透明な水

2006.01.12
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カテゴリ: 気づいたこと
いろいろと癒しやスピリチュアルに関する本を読んだり見たりすると感じるのが


純粋さというのでしょうか。

私の中にはそれはない気がします。

生まれたばかりのときなどは覚えていませんがきっと純粋だったのでしょうけど、
いろいろと経験し、感じ、もがいてのたうちまわっているうちに
「白さ」とは無縁の存在になった気がします。

というよりも。
この人が嫌だと思ったときには必ずその嫌な部分は自己投影されたものだし、

汚れたというよりはもともと持っている暗い部分をことをただ単に生きて経験することで認識できてきたというほうが合っているかもしれません。
生まれたときから罪を背負っているという意味はそういうことなんじゃないか・・・。

「穢れの無い存在」って。そもそもあるのかどうか・・・と思います。

光も闇があるからこそ認識できるように、「穢れがない」ということも「穢れ」があるから認識できるのであって、単独では存在できません。共依存の関係とも言えるのでは?
お話くださったレイキマスターさんは闇があるから光があると仰っていた気がします。
(気持ちが興奮していてメモもとらずにいたので定かではないのですが・・・)


自分自身を掘り下げていくと、どんどんと黒いタールのような闇が出てきてしまい、それに圧倒され、自分の汚らわしさに吐き気がします。それでもなお生きつづけ、生きることに執着しつづける自分にまたさらに吐き気を催す。。。。
そういう私のような闇に塗りつぶされているニンゲンがレイキの伝授を受けていいのだろうかとはじめは思いました。
ですが、今度伝授を受けるレイキマスターさんは私の守護霊と話をし、その許可を得てから伝授をするとのことだったので、もし駄目ならその時点で許可は下りないだろうからとまずはご連絡したのです。結果、伝授していただけることになりました。


昔読んだ、坂口安吾の「堕落論」では人間は堕ちるところまで堕ちないと這い上がれないというようなことがあったように思います。坂口安吾は父の愛読書で、
子供のころ父に叱られるとき、父はそれを引用していた記憶があります。

自分の堕落を止めることはできないし、ましてや這い上がれないということだったと思います。


自分自身の闇、汚らわしさはまだまだ探求し尽くしておらず、
今後も想像以上のものがたくさん出てくることと思います。
ですが今はそれを知ること、自分の中に見つけることを恐れる必要はないかと感じています。なぜなら、それを知ることによって自分自身をその闇から救うこと、さらには癒すことができるから。

レイキを求めたその理由は自分も含めた身の回りの人間に役立ちたいと思ったからなのですが、まずは自分の闇を知り、そこから自分を救い出せなければ、他人のことなど救うべくも無いと今は思っています。





だとすると、自分の天命は何だろう。

何のために生まれて、生きているのだろう。。。。


また堂堂巡りが始まりです。(^^;











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最終更新日  2006.01.12 14:19:17
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