オフィシャルブログに文字起こしがありました。
あちらのほうが読みやすいと思います。
http://888earth.net/staffblog/2011/05/youtube-1.html
で、私は、今回、よくテレビに出てくる原子力保安院とか、あの方たちとこの「六ヶ所村ラプソディー」をつくる過程で非常に密接におつき合いさせていただきました。
みんなすごくいい人たちなんですよね。いいお父さんなんだろうと思います。で、こういうふうなことをわざとしたんじゃないとも思っています。
だけど、いつもその私が撮影していた原子力のことを憂慮する市民グループが、こういうことをすると危ないのではないか、例えば、私は去年、福島に行ったんですね。去年の夏、福島3号機にプルサーマルを受け入れました。プルサーマルというのはウラン燃料とプロトニウムを混合した新しい燃料をそれまでウラン燃料だけでやっていた、そのためにしか設計されていない原子炉に入れてやるという、もっともっと毒性の高い燃料を使うという、それを福島が受け入れると、それをやっていいんですかということを地元の市民グループと一緒に言いに行ったときも、福島県の原子力安全管理課課長というのが出てきて、すっごい見るからにいい人。ほんとにこの人はいい人なんだろうな、善良な人なんだろうなというのがもうにじみ出てるような人でした。
その方に、「今回、こんな古い原子炉にプルサーマル燃料を入れてしまって、もし核が暴走したらどうするんですか。そのために設計した原子炉じゃなく、そしていろいろ不具合もこれまで出ているのに、そんな大丈夫なんですか。よしんば事故を起こさなくても、出てきたら、これまでと全く違う毒性の高いどこにも持っていくことも決まっていないような使用済み核燃料が出てきて、50年プールで冷やさなきゃいけないんですよね。そんな危険なものを福島県内に置いていくということを県民にちゃんと説明したんですか」、黙ってうつむいて、一言も返事をしていただけませんでした。
彼は無力を感じていたんですよね。
何で、じゃあ、受け入れたのかというと、7月までに受け入れた自治体には20億円やるよと経済産業省は言ったんです。そして、7月までに受け入れなかったら、20億円はやらないと。
それまで抵抗していた原発を持っている自治体が、じゃあ、しようがないというので、その20億円と引き替えに差し出したものが何なのか。
県民の命ですよ。
で、福島県知事の前の佐藤栄佐久知事は、そのプルサーマルを撤回した途端に、収賄容疑で挙げられて、彼の側近が3人自殺しました。
彼の妹さんは、着の身着のまま連れていかれて1週間帰ってきませんでした。で、糖尿病とか、いろんな持病があるのに、もう息も絶え絶えになって帰ってきた。
で、彼が自分の罪を認めない限り、そういう犠牲が続くということで、彼は自分の覚えのない収賄罪を認めて有罪になりました。
それを今、『知事抹殺』という本に書いていらっしゃいますけれども、そういうことが現実に行われていて、見て見ぬふりをする人たちがたくさんいて、この土台、「原子力は進める」「原子力は絶対安全」というこの土台、テーブルの上でしか物を言えないということが横行してきたんですね。
それをやっている人たちは、そこに倒れている人がいてもまたいでいくような、仕事に一生懸命な、自分の家族のために一生懸命稼いで働く、そういう人たちなんですよね。
それは私だと。
チッソが水俣事件を起こして、その後にチッソは私だ(『チッソは私であった』)と緒方さんという方が書かれました。
私は「六ヶ所村ラプソディー」をつくったときに、この劣化ウラン弾を生み出してきたのは、私が日本で電気を使う暮らしだったと気がついたときに、イラクの子どもたちを殺しているのはだれだ、私だったと、私がそこに荷担していたのだと気がついたときに、私が私自身を撃たなければ(?)いけないと、それはすごく難しいことだなと思いました。それは難しいんですよね。
で、情報は確かに、もう今、たくさんの人が放射能がこんなに出ても安全だということを本気で信じているとは思えないんですけど、そう信じたほうが、今までの暮らしをあきらめなくていいから、ただだまされたふりをしているだけなのかもしれません。
でも、私たちは、エネルギーリテラシー、メディアリテラシー、メディアを読み解く力、エネルギーについて学ばないと、自分で自分の命を守れないと思うんですよね。
私の実家も浄土真宗ですけど、何かこんなでっかい津波とか、地震とか、日本には何度も起きて、関東大震災では10万人が死んで、何度も何度も地震が起きるこの国の中で、仏教に帰依するということは、無常ということを受け入れることなのかもしれないとどっかで若いときに考えたことがありましたけれども、果たして無常というのは、命というのははかないものだ、命は失われてもしようがないものだと考えるものなのかということを、まだ10代だったころに真剣に考えた覚えがあります。
私は命の一つ一つはかけがえのないものだと日本の中で果たしてみんな考えているのかな、感じているのかなということをいまだに、10代のときに考えていたのと同じように疑問に思っています。
自分の命をとっかえ可能な、どっかの会社に勤めていても、自分がいなくなっても、自分のかわりはどこにでもいるし、自分自身の存在、自分自身の命は実はそんな大したものじゃないんじゃないかと思っている若者が増えて、命を大事にしないこの日本人の社会が、3万人以上の自殺者を毎年生み出しているんじゃないかな、今の原発のことを引き起こしたその一番根っこにあるのもそういう命に対する思いが浅いからじゃないのかなと思うんですよね。
そのことは、まあ、宗教という、仏教という宗教に帰依していらっしゃる皆さんにも課せられた、それをどう答えていくのかという大きな問いが福島によって突きつけられたんじゃないかなと思っています。
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