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カテゴリ: ニュース
虚しい希望抱いた植民地・朝鮮

[中央日報 2010.01.18 ]

※赤字は筆者による要約

1919年1月18日、第一次世界大戦で勝利した連合国の陣営は、敗戦した同盟国への講和条件を話し合うためパリ講和会議を開いた。

特に当時のウィルソン米大統領は、1917年、十月革命でロシアに社会主義体制がスタートすると、翌年1月、大戦の終結に向けた「14カ条の原則」を主張し、民主主義の陣営を自ら主導しはじめた。14カ条に含まれた「民族自決の原則」は、弱小民族と帝国主義陣営間の対立を世界革命の戦略に利用しようとしたボリシェビキ政権の民族自決権に取り組むためのものだった。

(第一次世界大戦後、民主主義・アメリカと社会主義・ロシアの対立が表面化し、アメリカは社会主義陣営に対抗するため「民族自決(独立)」を唱えはじめた)


韓国はもちろん、植民地の諸民族が新たな強国に浮上する米大統領が宣言した民族自決を、独立の曙光(しょこう)がさしてくるものと受けとめた。しかし、ウィルソン大統領は植民地で利権を失うのを懸念する勝利国を慰めるため同条文についての立場を明らかにした。「自決権は、戦争の結果、国際的な考慮の対象となるドイツの植民地に適用される。民族を掲げ、不完全な諸国が講和会議に入場するのはよくない」。

これによって、大韓国人国民会(米国で結成された独立運動組織)の代表として同会議に出席しようとした李承晩(イ・スンマン)は、米政府がビザ(査証)の発給を拒否することにより出発すらできず、上海臨時政府の代表としてパリ入りした金奎植(キム・キュシク)も入場を断られた。

「朝鮮(チョソン 1392~1910)の問題はパリ講和会議の議題として上程すらできないだろう。列強のどの国もわざわざ朝鮮問題を取りあげて、日本の機嫌を損なうことはしないだろう」(「尹致昊日記」1919年1月18日)。その時、尹致昊(ユン・チホ)の予測通り、植民地・朝鮮の問題は検討の対象にもなり得なかった。

(朝鮮人は民族自決にあやかれると大きく期待したが、当のアメリカは独立は開明国に限ると明言し、朝鮮はそうでないと認識していた。実際、朝鮮代表は会議のテーブルにすら着けず、会議でも韓国のことは話題にもならなかった)


戦勝国の一員として講和会議に出席した日本の利益に直結する韓民族の自決は、与えるつもりもないものを、勝手にもらうつもりでいるのも同然だった。列強に独立を訴えた3.1運動(日本による植民支配時代の1919年3月1日、朝鮮全域に広がった独立運動)や1921年に米ワシントンで行われた軍縮会議が無為のものになってしまった後、 民族主義の右派は帝国主義・日本と妥協し、経済と教育の分野で実力を養成すればいつか到来する国際情勢の変化により独立を得られるだろうと見通した。

(日本が戦勝国であることからも朝鮮独立が難しいのは当然だった。一連の運動が無駄に終わり、朝鮮が国際社会から独立国家としてふさわしくないと見られている事実を受け止めた民族主義の右派は、日本の力を利用していつか独立できるだけの国力をつけようとした)


半面、社会主義の左派は、1919年8月、朝鮮の独立を保障した第2インターナショナル(社会主義者の国際組織)と、1920年、上海臨時政府に200万ルーブルの独立運動資金を約束した旧ソ連に希望を寄せた。1922年、1回目の極東人民代表者会議の出席者は、ワシントンの軍縮会議で西欧の列強が、朝鮮が求める独立に背を向けたことを猛烈に攻撃し、プロレタリア革命を夢見た。

(一方、社会主義の左派は朝鮮独立を約束した旧ソ連に期待し、革命を夢見た)


冷戦崩壊以来、左派の夢が迷夢であるのは明らかになった。しかし、 右派もその時、他国の力に頼って独立を獲得しようとした過ちを犯したのを否定できない。

(冷戦が崩壊して振り返ってみると、旧ソ連に期待した左派は完全に間違っていた。しかし、一方で日本の力を借りて近代化しようとした右派も辛い歴史を作った)



慶熙(キョンヒ)大学学長・許東賢(ホ・ドンヒョン、韓国近現代史)





この記事を書いた許氏は、日韓併合を韓国政府見解どおり「過ち」「恥」としつつも、当時の朝鮮が未開の国 として国際社会から見られ、独立にふさわしくないと見られていたことを明らかにした。

また、朝鮮(韓国)の右派が、日本の力を利用して国力をつけようと日韓併合の道を選んだことを、韓国三大新聞のひとつ「中央日報」で公にしたあたり韓国人であってもさすが「歴史学者」といえるだろう。


"帝国主義の日本が嫌がる韓国を植民地にして、弾圧と搾取の限りを尽くした"

・・・というのが韓国政府推奨のストーリなので、この「韓国による日本利用」という現実的な側面を書くことは、韓国内では勇気が要ることだったと思う。


私も、せめて、当時の韓国の国内事情や韓国政府が併合を希求した

・・・日本ではロシア驚異説・帝国主義の推進派と、韓国保護の負担・投資効果に否定的な反対派が対立していたが、韓国側の強い要望という大義名分で推進派が優位に立った・・・

という併合の背景だけでも日韓が正しく認識できれば、悪化の一途を辿る日韓関係も多少は良好になるかもしれないと思う。

※このころの朝鮮王朝(李氏朝鮮)は、 明成皇后(閔妃) らによる腐敗政治によって疲弊し、民衆は貧困と飢餓を極めていた。また、王朝は奴隷制度を維持するなど、西欧諸国から見れば蛮国に写っても仕方がなかったのだろう。



いまや、韓国民は韓国政府や韓国マスコミに当時の右派は単なる利権目的の「売国奴」と教えられている、のみならず当事者とその子孫を 事後法で処罰

法治主義では禁中の禁である事後法で処罰とは、、、なんという「現代民主国家」だ・・・





[解説]

※明成(ミョンソン)皇后=いわゆる閔妃(ビンピ、ミンピ)とは・・・


「朝鮮の西太后」あるいは「アジアのマリー・アントワネット」と評される李氏朝鮮末期の実権者。

国王・高宗の妃であるが、国王が政治に無関心で恐妻家であったため、閔妃みずから没落していた自らの家系「閔氏再興」を掲げ、縁故者を重役に登用し王朝を私物化した。

閔妃に登用された役人たちは民衆を圧迫。
重税による搾取の限りを付くし、刃向かう者には濡れ衣を着せて処罰、保釈金をせしめるなど、朝鮮は「百姓は冤罪に泣き、誅求に苦しみ、怨嗟の声八道に満つ(閔妃側近の手記)」という有様になった。

また、閔妃は自らの権益を守るために恐怖政治の手段を用い、腐敗政治の改革を試みた金玉均を八つ裂きにし、彼をかくまった日本公使館に火を放ち多数の日本人を焼き殺すなど、残虐な粛正を繰り返し「朝鮮の西太后」と例えられることもある。

さらに、人民を貧困飢餓を陥れる一方、自らは豪奢な生活や寺院への寄付で湯水のように金を浪費し、国家財政を破たん寸前にまで追いつめ、民衆の怒りを買ったあたりはマリー・アントワネットと類似する。

1895年、腐敗政治打倒と朝鮮の民主改革を目指した禹範善らによって暗殺される。(乙末事変・王城事変)。

享年44歳。

韓国などでは、乙末事変を閔妃打倒を計画していた日本の三浦公使が主導したという説があるが、これらを裏付ける事実はなく、三浦語録などを根拠にした憶測の域を出ず、三浦の関与の程度は不明である。

当時、日本を含めて閔妃打倒を目指していた勢力は多々あったが、様々な資料から、乙末事変は、政権を閔妃から取り戻そうとした国王の実父・大院君(タイインクン)が主首であることが明らかになっている。

ところがNHK「坂の上の雲(司馬遼太郎・原作)」2009.12.20放送「留学生」の中で
「朝鮮で大事件が起こった。王妃・閔妃が、三浦梧楼公使率いる日本人たちによって暗殺されたのである」
と原作にはないナレーションを挿入したばかりか、「日本人が」殺害したとでっち上げたため、「JAPANデビュー」に続くねつ造報道と、変わらない偏向報道に批判が再燃した。
(HNK坂の上の雲ねつ造事件)


この事件に、大院君の度重なる強い要請を受けた日本人が参加したことは確かだが、日本は国際社会からの視線に恐怖していた時代でもあり、日本人の方針は「閔妃更迭(→失脚)」であった。

閔妃殺害の実行犯については、現場が騒然としていたため、今となっては確実なことが分からない。
なにせ、当時の乙末事変に参加した朝鮮兵の中でも「閔妃を殺したのは自分だ!」と自慢する者が「複数」いたというぐらいだから、朝鮮人の怨念が分かる。

しかし、殺害現場に居合わせた閔妃の世子である皇太子・純宗(当時反日側)の兄弟が 「私の部下、禹範善が殺害した」 と証言しており、のちに禹範善を暗殺して報復を遂げた。

さらに、王宮にいたロシア人(当時日本と対立)も 「朝鮮兵が閔妃を殺害した」 と本国に報告するなど、乙末事変は詳細不明であるものの、 ほぼ公式に首謀は大院君(自認)、実行犯は禹範善(自供)とされている。

なお、大院君に荷担した日本人は、当時、閔妃圧政に苦しむ朝鮮全土から歓迎され、大院君などは謝礼金と感謝状すら出した。

しかし、欧米では日本と対立していたロシアが「日本人が王妃を殺害」と吹聴し、そのままNYヘラルドなどで「QUEEN KILLED BY JAPANESE.」と報道された。

日本政府は現地のクーデターに日本人が関わっていたことに激怒。
関係者を裁判にかけて処分しようとしたが、協力日本人に感謝する大院君以下、朝鮮側の操作妨害によって証拠が集まらず、三浦らは証拠不十分で釈放となった。

一方、朝鮮では自らが実行犯と名乗った朝鮮兵3名が死刑に処された。
この3人が閔妃を直接殺傷したということでこの事件は決着したが、三浦(事件現場に居なかった)は「彼らは(犯人ではなく)日本人が疑われないよう、命がけで庇ってくれたのだ。彼らこそ義士だ」と解釈して獄中に泣いた。

ちなみに、韓国では閔妃を「日本の侵略に抵抗し、日本人によって殺害された悲劇の皇后」と教えているが、もちろんこれは 実在しない檀君(ダンクン)物語 と同じ韓国内だけの閔妃評で、世界の歴史観はまったく異なる。

一人の人命が失われた大事ではあるが、歴史という観点からすれば、少なくとも 当時の李王族や朝鮮人が閔妃の死を望んだのは間違いない


(参考: 獄長日記「閔妃殺害事件史料(1)~(4)」
きままに歴史資料館「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」








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最終更新日  2010/10/05 12:20:29 AM
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