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一応、生まれて初めてナマで聴いたピアノ協奏曲がこの曲。大阪では朝比奈=大フィルが正月に「新春コンサート」というのをやっていて、この「皇帝」と「新世界より」だった。ただ、不思議とその時は、「新世界より」帰宅途中に憶えて口ずさむほどで、今でもところどころその時の響きが思い出されるほどなのに、「皇帝」は音の記憶が無い。ただ、その後、ほどなく2回目に買ったLPが「皇帝」(と「幻想」)文字通り擦り切れるまで聴いた。またFMで「基礎英語」録音用のラジカセに録っては聴いたものだ(ポリーニがベーム=ウィーンフィルと組んだライブ)。音質なんてあったものではないが。そのように、もう昔から親しんだ曲なので、あらゆる部分が「懐かしい」。半面、ふと油断すると聞き流す。ここしばらく聴いてなかったのだが、例によって、帰宅途中に無性に頭に浮かんできて、かけたのが、最近入手したこの盤。アラウも、FM時代に思い出深いピアニスト。しかし、「ちゃんとした録音」ではなかなか聴く機会がなかった(全く個人的理由)。80歳頃の録音のはずだが、とても楽しそうに余裕を持って弾いている。冒険はもうしない。堅実にとにかくきっちり響きをつくるデイヴィスと同質の音楽作りかもしれない。一度聴いたときは重たいようにも思ったのだが、今日聴くと、とにかく落ち着いてじっくり聴ける。フレージングが吟味しコントロールされていることも、整った印象の理由の一つかもしれない。よく聴くと、表情付けも、音型の処理も、個性的な部分もあって、「生身の人間がそこで弾いている」という感じも伝わってくる。これもまた、聴く音量にもよるのかもしれない。聴いていくと、順番に、心が動くのだが、特にというと、第2楽章は、心に沁み込む。第2楽章が心にしみこんでざわめいてからこそ、第3楽章の跳躍がまた心に共振するのだろう。「単なる思い付き」のような演奏ではないので(オケがややフレーズの末尾をたっぷりと鳴らす=やや重たい のは、時によっては気になるが、今日はそれも「安定」に聴こえる)、納得の聴き応え。オケの木管も、一糸乱れぬというのではなく、色気にあふれるというのでもないのだが、「志向するフレーズが同じ」という「アンサンブル感」が心地よい。シュターツカペレ・ドレスデンは、名オーケストラだが、指揮者か録音によっては、とても荒れた音を出す。これがベルリンフィルが制御しきれず暴走するのとは違い、金管を中心に荒れるのだが、良い方向付けを得たこのオケは、本当にお互いを聴きあっているのだな、ということがよく判る、独得のアンサンブル感と音色感(音色は実は録音では想像しかできないけど)を持つ。デイヴィスは、熟年以降は、まず響きを安定してたっぷり響かせることに意を尽くすので、テンポ感が犠牲になる傾向もあるが、このオケの美点の一つを引き出すには良い指揮者(文字通りdirector)と改めて思った。こういった演奏の中での「矛盾のなさ」と「自然な秩序」の両立は、実は「ただ自然に」というようなことでは実現しない。それは映画やドラマも同じ。いやフツーの会社の仕事だって、実は「完成度」の磨き上げは、「細部に宿る」(細部が全てという意味でなく、それ以外は尽くした後という意味)のだろう。しかし、もう亡くなって、大分になってしまう、このクラウディオ・アラウ。それなのに、今頃になって、大阪の古家に住むむさくるしい男の心をうごかすことができるなんて、人間の力というのは、良いように作用すると、すごい力を持っているのだと思う。
2004.02.17
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マスコミでは「吉野家=みんな大好き&食べたい="私達庶民の味"」みたいな論調で、「とにかく一日も早く食べられる日がが来て欲しい」ということのようなのだが、その前提はマスコミネタ(記事・番組とも言う)にするには「ちょうどよい」のだろうとほうっておくとして、「今まで在庫のアメリカ産牛肉を喜んで食べていてよいのか?」というのが疑問である。なぜアメリカ産の牛肉を今「禁輸」してるかと言えば、1:狂牛病の存在が発覚した。2:検査体制が無い(全頭検査をしていない)…日本等が完璧かどうかは別として3:屠殺技術が、神経組織などの飛散防止などに対応していない。ということで、あり、「1:」と「2:」をあわせると、4:これまでのアメリカ産牛肉の安全性も保証されていない。というはずなのだが、まあ、輸入済みのものを全部廃棄すべきかどうかは、政治(利害)のからむ問題だから置くとして、「庶民の味方吉野家」が、危険"かもしれない"牛丼を売ることを、「応援」「風物的な話題(最後のお客インタヴュー等)」とするのは、マスコミとしては無責任ではないのかな?マスコミに必要なのは(提供必要な情報としては)・アメリカ、日本、およびその他の国の、食肉の生産の条件 (飼料・検査体制・屠殺技術 & 部位別用途・製品名)ではないのか? そうした具体的な事実を整理して伝えることを避けて「まあ大体安全」「みんなで応援」みたいな感じにするから、逆にネガティブな事件が起こると「全部ダメ」というパニックになる。個々の製品・企業・業者毎でも、これらの条件は異なるはずだ。「安全に向けた努力」をきっちりしている生産者(加工&工業含む)・流通業者が報われ、手を抜いている者は少なくともその事実を知られる状況にすることが、「公平な社会」だと思う。ついでに言うが、「薬害エイズ」の時も、「アメリカの血液を使用した血液製剤」を禁輸・使用停止にすると、薬が不足するという状態で、対応が遅れ、HIV感染者を増やした。今、大半をアメリカ産の牛の骨からとったゼラチンで作っている薬品のカプセルについて、当面使用を認めてよいのか?「よいかどうか?」それは、結局「予想されるリスク」によるだろう。では、「予想」した上での決定か?(予想には調査・考察が必要) また、それは「誰」がしたのか? 決定過程はどのように明かされているのか?誤解しないで欲しいが、これらを使用禁止にすべきと言っているのではない。なぜなら、そういうべきデータも僕は持っていないから。ただ、HIV訴訟でたくさんの専門家の委員会や企業が加わっていたたのに「安部班長」一人を悪魔のように扱っているが(あの方はTVで見る限り、確かに判断力に疑わしさはあるが)、そんなに全権を持っていたのか?また「同じ状況になったら、同じ過ちをおかさないための仕組みは?」それを整理して、方針を出さないと、ただたんに「ワルイヤツをみんながたたくので、一緒にタタク」しかならないような。大事なのは「未来」だ。
2004.02.15
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日記を書くきっかけも長いこと逃していて、映画も「藍色夏恋」が良かったのだが、その頃は色々余裕が無かった。久々に映画見に行ったが、予告編を見ると「ロード・オブ・ザ・リング」も含め、「戦闘シーン」つき映画の連続。なんと、戦闘・戦争だらけなんやろう。CGの発達で簡単に撮れるようになったせいもあるだろうが、現実に人が人を殺したり、殺す準備をしてる世の中で、「戦闘」「破壊」「殺人」を、美化して「勝ち負け」を楽しむのは、違和感が残る。いわゆる「時代劇」が抵抗がないのは、様式化され、かつ、現代にはほとんど痕跡すら残さず、復活しようもないもの、だからと思う。で、「いわゆる時代劇」ではない、ザ・ラスト・サムライ。娯楽大作だから目くじら立てることもないのだが、「日本の心を初めてしっかり描いた」なんて絶賛されてるようなので、見た印象は大分違う旨、述べておこう。まず、日本がらみ以外で、映画としての印象は、「ダンス・ウィズ・ウルブズ+乱+目撃者(刑事ジョンブック)+七人の侍」を表面的&部分的に拝借しながら、アクションと殺陣で固めたというところか。もちろん、それらのいずれにも及ばない。色々メッセージ色や哲学色をつけているが、結局、主役は「戦闘」「死(ただし匿名の大量の死は無視)」になっている。今は、こうした「娯楽合戦モノ」はアメリカでは、宇宙か中世以外はとりにくい状況なので、「日本」にすると、あとはとても自由にできたということだろう。「日本」の描き方という面では、「日本のイメージ」は、結局、従来のアメリカ人が持っているイメージをそのままなぞっている。ハラキリ・名誉・無謀な突撃・非合理を重視・矛盾の美学などなど。オカシイところはヤマほどあるが、鳥居だの仏像だのや、「長篠の合戦」を明治時代にやるということは映画制作上の意図的なフィクションとするとして、筋の根元で違和感があるのは、「侍」そのものの描き方。「どうせ時代劇」なら、大名が「民のため」とか言って戦争しまくるのはお約束なのだが、一応リアル系の映画のクセに、アメリカでたくさんの無抵抗の民衆を殺したトラウマに悩む将校が、日本で旧支配階級(ついこないだまで百姓を殺してもさほど問題にならなかった側)に味方して、「農民出身の徴用兵」を可能な限りたくさん殺そうとする(それが戦だから)、そして、「農民兵(政府軍)」側も自分が殺されそうになり仲間も殺された直後なのに、相手の切腹に「武士道式」の礼をとる…という構図になっている。一体「誰のために」「何のために」戦うのか。たまたま、「オオムラ」と「元上官」が悪いヤツだから、敵にしても、結果的には、映画としてはオーライにしてる訳だが。(ワルモノは、ヤッツケなきゃ!!ね・・・って意味で)一見、アメリカの拡大主義を批判した映画の形式をとるが(実際製作者はそう思っておられるかもしれないけど)、結果としては、戦闘そのものをセンチメンタルに美化した活劇になっている。まあ、アメリカ映画として、こんなのがあっても、悪いとまでは言わないが(製作意図は知らないが観客は「ベンハー」以下のリアリティ+ハラキリ日本のイメージを重ねて見るだけだろうから)、これを日本人が見て、「日本の心」が描かれているとか、思うのは、やや違うような気がする。アメリカにしてみれば、「昔の日本人=さむらい」という前提で「新旧交代の美学と郷愁」&「日本人は背広着てても、中身はサムライ」というイメージを持っているので、まあ、ほんま、しゃあないのやけど。日本人の大半は「武士」ではないし、「武士道」を見につけても居なかった。そしてしたたかでユーモアもあった。「七人の侍」でもそのあたりは結構あの映画の枠の限界はあるにせよ良く描かれていたように思う。(外国で評価されているのは、当時、前例の無かったスピード感溢れる戦闘シーンとアクションおよび、集団の動きの描き方、だが。)「日本人=武士」という幻想を抱くのは、アメリカ人が単純だからというよりは、旧日本軍がそのノリで行い、日本国内の教育もそのノリでやったせいが大きいだろう。今では日本人も「明治教育フィルター」を通して歴史を誤解され、本当の日本文化に興味も持たずに、人の営みとしての祖先を勝手に解釈するような「失礼」なことまでしてしまう「愛国主義」の方もおられるが、それも悪気あってというより、それこそ教育と情報操作の結果だろう。このところ、政府の幹部も武士道とか言っているが、アメリカ人一般大衆と同レベルの「日本認識」に日本国民がなることを、喜んでいる政治家も居るかもしれない。ラストサムライが、この内容で絶賛されるのなら、そんな背景もつい考えてしまう。ちなみに、渡辺謙は「炎立つ」以来大のお気に入り俳優で、英語をしゃべる分、余計、顔の演技が強調されて、結構、楽しそうにやっていた。また、殺陣のスピード感もよく撮れていた。「テクニック」としては、少なくとも「武蔵(去年の大河ドラマ)」よりは良い。その分、中身が伴わないのが惜しいとも言える。合戦の配置や構図は陳腐。日常場面の背景の人の動きも、結構ぎこちないところがあり、「B級大作」としては「良い出来」というところ。これは皮肉ではなく、B級大作としての楽しみをすればよいと思うのだが。
2004.02.07
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