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不名誉な都市伝説 仙台「美人いない」本当?(河北新報)河北新報のお膝元である仙台が「日本三大ブスの産地」と言われる不名誉を考察している興味深い記事。もちろんこの手の称号が「都市伝説」であることは、実際に仙台の街を歩く女性たちを見れば分かること。しかしこうした風評がどうして定着したのだろうか。この件について学術的に研究している研究者がいるそうだ。東北大大学院文学研究科の大村哲夫助教(臨床死生学・宗教心理学)がその人で、仙台がブスの産地とされる根拠を作家坂口安吾の発言をルーツとする説を挙げている。坂口が取材で仙台を訪れた際に新聞社の取材に「仙台の町は今後きれいに発展するだろうが、美人がいないのが残念」と語ったことが風評に発展したと分析。「取材前日に坂口が接待を受けた仙台の飲み屋に、好みの女性がいなかったせいではないか」というのが大村氏の推測だ。さらに大村氏は、江戸時代に当地を治めた伊達家に武家文化が色濃く、女性も家の格式で格好や振る舞い、話し方が決まってろい個性が生まれにくく、武家以外の人間には気位が高く見られがちだったという「性格説」にも触れている。その他色々調べてみると、庶民の間でよく言われている説としては、「仙台藩主伊達政宗が参勤交代の際に美女ばかり江戸に連れて行ってしまった」「3代綱宗に見初められて囲われるのを拒み、殺害された吉原の高尾大夫の呪い」「殿様が参勤交代の際に芸者通いをしていたことからそうからかわれた」「東北中から嫁に行けない容姿の女性が(都会である)仙台に集まる」などいずれも風評の域を出ないようなものが多い。同じく「三大ブス」の不名誉を着せられているのが水戸と名古屋だが、言われる理由は仙台とよく似ている。水戸は「佐竹公が秋田にお国替えになった際に美人を秋田に連れて行った」とか、水戸や名古屋は御三家だったので「美人はみんな江戸に連れて行かれた」といったもの。また、仙台でも理由のひとつとして挙げられている「殿様が参勤交代の際に江戸で遊びまくった」という説は水戸や名古屋でも聞かれるので、かつての殿様の振る舞いが時代を越えて地域に不名誉な風評をもたらしているといえるのかもしれない。もうひとつ興味深い説は、いわゆる美人の代表例として挙げられる「秋田美人」「新潟美人」「京美人」「博多美人」がいずれも日本海側であることと関連付けているもの(秋田については日照時間や湿度という理由を挙げている例が見られるが)。そういえば仙台・水戸・名古屋は太平洋側ではある。前述のようにこうした風評は江戸時代に起因するものが多く、現在ほど他地域との行き来がない故に地域性に関連した噂話が広がったともいえる。と同時に、一度定着した風評が、飛行機や新幹線の発達で人が自由に行き来できる現代になってもまだ残っているあたり、定説を覆すことの難しさを感じる。
2016.06.20
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長崎県対馬市と山口県下関市の沖合で1日未明から早朝にかけ、イカ釣り漁船6隻が相次いで転覆した事故で、第7管区海上保安本部(北九州市)は同日、乗っていた計10人のうち4人が死亡したと発表した。残る4人は救助されたが、2人は行方不明のままで、7管は海難対策本部を設置し、捜索を続けている。救助された乗組員らが「現場で突風が吹いた」「高波をかぶった」などと証言していることから、悪天候による突風や高波が転覆の原因とみて調べている。運輸安全委員会も近く、対馬市に船舶事故調査官を派遣し、聞き取り調査を行う。発表によると、1日午前3時40分頃、対馬市沖の漁船から「漁船2隻が救助を求めている」と118番があった。同市豊玉町の東約24キロ沖の対馬海峡で、豊玉町漁協の「第1吉栄よしえい丸」「第3海漁丸」「第5住吉丸」の3隻が転覆しており、乗組員計5人は僚船などに引き揚げられたが、3人の死亡が確認された。(読売新聞より)------------------------------船舶の遭難は事故として報道されるのが普通だが、多くの場合波浪など気象の影響を受けている。今回の遭難は竜巻と思われる突風によるもので、自然災害と考えるべきだろう。複数の船舶が同時に遭難するという例は洞爺丸台風の際の函館湾内が知られているが、やはり自然災害によるものだった(現在で考えれば人災の要素もあるが当時の観測技術からは仕方がなかった)。今回のような突風に一旦巻き込まれてしまえば逃げることも難しい。漁協の話によると海上はそれほど荒れていなかったが天気が急変したという。ただしこの日対馬では1時間に110ミリという記録的大雨に見舞われており、大気の状態が不安定だった。少し離れた場所で操業していた船の乗組員は「巻くような風が吹いた」「考えられない事故」と証言しており(TBSニュースより)、結果的に不意討ちの遭難であったことを示している。おりしもこの日は防災の日。避難が難しい海上での防災のあり方も今後議論が必要なのかもしれない。
2015.09.02
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地図アプリはスマートフォンユーザーの多くが頻繁に活用しているアプリの1つだろう。“方向オンチ”を自認する人はもちろん、ビジネスで毎回異なる場所を訪問するようなケースでも役立つ。住宅地図や区分地図を開いているビジネスパーソンを見かけなくなったように思うのも、スマートフォンと地図アプリが普及した効果かもしれない。ただし、地図アプリはかなりの容量を食う。メモリーが少ないスマートフォンでは、困ることだってある。 この「軽量マップ」は、その名が示すとおり“軽い”のが最大の特徴だ。どのぐらい軽いかというと、インストールしたアプリ本体の容量が実測で376KBだった。これは相当にスリムなもので、例えばGoogleマップは同じスマートフォン上で11.73MBの容量を使っていた。比較すると31倍、差は11MB以上。こんなに小さなアプリでちゃんと地図が表示できるのか?と心配になったが、そこは問題なし。機能は限られているが、一般的な地図アプリにも勝る部分すらある。 軽量マップでは、軽くするために、ルート検索やナビゲーション、ストリートビュー、地下街の表示と言った機能を省いている。これらは便利な機能だが、利用者によっては必須ではないだろう。その代わり、表示は多彩。一般的なデジタル地図と同等な表示をする標準地図のほか、行政界地図、路線図、地形図、水域図、夜間モードを備える。この見やすい地図アプリ、軽いのであなたのスマートフォンに忍ばせておいてもジャマになりませんよ。アプリがコンパクトにできているため、メモリーを消費せずに済む。説明にある360KB(手元のスマートフォンでは376KB)はアプリの容量で、実際には読み込んだデータが含まれるので1MB程度のメモリーを使うが、Googleマップがアプリだけで11MB以上を消費していることを思えば、ケタ違いの軽さだ。 アプリとして軽量だからといって、地図の表示が劣るわけではない。拡大すれば建物の形状まで示され、番地などもていねいに振られた地図は、必要にして十分な情報を持つ。地図の種類が豊富なこともメリットの1つ。メニューの「地図の種類」では複数の地図を選べる。例えば行政界地図。デジタルの地図だと市区町村の境などがわかりにくいことがあるが、行政界地図では区分地図のように色で塗り分けられている。路線図は鉄道路線が強調される。地形や川などの水域を強調して確認できる地図や、カーナビの夜間モードと同様の地図も用意されている。 メニューの「レイヤー」には、「東京アメッシュ」「国土交通省雨量レーダー」「地震情報」のレイヤーがあり、これらを重ねることで降雨情報や地震情報を地図上で確認できる。メニューには、「地図で開く」「地図画面メモ」という項目もある。「地図で開く」は、軽量マップが提供していないストリートビューなどの機能を使いたくなったときに、手軽にGoogleマップなどにジャンプできるボタン。「地図画面メモ」は、表示されている地図の画像をスマートフォンに保存できる。拡大しても十分に見られるので、オフラインで地図を見たいような場合にはその地域の地図画面メモを保存しておくといい。軽くても、痒いところに手が届く上質な地図アプリと感じた。 (日経トレンディネットより)------------------------------昨年防災関係者の集まりで「地図の要件」を問うたところ、最も多くの要望があったのが「地図の軽さ」についてだった。なぜ軽さが重要かといえば、災害時には通信が保障されないからであり、その中で防災のために地図を使用する場合には、オフラインでも地図が使用できること、すなわち、地図データが本体に格納される必要があるから。この記事で紹介されているアプリは、あくまでもアプリケーションが軽いのであって、オフラインで使用することは前提にしていない。その意味では「軽さ違い」といえないこともない。もちろん、アプリの軽さもユーザーにとって一つの重要な指標ではあるだろう。ただ、それを活かすためには、あくまでの地図ツールとして、このアプリが単体で成立しなければならない。他の地図ソフトがインストールされていてはこの地図の軽さが生きないからだ。(つまりGoogleマップの11MBをインストールしていないからこそこの地図の軽さが生きる)なのでたとえばストリートビューの機能を呼び出す、というのはちょっと利用法からすると矛盾しているように感じるし、ルート案内についても、なくて済むユーザーは案外少ないので、結局別のアプリもインストールする必要があるだろう(アプリでなくブラウザからという意味かも知れないが)。もちろん、この地図の機能そのものは評価したい。特に行政塗り分けは案外重宝するものだ。ただし、軽さを売りにするのであれば、色々とハードルは高くなる。地図を限定的な機能で利用するユーザーにはいいかも知れないが、地図がスマホの重要な情報プラットフォームである現状を考えれば、フルスペックの機能があった方がいいのは言うまでもないことだと思うのだ。
2013.08.07
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北方領土・国後島沖で21日、ロシア国境警備局に拘束された琉球大医学部6年の栗山圭輔さん(37)が25日夕、根室海上保安部の巡視船に引き渡され、北海道根室市の根室港に帰還した。栗山さんはシーカヤックで知床半島を1周する予定だったといい、「悪天候のため、自らの力で戻って来られず、ご迷惑をおかけしました」と話した。健康状態に問題はないという。栗山さんによると、16日に知床北部の斜里町ウトロを出発。シーカヤック(全長約5メートル)に1週間分の食糧を積み、知床南部の羅臼町相泊に向かった。18日に知床岬を通過しようとした際、風と北東の強い流れに引っ張られ、沖に流されたという。国後島の地図は持っていなかったが、全地球測位システム(GPS)で位置は把握できたといい、「このまま流されると助からないと思った。国後島が見えてきたので助かる可能性があるかもしれない」と島の沿岸に近づき、ロシアの警備艇に拘束されたという。ロシア国境警備局は当初、栗山さんが「ゴムボートに乗っていた」とし、無許可渡航の疑いもあるとして同島の古釜布(ロシア名ユジノクリリスク)に移送し事情を聴いていた。しかし、栗山さんに意図的な渡航の意思はなかったとし、25日午後4時半ごろ、警備局の船が根室沖で根室海保の巡視船と落ち合い、栗山さんを引き渡した。(毎日jpより)--------------------はなはだ人騒がせな話ではあるけれど、気持ちは分からなくもない。知床半島は多くの人を惹きつけて止まない憧れの土地。それでいて今もって半島の奥は道もなく人を寄せ付けない秘境。特に知床岬は船をチャーターしない限りなかなかたどり着けない訳で、それゆえ岬を目指すためには様々な冒険的突破が必要になる。羅臼岳、硫黄山、知床岳と尾根伝いの場合はハイマツに苦しむ。海岸線も断崖が続くので陸路は険しい。自分も学生時代に羅臼町相泊(道路の終点があるどん詰まりの集落。記事中の栗山さんもここを目指したようだ)から海岸線をたどって岬を目指したことがある。崩浜を抜けて観音岩を鎖で越え、化石浜とたどる。海岸には番屋が続いていて、漁師たちにとっては普通に作業場となっている。結局タケノコ岩の手前で海に潜らない限り先に進めなくなり断念。大した準備もせず、無謀な計画だったのは若気の至りだが、やはり道は遥かに遠かった。岬への憧れは今も持ってはいるが、さすがに実現はもう難しいな。今回のようなシーカヤックはいいアイディアだけど、何しろ海も厳しい。流されてしまって国後島があったのは幸運だったといえるだろう。記事を読んでいたら久しぶりに知床の海が見たくなった。そうか、今じゃ世界遺産なんだっけ。
2011.08.26
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ストリートビュー で東京駅など、主要ターミナル駅構内を公開(Google Japan Blog)Googleストリートビューで東京駅、新宿駅、名古屋駅、京都駅が公開された。ストリートビューはこれまでも屋内を扱ってはきているが、今回はいずれもターミナル駅の構内だけに凄い。新宿を見てみるとストリートビューがあることを示す水色のラインが縦横無尽で貼りめぐらされているのがよく分かる。人が全くいないのは、もしかすると終電から始発の間に特別に撮影しているのだろうか。こんな狭い通路も抜けている。画面右下に階層表示があって(2~B7)それぞれ見ることができるのだが、複雑すぎて思ったところへたどり着けない(笑)利用想定としては事前にエレベーターや広い改札の有無、プラットフォームの広さなどを事前に確認したり、道迷いをしないように予習したりということなのだろうが、普通にぐるぐるとめぐっているだけで(知っている場所にも関わらず)バーチャルツアーとして十分楽しめるのもいい。Googleでは今後も交通機関のストリートビューを増やしていく予定だという。いやはや、ここまでやるとは凄い。
2017.04.12
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神奈川県横須賀市は、市内の標高を確認できる「標高マップ」の公開を市のホームページで始めた。東日本大震災で東北地方の沿岸部で甚大な津波の被害が出たことを受けて作成。自宅や職場、学校など普段の生活場所の標高を知ることで、津波警報に対する市民の避難意識を高めてもらうことなどが狙い。マップは標高ごとに色分けされており、標高5メートル以下は緑色、同5~10メートルは黄緑色、同10~25メートルは薄茶色、同25~50は茶色、50メートル以上が濃い茶色-の5段階に分けられている。また、地図上でクリックした地点付近の標高が表示される。マップは市ホームページのトップ画面の「よこすかわが街ガイド(地図検索)」をクリックし、防災カテゴリーの中の「標高マップ」から見ることができる。(MSN産経ニュース)--------------------市の全域の標高マップ。特に低地部の津波時への備えという点では有効。できることなら津波ハザードマップと併せて使用したい。標高の色分けはメッシュデータのようだが、どのように作成したのだろうか。というのは、地図上には1/2500都市計画図の等高線も表示されているため、慣れないユーザーは等高線と色分けが一致しないことに戸惑う可能性がある。このあたりは簡単な説明があってもいい。地図にはクリックした地点の標高が表示される。その際に「表示される標高は、地図の精度上及びデータ作成上の誤差を含んでいます。参考値として利用して下さい。 お調べの地点によっては、隣接地域の情報を表示する場合があります。」との注意喚起が出るのだが、一般ユーザーには『地図の精度上及びデータ作成上の誤差』というのは如何にも分かりにくい。データソースの表示を表示した上で『表示される標高には誤差が含まれていますので参考値として利用して下さい』というシンプルな書き方でいいのでは。『隣接地域の情報を表示する場合があります』という補間して作成したメッシュデータの使用上の注意があるのはいいと思う。ホームページ上でこうした標高地図が閲覧できるのは有効な仕組みだと思う。後は実際に見て、使ってもらうための工夫が必要。そしてワークショップや避難訓練などの際に実際に使用してみるのも効果的かも知れない。
2011.07.26
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<蔵王山>「ざん」か「さん」か…呼び名変更、自治体の合意困難に 宮城2町長が慎重姿勢(河北新報)国土地理院に登録された蔵王山の呼び名を、「ざおうざん」から「ざおうさん」に変えるための関係自治体の合意は困難な見通しとなった。変更を目指す山形市の佐藤孝弘市長が25日、宮城県蔵王、川崎両町を訪ね、趣旨を説明したが、両町長は約90年前に当時の自治体が決めた経緯などを挙げ、慎重な姿勢を示した。以前等ブログでも取り上げた<「蔵王山」は「ざおうさん」か「ざおうざん」か 山岳名称の難しさを考える>のその後の展開だが、やはり本文中で懸念したとおりの展開になってしまったようだ。県レベルはもちろん、市町村レベルでも見解の違い(あるいは温度差)があるのは少し意外だった。なかでも宮城県蔵王町の「60年以上校歌でうたわれている」というのはちょっと決定的。加えて90年前に「ざおうざん」の記載の根拠となった陸軍陸地測量部(現国土地理院)の地名調書には両県の複数の自治体の首長の名前が記されており、両県である程度の合意を基に採用された経緯が読みとれる。前回の記事にも書いたが、山や川は複数の県や市町村にまたがるケースが多いことから、両側で異なる呼び方をすることはたまさかある。よく知られているのは信濃川が長野県内では千曲川と呼ばれているケースだろうか。ちなみに河川法での正式名称は「信濃川(千曲川を含む。)」となっているため、日本一長い川は「信濃川」と認識されている。川が県で名前を変えるのは相模川が山梨県では桂川と呼ばれている例など、珍しいことではない。山名では北アルプスの白馬岳を富山県側で「大蓮華」と呼んでいるケースがわりと知られているが、現在地図上では白馬岳となっている。今回の蔵王山のようにひとつの山名に別々の読み方があるというのは珍しいかも知れない。自分の知っているところでは、四国の剣山(つるぎさん)を徳島県では「けんざん」と呼ぶ人が一定数いた(現在はわからない)。自分の母は徳島県出身なのだが、子どもの頃親戚のおじさんが「けんざん」と呼んでいたせいもあり、自分の中ではずっと「けんざん」で刷り込まれていて、正式名称が「つるぎさん」と知った時はある週のカルチャーショックだった。調べてみると「つるぎさん」が統一名称として定められたのは1963年のことらしい(奇しくも自分の生年でもある)。それぞれの地域や人にそれぞれの思いがあるのは当然で、正式名称はそれとして、それぞれが慣れている呼び方を使用すればいいのではないかとは思う。
2017.08.26
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千波湖は現在の4.88倍だった 幕末の測量図もとに新説(東京新聞)水戸駅の南に広がる千波湖が、幕末には現在の4.88倍の面積あったことが分かった。茨城大学の小野寺淳教授(歴史地理学)の研究結果によるもので、これまでは現在の3.8倍と紹介されていたが、実測を基にした「千湖分間全図」(せんこぶんげんぜんず:1855年)が見つかり、現在の地図と照らし合わせることで判明した。千波湖は元来今の中心市街地がある台地を挟み、北側を流れる那珂川の氾濫などによって生成された浅い沼と考えられてきた。江戸時代初期に水戸藩が城下町を建設した際に、城を守る堀として位置づけられたことで整備が進んだとされている。その時代から少しずつ湖岸が干拓されていたが、大正時代に水質が悪化したことから水戸駅南側で大規模な干拓を実施、太平洋戦争からの復興後には現在の33万2000m2の広さになったという。これまで新旧の千波湖の広さを比較する史料として参照されてきたのは「水府志料」(すいふしりょう:1807年)という文献だが、水府志料には測量図がなく、面積として現在の約3.84倍に相当する38万6364坪(127万5000m2)という記述があるのみ。これを小野寺教授は根拠が分からない点から疑問視しているという。千湖分間全図は水戸市の千波湖土地改良区が所有していたものを、保存・活用のため2014年に市立博物館に寄託したもの。小野寺教授は千湖分間全図がつくられた目的は不明としながらも、当時としてかなり正確な測量図であり、信頼性は水府志料より高いと分析しており、これ以上の史料があるとは考えにくいことから、現在と幕末の比較は4.88倍が定着することになると見ている。明治の時点の千波湖については迅速測図や旧版地図で分かるが、幕末(あるいはそれ以前)との比較は史料が頼り。そんな中で測量図が出てきたのは大きい。土地条件図では明治期の千波湖の跡が埋土地で、その周辺は盛土地が広がっている。千湖分間全図からは、この盛土地の部分の一部にも千波湖が広がっていたのではないかと推測できる。埋土地が現在は普通に市街地になっているのも気になるところ。そこにいる人々が土地の性質や履歴をきちんと把握しての上でなら問題ないのだが。<千波湖周辺:明治36年測量の旧版地形図(左)と現在の地理院地図(今昔マップより)><千波湖周辺:土地条件図(地理院地図より)>
2016.08.26
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長崎県対馬市で不動産が韓国資本に買い占められるなどしている問題で、グーグル・アース上で対馬が「韓国の植民地」「韓国(領)」などと記載されていることが分かった。一般のユーザーが投稿したものとみられるが、全世界から見ることができるため、事情を知らない国内外の閲覧者の誤解を招く恐れがあり問題化しそうだ。問題のサイトは、グーグルが提供する写真共有サイト「パノラミオ」。同社の地図サイト「グーグル・マップ」や「グーグル・アース」に、ユーザーが写真やコメントをリンクすることができる。このサービスで、対馬についても風景や観光名所などの写真が180件ほど公開リンクされているが、中には「Korea colony(韓国の植民地)」や「Daema Island(Korea)=対馬島 韓国(領)=」などというタイトルの風景写真があるほか、「韓国の眺望」と韓国語でタイトルを付けた対馬の港とみられる写真もある。また、写真の下にある一般ユーザーのコメントには、「対馬は韓国の土地、返してもらわなければならない」「韓国人たちよ、いまや独島(竹島)だけでなく、対馬もやはり取り戻すときがきた」などと韓国語や英語で書き込まれているものが約10件あった。こうした写真の公開は昨年ごろから始まり、コメントによる領土論争は今夏から過熱している。写真を投稿したユーザーの名前は韓国系のものとみられるが、あくまでもユーザー名なので実態は不明だ。これに対し、日本語や韓国語、英語で「対馬が韓国領土というのはありえない」「対馬が日本の領土というなら、その根拠を見せろ!」などと反論している書き込みもある。グーグル・マップ上では、対馬は日本領であることが明記されているにもかかわらず、「韓国(領)」と断定する書き込みについて、グーグル社は「地図、地理サービス提供する限り、領土の問題は避けて通れない問題のため、中立的な立場を貫くことを旨としている」とし、社内に専任チームをおいて管理している。投稿写真やコメントについて「政治的な見解は著者に属するもの。グーグルとして選択していることはない」と説明。他社の権利を侵害していない限り削除はしない方針になっている。グーグル社の利用規約では「悪意のある暴力的な内容」や「法的な権利を侵害すること」を禁じているが、投稿内容については、ユーザーが個人的に責任を負うことなっている。--------------------記事では竹島についても触れられているが、言わずもがなでさらに過激な内容だという。領土問題はとにかくデリケートなもの。国や個人によって見解が対立することは世界中で起こっている。むしろこうした争いが世界的地図サービスで展開されていることが今回の問題だ。世界中のユーザが閲覧することもできるし、書き込みもできる。誤解や感情論ですら捻じ曲げられたまま伝搬する危険性もある。このあたりは双方向サービスの難しいところでもある。サービスを提供するグーグル社の内規に従うほかないだろうが、あまり事態が過熱するようであれば何らかの特別な対応も必要なのではないだろうか。そう言えば以前ヤフーの投稿型地図サイト「ワイワイマップ」で、「ヤブ医者マップ」というのが空前のヒット数を記録したことがある。ユーザが体験からヤブ医者情報を投稿する内容だったが、感情論や誹謗・中傷が横行して結局ヤフーの判断で削除された。捻じ曲げられた情報もあり、社会的影響があまりにも大きいとの判断だ。投稿型サイトの管理がデリケートであることは理解できるが、やはり一定のモラルは必要なのではないだろうか。ブログが2日続けてグーグルの話題で、なおかつ同じような問題を扱う形になってしまった。偶然と言えば偶然だが、双方向地図サービスと社会とのかかわりそのものの問題が根本にはある。逆に言えば、サービスが問題になるほどの影響力を持っているということでもある。何しろ、そういう時代なのだ。
2008.11.24
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鎌ケ谷市は、東京スカイツリーなど都心の景色が一望できる市役所屋上の開放時間を午後5時45分まで延長している。スカイツリーのクリスマススペシャルライティングに合わせた企画で28日まで。市によると、市役所西側は大きな建物が少なく、晴れた日の昼間には富士山とスカイツリーを一緒に展望できるなど隠れた“絶景スポット”となっており、市民のほかプロカメラマンも訪れる。今の時期は冠雪した富士山を見ることができる。(ちばとぴより)------------------------------なるほど、ありそうでなかなかない構図かも知れない。理屈で言えばスカイツリーより東であれば見えるはずだけど、都市部はどうしてもビルが邪魔をする。高い障害物がない程度に田舎で、高台という条件か。幕張あたりの高層ビルだと一見いけそうな気もするけど、案外富士山とツリーの方向が違うし、思ったより場所は限られるのかも。撮影ポイントも含めてコンテストを開催するのも面白そう。
2013.06.07
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1974年(昭和49年)8月31日から9月1日にかけて、台風16号の接近に伴い、関東地方は激しい雨に見舞われた。上流域の集中豪雨で多摩川が増水し、狛江市で堤防が決壊、19戸の民家が濁流に飲まれた。いわゆる多摩川水害(狛江水害)だ。暴れ川だった多摩川現在の姿からは想像がつかないが、多摩川は古くから暴れ川として知られる。河川延長が138kmと短いにも関わらず、水源の標高が1953mと高く、勾配が急であるため、古くから氾濫が絶えなかった。洪水の度に流路は変わり、沿岸にあった村が川により隔てられてしまうことも珍しくなかった。現在に近い流路になったのは1590年の大洪水といわれており、その際に分断された丸子や等々力、野毛、瀬田、宇奈根、布田、押立、石田といった村々は、その後堤防の整備が行われてそれぞれ別の市町村に取り込まれてしまう。その名残が現在では川を挟んだ両側に同地名が残されている。東京都大田区に「下丸子」があるのに対して、川崎市中原区に「中丸子」「上丸子」、同じく大田区と中原区のどちらにも「等々力」がある。東京都世田谷区と川崎市高津区には「宇奈根」があり、世田谷区に野毛・上野毛があるのに対して高津区に下野毛がある。「瀬田」が世田谷区と高津区にある他、「中和泉」「元和泉」「東和泉」が世田谷区に、和泉が川崎市多摩区にある。「布田」は東京都調布市と川崎市多摩区に、「押立町」は東京都府中市と稲城しに、「石田」は国立市と日野市にある。いずれも川を挟んだ同地名で、多摩川の暴れ川時代の名残ともいえる。多摩川は江戸時代以降も何度となく堤防を決壊させ、氾濫を繰り返してきた。1910年(明治43年)の関東大水害では多摩川も未曾有の被害に見舞われ、1913年(大正2年)にも氾濫すると住民の陳情を受けて河川改修が始まる。しかし改修後も1947年(昭和22年)、1949年(昭和24年)と度々決壊は繰り返されていた。流失するマイホーム8月31日から多摩川上流は記録的な豪雨となり、多摩川は増水を続けた。狛江市では9月1日の「防災の日」に予定していた防災訓練を天候悪化で中止にしたが、まさか予定されていた訓練が実戦になるとは予想していなかっただろう。9月1日には多摩川は警戒水位を越え、多くの市民がこの様子を見に集まっていた。狛江市では河川敷内にある施設の撤去を行った。昼頃、二ヶ領宿河原堰左岸河川敷にあった堰堤取付部の小堤防が決壊する。この堤防は、古い堤防を補強しただけのもので、強度が足りなかったとされる。木流しや土のう積みなど市職員、消防署、消防団の人力による水防活動が懸命に行われたものの、この破堤をきっかけに激しい迂回流が発生、夜には本堤防が数百mにわたってえぐり取られ、住宅地に濁流が流れ込んだ。2日未明には民家がついに倒壊、2軒、3軒と濁流にのみ込まれ、最終的には19戸が流失する。その模様はテレビで中継されており、全国の人が目の当たりにすることとなった。被害拡大を食い止めるため狛江市は自衛隊の派遣を要請する。自衛隊は本流の流れを遮っている堰堤の爆破を試みたが、付近の民家のガラス窓を損傷しただけで堰堤はびくともせず失敗。4日になって建設省(現国土交通省)が堰堤中央部の爆破に成功したことで、破壊口に流量をり向けながら、ようやく迂回流の締め切り作業が行われた。<決壊当時の様子(狛江市HPより)><決壊前後の地形図。左が昭和42年、右は昭和51年(今昔マップon the webより)>水害の傷跡堤防の復旧後、国は流失した住宅地を補修し、爆発時に生じた二次災害の補償は行ったものの、流失家屋などについては補償の対象とはならなかった。このため被災住民は、多摩川を管理する国に対し、国家賠償を求めて提訴する。この狛江水害訴訟は1976年(昭和51年)から1992年(平成4年)まで16年間にわたって争われ、一審から差戻し控訴審まで計4回判決が出された。最終的には、管理者が予見可能であったのに対策を講じなかった人災であるとし、国に5億9000万円余りの損害賠償を求める判決が確定した。この災害で家のほかにアルバムを失ったことがショックだったという被災住民の話から脚本家山田太一が、「岸辺のアルバム」を新聞に連載し、1977年(昭和52年)にはテレビドラマ化された。ドラマの最終回は洪水によって家が流される報道映像で終わっている。多摩川の破堤はこの1974年多摩川水害以降起こっていない。しかし堤防は常に私たちを守ってくれるわけではない。現在、当時最初に決壊した堤防の跡には「多摩川決壊の碑」が建てられている。あれから40年、住民の世代交代も進む中で碑の意味はいったいどれだけ伝わっているのだろうか。<多摩川決壊の碑(多摩川散歩より)><決壊後(上)と現在(下)の空中写真(地理院地図より)>
2014.09.25
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ご当地ソングというものが各地にある。多くの場合演歌なのだが、市町村名が入った曲はもちろん、ピンポイントに繁華街の名前が入った曲も少なくない。また、直接の地名でなくても、当地の観光地であったり名物であったり伝統芸能であったりが歌われているものもある。いったり全国でどれくらいあるのだろう。正直演歌はあまり詳しくないのでよくは知らないのだが、キングレコードの岡ゆう子さんという方が450曲ものご当地ソングを歌っており、「歌う日本地図」と呼ばれているそう。450曲というのはものすごい数だと思うわけだが、どんなタイトルなのか興味がわいて公式サイトを見てみた。最初ディスコグラフィーで曲名リストを探したところ見つからなかったのだが、プロフィールのページを見て解決した。曲名を書き込んだ日本地図があった。引用させてもらうがこのブログでは大きな画像は載せられない(つまり文字が読めない)ので興味のある方はサイトの方を確認してもらえればいいと思う。これはなかなか面白い。やはり多い県と少ない県があって、群を抜いて多いのが茨城県。何か縁があるのだろうか。次いで北海道、さらには埼玉県と出身地の佐賀県が続く。少ないところでは岩手県と千葉県、鳥取県、香川県、高知県、大分県、宮崎県、熊本県がそれぞれ一つずつ。佐賀出身ながら九州が必ずしも多くないのが興味深い。曲名では鳥取県の「西日本ガスの歌」というのがなかなかじわる。あと熊本県の「ジューシーの歌」も。こうなると県単位でなくもう少し詳細な分布も見てみたくなるのが人情。まさか座標データなんて公開されていないよな(笑)せめてリストがあればいいんだけど。
2016.02.07
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傾斜度と自殺率(宮崎日日新聞)住んでいる場所の傾斜度が高いほど自殺が多い? 面積の約9割を中山間地域が占める本県としては聞き捨てならないデータが昨年の厚生労働省による自殺対策白書にある。自殺を地理的条件と併せて解析するのはなかなか斬新。傾斜と自殺の関係のソースとなっている厚生労働省による自殺対策白書の該当項目はこちら。端的にいえば「傾斜度が急になるほど、人口は少なくなり、昭和50年時点と比べて減少幅は大きく、高齢化率も高い」であり、またこうした土地では「世帯が離れていて、隣人との接触が困難」ということになるのだろう。要は「高齢化・過疎化」の象徴としての「急傾斜」であって、別に斜面を見たから自殺したくなるというわけではない。人が集落や都市を形成するにはそれなりの意味もある。誰しも一人で生きていくのは辛いもので、都市や集落の中での助け合いはもちろん、直接形にはなっていなくても、周囲に誰かがいるということが安心感につながることは容易に想像できる。傾斜は過疎化や高齢化の一つの指標なのかもしれないが、そうした土地であっても住民の精神的なケアができるような環境をつくることも大事だろう。それにしても地理的条件がこんなところに影響を与えているのは意外だった。
2017.09.10
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近江八景の一つ「三井の晩鐘」はどこまで聞こえるか-。大津市の園城寺(三井寺)にある釣り鐘の音が響く範囲を確かめる調査を、同市の市民グループと京都の学生チームが1日から始める。地元の長等小の協力を得て7日までの毎朝、野外で鐘の音が聞こえるかを特定し、地図上に記録する。31日には同小児童と保護者計30人が同寺で鐘突きを体験し、一足先に美しい響きを試した。同寺の釣り鐘は、「弁慶の引き摺(ず)り鐘」の伝承で知られる古鐘の後継として桃山期に豊臣家により鋳造された。高さ約2メートル、口径1・25メートル、重さ2・2トンに及び、美しい音色から日本三名鐘にも数えられる。同寺の鐘の音はかつて琵琶湖まで響いたとされるが、近年マンションなどが周辺に立ち並び、遠くまで届きにくくなったとされる。音を通じて地域の魅力を再認識してもらおうと、市民グループ「歴まち大津の未来を考える会」と京都工芸繊維大(京都市左京区)のチームが調査を企画。調査最終日の7日に、長等小児童が聞いた鐘の音の範囲を地図上にまとめる。プレイベントの鐘突き体験では、参加者が重要文化財の鐘楼前で同寺の福家俊彦執事長(55)から、鐘の厚さや材料、季節や地形によっても聞こえる音が違うことを教わった。その後、実際に鐘突きに挑戦。撞木(しゅもく)のひもを握り、勢いよく鐘に打ちつけると、「ゴーン」と大きく厚みのある音が響き渡った。同小6年の秋岡大智君(12)は「鐘の音は本当にきれいで迫力があった。遠くまで響くと思う」と話した。(京都新聞より)------------------------------目で見たことでなく、耳で聞こえるものを地図化する企画。富士山やビルがどこまで見えるか、などを検証する企画はこれまでにもあったが、「音がどこまで聞こえるか」を地図化するのが面白い。もちろん季節による違いや風向きなど当日の気象条件の影響などもあるだろうが、調べてみることに価値がある。子どもたちも含め、こうした企画を通じて鐘の音がどこまで伝わるのかを気にするようになるという意味もありそう。今後も季節や気象条件などを変えながら定期的に観測すると面白い成果になりそう。
2014.06.01
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台風26号で三百七十六棟が床上・床下浸水した八千代市の浸水被害は、印旛沼の水位低下を目的とした放水も一因だったことが分かった。管理する独立行政法人「水資源機構」は、放水量は管理規定通りだったとしているが、八千代市から住民には放水情報は伝えられなかった。同機構の千葉用水総合管理所によると、八千代市内での放水は東京湾に流れる排水ポンプ場「大和田機場」(同市村上)で、十六日午前零時すぎから開始。規定に基づき最初は毎秒三十八トン、その後同二~四時は毎時百十二トンを新川からつながる花見川に流した。放水は同市など関係機関に事前連絡をした。一方、八千代市は放水による花見川の水位上昇で、川につながる開渠(かいきょ)の公共下水道1号幹線の流れが悪くなることを懸念し、放水を抑えるよう同管理所に要請。これを受け、午前四時以降は徐々に放水量は減らされた。ただ、市は前日夜に広報車などで台風接近を住民に注意喚起したが、深夜の放水情報は伝えなかった。市内では午前五~六時の降水量が五八・五ミリを記録し、五時すぎに1号幹線は水があふれ、両岸の大和田、八千代台北の両地区が浸水。一帯を中心に百九十一棟が床上、百八十五棟が床下浸水した。同管理所によると、印旛沼でも成田市北須賀の堤防の一部で水があふれた。放水しなかった場合、さらに印旛沼周辺での浸水が拡大する危険性があったという。台風27号の接近に際しては、放水に関し、八千代市など近隣市町と連絡体制をさらに緊密にするとしている。 (東京新聞より)------------------------------この記事だけでは地元の人以外には伝わりにくいが、背景には花見川の特殊性がある。花見川はもともと東京湾に注ぐ小さな川だったのだが、現在では上流が開削されて分水界を越え、大和田排水機場を境に北側に印旛沼~利根川と流れる新川とつながる「印旛放水路」の一部になっている。これは主として印旛沼の洪水対策のためであり、本来であれば利根川に排水される印旛沼の水を、増水や利根川からの洪水による逆流入があった場合などに流出方向を変えて東京湾へと排水する仕組みだ。つまりこの時、台風26号による豪雨で印旛沼の洪水を考慮して大和田排水機場から花見川へと排水をしたわけだ。この結果花見川の水量が増えたのだが、八千代市内でもかなりの雨量があり、花見川に注ぐ公共下水道1号幹線(通称高津川)が排水不良となり内水氾濫を起こしてしまった。「住民に放水情報が伝わらず」ということだが、伝わったところで排水した以上は氾濫は避けられなかったということになる。もともと大和田排水機場を境に花見川の方が川幅は狭い。周辺は住宅が密集しており、氾濫すれば即家屋の浸水被害になる。印旛沼周辺の方がまだ遊水機能は高いようにも思えるが、こちらも近年は宅地化が進んできている。このあたりの仕組みや地形の特徴を知らない新しい住民も増えている。特殊なケースとはいえ、また起こる可能性はあるわけで、そのあたりは認識しておく必要があるだろう。
2013.10.26
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日本地図共販株式会社 地図・旅行専門の老舗取次業者 自己破産を申請(帝国データバンク)日本地図共販が2月10日に東京地裁へ自己破産を申請した。同社は地図とガイドブックを専門に扱う取次会社で、各書店の地図売り場をほぼ仕切る形で展開していた。国土地理院の地形図の販売において元捌3社(日本地図共販、武揚堂、内外地図)の一角であることはもちろん、民間の各地図会社の帳合も事実上地図共販がほぼ独占する形で営業してきたが、紙地図そのものの不振もあり、業績は低迷していた。なお、グループ会社であるキョーハンブックス同日自己破産を申請している。地図共販については、色々と噂はあったので倒産したこと自体には特に驚きはないが、各方面への影響は小さくない。今回の破産を受けて、インプレスは子会社である山と渓谷社について「債権の取立不能又は取立遅延のおそれに関するお知らせ」を発表している。小さな地図出版社などで連鎖が出なければいいが。大手取次に比べて条件が悪い上、支払いがきちんと行われていないというような話もあり、取次企業としての評判は(主として版元サイドには)芳しくなかったことも事実だろう。今回の債権処理と同時に、今後の地図の販売ルートがどうなっていくのかも気になるところ。
2017.02.10
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米国 Google は2012年2月2日、3次元(3D)地図ソフトウェア「Google Earth」の海底地形データを従来より詳細なものに更新した。これにより、Google Earth の「海レイヤ」において現時点で最も正確な海底地形データが表示可能になったという。具体的には、全海底の15%の領域が 1km の解像度で確認できる。こうした海底地形図は、深度分布図(bathymetry:バシメトリ)と呼ばれる。人工衛星などで得た海面の隆起/沈降部データと、40か国以上の実施した船舶による水深測量データから作成された。新データでは、海底や海岸線などのようすが旧データに比べ分かりやすくなった。例えば、地中海の新旧データを比べると、キプロス南側海底にあるユーラシア プレートとアラビア プレートの境界が鮮明になったという。またグアムの周辺や、その近くにある世界で最も深いマリアナ海溝の画像も細かくなった。さらに、新データは旧データに存在していた誤りも修正された。古いデータだとアフリカ西海岸沖の海底に市街地の道路と思える碁盤の目の形をした地形がはっきり分かるため、伝説のアトランティス大陸の跡という意見があった。しかし、新データではそのような地形は見られない。この旧データの規則的な模様は、この海域を測量した船の移動パターンがデータに入り込んで生まれてしまったそうだ。なお新データは、米国カリフォルニア大学サンディエゴ校のスクリプス海洋学研究所、米国の国立海洋大気圏局(NOAA)、海軍、国家地理空間情報局(NGA)、国際水路機関(IHO)/ユネスコ・政府間海洋学委員会(IOC )の共同プロジェクトである大洋水深総図(GEBCO)、日本の海洋研究開発機構(JAMSTEC)、フランスの海洋開発研究所(IFREMER)、カナダを中心とするIBCAOから提供された。(Japan.Internet.Comより)--------------------また一つGoogleEarthが進化した。世界中から貴重なデータを集めての成果。日本のJAMSTECのしっかりと名前が入っている。昨年の震災以来、トラフなど海底地形は高い関心を集めている。「しんかい」が震源近くの裂け目を撮影したのは記憶に新しい。我々は地上に比べて海底を目の当たりにする機会が少ないため、地形をはじめとした実態は謎に満ちている。マリアナ海溝の深さはエベレストの高さと比べてもはるかに深く、落差も大きい。想像を絶する世界がそこにあることは間違いない。それでも海底地形を地上との連続性で見ていくと分かりやすい。特に陸地近くの海底は海退期には地上であった訳で、現在の河口から深い谷が海底へと続いている様子には思わず息を飲む。世界の海底を旅する楽しみがひとつ増えたようだ。
2012.02.04
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洪タイの洪水は、各地で水が引いている。バンコクでは、水浸しになった家電や家具、衣服などが大量に捨てられ、あちこちに山のように積み上げられている。 ほぼ全域が浸水していたバンコク北部のドンムアン区。9日、勤務先の美容室を掃除していたアムポンさん(31)は「3日かけてだいぶん片づいた」と話す。50センチを超える浸水で泥がこびりついたイスや棚など店内の家具はすべて捨てて、店の中は空っぽに。悪臭を取るために、洗剤を使って床、壁全体を拭き掃除していた。「家具をすべて一からそろえるのは大変。店をたたむかもしれません」 バンコク都は、各地に緊急のごみ捨て場を指定。その一つでは、道路沿いの幅10メートルほどの歩道と空き地に、長さ1キロ以上にわたる高さ約3メートルのごみの山ができていた。生ごみ混じりで、はえがたかって悪臭を放つ。都知事によると、8日のごみ収集量は過去最高。通常の約1.5倍の1万2463トンに及んだ。 (asahi.comより)--------------------バンコクもやっと水が引いてきたようだ。そして恐れていたことが起こっている。大陸型の洪水は湛水期間が長いだけに、財産の多くが打撃を受ける。そしてもう一つの問題は衛生面だろう。ゴミが大量に積みあがっているように、悪臭や伝染病の源になる可能性も否定できない。復旧作業はもちろんのことだが、衛生面、特に住民の健康面に関しては手厚いケアが望まれる。影響が拡大しないことを祈りたい。
2011.12.10
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路線と駅が視覚的に分かりやすく表記されている路線図。降りる駅や乗り換えの駅を確認する時などに、見る人は多いだろう。そんな路線図の中で、間違いなく世界最大スケールと言えるものが、今海外で話題になっている。その図は、世界中の都市を地下鉄で結んだもの。つまり、日本の都市とロンドンやパリ、ニューヨークなどが繋がっている地下鉄の路線図なのだ。・ロンドンの地下鉄マップをヒントに制作注目の路線図を制作したのは、イギリス・ウェストヨークシャー州在住のクリス・グレイさん(47)。ウェブ開発の仕事をしている彼は、オーストラリアでクリケットの試合を見ている時に、世界を地下鉄で結ぶ構想を思いついたのだとか。なお、この地図は1931年に作られたロンドンの地下鉄マップをヒントにして作られたらしい。・現時点では実現不可能しかし、実際にこれを実現するのは、今の時点では不可能なもよう。なぜなら、構想を実現するには、太平洋や大西洋を横断する地下鉄の線路を敷設しなければならない。海底には、海溝やプレートが交錯している場所などもあるからだ。ちなみに現在では、最新の技術を駆使しても、海底トンネルは1日に30メートル掘り進めるのがやっとなのだとか。このペースでロンドン〜ニューヨーク間に海底トンネルを通すとなると、海溝やプレートに対処することを含めなくても、508年もかかる計算に!! これは確かに難しそうだ。・将来的には多くの大陸が構造物で結ばれる!?橋とトンネル設計技術のエキスパートであるロバート・ベイナム氏は、大西洋に巨大な海底トンネルを通す技術は存在しないと考えているようだ。また、もし計画を実現しようとするならば、膨大な予算と時間がかかるとも。ただし、彼は「海底トンネルはいくつかの場所で不可能かもしれないが、将来的には、より多くの大陸が、物理的な構造物で結ばれるかもしれない」とも述べている。つまり、海底トンネルは無理かもしれないが、他の手段によって将来的に大陸間同士が結ばれるかもしれないというのだ。・「ハイパーループ」システムが世界をつなぐ?ベイナム氏が、将来的に有効になるかもしれないと考えている手段が、フローティングトンネル、すなわち海上に浮かせたトンネルと、アメリカの起業家イーロン・マスク氏が構想した超高速輸送システム「ハイパーループ」だ。ハイパーループは、空気圧を利用した乗り物で、形状はカプセル型。最大の特徴はそのスピードで、最高時速1223kmにも及ぶのだとか。このハイパーループなら、海底や地中にトンネルを掘る必要はない。もちろん、これらは今のところ1つの構想という段階だが、将来的には実現されるかもしれない。何とも夢のある壮大な話である。(ロケットニュースより)------------------------------もちろん現段階では妄想の粋を出ないわけだが、発想が何ともユニーク。しかもデザイン的にもとても面白い。何も地下にしなくてもいいだろうと思うのだが、「地下鉄」だからこそこのビジュアルになるのかも知れない。地下鉄マップらしいデフォルメがされているように見せながら、大陸の形が何となく現れているのも凄い。ソースになっているMail Onlineのサイトにいくと、拡大鏡が現れて駅名を見ることができるのだが、日本では旭川→札幌→仙台→東京→名古屋→大阪・神戸→岡山→広島→福岡→鹿児島→那覇→(台北)→(終点はパース)という路線と、東京→名古屋→京都→(ソウル)→(終点はエジンバラ)という2路線が描かれているのを読みとることができる。前者は環太平洋火山帯に沿い、後者はユーラシア大陸横断路線だ。地理好きならこれは案外見ていて飽きない。
2014.04.11
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1947年9月15日、カスリーン台風が関東地方を襲った。関東北部では土石流などの土砂災害を、南部では河川の氾濫による大規模な浸水被害をもたらし、死者1,077人、行方不明者853人、負傷者1,547人、住宅損壊9,298棟、浸水384,743棟(いずれも理科年表より)で罹災者の数は40万人以上という甚大な被害になった。かつては湿地帯だった旧利根川沿いの低地6000年前の東京湾の海岸線は、いわゆる縄文海進により現在の利根川近くまで入り込んでいた。その時海の底にあった場所はその後陸化したものの、通行に苦慮するほどの湿地帯だった。房総半島の旧国名は半島の付け根が「下総」奥が「上総」となっているが、都であった京に近い方が通常は「上」となるルールに合わない。これは当時の房総へ入る際に関東平野南部の湿地帯を通行することが困難であったことから、三浦半島から海路房総へ向かっていた名残だという。荒川はもちろんのことだが、現在は千葉・茨城県境を太平洋へと流れる利根川や、その支流となっている渡良瀬川も、江戸時代以前は東京湾に注いでいた河川である(これらの河川沿いに湿地帯が広がっていた)。これを江戸幕府が、江戸の街の洪水対策と舟運のために「東遷」と呼ばれる付け替えを行った結果が現在の流路だ。こうしてかつての湿地田は水田地帯に変わることになった。また1783年の浅間山の天明の大噴火による土砂の流入で利根川の河床が上昇したことをきっかけに幕府は江戸の街を守るための治水に本腰を入れ、中条堤を建設して右岸を強化した。しかし皮肉にもこのことで本来水害に脆弱な土地に人が住むことになってしまう。その後明治期の関東大水害では中条堤が決壊して守っていた右岸でも大きな被害が出たことで、中条堤のように氾濫を前提として要所のみ守る治水は限界とみて荒川放水路の建設が始まり、堤防による治水が本格化する。これが脆弱な土地への人の流入をますます進めることになる。幾度となく水害が繰り返された旧利根川沿いの低地はそれでも広大な平地であり、交通の利便性も高いことから、その後の国土の有効利用政策により、この地域は集中的に開発が行われてきた。そしてカスリーン台風では、まさにこの低地がそっくりそのまま大水害の舞台となった。発端は利根川の決壊大水害の発端となったのは、利根川の堤防決壊だった。決壊した場所は埼玉県加須市(当時の東村付近)で、現在はカスリーン公園が整備されている。ここの地名は「新川通」で文字通り、かつての利根川の流路を変えて人工的に直線化されたことが分かる場所だ。このすぐ下流には渡良瀬川との合流地点があるため、流れが停滞しやすい。加えて、かつては上流部にも、あえて水を溢れさせておくための遊水地帯が豊富にあったが、川を堤防で固めてしまったことで、こうした遊水地が機能しなくなっていた。この地点が破堤したのは偶然ではない。それまでの利根川は現在の加須市の埼玉大橋上流あたりから南下しており、現河道は旧利根川と渡良瀬川を直線的につなぐ形で建設された。旧河道は埋め立てられて加須・大利根工業団地が整備されており、現在の地名は旧河川の存在を示す「古川」、そして新造成地であることが分かる「新」地名である「新利根」となっている。そもそもこのあたりはかつて洪水のたびに川の流路が変わるような湿地帯で、ところどころ自然堤防が分布するような土地だった。古利根川、権現堂川、庄内古川、中川、元荒川など多くの河川や水路が網の目状に流れており、これら河川の堤防が各所で決壊したことで浸水が拡大した。洪水は東へと広がり、江戸川にまで達するが、特に大きな被害を出したのが最初の破堤地点に近い栗橋から幸手にかけてで、水深は2メートル以上になり、この地域で多くの家屋が流失している。洪水は幸手、春日部、越谷、吉川、三郷、八潮、草加と埼玉県東部を南下した。三郷市は中川と江戸川に挟まれた低地帯で、ほぼ全域が浸水しており、湛水期間も二週間に及んだ。この地域は1958年の狩野川台風においても長期の湛水を記録している。水没した下町低地カスリーン台風による氾濫は、埼玉県と東京都の境界にある大場川の櫻堤に阻まれて一旦食い止められた。利根川の決壊から二日後のことになる。櫻堤はと大場川の小合溜井と呼ばれる遊水地(現在の水元公園)にある堤防。ここが破堤した場合、氾濫流が東京の下町に流れ込むため、東側の江戸川の堤防を爆破することで氾濫流を江戸川に排水することが試みられたが失敗に終わる。翌朝未明、ついに櫻堤は崩れて濁流が葛飾区を浸水させた。葛飾はそれまでも何度となく水害に悩まされていたが、カスリーン台風では浸水家屋54,128棟、罹災者218,251人という甚大な被害になった。足立区では東部の低地が水没、また江戸川区もほぼ全域が浸水に見舞われた。最終的にカスリーン台風による浸水は、破堤した利根川から東京にまで広がり、氾濫の流下距離は60キロに達した。江戸の水害を回避するために利根川は付け替えられ、かつての氾濫原に広がっていた低湿地は新田開発が進んだ。当初人々は自然堤防上に集落を形成していたが、都市化が進むと徐々に旧河道や後背湿地にも住宅が建てられるようになってきた。そこには大きなリスクがあることをカスリーン台風の事例が示している。破堤により流れ出た氾濫流は自然の理に従って、低い土地へと流れていく。それはあたかもかつての利根川の流れを再現するかの如く、地形をなぞるように古利根川沿いを南下していった。大量の氾濫流が流れ込んだ中小河川の堤防も次々と破れ、埼玉東部から東京都にかけての低地はほとんど浸水することとなった。氾濫流は江戸川河口から東京湾へと排水された。しかし、もともと水はけの悪い低湿地であったことに加えて、葛飾区や江戸川区の荒川沿いの地域は地盤沈下の進行で標高が海面下であり、排水はなかなか進まず、この地域では湛水期間が半月を越えた。この大災害をきっかけに「利根川改訂改修計画」が策定され、利根川水系8ダムを建設することとなり、ダムによる洪水調整を主とした治水が本格化する。カスリーン台風では荒川放水路が決壊することはなかった。にもかかわらず、東京でも一部地域で浸水深が2メートルを越えた。もし荒川も決壊したらどうなるのか、という想像も必要なことだろう。水害が繰り返されることは歴史が証明している。カスリーン台風と同等かそれ以上の水害も長いスパンで考えれば必ず起こるだろう。荒川放水路は完成してまだわずか100年程度であることを忘れてはいけない。もちろん、堤防などの防災対策は当時とは比べ物にならないくらい強化されている。それでも大雨で容量を越えれば水は溢れる。大河川を守るために水門が閉じられれば今度は中小河川や排水・下水が氾濫することは必至だ。浸水地域は地形に依存するものだ。カスリーン台風で東京の下町低地の大部分が浸水被害に見舞われたことはしっかり認識しておきたい。※本記事は自著『地名は災害を警告する』をはじめとして過去に執筆した文章を一部改編してまとめたものです
2014.09.16
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1888年(明治21年)7月15日、会津磐梯山が噴火し、水蒸気爆発による山体崩壊が北面で周囲の地形を一変させ、死者477人という大きな被害になった。近代国家としての体裁を整えつつあった明治政府が初めて直面する大規模な自然災害だった。予兆から噴火、そして山体崩壊噴火の1週間ほど前から磐梯山周辺では鳴動と遠雷音が発生し始めた。磐梯山にはいくつかの当時場では、鳴動や発煙を受けて当時客が避難するなどの騒ぎになっている。住民も不安を感じたものの、こうした現象が噴火の前兆であることは分からなかった。磐梯山が活火山であるという科学的認識もなかった時代の話であることを考えれば仕方のないことかもしれない。現在であればこうした現象を捉えれば噴火の前兆として避難等の措置がとられるだろう。しかし当時は科学的知見もそれに見合う観測体制もない。その後も鳴動は続いていた。7月15日7時30分頃、鳴動と共に強い縦揺れの地震活動が活発化した。地震は断続的に発生、その揺れも徐々に大きくなっていくと、7時45分にとうとう噴火した。噴火は小磐梯(現存しない)山頂部で、噴煙は上空1300mに達して東南東方向へ流れて広範囲に降灰をもたらした(降灰は太平洋岸のいわきでも観測されている)。噴火地点に近い山麓では火山弾が降り注ぎ、直接肌に触れると火傷をおう熱をもった火山灰も降り、死傷者が発生したことが記録されている。大きな爆発が15回から20回くらい引き続いて起こり、最後の爆発が北に横向きに抜けたことが目撃されている。この最後の爆発が小磐梯山と北面の斜面を崩壊させ、山津波状の岩屑なだれとなって北麓へと流れ下っていった。北麓にあった5村11集落はすべて埋没して477名の犠牲を出した。爆風、ブラスト、水蒸気爆発サージを伴った疾風は木々をなぎ倒し、家屋を破壊した。<白木城小学校舎暴風ノ為ニ破潰ノ図(福島県立図書館デジタルライブラリーより)>また、北麓を流れていた長瀬川水系は多くの場所で山体崩壊による土砂等で河道閉塞を起こし、桧原湖、小野川湖、秋元湖といった堰止湖を生んだ。河道閉塞で不安定になった長瀬川ではその後融雪時等に繰り返し洪水や土石流を発生させて下流を襲うことになった。この状態は大正時代に3湖で築堤工事が実施されるまで続いた。一連の噴火はその日の夕刻には治まっている。20日にも小規模な地震が記録されているが、噴火そのものはわずか1日で終息したことになる。現在、裏磐梯から磐梯山を望むと、山体がえぐれたような形になっているが、その部分が当時の噴火による崩壊部にあたる。<磐梯山北面の山体崩壊の跡と堰き止めにより形成された湖沼群(地理院地図より)>近代国家として初めて直面した大規模災害への対応この噴火は明治維新を経た近代国家としての日本が直面する初めての大規模自然災害であり、その対応においても様々な試みがされている。その一つが科学的な調査だった。現地入りしたのは帝国大学理科大学教授関谷清景、農商務省地質局の和田維四郎と大塚専一、内務省地理局技師の和田雄治ら。また、工科大学の外国人教師ウィリアム・バートンも写真技師として同行したことで、磐梯山噴火は初めて写真に記録される災害となった。当時黎明期にあった新聞メディアも積極的に報道し、災害現象の科学的解明に対する興味が社会全体に広がった。噴火による被災者には凶作のための農民救済制度であった備荒儲蓄金が支給されたが、これは充分なものではなかった。これを天皇からの恩賜金と国民からの義援金が補うことになる。義援金は新聞などのメディアによる社会事業活動のさきがけで、54新聞社の約6万人から、総額約3万8千円が集まった(現在での約15億円に相当する)。災害の応急対策に適応しきれない場合の恩賜金、義援金の意義を示した事例といえる。まだ統一規格の地図がない時代ながら、噴火後に農商務省地質局により「磐梯山之図」という詳細図が作成された点も特筆される。結果的に1888年磐梯山噴火は我が国における大規模自然災害に対して近代科学のメスが入った最初の災害であり、官民あげて復旧にとりくんだ最初の災害でもあった。政府や社会の対応は当時の状況としては評価されるべき水準であり、その後の災害対応のあり方への前例となっている。
2014.09.24
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地図の読解にはふたつの能力が関与しており、それらは個人によって大きな差があることが、オレゴン大学の研究者らが進めている研究で明らかになった。読解能力が簡単にわかるテストも紹介。あなたもたぶん、知り合いのなかに、「地図が読めない人」がいるだろう。あるいは、あなた自身がそうかもしれない。オレゴン大学の地理学者エイミー・ロッベンは、義妹が「地図が読めない人」だったために、このテーマの研究を始めた。「地図が読めない人」について研究することで、誰にとってもわかりやすい地図表示方法が開発できるのではないかと考えたのだ。「地図の読み方やその能力は非常に測定しにくいものだが、人間の脳内ではあらゆる興味深い活動が起こっている」と、ロッベン氏は話す。ひとつは、目の前にある路上の視点から、地図の鳥瞰視点に見方を切り替える能力だ。ロッベン氏は、コンピューターを使ってこの能力を測定するテストをいくつか考案した。あるテストでは、地図と、地図上の一地点を写した路上写真を被験者に見せる。そしてふたつの方向の矢印を示し、地図上ではそのどちらが写真撮影者の向いていた方向に一致するか(あるいはどちらも一致しないか)を答えさせる(以下の画像)。このテストは、実際の地図読解能力の予測に非常に有効であることが明らかになったと、ロッベン氏は話す。それを検証するテストでは、数百人の被験者を知らない場所で下ろし、現在位置を地図で示して、そこから地図上の別の地点までたどり着くよう指示した。移動中はGPS装置を使って、被験者のたどる経路を追跡した。コンピューターを使ったテストで好成績を上げた被験者は、目的地に直行するルートをたどり、短時間で到着する人が多かった。一方、成績が悪かった被験者は、より頻繁に立ち止まり、より曲がりくねったルートをたどる傾向を示した。もうひとつ個人差の大きい地図関連能力は、メンタルローテーション(頭の中で物体を回転させる能力)だ。標準知能テストを受けたことのある人なら、ある図形を見て、それが他のふたつの図形のどちらと同じか答える問題をご存じだろう。この問題が難しいのは、最初の図形を頭の中で回転させなければならないところだ。ロッベン氏によると、この能力が高い人は、地図を見る際に、常に北を上にする傾向を示したという。一方、この能力が高くない人は、地図を回転させ、常に自分の進行方向を上に向ける傾向を示した。しかし、だからといって後者の地図読解能力が劣っているわけではない。「どちらの戦略も有効だ。人間は自分の能力を補うために、いろいろな戦略をとる」とロッベン氏は話す。さらにロッベン氏は、fMRIスキャンを使って、メンタルローテーションや視点切り替えが得意な人と苦手な人で、脳活動に違いがみられるかどうかを研究している。まだ分析途中ではあるが、特にメンタルローテーションに関しては興味深い違いが見られるという。例えばロッベン氏らのチームは、場所(風景)の画像に対して選択的に反応するとみられる脳の領域、海馬傍回場所領域(PPA)が興味深い活動を示すことに気づいた。このPPAは、部屋や街路、有名なランドマークなど、さまざまな場所の写真を見たときに活動が高まることが知られている。この領域の研究はまだ予備的段階だが、ロッベン氏らのチームは、PPAが航空写真には強く反応しない一方で、一部の地図には反応を示す傾向を明らかにしている。この結果は、脳が風景を場所として認識する仕組みの手がかりとして、神経科学者の関心を引く可能性がある。一定の縮尺レベルが関係しているのか、どれほど抽象的なものまで認識可能なのか、といった関心だ。ただしロッベン氏自身は、PPAの活動それ自体についてというよりは、「PPAと地図読解能力の関係」に、より大きな関心を抱いている。どのようなデザインにすれば、使いやすく、直感的に理解しやすい地図が作れるのかが問題意識だからだ。「わたしが目指しているのは、簡単な認知テストを行って、その人がうまく目的地に到達する上で本当に必要なものは何かを判定し、それに基づいてナビゲーションシステムを個別化することだ」とロッベン氏は話す。わかりやすい例でいうと、スマートフォンで表示する地図を、メンタルローテーションが得意かそうでないかによって、北が上で固定するか、常に地図を回転させるか、個別に設定できるようにするといったことだ。助けになりそうな方法としてロッベン氏が提案するのは、画面の拡大・縮小によって路上視点から地図視点へとなめらかに切り替わる機能や、ユーザーの現在位置と進行方向を、丸や矢印で地図上に示す機能だ。(WIREDより)------------------------------なるほど、地図が読めないとうことを科学的に考えたことはなかった。でも得意な人と苦手な人は確実にいいるわけで、それが何に因るものかを知るのは地図をつくる上で本来重要なこと。ところが地図を読める人は読めない人のメカニズムも気持ちも分からないし、逆もまたしかりだ。そんな中で、本文中にあるテストはなるほどな、というものだ。特に路上視点から鳥瞰視点への変換は大きな影響を持つかもしれない。これはまさしく目の前のリアルワールドを抽象化する行為。メンタルローテーションの得意不得意はカーナビのいわゆるノースアップとヘディングアップの選択にも現れる。カーナビのデフォルトはヘディングアップだが、慣れている人は(地図に示されていない目的地やランドマークなど周囲との関係がつかみやすい)ノースアップの方がむしろ見やすい傾向がある。ただしメンタルローテーションが不得意だからと言って「地図が読めない」ということではない。そして「PPAと地図読解能力の関係」は非常に興味深い。もともといい地図は景観を脳内で再現させるようなものだ。これは地図が図式やデザインに大きく依存することでもある。ロッベン氏が目的としている「ナビゲーションシステムを個別化」については、他の多くのサービスと同様、今後進んでいくことは間違いないだろう。そこに連動・付帯した新たなビジネスも登場するかもしれない。しかし個人的にはむしろこうした科学的分析から「どうしたら地図を読めるようになるか」を指向したい気がするのだ。
2013.12.06
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今から55年前の今日、すなわち1959年(昭和34年)9月26日、午後6時過ぎに紀伊半島に上陸した伊勢湾台風は直径700kmに及ぶ広範囲を暴風雨に巻き込みながら本州を縦断、伊勢湾岸を中心に死者4,697名、行方不明者401名、負傷者38,921名住家全壊40,838棟、半壊113,052棟、床上浸水157,858棟、床下浸水205,753棟(消防白書より)という戦後最大の災害になった。戦後最大の被害をもたらした高潮上陸時の中心気圧は929hPaと勢力が強く暴風域も広かったため、広い範囲で強風が吹き荒れた。伊良湖で最大風速45.4m/s(最大瞬間風速55.3m/s)、名古屋で37.0m/s(同45.7m/s)を観測するなど、九州から北海道にかけてのほぼ全国で20m/sを超える最大風速と30m/sを超える最大瞬間風速を観測した。最も深刻だったのは高潮による被害だ。熊野灘から知多湾・三河湾・伊勢湾では台風が西側を北上したため、非常に強い南寄りの暴風が吹き続けた。この強い風による吹き寄せと気圧低下による吸い上げの影響により高潮が発生して、名古屋港で観測史上最高の3.55mを記録、過去最高だった室戸台風時の大阪港の2.9mを上回った。名古屋港でのそれまでの最高潮位を1m近く上回る潮位となり、暴風波浪の影響も加わって堤防を寸断、住宅団地を土台だけ残して洗い流すなど大きな被害が出た。伊勢湾が奥行き深く遠浅でその吸い上げの影響を受けやすかったことに加え、地形的な要因も大きかった。伊勢湾とその湾奥部は低平な沖積平野が広がっており、さらに干拓によって陸地化された土地も多かった(鍋田干拓地では堤防のほとんどが破壊され、住宅地と耕地は全滅、133名が犠牲となった)。こうした土地は水害に対して極めて脆弱な土地ながら、戦後の復興・発展の過程で防災対策が不十分なまま市街化されていたばかりか、急速な工業発展に伴う地下水のくみ上げで地盤沈下が進行している地区もあった。高潮は河川を遡上し、堤防を決壊させ、内陸部の低平な土地まで浸水させた。地形的な要因もあり、湛水期間は長期化した。名古屋市南区付近は、1ヶ月以上も水が引かなかった地域があった他、干拓地(海面下-3mという場所もあった)では復旧にあたり堤防を完全に作り直した後にポンプによる排水を行うため、浸水が完全に解消したのは被災から半年後のことだった。また、当時は水洗トイレが普及していないため、汲み取り便所の汚水があふれ出たことに加え、孤立した人々の排泄物も滞留して公衆衛生が著しく悪化した。<伊勢湾岸の干拓地。朱が1600~1699年、茶が1700~1799年、黄が1800〜1899年に干拓された土地(内閣府HPより)><伊勢湾台風の被害状況(内閣府HPより)>被害を拡大させたいくつかの要因被害を拡大させたいくつかの要因もある。この台風で最も多くの犠牲者を出したのは名古屋市の港区と南区だった。これは名古屋港の貯木場から20万tものラワン材が流出し、直径1m、長さ10m、重量にして7~8tにもなる木材の塊が高潮に乗って住宅地を襲ったことによる。南区のおよそ1,500人の犠牲者の大半が流木によるものと考えられる。さらには流木によって流された家屋が他の家屋に衝突するような形で被害が広がった。また、当時は住民の台風に対する意識が希薄だったことに加え、行政の防災体制もまだ不十分だった。例えば、気象台などからの警報や台風情報の住民への伝達が十分に機能しなかった点が挙げられる。行政機関を通しての伝達はどうしてもタイムラグが生じやすく、防災無線などのインフラも乏しかったとこを考えれば伝達手段としての確実性はなかった。最も確実なのは放送による伝達だった。実際に伊勢湾台風はそれまでの「被害報道」から台風情報の伝達を目的とした「防災報道」に初めてシフトしたものだった。しかし、当時はまだ電池式ラジオの普及率が低かったことも影響して、停電のために折角の報道が届かなかったのだ。このことで人的被害が拡大したのは不運だった。また、各市区町村からの避難命令も徹底されていなかった。気象台からの高潮警報は名古屋港での潮位が最高位に達した26日21時35分の約10時間前にあたる11時15分に発令されていたが、市区町村によって対応が大きく異なった。最も早かった美浜町は13時に避難命令を発令したが、避難命令が発令されないまま被災した市町村もある。知多半島から三河湾にかけての碧南、美浜、武豊、内海の市町村は、この6年前の1953年に13号台風によって大きな被害を受けていた経験から発令が早く、これら4市町村全体での犠牲者も26名に留まった。これに対して13号台風の被害が比較的小さかった伊勢湾奥部の市区町村では発令が遅かった。特に、大部分が干拓によって陸地化された長島町などでの避難命令が19時を過ぎて出たことは致命的だった。発令された時点で既に停電のために真暗闇の暴風雨となっており、避難には無理がある状況だった。長島町では381人の犠牲者が出ている。<避難命令発令時刻(内閣府HPより)>こうした被災経験の有無が避難行動に如実に反映されるのは現在でも変わらないだろう。さらに、ラジオで「昭和28年の13号台風に、勝るとも劣らない大型台風」というフレーズが盛んに繰り返されたのだが、その受け止め方が当時被災した地域では「あの時と同じなら大変だ」となるが、被災していない地域では「あの時と同じ程度なら大丈夫」となってしまったことも一つの要因であるとの指摘がある。<伊勢湾台風による決壊箇所と浸水状況図(中部地域づくり協会HPより)>防災の大きな転換点伊勢湾台風は日本の防災の大きな転換点でもあった。2週間後には臨時台風科学対策委員会(委員長:中曽根康弘科学技術庁長官)が設けられ、現地を視察した結果防災のための立法の必要性を示唆、1961年1月に「災害対策基本法」が公布された。また、河川の治水も見直され、いくつかのダムがこれをきっかけに計画・建設されている他、干拓地の堤防もより強固なものに造りかえられた。また、当時濃尾平野の地形分類図は既に作成されており、(浸水)被害状況が地形に対して従順な結果であったことから、新聞では「地図は悪夢を知っていた」という見出しが打たれ、地図がきちんと利用されていれば被害は軽減できたのでは、という意見が見られた。こうしたことが後の土地条件図、あるいはハザードマップの整備へと繋がるきっかけであったことは間違いないだろう。※国土地理院HPで当時の災害状況図を閲覧可能
2014.09.26
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