わたしは価値を創る

わたしは価値を創る

August 12, 2005
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カテゴリ: 小説の話
昭和文学の奇跡と称される梶井基次郎の散文詩のような美しい小説である。

「一つには、可愛い盛りで死なせた妹のことを落ちついて考えてみたいという若者めいた感慨から」故郷を離れ、姉の嫁ぎ先に滞在する若者のひと夏の心象風景を描いている。
とにかく延々と続く風景描写は美しく、懐かしい。これほどノスタルジーを感じさせる文章が他にあるだろうか。

夏になると読みたくなる名品なのである。

 今、空は悲しいまで晴れていた。そしてその下に町は甍を並べていた。
 白堊の小学校。土蔵作りの銀行。寺の屋根。そしてそこここ、西洋菓子の間に詰めてあるカンナ屑めいて、緑色の植物が家々の間から萌え出ている。ある家の裏には芭蕉の葉が垂れている。糸杉の巻きあがった葉も見える。重ね綿のような恰好に刈られた松も見える。みな黝んだ下葉と新しい若葉で、いいふうな緑色の容積を造っている。
 遠くに赤いポストが見える。
 乳母車なんとかと白くペンキで書いた屋根が見える。
 日をうけて赤い切地を張った張物板が、小さく屋根瓦の間に見える。――
 夜になると火の点いた町の大通りを、自転車でやって来た村の青年達が、大勢連れで遊廓の方へ乗ってゆく。店の若い衆なども浴衣がけで、昼見る時とはまるで異ったふうに身体をくねらせながら、白粉を塗った女をからかってゆく。――そうした町も今は屋根瓦の間へ挾まれてしまって、そのあたりに幟をたくさん立てて芝居小屋がそれと察しられるばかりである。
 西日を除けて、一階も二階も三階も、西の窓すっかり日覆をした旅館がやや近くに見えた。どこからか材木を叩く音が――もともと高くもない音らしかったが、町の空へ「カーン、カーン」と反響した。


 夜はその夜も眠りにくかった。
 十二時頃夕立がした。その続きを彼は心待ちに寝ていた。
 しばらくするとそれが遠くからまた歩み寄せて来る音がした。
 虫の声が雨の音に変わった。ひとしきりするとそれはまた町の方へ過ぎて行った。
 蚊帳をまくって起きて出、雨戸を一枚繰った。
 城の本丸に電燈が輝いていた。雨に光沢を得た樹の葉がその灯の下で数知れない魚鱗のような光を放っていた。
 また夕立が来た。彼は閾の上へ腰をかけ、雨で足を冷やした。
 眼の下の長屋の一軒の戸が開いて、ねまき姿の若い女が喞筒へ水を汲みに来た。
 雨の脚が強くなって、とゆがごくりごくり喉を鳴らし出した。
 気がつくと、白い猫が一匹、よその家の軒下をわたって行った。
 信子の着物が物干竿にかかったまま雨の中にあった。筒袖の、平常着ていたゆかたで彼の一番眼に慣れた着物だった。その故か、見ていると不思議なくらい信子の身体つきが髣髴とした。
 夕立はまた町の方へ行ってしまった。遠くでその音がしている。
「チン、チン」
「チン、チン」
 鳴きだしたこおろぎの声にまじって、質の緻密な玉を硬度の高い金属ではじくような虫も鳴き出した。
 彼はまだ熱い額を感じながら、城を越えてもう一つ夕立が来るのを待っていた。





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Last updated  August 13, 2005 06:18:14 PM
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