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マリア・カザレス、この人の名をご存知の方はまだおいでだろうか。「天井桟敷の人々」のバチストに純愛を捧げる娘から「パルムの僧院」のサンヴェリーナ伯爵夫人の威厳に満ちた美しさは何と表現すべきか。 また「オルフェ」で見せてくれた”死の国の王女”の神々しさ、崇高さは美の極致と言っても過言ではあるまいと思える。彼女の気品、セリフまわし、全身黒ずくめのコスチューム、特に能面のような表情が愛に乱れる際のすさまじさ、「オルフェ」を見た時は思わず戦慄したものである。彼女は1922年11月21日、スペインのラ・ブローニュで生まれた。父は内務大臣で、36年内乱を避けパリに移住した。41年、コンセルバトワールに入学、翌年コメディ科二等賞と悲劇科の賞状を取り、マチュラン座劇団に入団する。以後、コメディ・フランセーズ、国立民衆劇場の悲劇女優として活躍。44年、「天井桟敷の人々」で映画デビューをした。オルフェの遺言1960年に「オルフェの遺言」「光と影」に出ているが、以降はほとんどスクリーンから姿を消しており、88年の「読書する女」に珍しく顔をみせている。私生活は不明だが、『異邦人』や『シーシュポスの神話』、『ペスト』などの著作で、人間存在の不条理さに光を当て、1957年にはノーベル文学賞を受賞したアルベール・カミュとは愛人関係の噂が絶えなかったという。1996年11月22日、彼女は天国へと上って行ったのである。
2010.02.12
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Fred Astaire フレッド・アステア / Fred Astaire: Jukebox Memories 輸入盤 【CD】 フレッド・アステア、彼ほどミュージカル映画に偉大な足跡を残した人物はいないだろう。こう書くとジーン・ケリーがいるじゃないかという人もいるだろう。ジーンも優れた踊り手だったが、アステアは別格だ。水が流れるような踊りとは彼の踊りを云うのだろうか。それに何といってもエレガントだった。ジンジャー・ロジャースと組んで踊ったナンバーの数々、だが、私にとって特筆すべきナンバーは、「バンド・ワゴン」でシド・チャリシーと馬車を下りて公園で踊る場面だ。あの優雅さは絶品を通り過ぎてもう神技以外の何物でもあるまいと思う。バンド・ワゴンそれと、「恋愛準決勝戦」だ。これには度肝を抜かされた。単なる撮影のテクニックに過ぎないのだが、踊りながら壁面から天井まで逆さになってタップを踏むのである。これも映画の可能性を見せてくれた作品として長く記憶に残る映画である。アステアは本当に踊りの名手だったと云えるだろう。彼は1899年5月10日、ネブラスカ州オマハで生まれた。本名フレデリック・オースターリッツ。母ジョハナ・"アン"(旧姓ガイラス)はルター派のプロテスタントで、東プロイセンとアルザスからの移民二世。父フレデリック・"フリッツ"(旧姓名はフリードリヒ・エマヌエル・アウスターリッツ)はカトリックに改宗したユダヤ人を両親としてオーストリアのリンツに生まれた移民一世だ。4歳からダンス・スクールに学んだアステアは、2歳上の姉のアデールとコンビで全米のヴォードヴィル劇場を巡演し、人気を得た。17歳でブロードウェイにダンサーとして進出を果たし、20歳で名声を確立。1921年には、22歳で姉・アデールと舞台『バンド・ワゴン』を大成功させた。しかし、1931年にアデールは結婚を機に芸能界から引退したため、弟のアステアは新たな活路を模索する。映画界への転進を目指し、ハリウッドでカメラ・テストを受けたが、当初の評価は散々だった。それでもステージで培われた実力でスクリーンへの道を拓き、1933年にメトロ・ゴールドウィン・メイヤー映画「ダンシング・レディ」へのゲスト出演でスクリーンデビューする。続いて当時の大手映画会社の1つで経営難にあったRKOと契約しジンジャー・ロジャースとコンビを結成、1933年以降、主演映画作品において華麗なダンスを披露した。アステアとロジャースは1939年までRKOで数々のドル箱ヒット作を生み出し、RKOは二人のダンス・コメディ映画シリーズによって経営を立て直した。トップハットに燕尾服、ホワイトタイというエレガントなスタイルで、当時最高の作詞家・作曲家たちの手になるナンバーを歌い踊るアステアは、不況下のアメリカの大衆を熱狂させた。アステアとロジャースは、映画史上最高のダンシング・ペアとされ、二人の一連の主演作は「アステア=ロジャース映画」と半ばジャンル的な扱いをされ、現在に至るも評価されている。アステア&ロジャース GOLDEN BOXだが、アステア=ロジャース映画も終りを見せ、アステアは、1940年からはフリーで映画出演をする。この頃、タップ・ダンサーのエレノア・パウエルやリタ・ヘイワースらとコンビを組み、タップダンスで競演を見せた。特に1940年の「踊るニュウ・ヨーク(踊る紐育)」でのタップシーンは秀逸であり、エレノアとの名人どうしの火花散るようなステップが、この映画の底抜けの楽しさを引き出すことに成功しているが、興行的にはロジャースとのコンビには及ばなかった。1948年、「ポスト・アステア」の地位にあった同じMGM所属のジーン・ケリーが撮影中に怪我を負ったため、代わってアステアが「イースター・パレード」の主役を引き受けた。イースター・パレードアステアの相手役は当時26歳のジュディ・ガーランド、彼女はアステアに一歩も引けを取らず、洒落た歌と練達の踊りを披露した。この「イースター・パレード」が世界的なヒットと成功をおさめ、”過去の人”となりかけていたアステアの人気は三たび急上昇する。MGMの二枚看板としてジーン・ケリーと共に活躍したが、二人の共演は「ジーグフェルド・フォリーズ」と「ザッツ・エンタテインメント」の2作にとどまっている。 1953年には、ヴィンセント・ミネリ監督の豪華な大作「バンド・ワゴン」に主演してミュージカル映画の最高峰との評価を得た。本作はアステアの長いキャリアにおける一つの頂点と云えるだろう。アステアのエレガントなダンスには「洗練」という言葉が最も当てはまる。彼はダンスに洗練と品格の両方を備えさせることに成功した、二十世紀を代表するダンサーであり不世出の天才と言えるだろう。正統派のダンス・ファッション共々「粋」を極めたダンサーだった。プライベートでのアステアは、ボストンの富豪の娘のフィリス・ポッターと1933年に結婚した。約21年間彼女と結婚生活を送るも、フィリスは脳腫瘍に罹り、46歳の若さで急逝した。愛妻の死で悲嘆に暮れたアステアは長年を独り身で過ごしたが、晩年に女性騎手のロビン・スミス(当時35歳)と出会い、1980年に再婚。アステアが1987年6月22日に88歳で亡くなるまで、彼女と幸せに過ごしたという。フレッド・アステア自伝
2010.01.10
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赤い風車で知られている、パリ・モンマルトルの有名なキャバレー「ムーラン・ルージュ」。19世紀の末、毎夜のようにこの店を訪れ、名物のフレンチ・カンカンや踊り子たちをスケッチする画家がいた。彼の名はトゥルーズ・ロートレック(ホセ・ファーラー)と言った。南仏の公爵家の息子に生まれたが、子供の頃に階段から転げ落ち、以来不具の身となり、強いコンプレックスに苛まれていた。それから逃げるために片時も酒を放さなかった。手に持つステッキにまで酒を仕込んでいるという有様だ。ある夜、ロートレックは夜の女マリィ(コレット・マルシャン)を警官から救い、同棲を始めたが、束縛を嫌うマリィは家出する。絵画への情熱に目覚めたロートレックは創作意欲を抱き、別の美神(ミューズ)ミリアム(シュザンヌ・フロン)と知り合う。ミリアムと美術館へミロのヴィーナスを見に行き、ロートレックはヴィーナスの前でこう語る。「この美の謎は、我々には永遠に分かるまい。偉大な芸術は単純じゃない。人生だって、人の心だって単純な筈がない・・・」と。そして、遂には酒のために身を滅ぼしてしまうのだ。天才、必ずしも幸せならずと教えられる映画と言えよう。1952年 イギリス・カラー 監督 ジョン・ヒューストン 出演 ホセ・ファーラー コレット・マルシャン シュザンヌ・フロンブログランキング参加中 応援よろしくお願いします ↓人気blogランキングへ
2007.06.28
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