共スペースにも浸水深の色分け表示がされている潮位表示塔が設置されています。浸水深をデジタル化された表示塔で視覚化することで、江戸川区民は日常的に水害を意識できるようになっています。さらに、江戸川区には「土のうステーション」が28か所あり、誰でも自由に使えるようになっています。区では、定期的に土のうステーションの使い方や土のうの作り方の講習を実施し、水害への意識を高めているのです。実際に水害が発生した場合に67万人も の区民が避難できる場所はあるのでしょうか。「江戸川区は3か所の地域防災拠点を整備し、数字上では全区民が収容できることになっています。しかし、区民が均等に地域防災拠点に避難してくれるとは限りませんし、一斉に避難してパニックが起き、かえって被害が拡大してしまうケースもあります。そうした事態を未然に防ぐため、江戸川区は避難状況に合わせて、(1)避難する時間が十分にある、(2)避難する時間がない、(3)浸水が始まっている、の3段階に分けて、それぞれの行動をハザードマップにも示しています」(同)(1)の場合、地域防災拠点に避難します。地域防災拠点はスペースも十分にある救援物資も届けやすく、さらに安全な場所へと移動することも容易です。(2)の場合は小中学校に避難するように推奨しています。区内の小中学校も当然ながらゼロメートル地帯に立地しているので、校舎によっては2階以上が使える、3階以上が使えるといった具合に異なった対応になります。小中学校は106校が待避施設に指定されています。(3)は逃げ遅れた人のための対策です。江戸川区は都営住宅や区営住宅、URなどの高層住宅をはじめショッピングセンターなどの施設と協定を結び、安全を確保しています。「江戸川や荒川、新中川の堤防が決壊した場合、区内は12日以上水が引かないことが予測されています。そうした事態を想定し、江戸川区では近隣の自治体のみならず、友好都市の山形県鶴岡市や長野県安曇野市にも避難者を受け入れる協定を結んでいます」江戸川区のみならず、災害発生時は住民にもっとも身近な基礎的自治体が頼りにされます。その一方で、多くの自治体では大規模水害を経験したことがなく、水害への対策や危機意識が薄いのが実情です。江戸川区でも同様の事情を抱えています。1947(昭和22)年のカスリーン台風以来、江戸川区は大きな水害を経験していません。そのため、実際に水害が起きた場合にきちんと行政が機能するのかは未知数です。また、住民側にもゼロメートル地帯で生活しているという危機意識が薄くなっています。そのため、江戸川区は日頃から住民への意識啓発、ハザードマップの作成、避難訓練を実施しています。そうした住民目線で細やかな対策ができるのは、基礎的自治体の特徴といえるでしょう。関東・東北地方を襲った豪雨・水害から1か月が経過しました。いまだ被災地では水害への復旧作業が進められており、その爪痕は色濃く残ったままです。他方で、被害のなかった地域では、水害は忘れられつつあります。しかし、災害はいつ起きるのかわかりません。日頃から備えるためにも、常に災害を意識しておきたいものです。(BLOGOSより)------------------------------関東・東北豪雨、とりわけ常総市の鬼怒川破堤は河川沿いの自治体に大きなインパクトを残す結果になった。その要因の一つは決壊からの激しい浸水の様子がテレビ映像により伝えられたこと、そしてもう一つはその後の市の対応が(庁舎の浸水による災対本部の機能不全も含め)大きな教訓を残したことだ。江戸川区も常総市と同様、ハザードマップを見ればほぼ全域が浸水想定区域であり、またこうした自治体は旧利根川沿いには多い。ただし江戸川区は水害に対する危機意識は強い。これは1947年のカスリーン台風時の浸水被害の記憶が強い点もそうだが、常総市のような市町村合併を経ていないことから意識統一にブレがないという面もある。しかし市民にどれだけ危機意識が伝わっているのかは未知数だ。一般論としてはハード面の整備が進むほどに住民意識は下がりがちだが、土のうステーションの存在や、浸水深の色表示などを通じて啓発を進めていることから一定の効果はあるのではないかという期待もある。避難所の収容人数はもちろん、3つのケースに分けて考えている(ハザードマップ等に記されている)点は、優れた周知の仕方だと思う。発災や避難についてさまざまなケースがあることをを知っておくだけでも効果はあるはずだ。カスリーン台風以来大規模な浸水被害がない点(カスリーン台風も上流からの洪水流であり、当地で河川が破堤したわけではない)で、万が一江戸川や中川が破堤するようなケースは心配されるが、「そういうこともあり得る」ということを住民が認識していれば人的被害を最小限にすることは十分に可能だ。その点でも、常総市の被害の様子がテレビで伝えられたことは大きいし、その印象が強く残る間に何らかの啓発ができればなおいいだろう。
2015.10.12
閲覧総数 936
24

富士川河口断層帯、学会で激論 「入山瀬」焦点(アットエス)幕張メッセで開催されている日本地球惑星科学連合大会の「活断層と古地震」セッションに関する記事。焦点になっているのは地震調査研究推進本部が富士川西岸に設定した入山瀬断層。産総研の行谷佑一主任研究員が旧蒲原町付近で地中レーダー探査を行った結果、「地表近くの地層のずれを初めて確認した」と発表したのに対して、広島大の中田高名誉教授は「断層は現在の通説より西側を通っている可能性が高い」として富士川河口断層帯全体の評価見直しの必要性を訴えたもの。ポイントになるのは富士川西側にある「蒲原地震山」の扱い。従来は安政東海地震により隆起したとされていたが、中田氏は富士川の中洲だったという新説を展開した。明治42年発行の5万分1地形図には「蒲原地震山」の注記がしっかりとされている。<今昔マップより>現在はこの注記は消えている。土地条件図を見ると切土地となっており、現状の土地利用が工場用地であることから地震山を削って工場化したものと考えられる。<地理院地図より>参考までに現在の都市圏活断層図に描かれた入山瀬断層である。<地理院地図より>従来の説では隆起により富士川の流路が変わった、あるいは比高が上がったことで洪水氾濫がなくなったというような話もあったが、もともと中洲だったとすれば話は違ってくる。引き続きの調査研究に注目したいところ。
2016.05.25
閲覧総数 1760
25

千葉県は25日、県内全域の津波の浸水予測図と、震度別の液状化の危険度を示した地図「液状化しやすさマップ」を公表した。県内の東京湾内に最大3メートルの津波が到達し、湾岸の埋め立て地などは震度6弱で液状化の危険度が高い地域が広がるなど、人口が多い東京湾岸部に大きな被害が発生する可能性を示唆している。県はこれまで、04年に国の中央防災会議が首都直下地震で発生する東京湾内の津波の高さを50センチ未満とする見解を示したため、湾内の津波被害を想定していなかった。しかし、東日本大震災で木更津市に2.8メートルの津波が達するなど湾内の影響が確認され、想定を見直した。新たな予測図は、気象庁の津波警報区分(高さ10メートル、5メートル、3メートル)ごとに作製。東京湾外から10メートルの津波が進入した場合、湾岸部の津波の高さを▽木更津市3メートル▽千葉市中央区2.9メートル▽君津市2.6メートル▽千葉市美浜区、浦安市、市川市で各2.5メートル--などと予測。防潮堤が壊れ水門が開いた最悪の事態になると、木更津市で12平方キロがほぼ水没するほか、船橋市中心部の2平方キロ、浦安市北部の1平方キロが浸水。10メートルの津波を想定した太平洋側では九十九里地域で海岸から約3キロ程度が浸水し、被災面積は白子町で町面積の56%に達するとしている。また、県は震度5弱~6強の各地震で、地盤対策が取られていない場合の液状化の危険度を予測。約5万本のボーリング調査のデータを基にした結果、震度5強を超えると、東京湾沿岸の埋め立て地や利根川流域などで液状化しやすい地域が出現し、震度6弱からは太平洋側の九十九里地域にも広く拡大、6強では湾岸埋め立て地のほぼ全域が液状化しやすくなると評価した。26日から県のホームページで閲覧できる。(毎日jpより)--------------------昨年の震災を機に全国で被害想定の見直しが進んでいるが、千葉県も従来の想定より大幅に引き上げられた。津波は昨年実際に被害が出た太平洋側はもちろんだが、東京湾でも3mとかなり大きくなっている。事実昨年も想定を上回る津波が来ている。液状化は東京湾岸の埋立地ほぼ全域に加え、利根川沿岸にも広がっている。こちらも昨年の被害分布を反映している。全体として想定が大きくなったんは昨年の経験から妥当なところだが、想定が大きくなる分発生確率は低下することになる。発生確率の低さは「想定の空振り」を増加させる。昨年の被害を経験している層はともかくとして、県民が代変わりするほどにオオカミ少年効果の懸念が高まる。このあたりは千葉県に限らず、今後次々と全国で発表される新しい想定について、曲解のないような解釈を啓発していく必要があるだろう。想定の引き上げは第一歩に過ぎない。このデータを活かすも殺すも今後の使い方次第だ。
2012.04.26
閲覧総数 6374
26

日本列島がたびたび大きな地震に見舞われる現実は古い時代においても変わるものでない。古代の地震については地層調査である程度明らかにすることは可能になっているが、被害状況はもちろん、地震が当時の人々の暮らしにどのような影響を及ぼしたのかを知るには残された文献に頼るしかない。しかし古い時代は文献そのものも限られるため、古代災害の情報は多くない。数少ない情報の中に見える古代地震の姿はどのようなものだろう。白鳳地震『日本書紀』に残る最も古い地震の記録は允恭天皇5年(416年)。7月14日という日付と「地震」の文字は記述されているものの、場所の情報は書かれていない。推古天皇7年(599年)4月27日に大和で発生した地震で「すべての建物が破壊された」と初めて被害状況が記録されている。ただし人的被害には言及されていない。天武13年(684年)10月14日、古代史最大の被害地震といわれる白鳳地震(天武地震とも呼ばれる)が発生する。マグニチュード8.4。被害は太平洋沿岸を中心に全国に及んだとされる。日本書紀の記述を見ると、山崩れ、河涌く(液状化)が各地で発生し、官舎や倉屋、寺社が倒壊して多くの人と家畜が死傷したとある。また、土佐では海岸線の陥没により耕地が広域に渡って水没した他、大津波の襲来により調(朝廷へ納める租税のひとつ)を運搬する船が多数流出している。さらに、伊予の道後温泉や紀伊の牟婁温泉で湯の湧出が止まったことが記されていることも注目される(東日本大震災においても各地の温泉で湧出の変化が観測されている)。白鳳地震がそれ以前の地震に比べて比較的記録が残されているのは、ちょうど発生の3年前に天武天皇が「帝紀及上古諸事」編纂の詔勅を出していた(事実上後の日本書紀の編纂事業開始にあたる)ことによる。ところで、平成23年(2010年)は東日本大震災の影響もあってか、古代地震が大きな関心を集めた年だったといえる。各種学会での研究発表も例年以上に注目された。中でも産業技術総合研究所が中心となった志摩市での津波堆積物調査により、被害の様相から従来南海地震として認識されていた白鳳地震が、東海・東南海地震との連動である可能性が高いことが確認されたことは非常に大きな成果だろう。尚、天武年間には白鳳地震以外にも「地震」や「地動」などの記録が多く見られることから、この時期が西日本(あるいは日本列島)では地震の活動期に入っていたことが推測されている。<日本最古の地震の記録が残る日本書紀(西尾市岩瀬文庫HPより)>天長出羽地震日本の史書の編纂は日本書紀以降も『続日本紀』『日本後紀』『続日本後記』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』と続けられ、これらを合わせて『六国史』としているが、特に日本後紀あたりからは天災に関する記録が多く残っている。日本後紀によると、天長4年(827年)7月20日に大地震により多くの建物が崩壊したとする記述がある。被災地については言及されていないものの、平安京周辺と推測され、以降日本後紀では地震の記述が激増、余震が続いたことをうかがわせる詳細な記録が残されている。天長7年(830年)には秋田で大地震(天長出羽地震)が発生、秋田城ではすべての建物が崩壊して民衆15人が圧死、地割れや河川の氾濫がしたと『日本逸史』にある。この地震を受けて時の淳和天皇は大地震を自身の不徳として使者を遣わし救援にあたった。この時代における地震を、朝廷は天罰としてとらえていた。地震が続けば仏の力を借りて鎮め、被災者に対しては食料の提供や税の免除などを積極的に行ったという。仁和地震白鳳地震から約200年後、そして貞観地震(いずれ別途取り上げたい)から18年後の仁和3年(887年)7月30日には仁和地震が発生する。『日本三代実録』によると、京都では諸司の舎屋や民家の多くが倒壊して死者を出し、五畿七道諸国に渡る官舎の崩壊や津波による多数の溺死者が出ている。大阪湾でも大津波があったことが記録されており、四国沖・紀伊水道沖を震源とするいわゆる南海地震であったことが推測される。ただし、白鳳地震について多くの口碑が残る土佐において仁和地震の記録が確認されておらず、前述の志摩市における地層調査でもこの時期の堆積物は見つかっていないことから、「五畿内七道諸国」に渡る被害は誇張であるとする考え方もある。仁和地震が白鳳地震同様の三連動型巨大地震であったとする説は現時点では不確実性を伴う。永長・康和地震さらに約200年後の嘉保3年(1096年)11月24日、永長地震が発生する。地震規模はM8.3(推定)、東大寺の釣鐘が落下した他、薬師寺の回廊の倒壊、東寺でも塔の損壊が見られた。被害は畿内を中心に東海地方まで及んでいることから、東海・東南海地震であった可能性が高い。尚、この地震は嘉保年間に起きているが、地震を機に永長に改元されたため永長地震と呼ばれている。そしてこの2年後にあたる承徳3年(1099年)1月24日には康和地震が発生している(永長地震同様、承徳年間に発生しながら改元に伴い康和地震と呼ばれている)。この地震では奈良の興福寺で塔の損壊や大門、回廊の倒壊、摂津の天王寺でも被害が出たとされている。また、『広橋本兼仲卿記』に土佐で荘園が海没したとする白鳳地震とよく似た記述があり、康和地震がいわゆる南海地震であったことが推測され、先の永長地震と併せて東海・東南海・南海の三連動地震であった可能性が高い。仁和地震と永長・康和地震は発生に約200年の間隔があるが、この間にも1度南海トラフを震源とする地震があったとされ、奈良県香芝町でこの時期に生成されたと推測される液状化現象の痕跡が発見されている。京都文治地震元暦2年(1185年)7月9日には京都文治地震が発生している。地震規模はM7.4とされる。近江・山城・大和を中心に被害が広がり、京都では寺社や家屋が多数倒壊、宇治橋が落下。比叡山や三井寺も被害が大きかったという。また、琵琶湖の水が北流して水位が下がる現象が記録されている。尚、この地震については鴨長明の『方丈紀』に記述が見られる。「山は崩れて、河を埋み、海は傾きて、陸地を浸せり。土裂けて、水湧き出で、巌割れて、谷に転び入る。渚漕ぐ船は、波に漂ひ、道行く馬は、足の立ち所を惑はす」とあることから、土砂災害や河道閉塞、津波(琵琶湖か)、沈下、液状化などが起こっていた様子がわかる。この地震の数ヶ月前に壇ノ浦の戦いで平家が滅亡しており、人々は地震を「平家の呪い」と考えて恐れたといわれており、やはり地震を機に元号が文治に改められている。人々が大地震をある種の天罰として恐れていた時代である。<京都文治地震についての記載がある方丈記(西尾市岩瀬文庫HPより)>なお歴史地震についての古い論文では『本邦大地震概説』(大森房吉)が公開されている。※この記事は2011年に書いた文章を一部改編したものです。
2014.09.09
閲覧総数 4161
27

政府の地震調査委員会(委員長・本蔵義守東京工業大名誉教授)は24日、活断層が起こす地震の発生確率を地域別に評価し、関東地方を中心とする地域の結果を公表した。今後30年以内にマグニチュード(M)6.8以上がどこかで発生する確率は50~60%と推測した。全域を6区域に分けると、東京都心を含む区域は1~3%、甲府市や神奈川西部がある区域は15~20%などとなった。地域別に活断層の地震確率を公表するのは、2013年の九州に次いで2例目。M7程度の地震が30年内に70%の確率で発生するとされる首都直下地震は地下深くにあるプレート(岩板)の境界部などで起こる大地震を想定しており、今回は地表に近く発生すると大きな被害をもたらす恐れがある活断層型を対象にした。政府はこれまで長さ20キロメートル以上の全国110の主な活断層ごとに地震の発生確率を公表してきた。1つの活断層がずれるには1000~1万年はかかり、30年以内の発生確率は、ほぼゼロから十数%。海底のプレートで起きる南海トラフ地震(70%程度)などに比べて極めて低い。一方で主な活断層以外でも地震が発生しているため、新たな評価では長さ10キロ以上の断層まで対象を拡大し、広い範囲のどこかで地震が起きる確率を見積もった。関東全域では15の主な活断層に短い断層や地下に埋もれた断層を加えた計24の活断層が新たに評価対象となった。地質の構造から6区域に分けて、それぞれで地震発生確率を算出したところ、関東北部(宇都宮市や水戸市など)は4~5%、北西部(長野市など)は2~3%、中央部(さいたま市、都心、千葉市、前橋市など)は1~3%となった。南部(甲府市など)は15~20%、伊豆半島は2~3%、長野から山梨にかけて通る活断層「糸魚川―静岡構造線断層帯」周辺は30~40%だった。地域別の評価は活断層地震への危機意識を高めてもらう狙いがある。本蔵委員長は「どこで地震が起きてもおかしくない。結果を各地域での防災対策に反映させてもらいたい」と話す。ただ関東全域では50~60%の数字でも、6区域ごとで確率には大きな開きがある。6区域のうち4区域が5%以下であることから「糸魚川―静岡構造線断層帯」周辺が数字を押し上げた格好だ。自治体や企業は出される数字を適切に見極めて、対策を進める必要がある。(日本経済新聞より)------------------------------うーん。この微妙な数字を一般の人に示すことに何の意味があるのだろう。パーセンテージのような数字を出すことは防災的にはマイナスの方が大きいと思うのだが。諸々の対策は数字ベースで想定すればいいとしても、一般の人の受け止め方としては数字が示された途端に思考停止に陥る可能性が高い。東日本大震災の津波も最初に「3m」という数字が出てしまったことが避難行動に影響したことは様々な聞きとりから示されている。「どこで地震が起きてもおかしくない。結果を各地域での防災対策に反映させてもらいたい」という委員長の談話は、おそらく地震の(地域的な)網羅性を理解してもらうとう意味があったのだと推測しているが、それなら数字を示さなくてもできること。大切なことはいつでもどこでも地震は起きる可能性があることを周知すること(それは直下型でも海溝型でも関係のないこと)。そしてそれは今日や明日かもしれないということ。
2015.04.25
閲覧総数 1021
28

静岡県東部の富士海岸は、約20キロにわたって海抜が最高17メートルの防潮堤に守られている。「万里の長城」と呼ばれながら、東日本大震災の津波で破壊された岩手県宮古市田老地区の防潮堤より規模が大きく、国土交通省によると高さは日本一。想定を超える津波を懸念する声もあるが、地元の自治体は「よほどの津波でない限り乗り越えられない」と強気だ。国交省沼津河川国道事務所と県田子の浦港管理事務所によると、富士海岸の防潮堤は富士市五貫島から沼津市千本地区をカバー。構造は、海側から陸に向かい約30度の上り坂になっている「傾斜型」が大半で、海抜17メートル区間は8割近くを占める。内部は砂利で固められ、表面は厚さ50センチのコンクリートで覆われている。「万里の長城」と呼ばれた宮古市田老地区の防潮堤は海抜約10メートルで総延長約2・4キロ。静岡河川事務所などによると、静岡県中部の防潮堤は最高で15メートル、県西部が10メートル程度。富士海岸の防潮堤の規模の大きさが際立っている。建設のきっかけは戦後、台風が相次いでもたらした高潮の被害。1959(昭和34)年の伊勢湾台風では、富士市沿岸で住民が行方不明になり、住宅も流される被害が出たため、県は海抜約13メートルの防潮堤を築いた。しかし、66年の台風26号でも同様の被害が再発。主に国の直轄事業で防潮堤が現在の高さまでかさ上げされた。駿河湾は国内でも有数の、海溝からの傾斜が急な海岸。中でも富士海岸は最も急な箇所で、台風の高潮は減速せずに海岸を襲う。沼津河川国道事務所の犬飼一博副所長は「防潮堤の海抜が日本一になったのは、高潮対策でかさ上げを続けた末の思わぬ成果」と説明する。県の第3次地震被害想定では、東海地震で富士海岸に来る津波は海抜2・6~4・4メートル程度。富士市防災危機管理課は「想定の3倍の津波が来ても大丈夫なはず」と強調する。しかし、東海、東南海、南海の3地震が連動する可能性が指摘される中、沿岸部の住民からは「高潮対策の防潮堤が想定外の津波に耐えられるか」などと不安の声も。また、田子の浦港の入り口には防潮堤がなく、対策が十分とは言い難い。富士市は8月中に、沿岸部で津波避難ビルを新たに指定する予定で、候補に挙がった約150棟の耐震性などを調査中。犬飼副所長も「東日本の津波の被害を分析し、必要があれば、管内の防潮堤の改修を検討しなければならない」と慎重だ。阿部郁男・富士常葉大准教授(津波防災情報学)の話 東北地方の津波で各所の防潮堤が残った理由、壊れた理由を検証し、想定を超える津波で何が起こるかを事前に考えておくべきだ。(中日新聞より)--------------------東日本大震災がいわゆる「想定外」であったため、ハードの無力さが露呈される結果となった。だからといって、ハードがまったく役に立っていないわけではなく、実際にハード面がゼロだった場合にどれくらいの被害が出ていたのか、比較検証することも必要だろう。そうした面もふまえた上で、富士の防潮堤についても評価するべきだろう。裏を返せば、ハードだけに頼るのではなく、ハード+ソフトという組み合わせの中でハードのスペックを考えることが重要になる。いたずらに防潮堤の高さを積み上げたところで(もちろんそれだけの効果はあるが)想定を越えれば被害は避けられない。想定はどこまで行っても想定に過ぎないし、そこを突き詰めると海岸沿いの土地には住めなくなる。その意味では住民がハードの意味とその限界もきちんと理解した中で避難などソフト面の推進を図ることで東日本の教訓が活きるのではないだろうか。防潮堤と住民意識の両面で日本一になること、決して不可能なことではないと思う。
2011.06.27
閲覧総数 5210
29

東日本大震災を引き起こした東北地方太平洋沖地震の3日前から岩手県や宮城県の各地で約3~5センチ、地盤が東方寄りに動いていたことが、杉戸真太岐阜大学理事らによる国土地理院のGPS連続観測システム(GEONET)データの解析で2日までに分かった。海溝型巨大地震の発生直前に現れる可能性が高いとされる予兆現象はこれまで、東南海地震(1944年)発生直前の2~3日前に静岡県掛川市で観測された、延長約800メートル区間の測量で鉛直方向に数ミリという変異現象が唯一。今回も「予兆現象は無かった」との見方が多い中、同大地震工学研究室のホームページで公開され、注目を集めそう。杉戸理事は「GEONETの志津川基準点(宮城県南三陸町)で地震の数日前から東方に卓越した経度変動がある」との神山眞東北工業大学名誉教授の指摘を受け、今年1月からの東北地方の各基準点の水平、鉛直方向の日別変動量を整理、取りまとめた。データ解析は、岐阜大学流域圏科学研究センターの久世益充助教が行った。この結果、本震後の最大水平変位が3~5メートルを超える岩手、宮城両県の基準点16地点で、地震の3日前からいずれも東方への漸増的ずれが観測され、総変位量は約3~5センチだった。またこれらのすべての地点で鉛直方向にも1センチ程度の沈降がみられた。杉戸理事は「3月9日に前震に相当するM7.3の地震が発生しており、この影響を見極める必要があるが、今回は同様の漸増的変動が見られる観測点も多く、掛川での観測事例より明確な予兆現象のように思われる。この程度の漸増的変動のみで、今後いつ起きるという予知ができるとは言えないが、こうした予兆現象の観測が事前に周知されれば海溝型巨大地震に伴う大津波への備えには役立つのでは」と話した。【GEONET(ジオネット)】全国1240地点に電子基準点を設け、人工衛星を利用して地球上の位置を割り出すGPSを連続観測、地殻変動を即時解析処理し、配信を行う国土地理院の高精度測位システムの総称。兵庫県南部地震(1995年)以降に全国に設置された強震観測網(K―NET)による強震記録の即時配信とともに、防災、気象などさまざまな分野の研究に貢献している。(岐阜新聞より)--------------------これを予兆現象ととらえるのかどうかは判断が分かれるところかもしれない。ただ、変異が見られたことが事実であれば、(3月9日の地震も含めて)何らかの因果関係の可能性を否定せず解析を行う必要はあるだろう。だからと言って、こうした結果がすぐ予知に結びつくかのような解釈は控えたい。あくまでも今回の地震そのものの解析として有用であることが第一で、予知云々はひとつのオプションに過ぎない。地震予知は決して簡単なことではない。しかし、様々な因子から今回の地震のメカニズムが解明されれば、それは防災上必ず役に立つはずである。諸外国では予知研究を軽視する傾向があるが、少なくとも研究プロセスがもたらす成果は無駄にならないと信じたい。
2011.07.05
閲覧総数 291
30

諏訪市は、市内で大規模な被害が予測される地震などに関する防災情報を一冊にまとめた「マルチハザードマップ」を更新した。従来の地震、洪水、土砂災害に加えて液状化の危険度を色分けで表示した地図を初掲載。3万部作り、5月1、15日合併号の「広報すわ」と一緒に近く全戸配布する。マルチハザードマップは2008年に作り、更新は初めて。洪水・土砂災害、地震、液状化などの項目別に、土砂災害時の情報伝達や地震の揺れやすさマップ、液状化の仕組みなどを紹介。浸水予想区域や糸魚川静岡構造線の活断層が揺れた場合に想定される全壊建物の割合を色分けした地図などを載せている。地震被害想定は最新データを掲載した。市内は軟弱地盤が広がり、地震の揺れが大きくなる地域とされ、地震で砂地盤が流れやすくなる液状化の被害の懸念があるため、糸魚川静岡構造線が揺れた場合の液状化の危険度を予測するマップを掲載した。各地域のボーリングデータなどを基に、「PL値」と呼ばれる地盤液状化指数を用い、液状化の可能性が高い地域を50メートルメッシュ(網目)で表示。危険度を5段階で色分けしている。市危機管理室によると、「市内の平地は総じて液状化の危険度が高い」。液状化の可能性がある地域では上下水道管に被害が及ぶ可能性があるとし、飲料水などの備蓄が必要と指摘している。災害に対する心構えなども載せた。ハザードマップの内容は、市内の防災講演会で講師を務めた経験のある信大学術研究院の梅崎健夫教授に監修してもらった。市危機管理室は「住まいや職場の地域の特性を知り、いざというときに役立てて」としている。A4判、74ページ。市はハザードマップの見方などをテーマにした説明会を5月に開く。参加者はハザードマップを持参する。これとは別に外国出身者が世帯主の家庭には英語、中国語、ポルトガル語、韓国語、日本語の計5カ国語で、地震の揺れやすさなどを表示したA1判の1枚物のマップを郵送する。(長野日報より)------------------------------防災というのはハザードごとに事象が異なることから、避難所やハザードマップもどうしてもハザード単位で別れてしまうことになる。これは人命や財産を守る上では当然のことなのだが、住民への周知が難しいという問題をはらむ。実際、例えば自分の住む地区でも周知が上手くいっていると言い難い。そういう意味では1冊にまとめられた形のマルチハザードマップは住民側のとっつきやすさを考えればひとうの理想形ではある。もっとも、1冊にまとめたとしてもそれぞれのマップの見方が異なることには違いはない。それぞれのマップ(ハザード)のポイントを住民が捉えやすいかどうかは実際のマップを見てみないことには何ともいえない。それでも1冊にまとめたことにより「ハザードごとに地図(被害想定)が異なるんだ」ということ(ある意味当たり前のことなのだが)を再確認する機会にはなる。市では地区ごとに説明会を開催するようだが、どれだけの住民に関心を持ってもらえるかがポイントになるだろう。ハザードマップは使い方を周知してこそ効果が期待できるものなので。
2015.04.26
閲覧総数 1851
31

東日本大震災の揺れで柱が曲がるなど深刻な被害が出た横浜駅西口(横浜市西区)の商業ビルで今、解体工事が進められている。旧耐震基準で建てられていたため、長い揺れとその後の余震に耐えられず、「半壊」と判定されていた。震度5強で一等地のビルが建て替えを余儀なくされた今回のケースは、地震対策で重視すべき耐震化の大切さを浮き彫りにしている。1964年に建てられた6階建ての「二幸ビル」。ダイエー横浜駅西口店の隣に位置し、美容室や喫茶店など10社がテナントとして入っていた。82年から所有している久慈産業(東京都文京区)によると、揺れにより柱が歪曲(わいきょく)するなど深刻なダメージを受け、発生当日から立ち入り禁止となった。当時、約10人の客がいたという美容室「ヘアーメイクFrais本店」では、身の危険を感じたため、従業員を含め全員がすぐにビル外へ避難。すぐ近くの「ダイイチビル」にフロアを確保して営業を再開しているが、マネジャーの熊岡喬さんは「壁にひびが入るなど、いつ崩れてもおかしくないと思った」と振り返る。二幸ビルはその後の余震でも壁のひび割れや床のゆがみなどが進み、区からは「半壊」と判定された。専門家にも「基礎部分が損傷している可能性が高い。改修もできるが、工事自体が危険な上、費用も解体・新築より多額になる」と診断され、建て替える以外に選択肢はなかったという。屋上のプレハブを撤去してビル上部の軽量化に努めるなど、一定の地震対策を講じてはいた。だが「耐震補強工事の検討をしていた矢先に震災が起きた。丈夫なビルだと言われて購入したのだが」と益子和幸社長は悔い、「横浜駅周辺には旧基準のビルはかなり多いはず。同じような被害が他で起きてもおかしくない」と指摘する。テナントとの話し合いを経て昨年11月から解体工事に着手。ビルの新築も含め費用は約5億円に上る見込みで、2013年中の完成を目指している。一方、震度5弱だった同市都筑区では「全壊」となった建物も。工場内にあった築50年超の鉄筋2階建て事務所の2階が崩れ、1階がつぶれた。関係者によると、10人ほどが働いていたが、社長が「逃げろ」と叫んだため、大半が外へ避難。中に閉じ込められた2人は天井と梁(はり)の隙間で難を逃れ、数時間後に救助された。事務所があった場所はさら地となっており、再建については決まっていないという。 (カナロコより)--------------------確かに現在の耐震基準に合わないビルは多いだろう。街が段階的に発展する場合、こうしたことは免れない。そして密集地においては、耐震は網羅的に施されることで初めて100%の効果を発揮するといえる。こうした例はあちこちであるだろうし、そもそもの街づくりにかかわる問題で、後付けで何とかなるものでもない。現実的には急ぎ耐震化するか解体するかしか具体的な対応策はないだろう。建物そのものの問題もあるが、地盤の問題も大きい。関東大震災で横浜は大きな被害を受けているが、そのほとんどは旧吉田新田の埋立地であったことを忘れてはいけない。都筑区の例については場所が特定できないので調べることが出来ないが、西区の二幸ビルの立地する場所は古い地図を見ると、かつての帷子川の河口付近の泥沼地であったことが分かる。詳しい経緯は分からないが、埋め立てもしくは干拓で陸地化した可能性が高い。現在の横浜駅あたりは総じて地盤が悪いのである。(ただし、野毛の台地の延長線上にあるみなとみらいは埋立地のわりに地盤は悪くない)同じ強度のビルでも、立地する地盤に影響を受けるのは必至だろう(杭が基盤面までいっていればまだしも)。そもそもここでいう震度5強とか5弱とかいう情報も、地盤に左右されるので必ずしも正確なものではない。今後予想される都市部での直下型地震を考慮すると耐震の重要性は言うまでもない。加えて、地盤そのものも考慮する必要があるということ。都市インフラは安全であることが大前提でありながら、実際には無理な立地によるリスクは多い。そのあたり、もっと総合的に判断した上で対策を講じることが必要なのではないか。
2012.03.05
閲覧総数 2730
32

今から55年前の今日、すなわち1959年(昭和34年)9月26日、午後6時過ぎに紀伊半島に上陸した伊勢湾台風は直径700kmに及ぶ広範囲を暴風雨に巻き込みながら本州を縦断、伊勢湾岸を中心に死者4,697名、行方不明者401名、負傷者38,921名住家全壊40,838棟、半壊113,052棟、床上浸水157,858棟、床下浸水205,753棟(消防白書より)という戦後最大の災害になった。戦後最大の被害をもたらした高潮上陸時の中心気圧は929hPaと勢力が強く暴風域も広かったため、広い範囲で強風が吹き荒れた。伊良湖で最大風速45.4m/s(最大瞬間風速55.3m/s)、名古屋で37.0m/s(同45.7m/s)を観測するなど、九州から北海道にかけてのほぼ全国で20m/sを超える最大風速と30m/sを超える最大瞬間風速を観測した。最も深刻だったのは高潮による被害だ。熊野灘から知多湾・三河湾・伊勢湾では台風が西側を北上したため、非常に強い南寄りの暴風が吹き続けた。この強い風による吹き寄せと気圧低下による吸い上げの影響により高潮が発生して、名古屋港で観測史上最高の3.55mを記録、過去最高だった室戸台風時の大阪港の2.9mを上回った。名古屋港でのそれまでの最高潮位を1m近く上回る潮位となり、暴風波浪の影響も加わって堤防を寸断、住宅団地を土台だけ残して洗い流すなど大きな被害が出た。伊勢湾が奥行き深く遠浅でその吸い上げの影響を受けやすかったことに加え、地形的な要因も大きかった。伊勢湾とその湾奥部は低平な沖積平野が広がっており、さらに干拓によって陸地化された土地も多かった(鍋田干拓地では堤防のほとんどが破壊され、住宅地と耕地は全滅、133名が犠牲となった)。こうした土地は水害に対して極めて脆弱な土地ながら、戦後の復興・発展の過程で防災対策が不十分なまま市街化されていたばかりか、急速な工業発展に伴う地下水のくみ上げで地盤沈下が進行している地区もあった。高潮は河川を遡上し、堤防を決壊させ、内陸部の低平な土地まで浸水させた。地形的な要因もあり、湛水期間は長期化した。名古屋市南区付近は、1ヶ月以上も水が引かなかった地域があった他、干拓地(海面下-3mという場所もあった)では復旧にあたり堤防を完全に作り直した後にポンプによる排水を行うため、浸水が完全に解消したのは被災から半年後のことだった。また、当時は水洗トイレが普及していないため、汲み取り便所の汚水があふれ出たことに加え、孤立した人々の排泄物も滞留して公衆衛生が著しく悪化した。<伊勢湾岸の干拓地。朱が1600~1699年、茶が1700~1799年、黄が1800〜1899年に干拓された土地(内閣府HPより)><伊勢湾台風の被害状況(内閣府HPより)>被害を拡大させたいくつかの要因被害を拡大させたいくつかの要因もある。この台風で最も多くの犠牲者を出したのは名古屋市の港区と南区だった。これは名古屋港の貯木場から20万tものラワン材が流出し、直径1m、長さ10m、重量にして7~8tにもなる木材の塊が高潮に乗って住宅地を襲ったことによる。南区のおよそ1,500人の犠牲者の大半が流木によるものと考えられる。さらには流木によって流された家屋が他の家屋に衝突するような形で被害が広がった。また、当時は住民の台風に対する意識が希薄だったことに加え、行政の防災体制もまだ不十分だった。例えば、気象台などからの警報や台風情報の住民への伝達が十分に機能しなかった点が挙げられる。行政機関を通しての伝達はどうしてもタイムラグが生じやすく、防災無線などのインフラも乏しかったとこを考えれば伝達手段としての確実性はなかった。最も確実なのは放送による伝達だった。実際に伊勢湾台風はそれまでの「被害報道」から台風情報の伝達を目的とした「防災報道」に初めてシフトしたものだった。しかし、当時はまだ電池式ラジオの普及率が低かったことも影響して、停電のために折角の報道が届かなかったのだ。このことで人的被害が拡大したのは不運だった。また、各市区町村からの避難命令も徹底されていなかった。気象台からの高潮警報は名古屋港での潮位が最高位に達した26日21時35分の約10時間前にあたる11時15分に発令されていたが、市区町村によって対応が大きく異なった。最も早かった美浜町は13時に避難命令を発令したが、避難命令が発令されないまま被災した市町村もある。知多半島から三河湾にかけての碧南、美浜、武豊、内海の市町村は、この6年前の1953年に13号台風によって大きな被害を受けていた経験から発令が早く、これら4市町村全体での犠牲者も26名に留まった。これに対して13号台風の被害が比較的小さかった伊勢湾奥部の市区町村では発令が遅かった。特に、大部分が干拓によって陸地化された長島町などでの避難命令が19時を過ぎて出たことは致命的だった。発令された時点で既に停電のために真暗闇の暴風雨となっており、避難には無理がある状況だった。長島町では381人の犠牲者が出ている。<避難命令発令時刻(内閣府HPより)>こうした被災経験の有無が避難行動に如実に反映されるのは現在でも変わらないだろう。さらに、ラジオで「昭和28年の13号台風に、勝るとも劣らない大型台風」というフレーズが盛んに繰り返されたのだが、その受け止め方が当時被災した地域では「あの時と同じなら大変だ」となるが、被災していない地域では「あの時と同じ程度なら大丈夫」となってしまったことも一つの要因であるとの指摘がある。<伊勢湾台風による決壊箇所と浸水状況図(中部地域づくり協会HPより)>防災の大きな転換点伊勢湾台風は日本の防災の大きな転換点でもあった。2週間後には臨時台風科学対策委員会(委員長:中曽根康弘科学技術庁長官)が設けられ、現地を視察した結果防災のための立法の必要性を示唆、1961年1月に「災害対策基本法」が公布された。また、河川の治水も見直され、いくつかのダムがこれをきっかけに計画・建設されている他、干拓地の堤防もより強固なものに造りかえられた。また、当時濃尾平野の地形分類図は既に作成されており、(浸水)被害状況が地形に対して従順な結果であったことから、新聞では「地図は悪夢を知っていた」という見出しが打たれ、地図がきちんと利用されていれば被害は軽減できたのでは、という意見が見られた。こうしたことが後の土地条件図、あるいはハザードマップの整備へと繋がるきっかけであったことは間違いないだろう。※国土地理院HPで当時の災害状況図を閲覧可能
2014.09.26
閲覧総数 10169
33

国土地理院が平成27年10月1日現在の国土の面積を公表した。面積の公表は毎年恒例で、昭和35年から国土地理院が発表するようになったが、明治15年に太政官統計院によって発表されたのが最初とされ、人口統計と並ぶ古い歴史を持っているのだという。発表された平成27年の国土の面積は377,970.75km2。前年が377,972.28km2なので、何と1.53km2国土の面積は減少していることになる。そもそも国土の面積の増減はなぜ起きるのだろう。西之島のように新しい島(自然島)ができることもあるだろうが非常に稀で、多くの場合は埋立により、それまで海であった場所に土地ができることによる。かつて日本の都道府県で最も面積が小さかったのは大阪府だったが、1985~1990の間に香川県を逆転している。その要因の一つが埋立であることは現在の大阪湾の様子を見れば納得できるだろう(他にも陸海の境界が満潮界に改められたことで、香川県の入浜式塩田跡地などが海の扱いになった影響もあるとのこと。そのあたりの変遷はこちらのサイトに詳しい)。こうして面積が増えるのは理由として分かりやすいのだが、ではなぜ減少が起きるのだろうか。普通に考えれば陸地が海になってしまうケースだろう。実際に東日本大震災により一時的に海中に没してしまった土地もある。その際には国土地理院が被災地の通常の地図の更新を停止したが、震災による面積の変化が直ちに反映されないように配慮したものとされる。地方交付税の算定に影響を与えてしまう可能性があるからだ。この話から分かるように、面積の算出は国土地理院の地図から行っている。そして今回見られたような減少も含めて、面積の変化には実は地図が少なからず影響を与えているのだ。かつて面積の算出には全国を同一縮尺で網羅する2万5千分1地形図が使われていた。その後国土地理院では図面単位の地形図から、シームレスな地図データベースである電子国土基本図へと基本図の形態を変更した。電子国土基本図は地理空間情報活用推進基本法で定義された基盤地図情報がベースとなっているのだが、この基盤地図情報は従来の地形図の体裁をある程度受け継ぎながらも、都市計画区域などでは縮尺レベルを2500としており、従来より大縮尺となっている。この「地図の縮尺が大きくなった」ことが面積に影響を与えている。これについては国土地理院が公表している説明図が分かりやすい。<国土地理院HPより引用>縮尺が大きくなると、それまでの縮尺では反映できなかった海岸線の細かい凹凸が表現されるようになる。この図からは、これまでの縮尺でのざっくりと引かれていた海岸線が、大縮尺の図に比べて、実は海の部分を多く丸めこんでしまっていたことが見てとれる。このような部分が、大縮尺地図ベースで算出した場合、海となるため面積に含まれず、結果として面積が減少するということが起きることになる。いわゆるフラクタルの罠というやつだ。面積はまだいい方なのだが、海岸線の計測においては、縮尺が大きくなるほど細かい海岸の凹凸が表現されるので、結果として海岸線が長くなってしまうことになる。そうなると海岸線の長さを計測すること自体があまり意味を持たなくなってしまう。地図の性質のひとつとして認識しておきたい。
2016.02.25
閲覧総数 2297
34

1910年(明治43年)、関東大水害が埼玉や東京に大きな被害をもたらしたことをきっかけに、荒川は大規模な河川改修を行うことになる。その目玉が荒川放水路の建設だった。この事業は1911年(明治44年)に始まり、岩淵水門から22kmにわたり、幅500mの幅の放水路工事が行われた。しかし放水路は難工事で、ようやく岩淵水門からの注水が開始されたのは1924年(大正13年)、そして工事が完全に終了したのは1930年(昭和5年)のことだった。幾度か工事を阻んだのが自然災害だった。一つは1923年(大正12年)の関東大震災、そしてもう一つがその6年前に東京湾を襲った「大正六年大津波」だ。東京湾で大津波?いったい何が起こったのか。江戸を水害から守る東京の下町に広がるゼロメートル地帯。その名の通り標高が満潮時の平均海水面よりも低い土地であり、当然のように洪水や高潮などの水害を受けやすい場所だ。このリスクが大きい地域が150万人もの人口を抱えている。なぜこのような土地にこれほどの人が暮らすようになったのか。現在より海面が高かった縄文時代には、東京の下町は海の底だった。その後徐々に海面は後退し、それまで海中にあった土地が沼や湿地として地上へと現れた。弥生時代にかけては稲作の技術が持ち込まれたため、やがてこうした低湿地は水田として利用されるようになっていく。ただし人々が住んでいたのは主として自然堤防の上などの微高地だった。平安時代には荘園が拡大、さらに鎌倉時代に入ると地頭が置かれ、未開地の開拓が徐々に進んだ。室町時代から戦国時代にかけて太田道灌が江戸を開城する段になっても、現在の下町地域は低湿地として残っており、こうした土地は物資の輸送などで通行するにもなかなか困難であった。この当時鎌倉方面から房総へ向かうには、湿地が広がる陸上を通るよりも、三浦半島から房総半島へと船で渡ることの方が主流であったとされる。このことを示すのが房総半島における上総と下総の位置関係である。本来都に近い方が「上」となるのにも関わらず、半島の奥の方が上総、つけ根が下総となっているのは、人の流れの主流が陸路でなく海路であったことを表している。江戸時代になり幕府が江戸に置かれると、この地域は飛躍的な発展を遂げることになる。河川の付け替えを盛んに行い、物資輸送のための舟運路を整備すると同時に、人口が増えた江戸の街を水害から守るための様々な治水対策がとられる。その一つが堤の建設だった。幕府は洪水が江戸の街に流れ込むのを防ぐため、隅田堤と日本堤という二本の堤を建設した。堤は荒川(現隅田川)に狭窄部を設ける形で上流側に開くV字型でつくられた。これにより洪水は江戸の街へ流れ込む前に、上流部へと溢れることになる。これは上流部の水田地帯を遊水地として利用する治水の方法であり、家屋は浸水を避けるため微高地に作られていた。余談だが、日本堤の先には吉原遊郭があった。これは遊郭を訪れる者が堤の上を盛んに歩くことで地面を踏み固め、堤を強固にする狙いがあったとされる。遊郭が江戸の治水に貢献していたことはあまり知られていない話かも知れない。明治期になると、殖産興業政策が推進され、それまで遊水地として使っていた地域にも多くの工場が建設された。これに伴い人口も増加したことから、従来のように遊水地に洪水を逃がすような治水はできなくなってしまった。遊水池が生活の場所になってしまったことで、それまでの(ある意味計算された)「洪水」は「水害」へと形を変えることになる。<隅田堤・日本堤と吉原(東京地形地図より)>「大津波」の襲来東京都から江戸川を挟んだ千葉県浦安市や市川市の行徳地区は旧江戸川の河口付近に位置しており、典型的な低湿地帯である三角州が広がるり、現在では埋立地が続く。東日本大震災では液状化に襲われた地域でもある。なお、1919年に江戸川下流を洪水から守るために江戸川放水路が開削され、これに伴いそれまでの行徳の街は放水路で二つに分断されている。浦安市の古い集落である猫実に左右天命弁財天という小さなお宮がある。一角に浦安市教育委員会の解説看板が立てられており、その中に「大正六年(1917年)の大津波で堂宇が流失してしまった」という一節がある。<浦安市猫実にある左右天命弁財天の解説看板。「大正六年(1917年)の大津波」というくだりがある(2011年に筆者撮影)>大正時代に東京湾を大津波が襲ったのだろうか?実はこの大津波の正体は、今から97年前の今日1917年9月30日に発生した、東京湾台風による高潮災害のことである。台風は関東の西側をかすめたが、東京や横浜では気圧が上陸時よりも低い950hPaまで下がり、折しも満月の夜であり台風接近時には満潮を迎えようとしていた。午前2時頃と3時半頃には気圧低下による海水の吸い上げと暴風による吹き寄せの影響で2度の高潮が発生し、町は壊滅状態になった。船橋での潮位は通常の満潮時より2.5m高かったとされ、川を遡上して内陸部まで浸水させた。観測された水位は籍宿で4.8m(大雨による浸水も重なった)、流山4.5m、浦安で4.1m、行徳で3.9mとなり、死者行方不明者は千葉県だけで313人(市川市史による)、全国では1324人(千葉県気象災害史による)を数えた。また横浜港では3100隻以上の船舶等が風浪により転覆、多数の犠牲者が出ている。伝統の行徳塩田も壊滅行徳にはかつて広大な「行徳塩田」があり、製塩が盛んな場所だった。行徳の製塩は戦国時代から行われていたが、江戸時代になると幕府の保護のもと、輸送のための街道や水路の整備が行われ、全盛を極めた。しかし、江戸時代後半になると赤穂産など西国からの塩も入って来るようになり、明治期には台湾から安価な台湾産の塩も市場に流入、さらに塩の専売制度が始まると行徳の塩は競争力を失っていった。そして1917年の高潮で行徳塩田は壊滅、その後戦時中に一時復活したものの、1949年のキティ台風の高潮被害で完全に幕を閉じた。かつての行徳での塩づくりは塩田と海との境に堤を築いて海水を導く入浜法により行われていた。この方法は堤が生命線だったが、堤は台風・高波によってこわれやすく、人々は風雨水害と戦いながら堤の維持に努力していた。それだけに高潮は致命傷になった。<当時の浦安の集落と行徳の塩田(今昔マップon the webより)>東京都では高潮の甚大な被害を受けてこの翌年に「非常災害事務取扱規程」を策定、非常災害時の各課の任務分担を定めた。そしてこの規定は後の関東大震災で生かされることになったという。中央防災会議の「大規模水害対策に関する専門調査会」が2010年に東京湾を巨大台風が直撃した場合の高潮による被害想定を公表したが、過去の国内最悪の高潮被害である伊勢湾台風時をも上回る死者約7600人と試算されている。「大正六年大津波」から100年近い月日が流れたが、当時とは比べ物にならないくらい居住者が増えた東京湾岸の低地は高潮に対して無防備に近い。<当時(左)と現在の下町低地の比較。荒川放水路が開削され、かつての水田地帯は都市化されている(今昔マップon the webより)>※本記事は拙著『地名は災害を警告する』『首都大地震揺れやすさマップ』等の記述を改変してまとめたものです。9月は防災月刊にちなみ1ヶ月にわたり多様な災害事例の記事を集中連載しました。今後は通常記事に戻す予定ですが、時折こうした災害事例記事も取り上げていきたいと思います。
2014.10.01
閲覧総数 23091
35

先日干支にちなんで瀬戸内の大久野島のウサギについて書いたが、そういえば三河湾にも「うさぎ島」があったんじゃないかな、と気になった。昔観光ガイドブックにその旨があったのを読んだことがあって、いつか行こうと思っていたのを思い出したのだ。子どもたちがウサギと戯れる写真も掲載されていて、何やら平和な雰囲気が印象に残っている。子どもたちを連れていくにはちょうどいい感じだろうか。それでいて大久野島ほど東京から遠くない。思い立ったが吉日、ということでさっそく調べてみると。。。この島は正式には「前島」と呼ばれる無人島。数百羽のうさぎが放し飼いにされ、「うさぎ島」と呼ばれ、日本猿を放し飼いにされた「猿ヶ島」(正式には沖島)とともに41年間にわたって観光船が運航されていたが、1997年11月30日に観光船は廃止、ウサギは各地の動物園に、猿は日本モンキーパークに引き取られたのだという。もう15年近く前になくなっていたとは。確かに観光資源は一過性のブームにも影響を受けるので、栄枯盛衰は必然ではある。干支だといってちやほやされても、それは12年に一度のイベントのようなもの。そんな兎年の今年。果たして当のウサギたちは何を思う。(画像は電子国土より)
2011.01.05
閲覧総数 334
36

昭和35年(1960年)9月20日午前1時頃、福岡県田川郡上尊鉱業豊州炭鉱において、出水のため作業中の鉱員220名中67名が遭難するという当時戦後最大の炭鉱事故が発生した。この事故を自然災害の範疇に入れることが適切かどうかは分からないが、直接的な原因となったのは豪雨による河床の陥没だった。豪雨による増水で河床が陥没、坑道へ流入事故についての資料はあまり残っていないが、「参議院会議録情報 第035回国会 商工委員会 第4号」に現地調査を行った阿具根登委員(元日本社会党参議院議員)の昭和35年10月15日の発言が記されており、その引用を中心にまとめる。豊州炭鉱は、当時従業員800名余り、月産約1万2000トン、主として国鉄と九州電力に売炭しており、中小炭鉱としては従来、生産面、保安面でもかなりの好成績をおさめてきた炭鉱だった。災害の発生は9月20日午前零時過ぎ、抗夫の一人が坑口から150m付近で坑道に水が吹き出しているのを発見、報告により、ただちに係員が現場を見て事態を知り、坑内の詰所に退避の連絡をした。坑内の作業場は、芳の谷区域と大焼区域に分かれ、両区域とも坑口から2000m以上、地表から約300mの深さであり、芳の谷区域については連絡がとれたものの、大焼区域は落盤によって電話線が切断され、ついに連絡がとれず、両区域合わせて67名の行方不明者を出すに至った。この坑内に流入して大惨事を起こした水は、坑口から約250m離れた中元寺川の川底が陥没したことで、古洞を伝わって川水が流入したので、当日の午前3時には、坑口から15mの位置まで水位が上昇してきた。前日には、北九州一帯に豪雨があり、中元寺川の水量がふえていたことも要因と思われる。また水量の多さにより事故発生後の防水作業も困難さをきわめたという。消防団の協力によるほか、自衛隊の応援を求めて懸命の防水に努め、21日12時過ぎ、ようやく川底の陥没孔の締め切りに成功した。坑口近くまで上昇していた坑内の水位は、陥没孔を塞いだことで徐々に低下したが、坑口から180m付近で大落盤により坑道は閉塞され、救助は絶望的だった。事故の背景となった古洞の存在川底の陥没孔は30mある川幅の2/3もの大きさで、周囲に土のうを積むことで仮の防水工事が施した。陥没孔の深さは4m余りで、川底から3mほどの場所に炭層が出ており、孔の底から古洞が川底に広がっているのが認められた。この古洞はかなり古く採掘されたものであるとされたものとされるが、川底直下まで掘った無謀さが仇になった。また、川底陥没地点の周辺では、事故の数カ月前から地下に相次いで異変が起きていたことも分かった。陥没孔から4mほど離れた民家の土間や庭先きに大きな穴があいて家がつぶれ、穴から火柱が上がり煙を吹いて石炭燃焼のにおいを放ったり、近所の十数戸の井戸水が温泉のように温かい湯となるなど、周辺の人々が深刻な不安を訴えていという。これは古洞の中で火災が起こっているためと思われ、まだ消火方法について何らの方途も考えられていなかったという(倒壊した家屋の住人が自分の家の床下から石炭盗掘を行なったことが発覚した事件もあったとされる)。当時筑豊の中小炭鉱で多数の死者を出した出水事故のほとんどは古洞から噴出した水によるものであった。豊州炭鉱の事故の原因は川水の流入というまったく前例のないものながら、川底陥没の原因となったのは、やはりこの所在の不明の古洞によるものだった。戦災で古い記録が焼失したこともあり、過去の採掘跡や古洞の場所は把握できていないことが多かったという。また中小炭鉱では、石炭の景気変動で経営者が変わることが多く、採掘跡の引き継ぎが不完全であったこと、さらに筑豊一帯には盗掘による非合法の坑道跡が無数にあって監督官庁も把握できていなかったことも背景としてあった。事故後、閉塞された坑道とは別坑道を掘削するなど懸命の救助が試みられたが見通しは立たず、通産省の勧告により救出は断念され、67名は現在も地底に眠ったままとなっている。この事故により豊州炭鉱は閉山された。発端は自然災害的な要素が強いが事故そのものは人災といっていいだろう。自然を顧みない乱開発を行えば自然災害に対しての脆弱さが増すことは現代でも変わるものではないことは記憶にとどめておきたい。<1950年5月国土地理院撮影の空中写真(KU601YZ C1-77)に見る豊洲炭鉱と中元寺川(地図・空中写真閲覧サービスより)><現在の豊洲炭鉱跡地。ボタ山は住宅地広場に転用されている。住宅地の中に慰霊碑が残る(地理院地図より)>
2014.09.20
閲覧総数 6576
37

米国 Google は2012年2月2日、3次元(3D)地図ソフトウェア「Google Earth」の海底地形データを従来より詳細なものに更新した。これにより、Google Earth の「海レイヤ」において現時点で最も正確な海底地形データが表示可能になったという。具体的には、全海底の15%の領域が 1km の解像度で確認できる。こうした海底地形図は、深度分布図(bathymetry:バシメトリ)と呼ばれる。人工衛星などで得た海面の隆起/沈降部データと、40か国以上の実施した船舶による水深測量データから作成された。新データでは、海底や海岸線などのようすが旧データに比べ分かりやすくなった。例えば、地中海の新旧データを比べると、キプロス南側海底にあるユーラシア プレートとアラビア プレートの境界が鮮明になったという。またグアムの周辺や、その近くにある世界で最も深いマリアナ海溝の画像も細かくなった。さらに、新データは旧データに存在していた誤りも修正された。古いデータだとアフリカ西海岸沖の海底に市街地の道路と思える碁盤の目の形をした地形がはっきり分かるため、伝説のアトランティス大陸の跡という意見があった。しかし、新データではそのような地形は見られない。この旧データの規則的な模様は、この海域を測量した船の移動パターンがデータに入り込んで生まれてしまったそうだ。なお新データは、米国カリフォルニア大学サンディエゴ校のスクリプス海洋学研究所、米国の国立海洋大気圏局(NOAA)、海軍、国家地理空間情報局(NGA)、国際水路機関(IHO)/ユネスコ・政府間海洋学委員会(IOC )の共同プロジェクトである大洋水深総図(GEBCO)、日本の海洋研究開発機構(JAMSTEC)、フランスの海洋開発研究所(IFREMER)、カナダを中心とするIBCAOから提供された。(Japan.Internet.Comより)--------------------また一つGoogleEarthが進化した。世界中から貴重なデータを集めての成果。日本のJAMSTECのしっかりと名前が入っている。昨年の震災以来、トラフなど海底地形は高い関心を集めている。「しんかい」が震源近くの裂け目を撮影したのは記憶に新しい。我々は地上に比べて海底を目の当たりにする機会が少ないため、地形をはじめとした実態は謎に満ちている。マリアナ海溝の深さはエベレストの高さと比べてもはるかに深く、落差も大きい。想像を絶する世界がそこにあることは間違いない。それでも海底地形を地上との連続性で見ていくと分かりやすい。特に陸地近くの海底は海退期には地上であった訳で、現在の河口から深い谷が海底へと続いている様子には思わず息を飲む。世界の海底を旅する楽しみがひとつ増えたようだ。
2012.02.04
閲覧総数 4659
38

奈良県は14日、急斜面などを埋めて宅地開発された県内(奈良市を除く)の計561か所を示した「大規模盛土造成地マップ」を公表した。大地震の発生に備えた取り組みで、地図に色づけして表示した。約4万5000部作成し、県の土木事務所や市町村などで配布。県のホームページでも公開している。東日本大震災などでは、盛り土した造成地が崩落するなどの被害が出ており、国が都道府県などに調査、公表を指示。谷を埋めた盛り土の面積が3000平方メートル以上の造成地と、傾斜が20度以上の急斜面に高さ5メートル以上の盛り土をした造成地が対象で、約70年前と現在の地形図を重ね合わせて特定した。中核市の奈良市は独自に調査中で、今後公表する。対象は県北西部を中心に31市町村で計約2500ヘクタール。生駒市が約2割を占める131か所で、香芝市45か所、宇陀市44か所、平群町39か所と続いた。県は今後、大地震発生時に崩落の危険性が高いとみられる場所でボーリング調査などを実施し、詳しい状況を調べる。県建築課は「マップに示された造成地が必ずしも危険というわけではないが、防災意識を高め、被害の軽減につなげてほしい」としている。(読売新聞より)------------------------------1995年の阪神・淡路大震災や2004年の新潟中越地震、そして2011年の東日本大震災といった過去の大きな地震の際に、大規模造成地の盛土で地すべり等の被害が多発した。仙台市はこれを受けて2013年に「仙台市宅地造成履歴等情報マップ」を作成して、あえてリスクのある場所を公表した。これは、こうしたリスクを積極的に開示しない傾向があった当時としては画期的なことだった。地図の縮尺は1/10000。盛土の高さ別に色分けがされており、家屋もある程度特定できるなどかなり踏み込んだものになった。その後もいくつかの都府県がこうした情報を公開するようになったが、縮尺や公開方法などはまちまち。東京都の場合は25000レベルでの公開で、家屋の特定はできない。奈良県のHPによると、今回公開されたマップは「旧地形図と現況地形図を重ね合わせて大規模盛土造成地の概ねの位置や規模をお示しするもので、マップに示された箇所が地震発生時に必ずしも危険というわけではない」と釘を刺しながらも県民の防災意識向上を訴えている。中身を見ると、縮尺レベルは25000でいわば「東京都型」。もう一歩踏み込んで欲しかったというのが正直なところだが、今は情報が出てきたことを評価すべきだろうか。また、国土地理院も今年8月に大規模盛土造成地マップを公開しており、地理院地図を背景に東京都、埼玉県さいたま市、愛知県岡崎市の3団体について対象地域の盛土造成地を見ることができる。こちらは地理院地図のコンテンツであることが強みで拡大も可能。スームレスになっているのもありがたい。今後もこうした公開は続いていくことになると思う。可能であれば仙台市レベルのものが出て来て欲しいのだが。
2015.09.16
閲覧総数 1641
39

石川-愛知県を観光コースとして国内外にPRする民間のドラゴンルート(昇龍道)推進協議会は2014年、日本海側を下にした「逆さ地図」を活用し誘客強化を図る。誘客相手として重視する中国や韓国、ロシアから、石川や富山両県が近く見える効果を生かす。協議会は、能登半島を龍の頭に見立て、アジアで縁起のよい「昇龍」として観光アピールしている。逆さ地図の効果をさらに高めるため、魚眼レンズで見るように両端の北海道や九州などを大きくゆがませ、実際以上に北陸を大きく、近く見せる略地図を印刷する。北陸が三大都市まで等距離にある優位性をアピール。さらに二〇一五年春の新幹線金沢開業で、小松や能登、富山の各空港から日本に入り、首都圏まで早く移動できる点もPRする。伝統文化が色濃い地方で日本らしさを味わってから大都市に向かう方が旅情が高まると訴えている。まずは名刺に活用し、初対面の相手に限らず多くの人に配りながら、三大都市を軸にした観光から発想転換を促す考え。昇龍道の名付け親でもある協議会長の多田邦彦・和倉温泉多田屋社長は「日本へ着くのが成田や関西、中部の各国際空港では日本らしさに欠ける。まず北陸で日本文化を堪能できるコースを提案したい」と話す。逆さ地図はこれまで、同じように誘客を図るため富山県や新潟県佐渡市が作成。富山は一九九四年に作ったが、新幹線など交通網整備が進んだため二〇一二年八月に改訂した。ただ、担当者は「民間でも活用してほしいが、県として現時点で誘客での具体的な活用策はない」と思案顔。協議会の取り組みは誘客関係者に一定のインパクトを与えそうだ。(中日新聞より)------------------------------以前富山県がつくった逆さ地図が大きな反響を呼んだことは記憶に新しい。見なれた絵柄でも逆さにすれば全く違う印象を受けるものだ。そして視点が変わることで、たくさんの気づきがあることも重要だ。日本海側の各県や各都市にしてみれば、町おこしや観光客誘致の切り札とすることが考えられるが、やるからにはそれなりのストーリーが欲しい。逆さに見ることの意味や逆さに見ることで浮きたつ自らの立ち位置や独自文化などが上手に伝わればかなり面白い。もちろん、この地図は日本海側に限らず活用できる。我々はどうしても物事を太平洋側からの視点でとらえがちだが、ひっくり返すことでこれまで気づかなかったことが見えてくるものだ。それは社会やビジネスなどで抱える様々な課題のソリューションに結び付かないとも限らない。かつては大陸との交易や北前船など、日本海は物や情報の最前線だった。「日本海目線」「大陸目線」は我々が忘れている何かを思い出させてくれるヒントになり得るのではないか。
2014.01.02
閲覧総数 131
40

東京スカイツリーは、どのくらい遠くから見えるのか。富士山の遠望記録で知られる高校教諭は、完成後の634メートルの高さは、福島県の吾妻連峰や大島の三原山から見える可能性があると計算する。現在398メートル。首都圏各地から見えたという情報が寄せられる中、7月1日に山開きした富士山からの眺めが注目される。 「昨年12月半ばには高尾山(東京都八王子市)から見えるようになった」。ツリーから西に約50キロ。高尾山にたびたび登る地元の樋口徹さん(64)はこう話す。 北に約75キロ離れた栃木県栃木市。太平山から見えたというのは、同市の会社員藤掛一則さん(51)。昨年11月上旬に見つけ、2月中旬ごろまでは確認していた。空気が澄み渡った夕方などに、よく眺望できるという。今は湿度が高くて見えないが、「秋には日光からツリーの写真を狙ってみたい」と意欲を燃やす。 富士山がどのくらい遠くから見えるかを調べている山岳展望マニア、高校地理教諭田代博さん(60)は地図データなどを使い、スカイツリーが見える範囲をコンピューターでシミュレーションした。 その結果、地形上は北は福島県と山形県境の吾妻連峰(スカイツリーから約230キロ)、南は大島の三原山(同115キロ)、西は富士山(同106キロ)、東は千葉県旭市の刑部岬(同84キロ)からも見える可能性があるという。 前に遮る山脈などがないからだが、問題は細長い建物がどこまで認識できるかだ。地上450メートルの第2展望台より上は、細いアンテナになる。 最も西側からの観測で期待される富士山。7合目にある山小屋日の出館の主・中村修さん(60)は「東京から富士山が見える日には、富士山からも都内は見えている」というが、「スカイツリーを特定できるかどうか。ねらい目は台風一過の後」。 田代さんは、太陽を背に建物が見える朝夕がチャンスとみる。「スカイツリーの西側では日の出をバックにシルエットが浮かびやすい。東側では日没前に見えやすくなる」 あとは季節と天気がカギを握る。本来見えやすいのは冬だ。約50年前から東京タワーや富士山の観測を続ける東京都武蔵野市の成蹊中学・高校の観測所では、東京タワーが見える日が最も多いのは1月で平均15.4日。7月~8月は平均8.6日と少ない。 所長で地学教諭の宮下敦さん(50)は「スカイツリーの形は、東京タワーより遠くから見つけやすい。冬は空気が澄んでいるのでより鮮明に見えますよ」という。■遠くからツリーを見つける3カ条 (1)前に遮るものがない場所から (2)ツリーの西側なら日の出、東側なら日没前に (太陽を背にするとシルエットが浮かびやすい) (3)空気が澄んだ日に (asahi.comより)--------------------先日千葉の実家へ向かう途中、錦糸町えきからスカイツリーの大きさを体感。なるほど、これは高い。まだまだここから高くなるのだから期待は大きい。我々の世代は東京で景色を見るとき、決まって東京タワーを確認しようとする。それは昼間でも夜景でも同じ。東京タワーこそが基準となるランドマークだった。スカイツリーが完成すればその高さは東京タワーを大きくしのぐ。その形状から視認性は未知数だが、どれだけ遠くから確認できるのか楽しみは膨らむ。果たして東京タワーに代わる新しい東京のシンボルとなるのか、今から楽しみである。
2010.07.03
閲覧総数 2700

