2月26日。
今日は騎手としての松永幹夫の引退日。
JRAから配られたレースプログラムには「ターフの紳士」とあった。
言いえて妙。
競馬界のいい人、松永幹夫。
勝負師と呼ぶにはあまりにも優しげな顔立ち
派手さはないが、堅実で馬を大事にする騎乗
記者からも慕われる誠実なインタビューの受け答え
後輩騎手を大事にし、先輩騎手からは信頼される騎手会長。
ミキオ、ミッキーと呼ばれファンからも愛された。
そのミキオが、去年もG1を勝って好調のミキオが38歳の若さで引退する。
長年固い絆で結ばれてきた師匠の山本調教師が来年定年で廃業する調教業を継ぐために。
地元・阪神競馬場ではミキオがターフに現れただけで拍手喝さいだったようだ。
そんなミキオに特別な思い入れはない自分は、今日は有終を飾れるといいな、ぐらいに思いながら中山競馬場にいた。
阪急杯のパドック映像。これがミキオにとって最後の重賞になる。
ミキオ騎乗のブルーショットガンの青いメンコがやけに鮮やかだった。
ブルーはようやく6歳にして1600万下条件を勝ち上がってきたばかり。
勝ち上がり後ミキオと組みオープン2連敗、しかも前走は13着の惨敗。
普通の馬ならとっくに見切りをつけられて引退してもおかしくない7歳馬だ。
通常のオープン戦でも、いや元の1600万下条件ですら入賞できるかどうか・・・
毛艶や調子はよさそうだが、ローエングリンやオレハマッテルゼほか重賞馬5頭(うちG1馬2頭)を含むこの強力メンバー相手ではさすがに辛い・・・。
40倍近いブルーの単勝オッズを見て、隣のじいさんが「こりゃあ、ミキオの馬には乗ってやれんなぁ・・・」とため息をついた。
だが、次の12R(最終レース)でミキオの乗る馬は相当強い。
単勝オッズはこの時点で断然の1.7倍。
ここ2戦は僅差の2着を2連続。今日の相手ならば実力は頭2つ抜けている。
はっきり言ってこれはミキオへの餞別に特別に用意された馬だろう。
引退する騎手に、それまで世話になった馬主や厩舎がとっておきの強い馬を送り込む。
人間関係を重んじる競馬界ではよくある粋なはからいだ。
次はまずこの馬で堅い。
中山記念と阪急杯でプラスが出たら、その分を12Rのミキオの単勝に突っ込んでご祝儀にしようじゃないか。
コスモ2頭が面白い阪急杯は勝負に徹する。
本命・オレハマッテルゼから馬連で千円ずつローエングリン、ビッグプラネット、コスモシンドラー、コスモサンビームに流した。
阪急杯より10分先に終わった中山記念は、前年度勝者と1番人気の組み合わせで固い決着に終わった。予想通り。
むしろ阪急杯で好配当を期待していた自分は、払い戻しには行かずそのまま前列の柵にへばりついていた。
隣にはやけに真剣な目をした無精ヒゲの大柄なオッサンがいた。
50代半ばぐらいだろうか? 建築業でもしているのかゴツい。
手の中のスポーツ新聞を開く気配もない。
腕を組んで仁王立ちのまま、怒ってるような、考え込んでるような、なんともいえない雰囲気でターフビジョンを睨んでいるオッサンがやけに怖かった。
締め切りのメロディが終わる。
そして阪急杯発走。
ローエンの快調な逃げで進むレース、途中サンビームの故障発生に場内ざわめくも、ほぼ予想通りの展開。
4角正面を向いたところで一瞬馬群が広がり、一気に先行組が差を詰める。
断然の一番人気・マッテルゼが満を侍して上がってきた、ぐいぐいと先頭ローエンを追い詰める
ローエンはしぶとく競り粘っている、大外からやはりコスモシンドラーが伸びてきている
このままなら、マッテルゼとこの2頭のどちらかで決まる。
「このレース取った」
そう思った瞬間、それまで一言も発さなかった隣のオッサンが怒声が響いた
「マ・ツ・ナ・ガ・ミ・キ・オぉ~~!!
そぉ、こぉ、かぁ、らぁ
こぉぉ~~~いぃっ!!」
フルネームで呼ばれたミキオのことを思い出し、とっさにターフビジョンでミキオ駆るブルーを探す。
なんと!?
あの鮮やかな青いメンコが馬群を割ってグングン伸びてきているではないか!!
わが目を疑う!?
これ、これって、あのブルーショットガン!?
「差せぇ~!ミキオ~!!」
またもオッサンの怒号がとどろく!?
なんと!ブルーが馬群を捌いて前3頭との差を詰じわじわ詰め上がってきた
力強く不良の馬場を蹴り、一完歩、一完歩、青いメンコが伸びてくる。
え、え!?ほんの半年前まで下級条件で掲示板さえ外していたコイツ、こんなすごい脚もってたのか!?
だが、粘るローエンをようやく交わした本命・マッテルゼが前で独走態勢に入ろうとしている。
大外からシンドラーの追い込みも届きそう、粘り腰が持ち味のローエンもまだ2着争いを捨てていない。
青いメンコ・・・ブルーは!?
馬群の切れ目からミキオの手が動いているのが見える。
激しいが忙しくない職人騎手らしい追い方
「ミキオぉぉ~!!追えぇぇ~!!」
またもオッサンの大声が鼓膜をビリビリ揺らす振動を感じた瞬間
ぉぉぉおおおおおお!
馬券はいらねぇ!
勝て!ミキオ!!
これが・・・・これがジョッキー松永幹夫、最後の大舞台!!
「ミキオ、差せ!差せ!来い!来ぉーーーい!!」
「ミキオぉ~!いけぇ~!!」
数秒の間、二人は柵をバシバシ叩きながら叫んだ、いや怒鳴った。
怒鳴っているのは柵の二人だけではない。
中山の競馬ファン全員がミキオ!ミキオ!と叫んでいるのが分かる。
ミキオに勝たせたくて勝たせたくて、枯れるほど大声を出す。
馬券なんかくれてやる!だから勝たせてくれ!と祈った。
だって、いいじゃないか!
いい騎手なんだ・・・
苦労してきた馬なんだ・・・
そんな理由で勝たせてくれたっていいじゃないか!
なぁ、神様!!!!
少し泣きたい気持ちにも似ていた。
自分を・・・重ねていた。
ローエンをマークして仕掛けたマッテルゼの脚色が少し鈍い!
シンドラーも仕掛けが早すぎたか!?伸びが足りない!
一方、ブルーショットガンは大歓声をムチと思ったのかのように、さらに加速してゆく!
そして場内大興奮の中、青いメンコが見事にマッテルゼを交わしきり、猛追するシンドラーを振り切ったところがゴール
「届いたっ!」
「ぃよぉ~~~し!!!」
中山競馬場もミキオとブルーのアッと驚く快勝に沸き立つ。
オッサンと目が合い、数秒前まで他人だった二人はがっちり握手した。
「ミキオが勝ったな!」
「はい!」
「いいマクリだったな!」
「はい!」
このオッサンも自分も、、、そしてほとんど馬券を外しただろうに、あちこちでミキオの名前を呼び、遠い阪神競馬場に拍手を送る人たちもみんな知ってるんだ。
松永幹夫がどんな男か
どんな道のりでここまで来たか
どんな不遇の時代を耐えてきたか
なぜステッキを置くことにしたのか。。。
「ミキオがウチの馬で勝てて、ホッとしていますよ・・・」
山本師も師匠として責任を果たせた安堵を隠さなかったそうだ。
松永幹夫ほどの好騎手が20年間も同じ厩舎に所属しつづけることは珍しい。
というより、平城の競馬業界ではまずない。
この世界、騎手人生の最初は特定の厩舎に所属して馬を確保しながら技術と実績を積み上げ、一定のレベルに達したらより良い馬に乗れるよう、身軽なフリー騎手になるのが通例だからだ。
レース慣れしてない新馬や気難しい牝馬を安定して好走させることでは日本一のミキオ。
しかし、恩義を重んじるミキオは、所属厩舎の馬を最優先し、有力馬の騎乗依頼ををあえて断ってきた。
ミキオが断った有力馬は他の一流ジョッキーのもとに。
一度他のジョッキーの「お手馬」になった馬の乗替り依頼が来ることはほとんどない。
これがミキオの不遇時代である。
ミキオがフリーだったら・・・G1をもっと勝っていただろう。
重賞もあと10や20、勝ち星も百の単位で増えたはずだ。
だが、ミキオは馬も人も大事にする師匠を心から尊敬し
「山本先生の弟子でなかったら、今の自分はありません」
と師匠の管理馬を勝たせることにこだわった。
20年・・・20年間こだわった。
山本師はそんな弟子を強い馬に乗せたいと願い、ミキオはそんな師の意気に応えたかった。
そして、その想いが結実したのが「天皇賞」設立以来初の天覧競馬だった。
賭博の世界にスポーツの風を送るターフの紳士。
自分たち競馬ファンを代表して天皇陛下に挨拶してくれたのが、ミキオで本当によかった。
「あ、、馬券は外したんですよ。あはは・・・」
ちょっと恥ずかしくて、笑いながら外れ馬券をオッサンに見せた。
オッサンは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐにニヤリと笑った。
「なんだぁ、そっちもか! わはは!」
オッサンのポケットから取り出した馬券は・・・なんとマッテルゼの単勝1万円だった。
その時自分は・・・きっとポカンとした表情をしていたんだろう。
オッサンは実に気持ちよさそうに大声で笑いながら背中をバンバン叩いてきた。
それがすごく心地よくて、小さく、でも腹から笑った。
こんなことがあっていいんだ! いや、あるんだ!
この臨場感! この一体感! この爽快感!
最高!!!

ヘヴンリーロマンスの天覧競馬勝利後
天皇・皇后両陛下に深く頭を下げる松永騎手